負の領域

祐喜代(スケキヨ)

負の領域

「絶対に後悔はしないんですね?」

「はい、大丈夫です。この立地条件と間取りで三万円は滅多にあるもんじゃないですからね。何があっても後悔なんてしませんよ。すぐにでも契約します」

幽霊、祟り、呪い。二十一世紀にもなって人はまだそんなものを怖がっているのかと、僕は神妙な顔で例の物件の資料を確認している不動産屋の営業を心の中で嘲笑った。

家賃は格別に安いが、入居者全てが何故か十日以内に死んでしまう部屋があるという話を知り合いに聞いて、僕はすぐにその物件を扱っている不動産屋をその知り合いから紹介してもらった。不動産雑誌には決して掲載される事のない、いわくつき物件。

僕自身は科学者でもなんでもないが、個人的な興味の探求で読み漁った本の知識から、いわゆる世間で心霊現象や超常現象とか呼ばれているほとんどのものには科学的根拠があると思っている人間だ。

催眠、洗脳、暗示、プラシーボ効果、それに磁場や電磁波の影響などを総合すれば大抵の不可解な出来事は解明出来てしまう。この不況時、たった三万で都内のマンションが借りられるというのに、霊など怖がってみすみす借りない馬鹿がどこにいる。

「一応部屋をご覧になってから契約した方がよろしいかと思いますが……」

借り手のつかない不良物件を喜んで借りてやるというのに、不動産屋の営業の顔はどこか重苦しく、何かあった時の責任追求を恐れて貸すのを渋っているようだった。

「入居者が死んでる事以外、特に他は変わったところがないんであれば、別に下見はしなくても大丈夫ですよ。僕は家賃さえ安ければいいんですから」

「なにぶん非科学的な話しですからね、うちもはっきり霊のせいだとかは言えないんですが、人が死んでるのは事実なんですよ。明らかに何か変なんです、あの部屋。安くて良い物件なら他にもたくさんありますから、考え直してみませんか?」

「その部屋の条件がいいんです。どうしても貸せないってわけではないんでしょう? もし仮に僕がその部屋で死ぬような事があってもそれは自己責任って事で納得しますから、お願いしますよぉ」

幽霊が出る部屋。人が死んでいる部屋。そんな部屋を借りて悠々と暮らしたい。破格の家賃もそうだが、気味の悪い部屋を面白がって周囲を驚かせたいという気持ちが、僕を大胆な行動に走らせた。

「本当に死んでも構わないんですね?」

「はい、構いません。もちろん死ぬ気はさらさら無いですけど」

「……そうですか。わかりました。では今日はとりあえず申し込みだけという形にしていただいて、後日現在お住みになられている住所の方に契約書を送付させていただくということでよろしいでしょうか?」

「はい」

正気なのか、と言いたげな苦笑いを浮かべる営業に促され、申込書に記入する。ペンを持つ手が興奮で震えていた。

「部屋の鍵はマンションの管理人が保管してますので、もし気が変わって下見したい時は遠慮なくご連絡ください。私の方から管理人の方にその旨を伝えておきますから」

借り手のつかない物件に借り手がついたというのに終始浮かない態度の営業に見送られ、僕は意気揚々と不動産屋を後にした。

一週間後。不動産屋との契約が滞りなく済み、僕は望みどおり家賃たった三万円でそのマンションに入居出来ることになった。結局下見は一度もしないまま、引越しの前日、部屋に置く家具などの配置を決めるために初めてそのマンションへ出向いた。

最寄り駅から徒歩で十五分程度。不動産屋からもらった地図を頼りに、これから住む街をゆっくり散策しながらマンションを目指す。不動産屋が言ったとおり通勤に便利な立地は確かで、駅前から続く大きな商店街が途切れると、辺りが一変して閑静な住宅街に入った。それから程なくして自分が入居するマンションが見えた。

新築ではないが、さほど古い印象もない落ち着いた雰囲気の外観。普通に借りたら八万円はするはずだったそのマンションの佇まいに早速満足する。

「あのぅ、すいません。明日からこちらのマンションの401号室に引越すことになった田村という者ですが、ちょっと部屋の中を見たいので部屋の鍵を貸してもらえませんか? 不動産屋さんの方から話は行ってると思うんですが」

マンションの玄関脇にある「管理室」と書かれた小窓から、中にいた初老の男性に声をかけた。初老の男性は管理室に備え付けられたテレビを見ていて、耳が遠いのか、こっちに背を向けたまま何の返事もしなかった。もう一度声をかけようとした時、僕の気配を察したのか、チラッとこっちを振り返った。窓口に立つ僕に気付くと、ゆっくりと椅子をこっちに向けて不審そうな顔で撲の様子を窺う。

