エツに春
祐喜代(スケキヨ)
エツに春
性懲りもなく今晩もまたエツが電話ボックスにやって来た。夏を引き摺ったジーンズの短パンから惜しげもなくスラっとした生足を晒し、田舎臭さを微塵も感じさせないよう努力した念入りなメイクを受話器に擦りつけ、テレホンカードを忙しなく公衆電話に差し込む。昼間は見る事のない、すっかり様変わりした幼馴染が客か恋人か分からない男の電話番号を素早く押した。
あの噂はやっぱり
二階の部屋の窓辺からそっとその様子を見ていた敦彦は静かにカーテンを引いて、父親からくすねた煙草に火を点けた。肌寒い秋の夜風と一緒に吸い込んだ煙草の煙に微かに噎せながら、僅かに開いたカーテンの隙間からエツを観察し続ける。昨晩はこの辺では見かけない黒いワンボックスの車がエツを迎えに来てどこかへ連れ去った。
テレクラ? 援助交際?
敦彦はクラスの女子たちがニヤけた顔で囁き合っているエツに関する黒い噂をずっと気にしていた。エツは中学時代から校則を破って母親の化粧を借りて登校するなど、なんとなくマセたところがあったが、高校に入学してからそれが一段と顕著になりだした。ほとんど破綻していると言っていいくらいにクラスの同性の輪に馴染まず、何食わぬ顔で男子の誰とでも仲良くする。休み時間の話し相手もほとんどが男子で、時折エツの周りに集まったヤンチャな不良男子が吐く際どい下ネタにも何の抵抗も見せず、むしろ愉快そうに喰い付いたりしていた。
浅黒い端整な顔付きに天然を装った人懐こい笑顔を浮かべ、エツは気になる男子ならクラスや学年の垣根を越えて積極的に声をかけていた。腕も脚も首筋も細く、一見すると華奢な印象があるエツだが、女性を象徴する部分に限っては早熟な発育を見せ、まだ少女であるべき肉体に卑猥なメリハリをもたせていた。
そんなわけだからエツは男子には絶大な人気があり、それに嫉妬する女子とのトラブルは後を絶えなかった。多感な時期の恋愛事情は純粋で未熟な分だけ一度拗れると事態が大袈裟になる。エツはそれを一手に担うかのように、他の女子が想いを寄せている男子の気を知らずに引いて、自らトラブルを吸い寄せるところがあった。同級生の女子たちに詰め寄られて何度か学校の屋上へ呼び出されたり、先輩の彼氏に手を出したと誤解されて、学校の渡り廊下でその先輩から絶叫に近い罵りを受けた事もあった。
自覚があるならまだしも、エツ本人にはまったく悪気はないらしく、「自由気ままに振舞ったら結果そうなっただけ」と、いつも後悔の色を少しも見せない開き直った態度でいた。
そんなエツを毛嫌いしている女子の一部には、エツの事を「ダッチワイフの生まれ変わり」とか「女公衆便所」などと、露骨に辛辣な言葉で揶揄している者もいた。エツの日頃の言動や行動を考えれば、性に対して横着なイメージを持たれても仕方がない気もするが、近所の幼馴染でエツの性格を良く知っている敦彦だけは一見無関心を装いながらも、陰でひっそりとエツを擁護していた。
しかし今自分の目の前の電話ボックスにいるエツを見ると、噂の動かぬ証拠を突きつけられたような気がしてこれまでどおり黙ってエツを擁護し続ける自信がなくなり、何かの間違いであって欲しいと、ただひたすらに歯噛みするしかなかった。
