光無き月夜と宵闇の灯し人

満月丸

光無き月夜と宵闇の灯し人


「助かりました、旅の人。おかげさまで孤独死するのを免れたようだ」

「いやいや、困ったときはお互い様さ」


 天も地も真っ暗闇に染まった夜の森、ぽつんと灯った焚き火の傍で、二人の人物が話していた。明かりが傍にあるにも関わらず、粘るような闇は纏わり付くように形取り、さながら黒いタイツを纏ったかのように相貌すら晒すことはない。微かに見える輪郭から、人型であることは確かだろうか。

 片方の小柄な影は天を仰ぎ、月すら無い黒の曇天へ、ため息を吐く。


「今日が光無月こうなづきだという事を忘れていてね。日が落ちたら真っ暗で、闇女神の身元へ連れて行かれるかと思った程だったよ」


 光無月、それはこの世界に存在する、一月に一度だけ巡ってくる光の神が不在の夜だ。あらゆる光は粘るような闇にかき消され、あらゆる明かりは点くこともなく消えてしまう。唯一、明かりとなるのは灯火の魔法くらいだという。だから、人々は日が落ちる前に門戸を閉めてベッドに入り、闇獣すらも棲家から出てくることはない。

 そんな危なっかしい夜の中、森を彷徨っていたアトラが震えているところを、目の前の人影……おそらく男性に、助けられたのだ。


「しかし、とても不思議なランプだな。この夜でも輝いているし、種火にすれば消えない焚き火にもなる。いったいどういう原理なのだね? やはり魔法?」

「はは、企業秘密、ということで」


 茶目っ気たっぷりに男は指を一本立てる。顔が見えずとも、どこか愛嬌のある仕草だ。

 それに毒気を抜かれ、アトラは肩を揺らした。


「失礼、詮索しすぎたな。……では、あらためて自己紹介でも。私はハルデシアン王国青魔騎士団の見習い騎士、アトラ・タンジェリン。お見知りおきを、旅人さん」

「ええ、よろしく。自分は鹿山太郎……ああっと、タロウ・カヤマと言うべきか。まあ、普通の一般人さ」

「カヤマ、タロウ? ここでは聞き慣れない音だな。異国の方かい?」

「実を言うと、そうなんだ。訳あって旅をしていてね、大陸中を好き勝手に移動させられているんだ」

「させられている?」


 アトラが思わず小首を傾げるも、カヤマと名乗った男は肩を竦めただけだった。あまり突っ込まれたくない話らしい。だからか、カヤマは話題を変えた。


「タンジェリンさんは、騎士なんだね。どうだい、これから食事でも」

「え、いいのか? 私は何も出せる物が……」

「構わないさ。袖触れ合うも他生の縁って言葉が、うちの国にはある。ここで会ったのも何かの縁ってことで」


 言うや否や、カヤマは大きなリュックからいろいろなものを取り出す。中には折りたたみ式のテーブルなどもあって、その容量無視のサイズにタトラは目を白黒させた。


「タンジェリンさんは、食べられないものとかあるかい?」

「い、いや、特には無いが……」

「じゃあ、適当に目玉焼きと……ああ、暇つぶしに昨日食べた白米があったな。それでいくか」


 テーブルの上にカセットコンロと折りたたみ式の風防を広げてその周囲を囲んでから、カチッと捻って火を付ける。青色の火を見てアトラが息を呑んだが、カヤマは素知らぬ顔で料理を始める。

 取っ手にカバーを付けた、小ぶりでずっしりとした重さのスキレット――ようは小さなフライパンである――を火に掛け、熱してから油を適量、そこへクーラーバッグから取り出したソーセージパックの封を開けて2つくらいをポンッと入れれば、ジュウジュウとした香ばしい匂いが。片面を焼いて裏返したあたりで、同じくクーラーバッグから取り出した卵をカンっと叩いて投入。塩胡椒を振ってから、もう一つ別のスキレットで蓋をして待つこと一分弱。


「ほい、一品目お待ち」


 アトラの前に出されたのは、小さなテーブルの上に乗る、熱々出来たての目玉焼きとソーセージ。白い湯気の立つそれは、粘る闇の中でも明かりを反射してとても美味しそうに見えた。


(……え、見える? どうして? だってこの夜じゃ、物も見えないのに……)

 

 よく見れば、再び何かを焼いているカヤマの周囲にある道具、それら全ての形状がくっきりと見える事に気がついた。色のない夜で、色が見えるというのも不思議な光景だ、とアトラは思った。


(光無月でも見えるアイテムを持つ男……彼の姿は見えないのか?)