「管理人さんですか?」

椅子に腰掛けたまま何も言わない管理人にもう一度声をかけてみた。聞こえていないはずはないのに、管理人は何故か黙ったままこっちをただ凝視していた。

「あのうっ、明日こちらに引っ越す予定の……401号室の田村ですがぁ。聞こえてます? 管理人さんですよねっ?」

無言でこちらを凝視し続ける管理人の不可解な態度に苛立ってつい声が大きくなる。

「あんたかね? あんな部屋を借りる物好きは?」

呆れたというか、迷惑そうというか、とにかく管理人は僕に向かって露骨な嫌悪感を示すと、またテレビの方に顔を戻して、小窓のカウンターに部屋の鍵だけをぽんと置いた。

僕が何か失礼な事をしたならともかく、この横柄な態度は一体どういうつもりだ? こんな奴が管理人をしているようなマンションに明日から住まなくてはいけないのか、と思うと、さっきマンションに入る時の満足感がいくらか萎えた。僕が小さく舌打ちをしてその場を立ち去ろうとすると、管理人が独り言を呟くように口を開いた。

「以前入居していた人があの部屋で死んでから三年以上は経ってますかね? リフォームは済んでますが長い事放置した状態が続いてるんで多少埃っぽいかもしれませんよ。まぁそんなにひどい状態ではないでしょうけど、アタシは近寄るのもごめんですね」

「ああ、そうですか」

忠告のつもりなのか、管理人はそんな事を言って完全に僕に背を向けた。

「あ、それとね。401号室までの行き方なんですけどね……」

「行き方?」

「ええ、このマンションを建てた時の都合で、四階のフロアーに関してだけは少しややこしい事情になってましてね。階段でもエレベーターでも直接四階に行く事が出来ないんですよ」

「え、それってどういう事ですか?」

「とりあえず一度エレベーターで最上階の七階まで上るでしょ? そしてそこから下りの階段を使って四階のフロアーまで行く構造になってるんです。何でそんな風な作りなのかはアタシも知らないですけどね、あの部屋がある階に関してだけはとにかくややこしくて不便だという事です」

僕は管理人の言っている事がいまいち理解出来なかったが、下から直接四階まで行く手段がないのは相当不便だと思った。不動産屋から事前にこの事を聞いていたら気が変わっていたかもしれないが、興味本位で半ば強引に部屋を借りてしまった以上、今さら文句は言えない。まだ荷物は運んでいないし、一応部屋まで行ってみてあまりの不便さを感じるようであれば解約しようと思った。

管理室を後にしてエレベーターのボタンを押す。エレベーターは七階を表示していた。エレベーターが下りて来るのを待っていると、隣の階段口の方から数人の女性たちが話しながら降りてくる声が聞こえて来た。

このマンションに入居している主婦たちだろうか? 大声で賑やかに話し込みながら僕の前を通り過ぎる。チラッと僕の方を見た一人の主婦に軽い会釈をすると、その主婦もつられて僕に会釈を返したが、すぐに他の主婦たちと顔を見合わせ、急に話すのをやめて静かになった。露骨に僕から顔を背けると、玄関に向かって足早に去っていく。さっきの管理人同様、何度かこちらを振り返る主婦たちの視線が不審者に対するような鋭さを持っていて、僕はこのマンションの住人たち全体に不快な印象を持った。

エレベーターの扉が開く。僕は苦々しい居心地の悪さを感じながらエレベーターに乗り込み、中の階数ボタンを確認した。

一階、二階、三階……五階、六階、七階。

四階へ行くボタンだけがなかった。普通はあり得ない事だが、管理人のいうとおりエレベーターで直接四階のフロアーには行けないようになっている。「死」を連想させるという理由で四号室がないのは分かるが、フロアー全体が抜けている建築物は見た事がなかった。その違和感は明らかに何か不都合な物を覆い隠そうとしている意図を伴って不気味ですらあった。

しかたなく七階のボタンを押す。エレベーターの扉が閉まるほんのわずかな間、僕は一瞬だけ玄関口からこちらの様子を窺ってヒソヒソ耳打ちし合っている主婦たちの姿を見た。

安い家賃につられて、過去の後ろめたい出来事をわざわざ掘り返しに来た変わった奴。管理人も擦れ違った主婦たちも、なんとなくそんな目で僕を見ている気がする。

七階に着き、エレベーターを降りる。薄暗くて狭い廊下が左右に伸び、エレベーターを挟んで三部屋ずつドアがあるのが見えた。誰も在宅していないのか妙に静かだ。僕は静まり返った廊下に足音を響かせ、下の階に下る階段を探した。

