好きなのは、運命の女神なのか?
ひつじのはね
1
徐々にオレンジ色が浸透してくる教室で、2対の瞳が息を詰めて小さな画面を見つめている。細い指が意を決して画面をタップした瞬間、ぐっと2人の距離が近くなった。
「ああ?! ダメだったぁ。最近ますますツイてない」
突っ伏した美春の髪が、無造作に机に広がった。冬也は苦笑してその手からスマホを取り上げると、改めて画面に目を落とす。
「抽選の結果、誠に残念ながら――か。美春って当選したことないんじゃねえ?」
「だから冬也がメール開けてって言ったのに!」
そんな、シュレーディンガーの猫じゃあるまいに。幼馴染の呆れた視線に、美春は不貞腐れてスマホを奪い返した。
「やっぱり私の運じゃダメなんだよ……運命の女神に嫌われてるんだよ」
「だからって、俺の運を勝手に使おうとするんじゃねえよ」
荒れた指で美春のスマホを弾くと、彼はひょいと机に腰掛けた。
「ちょっと、髪!」
「あ? 悪ぃ」
わずかに浮かせた腰は、髪を除けろということだろう。美春は伏せたまま髪をかき上げると、抗議を込めて睨み上げた。
慌てて逸らされた視線に不自然を感じつつ、もうこれで何度目かのライブチケット落選にため息をつく。
どうしてこう、運がないんだろうか。一体どこで消費されているんだろう。
「帰らねえの? 俺、もう部活行くぜ」
微かに動いた目の前の左手は、かさついて、皮が厚そうで、爪は不揃いで。触れたら、熱いんじゃないかと思う。
「帰る。ねえ、冬也は運がいいんでしょ?」
「……そう、だな」
見上げると、冬也がそっぽを向いた。いつの間にか鮮やかな夕日が彼を染めて、まつげの影まで見える気がする。これはきっと、マジックアワーってやつだ。こんなだから、運命の女神に好かれるんだよ。
美春は一度目を閉じて視線を取り戻すと、勢いよく席を立ったのだった。
「――寒い……」
愛おしい布団から顔を出し、美春はちらりと時計に目をやった。
白い息を吐くと、えいやと思い切りよく起き上がる。
「さむ、さむさむ……」
顔を洗って跳ねた髪を梳かし、パステルカラーの部屋着に着替えてガウンを羽織った。
「全然防寒になってないよね」
姿見に映った姿にくすりと笑う。ショートパンツも膝上の靴下も、確かにぬいぐるみのようにモコモコだけど、むき出しになった大腿はなおさら寒々しい。
日曜の朝は、まだ誰も起きてこない。薄暗いリビングで明かりをつけると、美春はドッグフードの袋を抱えて玄関ドアを開けた。
容赦ない朝の空気に慌ててガウンの前をかき寄せ、足早に庭の片隅へ向かう。
「ハナコ、ごはんだよ」
ドアが開いた瞬間から犬小屋を飛び出していたハナコが、待ちきれずに勝手にお座りをして、お手をした。撫でた毛並みはひんやりと冷えていたけれど、大きな口からはふはふと溢れる吐息は白く、舐める舌は温かい。
カラ、カララ……
震える手が、アルミの椀に少しずつドッグフードを注ぐ。
重いドッグフードの袋は小刻みに震え、ハナコは何度も美春の顔を盗み見ては忙しく前脚を踏みかえている。
「よう、おはよ!」
快活な声が聞こえたと同時にドッグフードがザーッと注がれ、美春が勢いよく振り返った。
「おはよ。日曜なのに走ってるんだ。熱心だね」
汗すら流している冬也は、吐息のみならず全身から湯気が上がっている。
「俺はいつも走ってるぞ! 美春も日曜なのに朝早いな」
柵を設けていない庭は、長い脚の数歩で簡単に侵入を許してしまう。
「私だってハナコのごはんあげなきゃだし」
美春は、念入りに普段より低い声を意識した。
視線を動かした冬也が、夢中でドッグフードを貪るハナコにふわりと笑う。つう、とこめかみを流れた汗が首筋を伝い、妙に美春の目を引いた。
「――太ったんじゃねえ?」
「え?! 太っ……え? 何が?」
ハッと我に返った美春が、狼狽えて目を見開いた。過剰な反応に冬也も首をかしげて美春を見つめる。
「ハナコ。食ってばっかだもんな、俺が走らせてやろうか?」
「あぁ。んー、どうかな? ハナコ多分そんなに走れないよ。そもそも散歩が好きじゃないんだよね」
あっという間に食べ終わったハナコが、『散歩』と聞いてそそくさと小屋の中へ引っ込んだ。
「犬のくせに散歩嫌いとか!」
思い切りよく腹を抱えて笑った冬也が、服の裾をまくりあげて汗を拭う。
「ちょっ……レディーの前でしょ!」
慌てて視線を逸らした美春に一瞬面食らうと、その顔がにやりと悪戯っぽい笑みを形作った。
「そっか、レディーがいるもんな。ハナコ、悪かったよ!」
思わずむっとする美春に、冬也は真正面で笑った。まともに浴びてしまえば、もう顔を俯かせるしかない。
「……それに! そんな恰好で寒くないの?」
悔しげに冬也を睨んだ瞳は、朝日に潤んで艶めいて見えた。
「俺が? この汗見えねえの? それより、お前だろ。寒くねえの?」
ちら、と美春に視線を走らせてあらぬ方を向いた冬也に、今度はこっそり美春の口角が上がった。思い切って、一歩近づく。
「これ、あったかいから」
へえ、と何の気なく伸ばされたむき出しの腕が、ハッと引っ込んだ。
「ふーん。まあ、あったかそうだけど」