「……ん? 食べないのか?」

「……っ、あ、ああ、少し疲れていたようだ。では失礼して」 


 カヤマの視線に誤魔化すように首を振ってから、アトラは改めてスキレットの目玉焼きをフォークで突っついた。


チャコン二頭鶏の卵、じゃないな。あれはこんなに白くはならない……それにこの肉、腸詰め? ポルガ角豚か? しかしポルガ特有の臭みがまるで無い……それに、この香辛料は……駄目だ、わからない、わからないが)


 とても美味しそうなのは確かだった。

 グ~、と腹の虫が限界だったように鳴いたのに思わず首を竦めてから、アトラは思い切ってソーセージに歯を立てて、


「………………おいしい」


 パリッと弾ける旨味と、香草が入っているらしき風味が鼻孔をすり抜けて行くのを感じた。

 その一瞬、全ての警戒を忘れてアトラはソーセージに齧りついていた。この近辺ではまったく舌に覚えのない、されど異国故の風変わりな味わいに病みつきになった。ついでに滅茶苦茶お腹が減っていた事もあってか、もはや得体のしれない物への恐怖等どこかへふっ飛んでいった。何事もうまいは正義である。


「この卵焼き……完全に火を通していないようだが、大丈夫なのか?」

「ん? ……ああなるほど。この卵はうちの国の物でね、生でも腹を壊さないように出来ている。あと、そのクーラーバッグに入れておけば冷やせるし、ナマモノでも長持ちするんだ」

「な、なるほど……」

(クーラーバッグ……冷気魔法の魔道具か? 確かに冷やせば腐敗は遅くなると魔術師達は言っているが、そんな物を常用など……彼は魔術師か何かなのか?)


 異国から来た放浪の魔術師……変わり種の研究職である魔術師ならば、よくある話だ。大概、そういった野良魔術師は変人と相場は決まっているが。

 そんな事を考えつつ半熟な目玉焼きを口に入れ、やっぱりアトラは目を瞬かせた。


「トロリと蕩ける……これが、卵焼きか? こんな物は食べたことがない……」

「この辺じゃ、半熟卵は無いのか?」

「しっかり火を通さないと危険なんだ、チャコンの卵に当たって腹を下す者はとても多い。それでも食べられているのは、市民にとって貴重な栄養源だからだな。それに、チャコンの卵はもっと大きくて黄色みが掛かっているし、味もやや苦いんだが……これにはそれがない。なんとも不思議だ」

「なるほど、一度見てみたいな、チャコン。頭が二つがある鶏なんて、こっちじゃお目見えできないから」

「カヤマ殿は、異国から来られたんだったな。その異国には、こんな食べ物がたくさんあるのか?」

「ああ、これ以上にうまい食べ物は沢山ある。暴食の時代、なんて揶揄もされるがな。とはいえ、自分ももう簡単には戻れなくてね。困っているんだ」

「戻れない?」


 素朴な疑問に、カヤマはあーとかうーとか言っては、まあ簡単に言うと、と前置きした。


「自分の趣味はキャンプでね、なんちゃってキャンパーなんだが、まあ一人で野営をするのが趣味なんだ」

「それは…………とても変わっているな」

「ははは、だろう? うちの国じゃ魔物なんていないからさ、たまーに野営をして旅気分を楽しもうっていう趣味のようなものが広がっているんだ」


 なんとも、世の中には理解できない趣味人がいるものだな、とアトラは思った。好き好んで不便な野営に身を投じるなんて、きっと貴族の道楽だな、などと考える。


「んで、とあるキャンプ場へ向けて山を登ってたら、ちょっとドジを踏んで落ちてね。そしたら、この闇の世界に放り込まれたんだ。それからずーっと何日も、この夜を歩き続けている」