エレベーターを降りた右手の廊下の突き当たり。ぼんやりと緑色のランプを点した非常口のドアがある。階段らしきものがまったく見当たらないので、まさかとは思ったが、僕はとりあえずそのドアを開けてみた。

外の陽の光が眩く差し込み、非常階段が姿を現した。比較的新しいマンションにしてはそこだけが妙に風化していて、ところどころ塗装が剥がれていた。階段の手摺りから身を乗り出して下を見下ろす。

欠陥工事だろうか? おかしな事に非常階段であるはずなのに、階段が中程の階で途切れ、一番下の階まで続いていなかった。これでは非常事態が起きた時、外に逃げられない。建築基準法的に問題があるのではないかと思ったが、もしやこの奇妙な作りの非常階段が唯一四階のフロアに通じる階段ではないか、と、とりあえず下まで降りて見る事にした。

よく分からない遠回りを強いられるのは、きっとそこがいわくつきの部屋だからだ。いくら家賃が安いとはいえ、これでは余程の事情がある人でない限り誰も借りようとは思わない。超常現象云々の前に、実際この不便さにはさすがに参った。これでは引越しの荷物を運ぶにしても相当な時間と労力がかかるだろう。あいにく手伝いを頼める人手も見当たらない。とてもじゃないが霊現象云々の前に、ここには住めないと思った。ただせっかくここまで来たんだから一目いわくつきの部屋を拝んだら即部屋を解約する事にした。

手摺りを掴み、風化した非常階段を一段ずつゆっくりと下る。踊り場を折れ曲がり、そこからまたさらに階段を下りていく。

一つ下の階まで下りたあたりで僕はまたふと妙な事に気付いた。六階の非常口のドアが見当たらないのだ。ざらついたモルタルの壁が続くだけで、次の階も塞がっていた。

そんな非常階段なんかあるはずがない。この階段はやはり非常階段ではなく、このマンションの不都合な部分を無理やり隠すために設置された不本意な階段なのだ。行き着く先は四階のフロアーだけで、それ以外のフロアーには通じていない。

階段を全部下りきると、そこにようやく中へ入るドアがあった。なぜかはわからないが僕は深い溜息を一つついてからドアの取っ手を握った。しばらく開閉がなかったであろうドアは重く、イィ、と耳障りの悪い音を響かせて開いた。

埃と黴の臭いがどっと外に放出する。そして僕はそこに異様な光景を目の当たりにした。

無機質な鉄筋コンクリート構造のマンションに突然木造の空間が現れたのだ。

赤い絨毯敷きの廊下に、等間隔に並んだ太い木の柱と板張りの壁。見上げた天井の梁の部分には剥き出しのコンリートが覆いかぶさっていたが、古い日本家屋の佇まいがひっそりと残っていた。人の出入りがなかったせいか、空気がひどく淀んでいて、微かだが線香のような臭いも漂っている。

ある日を境に時間が止まったまま、廃屋として死んでしまった空間。このマンションはその元々あった建物を慌ててコンクリートで塞いで建設された。そんな憶測が勝手に撲の頭の中を掠める。

不可解な構造を持つ建物で心霊現象が起こるのは、怪談話の中ではよくある。でもこうやって実際に目にすると、その威力は思ったよりも凄かった。

賢明に科学的な検証を試みようとする理性とは裏腹に、得体の知れない不穏な感情が冷や汗と共に背筋を伝って悪寒に変わる。恐怖を感じつつある自分がおかしくて、フッ、と溢したはずの笑みが引きつり、構わず踏み込もうとした足が不覚にもすくんだ。

幽霊、祟り、呪いといった現象は、人間が自分の脳内で作り出した霊的な情報空間に、強い臨場感を覚えた時に発生する。あくまで幻想に過ぎず、目に見えない超自然的な力が働いてそのような現象を起こしているわけではない。

僕はそのメカニズムを知っているのに、いや、知っているがためにそこから先へ進む事を躊躇せざるおえなかった。

過去の忌まわしい何かを封印するかのような、このマンションの奇妙な構造が、霊的な情報空間を醸し出す舞台装置として強く働いているのは確かだ。目の前の古い木造建築が、過去に見た和製ホラー映画や心霊番組の再現ドラマの記憶と合致し、僕の想像力を多いに掻き立て、無意識に恐怖を手繰り寄せている。このままこの状況を許せば、僕は確実に非実在である不可視な霊的存在に取り込まれ、過去の入居者たち同様、悲惨な結末に首を突っ込む事になる。