「丙午に生まれだ
祖母が深酒をした時によく呟いていた迷信がふいに敦彦の頭をよぎる。どの時代にも色恋の縺れから来る悲惨な話はあるようで、祖母はそれがエツの事だとは一言も言っていないが、八十年以上もしぶとく生きている祖母ような女の忠告には、根拠はなくても妙な迫力だけはある。聞き流そうにも敦彦はそれを完全に無視する事が出来ず、エツが生れた丙午の命運をエツの天真爛漫な素行の中に確かに感じてはいた。
電話ボックスがある敦彦の家の正面の町道は夜になると車の通りも人の通りもほとんどない。娯楽の少ない山間の田舎町を夜出歩く者は数少ない飲み屋をツケで梯子する酒乱の連中か、自宅介護の檻をひょっこり抜け出して危うげに徘徊する痴呆老人くらいで、夜の十時を過ぎると、ほとんどどの家も明かりを消して寝静まる。町の背後に聳える山の稜線はすっかり闇に溶け、街灯と電話ボックスの明かりだけが頼りなく町道を照らしている。
電話ボックスのエツが気になって仕方がない敦彦は不安と好奇心を胸に耳を澄ました。そこら中でざわめく秋の虫たちの喧騒に混じって微かに弾けたエツの話し声が届く。
「ハハハッ、何それ、ウケるね。普通いないよ、そんな人……うん、……別にこっちは大して変わんないよ、毎日マジ退屈。学校なんてもうとっくに飽きてるし……うん、うん……」
会話の詳細までは分からないが、エツはもうまもなく訪れる過酷で陰鬱とした長い冬を素通りし、一足先に春を見つけたような快活な笑い声を上げて、敦彦がこれまで一度も聞いた事がない標準語とどこか甘えた感じの口調で楽しげに話していた。
ポニーテールに結ったエツの黒髪が笑うたびに揺れて、そこに垣間見える清潔感のある艶かしい
地元の知り合いならまだしも、エツがどこの馬の骨かも分からない男に特別な親近感を抱いて接している事が敦彦にはひどく腹立たしかった。相手の男が邪まな気持ちでエツに近づいている事は明白だったが、単なる幼馴染でしかない自分がそこに出しゃばっていいものかどうか判断が付かず、受話器のコードに指を絡ませ、まったく警戒心を持たずにしゃべり続けるエツの様子に呆れながら、敦彦はただ状況を見守るしかなかった。
「敦彦はまだ童貞だべ? アンタ超奥手だもんなぁ。っていうが、アタシ以外の女子としゃべった事あんの? なんぼなんでもクラスに一人ぐらいは気になる女子いっぺやぁ? フフフッ、照れねぇで言ってみろ。まさかアタシだなんて言わねぇべなぁ?」
いつだったかエツに冗談でそんな事を言われた時、図星だった敦彦は動揺し過ぎてうまく誤魔化す事が出来ず、火照った顔にただ苦笑いを浮かべた事があった。確かに気兼ねなく話せる女子は幼馴染のエツだけで、他の女子に対しては話しかける事はおろか、顔を合わせる事も容易でないほど距離が遠かった。
人見知りで恥かしがり屋な性格の敦彦にとって、幼馴染の親近感がそのまま恋愛感情に発展するのはごく自然な事のように思えるが、エツにはそれがただの馴れ合いな関係でしかないのか、幼馴染以上の好意を敦彦に見せた事がなかった。
……そういうオメはまだ処女だんが?