「この、夜を? ……その、まさかとは思うが、貴方はこの光無月の夜を何日も歩き続けていると? しかし光無月は一ヶ月に一夜しか起こらないはず」

「そうなんだ。だから自分が一夜を過ごすと、30日後まで自動でスキップされるらしい。お陰様でこの数日、昼を見たことがないんだ」


 思わず唖然とする。荒唐無稽な筈のそれは、しかしアトラにある可能性を浮かび上がらせた。


「まさか……貴方は、闇女神の眷属者なのか?」

「眷属者……この現象を知っているのかい?」

「あ、ああ、話で聞いた程度だが……光の神キシュアの加護を受けた英雄は、魔物を薙ぎ払う力を得た代わりに、日中にしか姿を表すことが出来ないという。同じく、月の神メロディーアの加護を受けた魔女様は魔法の真髄を極め、夜の平穏を守っていたが、必ず朝日が昇る前に森へと帰るという。どちらも大昔のおとぎ話で、彼らがどうなったのかは誰も知らないんだ」

「へぇ、そりゃ奇遇だなぁ」


 当人は物凄いマイペースに頷いているが、アトラとしては気が気ではない。闇女神と呼ばれる闇の神ヴェーゼルネイアは、闇獣達の王という眷属者を生み出しているのだから。

 

「自分のことはともかく、そういえばタンジェリンさんはどうして森の中を彷徨っていたんだ? こんな暗い夜も忘れて」


 かなり唐突に、カヤマは話題を逸らした。何か疚しいことがあるのか、それとも別の思惑があるのか、アトラはわからなかった。しかし、ここで答えないのも空気を悪くすると思い、アトラは触りだけ話す。


「お恥ずかしい話になるのだが、少しばかり家出をね」

「ほぅ、家出? 親元から?」

「ああ、我が家は栄えある騎士の家系なのだが、どうも両親は私を騎士にしたくないらしいんだ。それで少し揉めて飛び出して、体力の続く限り走り続けていたら、気づいたら森の中だった」

「はぁ、なるほど。アグレッシブだなぁ」


 とは言うものの、実際はもうちょっと複雑だ。

 アトラは腕力がなく、剣術の才にも恵まれず、一族の中でも非力な者として見られてきた。それでもアトラは血の滲むような努力を繰り返し、騎士見習いになった。荷物持ちのような雑用ばかりだが、それでも騎士の一員としての誇りを胸に、時に従軍し、時に騎士の後をついて闇獣と命を賭けあった。

 しかし、父母はそれが気に食わないらしく、騎士など辞めて家に帰ってこいと何度も催促してきた。兄たちは既に立派な騎士としての叙勲を受け、一番上の兄は騎士団長にすら成り上がった。ひとつ上の兄ですら騎士となったのに、アトラだけは未だに騎士見習いのままだった。それが、アトラは悔しかった。

 お前には無理だ、貴方が行う職じゃない……何度そう言われたか、数え切れないほどだ。

 

「……両親とは、仲が悪いわけじゃないんだ。それでも、分かりあえない部分はあるんだと思う。私は、こんな私でも騎士として国のために剣を捧げられるのだと、皆に知らしめたい。だが、父は怒って言うんだ。そんなのはお前がすべき事じゃない。有力家と縁を作る事こそがお前にふさわしい仕事だ、とね」

「そりゃあ……反発もしたくはなるなぁ。うん、自分だったらちょっと怒るかも」

「はは、ありがとう。……だが、今のままでは駄目なんだ。腕力がない、力がない、そんな者は一生を見習いのままで過ごすか、故郷へ帰ることになる。騎士社会は厳しい成果主義だからな」

「命を賭けてる仕事だから、たしかにその通りかもな」


 アトラは力なく笑う。酷く投げやりな気分になっていたのだろう、組んだ両手を見つめながら、ポツポツと呟く。


「時折、自分のやることに自信がなくなるんだ。本当にこれでいいのか、この目標にとんでもない間違いや驕りがあるんじゃないか。ひょっとしたら、私は無駄なことに人生を費やしている大馬鹿者なのかもしれない、と。……他者に笑われるのは、まだいい。だが、自分の心に裏切られるのだけは、きっと耐えられない」