「おい、気は確かか?」

理性と情動の間で揺れる自分自身にそう問いかけた。

この場所で以前何があったのかはまったく知らないが、甘く見ていた。にもかかわらずこの期に及んで余計な好奇心が燻る。危険だという事は充分理解していたが、僕はこのマンションが抱え込んでいる秘密、入居者を十日後に殺してしまうものの正体をどうしても確かめたくなった。

悪寒がひどく、赤い絨毯を踏む足が震える。それでも意を決して、僕は一歩一歩赤い絨毯が敷かれた埃と黴臭い廊下を歩いた。

コンクリートの現代建築が密かに覆った、廃れた日本家屋。奥に進むにつれ、その異様さの度合いがさらに増してくる。薄暗い廊下の長い板張りの壁一面に青白い顔が並んで、僕の方をジッと見つめている。

能面だった。整然と飾られ、それぞれ濃密な喜怒哀楽を湛えた虚ろな表情で廊下の薄闇を見据えている。正面を向いているはずの能面たちの視線が、気のせいではなく全て僕を見ている気がして、僕は悲鳴を上げそうだった。こんな場所に十日も居れば気が狂って死んだとしてもおかしくはない。以前の入居者たちは皆部屋で不可解なショック死をしていたらしい。

廊下の奥にぽつんとたった一つだけ部屋があった。僕が入居するはずだった401号室というのがどうもそれらしい。他は全て壁、壁、壁、壁。不都合な物を隔離するために用意して閉ざした、いわくつきの部屋にようやく辿り着いた。

僕は部屋のドアの前に立ち、鍵穴にそっと部屋の鍵を差し込む。回すとカチリと鍵が外れた。

恐怖心が限界に達しようとしている。僕はほんのわずかに開いたドアの隙間を覗くか覗かないか、葛藤した。すでに科学的な検証を試みる理性は敗北感とともに消え去り、あとに残ったのは本能に近い、ただ厄介な好奇心だけだった。

死んでも構わない。本当にそう思ったかどうか、気づくと衝動的におそるおそる中の闇を覗いていた。

視界不良の暗闇を何かが揺らめいている。闇そのものが意志を持っているかのように、形のない形が確かに揺らめいていた。

……老婆。幻覚か? 肉眼ではない、まったくもって不確かな視覚情報ではあるが、それは老婆だった。

何故そう思ったのかは分からない。でも僕は部屋の中で揺らめいているのが、白髪の小さな老婆だと確信していた。老婆が部屋の中央の天井からぶら下がって、振り子のように、ぶらん、ぶらんと揺れている。

僕は勢いよく部屋のドアを全開にして、再度それを凝視した。ほんの一瞬だった。ほんの一瞬で振り子のように揺れていた老婆が僕の視界から消えた。

手探りで見つけた部屋の明かりのスイッチを押す。そこにある全てが鮮明に飛び込んでくる。401号室のその部屋は八畳くらいの畳部屋であることが分かり、窓もなければ押入れもなく、ただがらんとしていた。

老婆が揺れていた部屋の中央を見ると、畳の上に写真の入った額縁が転がっていた。それは縁起の悪い黒縁の遺影で、僕はそこに収まっているぼんやりとした白黒の肖像に、闇の中で揺れていた老婆の面影を確認した。白髪の老婆の肖像がこっちを見てうっすらと笑っている。

現実としてそれを受け入れるかどうかの判断はつかなかった。その前に僕はすぐにその部屋を飛び出した。悲鳴こそ上げなかったが心底恐怖を感じていた。

入居して十日後に人が死ぬ噂はおそらく事実だろう。理性ではなく、僕自身が体験した記憶と情動がそうだと認めてしまったんだから、入居すれば僕にもきっと同じ悲劇が降りかかるはずだ。

僕はまだ賢明だ。部屋は一刻も早く解約する。僕は完全に侮っていた。僕が思っていたよりも、僕の無意識は古来から日本人に植えつけられた霊的な情報空間に慣れ親しみ、深々と畏れ敬っていたようだ。

全国に数ある神社、仏閣、葬式、祭儀などが作り上げた強大な共同幻想。その副産物が現代の闇に孕んだものを、僕はあのいわくつきの部屋に垣間見たのだ。

これからすぐに名のある霊媒師のところを訪ねて、あのマンションから連れて帰ったかもしれない穢れを祓ってもらうつもりでいる。迂闊に霊の存在を受け入れてしまった最善策として。

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