敦彦は夢中になって話し込んでいるエツの背中にあの時動揺して聞けなかった質問をそっとぶつけてみた。そして腹いせ紛れに、ストイックなまでに意識の片隅に追いやっていたエツに対する性的願望を解禁して、荒々しい陵辱さを伴う妄想でそれを成就させようと、汗ばんだスウェットパンツの中に自分の右手を突っ込んだ。
否応なく膨らむ妄想と股間。エツの浮ついたメイクと露出の多い軽率なファッションが自分を喜ばせるためのものではないのだと思うと、敦彦は嫉妬で気が狂いそうになった。
妄想の中で全てを剥ぎ取り去った裸のエツを無理やり電話ボックスに立たせる。町の四方を囲む切り立った山々の峰のように、十代の浅黒い肉体が上下で均整の取れた緩やかな隆起を見せていた。敦彦は幼馴染のエツで自慰行為に耽る事をこれまでずっと
普段は押入れの奥に堆く積まれている成人雑誌のグラビアをボーッと眺めながら浅い興奮を覚え、ただひたすらに機械的で無味乾燥な性処理を行うだけだが、生身の女子を目の前で視姦しながらの自慰行為は、禁忌を破った罪の意識を妙な恍惚感に昇華させ、開始早々、すぐに甘美な到達を迎えそうになる。
敦彦は視線をエツの腰から下、肉厚の尻でピタピタに張り詰めたジーンズの短パンに向け、その奥を透かし見るように目を細めて隠蔽されたエツの秘部を想像した。
すでに異性との初体験を終えた同級生たちは女性の秘部の見た目を「深海に棲むグロテスクな軟体動物」とか「密林の奥で待ち構える食虫植物」などと、あまり印象の好ましくない表現で形容していたが、まだ一度も実物を拝んだことのない敦彦は、淡い暖色の新鮮な螺貝を二枚重ね合わせて筒状にしたようなイメージを勝手に思い描いていた。
自分の棹がすっぽりとエツの股下の螺貝の筒に吸着して、時に荒く、時に穏やかに波打っているように、右手に微妙な強弱をつけて動かす。電話ボックスの中のエツが何も知らないまま従順に敦彦の妄想を受け入れ、無傷のまま激しく陵辱されていく。
敦彦の卑猥な視線がエツのジーンズの短パンの尻ポケット辺りに集中した時だった。敦彦はそこにまったくエツらしくない異物の存在を発見して、膨張して破裂寸前だった男根を急速に萎えさせた。
尻ポケットからジャラジャラと無意味にぶら下がるいくつかのキーホルダー。その中に一つだけ赤い袋のお守りが混じっていて、買ったばかりなのか、まだ真新しいそのお守りは、急なご利益を必要としているかのような切迫した雰囲気を醸していた。
この山間の田舎に住む大半の人間、特に年長者たちは昔から迷信や言い伝えの類には過剰なほど神経を使い、今でも自分たちの暮らしに根強く反映させている。そんな中エツだけは正月の初詣や志望校の合格祈願も面倒臭がるほど信仰心というものがなく、そういう類の事に一切興味や関心がないといった感じで、他の女子たちが休み時間に占いの話なんかで盛り上がっていたりしても、一人唇の端に薄笑みを浮かべて小馬鹿にした態度を取っていた。
「星座とか血液型で性格なんか決まるわげねぇべや。何の根拠もねぇ変な子供騙しさ引っかかって自分の人生左右されるなんてはっきり言ってアホだど思う」
そんな事を口走っていたエツだけに、どんな理由があってその赤いお守りを身につけているのか敦彦にはまったく見当がつかなかった。
ウケを狙った奇抜なアクセサリーにしては地味でセンスがなく、親類縁者の土産か何かで無理やり持たされているにしては従順過ぎると敦彦は思った。とにかくそのエツに不釣合な年寄り臭いお守りのせいでせっかく気合を入れて仕上げた色気がすっかり半減していた。
不可解なお守りの存在が気になって興ざめしてしまった敦彦は、スウェットパンツの中の汗ばんだ萎みからゆっくり右手を引き抜くと、滑った右手で最後の一本になった煙草を気だるそうに咥えた。
エツのくせになんで?