「ほい、二品目お待ち」

「え?」


 唐突にズイッと視界へ入り込むのは、鉄皿に乗ったホカホカの焼きおにぎり。それを差し出したカヤマは、見上げてくるアトラへ自信に満ち溢れた声を掛ける。


「そういう声は、腹が減ってるから出てくるもんさ。腹一杯にご飯を食べて、空を仰いで寝てしまえば消えていく、小さな声だよ。気に病む必要はない」

「だが……」

「だからまずは腹ごしらえだ。というわけで、手づかみでどうぞ。熱いけどな」


 ズイズイっと押し付けてくるそれに、アトラは何も言うことが出来ずにただ受け取った。カヤマがじっと見つめているので、仕方無しにそれを手に持ち……かなり熱いが問題はない……催促のままに口をつけた。

 ……途端、アトラは目を見開いた。

 ようやく気づく良い香りは、おにぎりに浸けたタレが発するもので、白い米の一粒一粒が瑞々しさと同時に、甘く焼けた味わいを口内に広げていくのだ。


「……おいしいな」

「だろ? うちの国のソウルフード『おにぎり』を味噌ダレで焼いたもんだ。こういうのはキャンプで作ると格段にうまくなるもんでな。用意した甲斐があったな」


 醤油ダレも焼き肉ダレもうまいんだよな~あと豚汁も~、などと呟くカヤマとは裏腹に、アトラは無心でそれを食べていた。

 その味はどこか、先輩騎士達と共に焚き火を囲み、団長に内緒でこっそり炙って食べた、干し肉のような味わいに似ていると思った。戦友と共に外で寝泊まりし、時には命を張り合う恐怖の中でも彼らが挫けないのは、この温かさのお陰なのかも知れない、と。

 大志を抱くのは立派なことだ。だが、それを続けるのはこんなにも辛いことなのだ。それでも進み続けるのは、それ程までに自身を突き動かす、熱い想いがあったからに他ならない。アトラは自身の中の弱さを見つめ、自分が騎士になりたいと抱いた初志を思い出していた。

 そんなアトラを見下ろしながら、カヤマは頭を掻きつつ、唐突に口を開いた。


「ところでタンジェリンさん。眷属者ってのかどうかは知らないが、自分には一つ、奇妙な目を授かっているんだけどね」

「……奇妙な、目?」

「そう、いわゆるチート能力かな。まあ四次元収納も大概がチートだけどさ」


 チート、という単語に馴染みはなかったので、アトラはただ小首を傾げるだけだ。

 カヤマはズイッとアトラを覗き込みながら、その目を瞬かせる……アトラが至近距離で初めて見えたそれは、星のような煌めきが宿っていた。じっと見つめていたカヤマは、仰け反るアトラへこう言った。


「アトラ・タンジェリン、たしかに武術の才能は無いし、力も無い。しかし、君には別の才能があるように見える」

「別の、才能?」

「ああ、魔法さ」


 指を突きつけたカヤマの言葉に、しかしアトラは瞬きをした後、落胆したように肩を落とす。


「魔法か……だが、私は騎士になりたいんだ。魔術師では騎士にはなれない」

「そうなのか?」

「魔法の最大の利点は、遠距離攻撃だからな。自身が傷が負うリスクが無いそれは、戦場でも後衛として活躍はしている。しかし、それは魔法を扱う部隊の仕事であって、前線で活躍する騎士とはまた違う」


 軍では魔法兵科に魔術師が在籍しているが、彼らは魔術師であって騎士ではない。古来の騎士とは、重装鎧を纏って前線でラビア蜥蜴馬を駆り、長槍や魔法を防ぐ盾を構えて敵を蹂躙する者たちである。つまり軍においては後衛を守る盾であり、剣でもある。

 一方、魔術師は騎士とは別の称号が与えられ、彼らもまた一代限りの称号と同時に戦場での活躍が期待されている。しかし騎士よりも設立が遅く発動までに時間がかかるこちらは、騎士たちからはやや軽く見られている節があるのだが。