興味なさげにハナコに向いてしまった視線が悔しい。美春は、もう一歩進んで両腕を差し出した。
「もこもこでしょ。これ、すっごく気持ちいいの!」
寒くない、寒くない。
小刻みに震える体を気合で抑え、果敢に見上げる。
「……あ、ほんとだ。すげーふわふわ」
固い手のひらが、ほんの一瞬、美春の右腕に触れた。
やっぱり、熱い手だ。だってこんなにも布越しに熱く感じるのだから。
「そうでしょ!」
冬也は目の前でとろりと崩れた笑みに息を呑んだ。
やっぱり、俺は運がいい。
「……あんまその恰好で出てくんなよ。部屋着じゃねえの? ここ、塀もねえし、危ねえだろ」
一体、何が危ないって言うのか。珍しくぼそぼそと苦言を呈す冬也が可笑しくて、美春が吹き出した。
「確かに! こうやって不審者が入ってきちゃうもんね」
朗らかに笑われ、冬也はつい視線を泳がせる。
――と、吹き抜けた冷たい風にぶるりと華奢な体が震えた。
「やっぱ寒いんだろ。そうだ、ちょっと……あ、寒いから10分後にまた出て来てくれよ! そこのコンビニ行って戻ってくるだけだから!」
言うなり走り去った冬也に、美春は呆気にとられて右腕を抱きしめた。
「おい、中で待ってろよ! なんで出て来てんだよ」
ものの数分で駆け戻ってきた冬也が急制動をかける。ガサリとビニル袋が音をたて、縮こめた美春の体にぶつかった。顔に落ちた影を見上げ、美春は目をいっぱいに見開いた。冬也から立ち上る熱気が、美春の顔まで煽る気がする。
「……べつ、に、いいでしょ。ハナコと遊んでたの」
平静を装って表情を取り繕うと、美春はそっと後ずさった。頬を炙るような熱気が、少しは遠ざかった気がする。
「まあ、ちょうどいいか。これお前の朝飯な!」
「えっ? 私の? ありがとう……」
押し付けられた袋には、カップ麺が二つ。
朝飯、そう言わなかったろうかと美春は疑問符を浮かべる。
「あったまるだろ? 俺こっち」
無言で袋を覗き込む美春を気にも留めず、冬也がぬっと腕を突っ込んで片方をつかみだした。
「あ! 私そっちがいい」
視界を通り過ぎて行った赤いカップ麺に思わず声を上げ、なんだ、食うんだと笑われた。
「赤いのは俺。美春は緑のたぬきな!」
「どうして? 私、赤いきつねの方が良かったんだけど」
もう恥じらっても今更だと、美春はやけっぱち気味に赤いきつねに手を伸ばす。
「ダメ。だって俺、今日のラッキーカラーが赤だからな! じゃあな」
ひょいと頭上高く持ち上げられたカップ麺が遠ざかり、美春は悔し気に残された袋を握りしめた。
「冬也は運がいいんだから、今さらラッキーカラーとか!」
そもそも、運勢なんて見るたちだろうか。絶対言い訳に違いない。ぷりぷりしながら部屋へ駆け込むと、脱ぎ散らかしていた寝間着を再び身に着ける。
ビニル袋を丁寧に畳んで引き出しに仕舞うと、何の色気もない緑のカップ麺を見つめた。次いで、その口元がへらりと歪む。
おもむろにスマホを取り出すと、カシャリと撮った。そこに写るのは、ただのカップ麺。どう眺め透かしても、ただの緑のたぬき。
美春はしっかり画像を保存すると、キッチンへ駆けおりていった。
「美春は、なんで朝からカップ麺を食べてるんだ……?」
ようやく起きてきた父親が、不思議そうな、いや不審げな目で美春を見る。カロリーが、糖質が、なんて普段騒いでいる姿から想像もつかない光景だ。
「……あったまるから!」
ぷいと顔を背けた美春は、口からはみ出た蕎麦をちゅるりと収め、持ち上げたカップ麺を傾けた。湯気をたてるスープをふうふうやって、そっとひとくち。
「おいし……」
じわりとしみ込む和の香り。崩れた天ぷらがほどけ、噛み締める中に小エビが香ばしく主張した。
もっと、他にあるでしょ。女の子に渡すなら、ココアとか、レモンティーとか。そんな少々納得できない思いもゆったりほどけて消えていく。
うらやまし気な視線に気づかないふりをして、一滴も残すまいと飲み干した。
ほう、と息を吐いた頃には、冷たく痺れていた手も、強張った頬も、ほんのりと赤みを取り戻していた。
「父さんの分はないのか?」
ばさりと新聞を置いた父親が、いそいそとキッチンへと消えていった。
ふと、広げられた新聞の文字が目に留まる。『今日の運勢』、そう書かれたページを引き寄せた。
「ほーら、やっぱり嘘だ! みずがめ座のラッキーカラーは黄色じゃん!」
知ってるんだから、冬也の星座くらい。
美春はそら見たことかと得意満面で新聞を掲げる。けれどもう一つの星座を求めて視線を滑らせた時、浮かべていた笑みが固まった。
『てんびん座:ラッキーカラー 緑、ラッキーアイテム アニマルグッズ』
なかったぞ、と戻ってきた父親が、訝し気な顔をする。
「お前、顔が赤いんじゃないか。朝から食いすぎだろう」
そこは普通、風邪の心配をするところ、と思いつつ美春は席を立った。
「七味、入れすぎたみたい!」
熱い頬を抑えて部屋へ駆けあがりながら、美春は思った。
緑のたぬきは、決してアニマルグッズではないと。
好きなのは、運命の女神なのか? ひつじのはね @hitujinohane
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