煙草に火をつけ、エツの肉厚な尻からぶら下がる不可解なお守りの意味を探る。
無病息災、家内安全、魔除け、縁結び、縁切り……。
お守りの効果を思いつく限り頭の中で挙げていくと、ふいにあの夏の夜に目撃した異様な光景がフラッシュバックした。
山の神を祀った古い祠の裏に広がる暗い鎮守の森。ランタンの光に照らされ、樹齢千年を裕に超える大きな杉の御神木が闇に浮かぶ。その御神木の袂で虚ろな表情をしたエツの母親の顔。
固く口を閉ざし、何事もなかったように無理やり頭から追い出したあの忌まわしい記憶が、エツが携帯しているお守りをきっかけにゆっくりと舞い戻って来た。
窓を全開にし扇風機を最大の風量で回転させても、湿った熱気がただ部屋の中を巡回するだけで、敦彦はどうにも寝苦しい夜を過ごしていた。
汗でぐっしょりと濡れた布団の上で不快に顔を歪めながら、目を閉じては開き、寝返りを打ってまた目を閉じる行為を繰り返す。微かな眠気が訪れたと思うと、どこからか侵入した藪蚊が汗ばんだ敦彦の周囲で不穏な羽音を立て、また眠りを妨げる。
身悶えながら時計を見ると時刻は夜中の一時になりかけていた。時折鼻先や首筋を掠める蚊に自棄を起こした敦彦は、潔く眠るのを諦めて家の者を起こさないようこっそり家を抜け出し、涼しい場所を求めて当てもなく自転車を走らせた。
家の中よりは多少涼しい夜風を受けながらシャッターを閉じ切った商店街を抜け、ほとんど車の来ない国道に出る。軽く蛇行しながらダラダラとペダルを漕いで同級生の泰雄の家の前を通りかかった時、敦彦は泰雄の部屋に明かりが点っているのを確認してそこで自転車を止めた。
拾った小石を二階の部屋の窓にぶつけて泰雄を呼び出す。かなり間があった後、静かにカーテンが開き、不審そうに辺りを窺いながら泰雄がそっと窓から顔を出した。
「なんだ、敦彦がぁ。
「おぅ泰雄、オメもやっぱりまだ起ぎでだんが? なんかクソ暑くて全然寝らんねくてよ、ヒマならちょっと外さ出て来ねぇが?」
「こんな夜遅ぐに外さ出で何すんなだ?」
「夕涼みだ、夕涼み。山の神の神社さ行って肝試しでもすっぺ。夜中のあそこはかなり怖ぇぞ、嫌でも体冷える。懐中電灯と親爺さんの煙草盗んで早ぐ降りで来いっちゃ」
「わがった。んだば、ちょっと待ってでや」
何の気なしに誘いを了解した泰雄を連れ出し、二人で国道沿いをしばらく進むと、次第に民家の連なりがぷつりぷつりと途切れ、辺り一帯が全て田んぼになる。錆びたブレーキのやたらと甲高い音を響かせながら国道から道幅の狭い農道の方に自転車を乗り入れ、か細い自転車のライトを頼りに、神社と児童公園がある小高い山までの闇を突っ切った。
「オメェ知ってっか? あそこの公園のベンチさな、夜になるとたまに
暗くて狭い農道を無意味に蛇行しながら泰雄が言う。肝試しに乗ったというよりもそのアベックの話を真に受けてのこのこやって来たのが本音といったところか、泰雄の赤く膿み広がった容赦ないニキビ面がしきりにニヤついていた。
「夏は変態が多ぐなるって言うがらな。青姦しに来るアベックいだっておがしぐねぇ。あそこは昼間だって滅多に人来ねぇがら、女どイチャイチャすんのに持って来いだべ」
杉に覆われた真っ黒い山肌の下に児童公園の外灯がぽつんと浮かんでいる。木製のブランコとジャングルジムになっている滑り台、あとは二人掛けのベンチが二台設置してあるだけの簡素な公園。人影はなく、ただ近くを流れる用水路からウシガエルがボォン、ボォンと鳴く音が絶えず響いていた。