 されども、魔術師の才覚が現れることは、アトラの一族にとっても喜ばしいことだろう。アトラの一族は、魔術師の才を持つ者は極端に少ないからだ。


「だから、喜ばれはするだろうが……私が望むのは、騎士としての立身なんだ。ここまで来るともう、意地のような物なんだがね。種別や性別で無理だと決めつけられるのはもう、たくさんなんだ」

「…………」


 アトラの苦渋が滲んだ言葉に、カヤマはしばし腕を組んで天を仰いでいたが、


「……お、それならさ」


 唐突に屈み、火のついていない薪を一本、手に取る。


「こういうのって、出来ないのか?」


 薪の先を炎に突っ込んで取り出せば、木片には小さな明かりが灯っていた。それはジワジワと芯を侵食し、この夜に在る筈のない光を周囲に投げかけている。

 それを、アトラはじっと見つめた。


「……枝、いや、武器に魔法を? 不可能では無い、と思うが……しかし、そんなことは誰もやったことがない。魔法は遠距離で放つのが常識だからだ」

「そんじゃ、魔法剣なんて無いんだな」


 薪を剣のようにブンブンと振ってみれば、夜闇に光の帯が流れた。

 食い入るように観察していたアトラは、考え込むように口元に手を当てた。


「魔法……そうだ、着弾と同時に発火する術式ならば……しかし、私では作ることは出来ない……が、魔法兵科の誰かなら作れるかも」

「やっぱりファンタジーには魔法剣って定番だしなぁ。こう、雷を剣に宿してから逆手でズバァンッ! ってのは小学生男児の皆が憧れる必殺技だよなぁ」

「そうか……! 何も火じゃなくてもいいのか……、我が祖先の中には雷撃を扱ったという者もいるし、それなら必殺技になるかも……!」


 という感じの会話とも言えない会話を繰り広げていたところ、ふとカヤマが我に返ったように東の空を仰いだ。


「あっと、時間切れみたいだな」

「え? ……あ、夜明けか?」


 アトラが見れば薄っすらと、微かに東の空の黒色が褪せ初めていた。光無月が終わるのだ。闇女神は闇を引き連れて地底へと帰り、休んでいた光の神が再び天へと昇る。

 その刻限に至れば、カヤマとは半ば強制的に別れることになる。

 

「すまないが、それそろお別れのようだ。空が白んできたら、自分は再び夜へと帰ることになるからな」

「そうか……なんだか名残惜しいものを感じるな」


 異国の、それも眷属者の彼は、きっと王国でも重要視されるだろう。その目はきっと人材育成にも貢献するはずだ。誰もが、喉から手が出るほど欲しい存在になるだろう。

 だが、眷属者を留める術は存在しない。アトラが崇める夜の魔女だって、どれだけ魔王の催促があっても手に入ることはなかったのだから。

 だから、アトラは首を振ってから、吹っ切れたように相手を見据えた。


「いろいろありがとう、相談に乗ってくれて。なんだか新しい可能性を得られた気分だよ」

「いやいや、こっちこそありがとう。一人孤独に過ごす夜なんかよりも、ずっと快適な日だったよ」


 いつもは一人のことが多いからな、と彼はどこか寂しげに首を振った。闇女神の寵愛を受けているであろう彼は、しかしそれ故に、光や月の民と交流を持てないのだ。

 アトラは一拍置いてから、大きく頷く。


「もしまたハルデシアンへ来ることがあったら、タンジェリン邸を訪ねてくれ。深夜でも必ず君を歓迎するよ。今度は、我が家のとびっきり美味いポルガの丸焼きをご馳走しよう」

「お、いいねぇ! 豚の丸焼きなんてお目に掛かったことはないから、腹を空かせて尋ねることにするよ」


 そう言い合うも、両者共に再会は無いだろうという確信があった。一月に一夜しか会えぬ相手、彼が十二の夜を超えれば、それだけで一年が経つのだ。彼の口ぶりからして、自身の意思で旅先を決定している訳ではないようなのだから。

