その女性は

「先生は僕を殺さない」

「どうしてそう言い切れる?」

「このあと、警察は新玉さんの数多の女性たちに捜査の目を向ける。先生はその隙に海外逃亡でもするおつもりでしょう。しかし僕が死んでしまっては、その資金源がなくなってしまう」

 すると香取は少し寂しげな笑みを浮かべ、しばしの沈黙のあとポツリと話した。

「その、数多の女性の一人のお話をしてもいいかしら?」

「ええ、ぜひ聞かせて欲しいです」


 ──その女性には弟がいた。両親を失った彼女にとってたった一人の大切な肉親だった。

 ある日、弟はスキューバダイビングの講習会に参加した。ところが弟は講習中に溺死してしまった。講習会の主催者は不慮の事故だとの一点張りだったが、独自の調査でインストラクターの新玉遼が機材のメンテナンスを怠っていた可能性が浮上した。しかし主催者は僅かな見舞金だけで女性の口を封じた。

 それから月日が流れ、友人の由香子から結婚報告のハガキが届いた。その住所を見て驚いた。新玉遼のちょうど階下だった。これは運命の巡り合わせだと思い、女性は綿密に計画を立てた。由香子とコンタクトを取り、相談に乗るふりをして夫である松浦義則への不満を煽り立てた。

 同時に新玉にも近づいた。女たらしの都合の良い女になるのは簡単だった。ある晩、新玉に大騒ぎするよう仕向けた。案の定、松浦は苦情を言いに来た。その後で女性は新玉を焚きつけた。あの住人はきっとあなたに憎悪を向けていると。

 松浦がスタンガンを所有したのは予期せぬ偶然だったが、女性はこの機会を活用した。由香子の夫不信感を離婚へと誘導した。さらに新玉には階下の住人がスタンガンを持っていること、それで襲うに違いないなどと吹聴した。さらにドアの鍵がしょっちゅう開いていることも伝えておいた。こうして新玉は思った通りスタンガンを盗んだ。

 機は熟した。作戦決行の日がやって来た。

 女性は松浦宅の後に新玉宅を訪ねた。適当におだててスタンガンを見せて欲しいと言うと、新玉は自慢げにそれを持ってきた。

 女性はすぐさまそれを奪い、新玉に突きつけた。女性は抵抗出来なくなった新玉の頭をトイレに突っ込み、詰まらせた状態で何度も水を出した。そうして息を絶えさせた。

 弟と同じように溺死させることは女性のこだわりだった。これは弟の弔い合戦。松浦のスタンガンはその実現を容易にしてくれた──


「それは自白と思っていいんですか?」

「どう思おうとあなたの自由です。……お支払いの方はどうぞお忘れなく」

「ええ。でもその女性、逃げきれないと思います。法の目は逃れても、天の目はごまかせませんから」

「そうね。濡れ衣は脱げても、天に吐いた唾は避けられない……それくらいは覚悟の上でしょう」

 そうして香取は丁寧にお辞儀をして立ち去った。もうその姿を見ることはないだろう。そう思うと松浦は、失恋のような一抹の寂しさを感じた。


おわり

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天井の水漏れによる濡れ衣を脱ぐたった一つの方法 緋糸 椎 @wrbs

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