 それでもアトラは、微かに薄れゆく彼を見上げて、手を差し出した。


「それでは、また会おう。タロウ・カヤマ殿」

「ああ、またいつかどこかで。アトラ・タンジェリンさん」


 そっと触れ合い、交わした握手。相手は、アトラよりずっと柔らかそうな掌だった。

 不意にチカッと一筋の陽光が世界を貫いた。ザアァァ……と全ての粘る闇が引いていくのと同じように、彼の姿は薄闇の向こうへと消えていってしまう。その姿を眼に写しながら、アトラはただただじっと、彼の姿を見送っていた。


「…………行ってしまったか。まるで人生の灯し人のような魔族だったな」


 先程までの闇が嘘のように、空は橙と深い水色に染め上がっていた。色が戻った世界、焚き火の跡だけが残るその場所……彼の荷物は跡形もなく消えていた……に、アトラは静かに佇み、


「…………はぁぁぁ」


 大きな伸びと共に、深呼吸で朝の空気を体に満たす。

 そして腰に手を当て、輝ける朝日を眇めた瞳で見上げた。


 ……新しい朝が来るように、新しい可能性を抱いて眺めたその空は、今までにないくらいに輝いて見えたのだ。



   ※※※



「しかし、久しぶりのお客さんだったなぁ」


 真っ暗な闇の世界、どことも知れぬ場所を、黒髪で風采が上がらない平凡な男……カヤマがトボトボと歩いている。アトラが消えて、残った道具を片付け、次なる場所へと進んでいるのだ。

 大きなリュックを背負ってクーラーバッグを引っ掛け、煌々と輝くランプを手に、カヤマは代わり映えのない暗い道を前進する。行き先はどの方角でも良い。気づけばまったく見知らぬ場所を歩いているのだから。


「いくらチート紛いな四次元収納リュックとか、自宅の冷蔵庫と同じ品揃えの自動供給クーラーバッグなんて物があっても、話し相手が居ないんじゃ気が滅入るんだよなぁ。ソロキャンプ好きだとしても、これはないな。うん、ない」


 虫の音も途絶えた闇でも、彼の瞳には普通の夜のような光景を見せている。闇女神とかいう存在の加護なのか、人のステータスを見ることと暗視能力があるのは有り難かった。だとしても、暗い森なんてとてもじゃないが進めないので、光量が無駄に大きい不思議なランプが灯されているわけである。お陰様で街灯があるくらいには明るいのだが。


「しかし、闇女神かぁ……崖から落ちた時に聞こえた声がそれか? 導いてとか、なんとか……何を導けって言うんだろうな」


 もはや自然体となった独り言を共にしながら歩いていると、なんとはなしに空を見上げてしまう。

 ……カヤマの瞳に映るのは、美しいばかりの星空と、輝かんばかりの月だった。


「普通の人は、アレが見えてないんだよなぁ。あんなに綺麗なのにもったいない……いやまあ、普段から見慣れているか。日本の空じゃ絶対に拝めない光景だよなぁ、星座なんてまるっきり違うし……ああ、タンジェリンさんに星座とか聞いておけばよかったな。ちょっと時間なかったし、仕方ないけども。しかし、また人生相談に乗っちゃったなぁ」


 カヤマがこの闇の中を歩いていると、偶然か必然か、誰かが迷っている事がある。それは森の中だったり、山の上だったり、美しい湖の畔だったり。そういう場合、必ずその迷い人は悩みを抱えているのだが、それをカヤマが聞いてアドバイスするのが定番になっている。その際にこのステータスを見られる瞳は、とても便利なのだ。


「路地裏の占い師か人生相談員にでもなった気分だな。この場合はなんだろうな? 暗闇、漆黒、深淵……いかん、駄目な方向へ行くぞ。夜闇、宵闇……うん、宵闇の占い師とか、そんな感じ。看板掲げて『人生お悩み何でも解決、人物鑑定はこちらまで』、とか? ……う~ん、胡散臭い」


 一人で笑って、ため息を地面へ吐き捨てる。やはり孤独は辛い、このままでは独り言に埋もれて死んでしまいそうだ。


「できれば、次も友好的な人物だといいな。人間の盗賊なんかには会いませんように……あ、でも、タンジェリンさんは違うか。あの人は……」


 カヤマは、闇の中でも煌めく瞳で天を仰ぎ、呟いた。


「女性の、ゴブリン子鬼だったしなぁ」


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