公園の入口にある石の鳥居の横に自転車を止め、二人は夜の公園に足を踏み入れた。人があまり来ない公園だけあって、手入れが不十分なのか園内のあちこちに雑草が生え、ほとんど利用される事のない木製の遊具たちが風雨に晒されて所々朽ちている。外灯の明かりに群がっていた蛾たちが二人の侵入者を警戒して一斉に周囲に舞い散らばった。
「くそ残念っ、今日はいねみったなぁ」
アベックの淫らな現場を期待したベンチに腰を下ろし、泰雄が家から持って来た煙草を取り出した。敦彦は何も言わずにそのうちの一本を抜き取り、おまけにライターまで横取りして先に火をつけた。
「なんだショッポがぁ。あんまりうまくねぇべな、この煙草」
「もらっておいで文句言うなじゅっ。親父に見つかったらオラ半殺しだぞっ」
二人が一服して寛いでいると、時折山から吹いて来る夜風が、濃い杉の芳香を纏って二人の汗ばんだ体を心地良く包んだ。
「ふぅ~、やっぱここだど涼しいな」
敦彦がそう言ってベンチに腰かけ、口に合わない煙草を燻す。泰雄も自分の煙草に火をつけると、敦彦の隣に座って一息ついた。
「そういえばオメぇのとこの町内の
見上げた夜空の中に北極星を見つけ、そこに向けて煙草の煙を吐き出しながら敦彦が何気なく話を切り出す。一周間後に町総出の盆祭りを控え、他の町内の山車制作の進捗具合が気になっていた。
「んだ。今年はうぢの兄貴が
「そっか、それはだいぶ気合入ってだな。オラだちの町内なんか今年もまた『
敦彦は祭りの時に町を練り歩く勇壮な山車パレードが好きで、制作には直接関わっていないものの一ヶ月前から毎日のように自分の町内の制作小屋に出向いて作業風景を眺めていた。二十代前半から四十代手前の男たちが仕事終わりに集まり、タイヤの付いた木組みの土台に時代劇や歌舞伎の演目にある一幕を、それぞれアイデアを出し合いながら根気良く立体で表現する。
同じ町内に住み、地元に骨を埋める覚悟を決めた縁だけで連綿と続いて来た『若連』という青年団の活動は、日々長閑で退屈な田舎暮らしの苦渋を強いられている若者たちの鬱憤の捌け口として、それなりに都合良く機能し、盆祭りなどの年に一度ある大きな行事の時分なんかには時に激しく暴発する。
連日のように公民館の明かりが深夜遅くまで点る酒盛りの場に、血気盛んな若い男連中ばかりが集まれば、些細なきっかけで大喧嘩に発展するのはしょっちゅうで、人目を忍んで交際していた他所の人妻との不倫もこの時期には半ば開き直った感じで誰彼の口からほとんどが公になる。
若連の酒盛りの場は祭りの浮かれで箍が外れた雄猿たちの無法地帯で、寝静まる近隣に構わず、無駄に大声で笑ったり、ひたすら陽気に手拍子を打って歌い続ける者がいるかと思えば、ふいに恥もなく泣き喚く者が出たりもする。折り悪く鬱憤の相手などがその場に同席したりすれば、途端に酩酊して血が上った導火線に火が付いて刃傷沙汰に発展しそうな事態になる事も過去には少なからずあった。祭りの時期に浮き足立つのはどの町内の若連も同じで、毎年何かしらの爆弾を抱えた者が面倒な事態を起こすのを常としていた。
高く組んだパイプの足場に青いビニールシートを被せただけの山車小屋は、従属的な仕事から解放された男たちの活気で熱を帯び、汗だくで交わす馬鹿話や野次り合いの声と共に、手慣れた動作で金槌や鋸を扱う小気味良い音が鳴り響いている。
敦彦は夕飯を食べ終えると、毎晩の習性のように山車小屋へ向かい、作業の邪魔にならない適当な場所に腰を下ろして、自分より年配の男たちが戯れながら作り上げていく山車制作を飽きもせずただじっと眺めた。
普段の生活では自分の意志などまったく持たず、何事においても無関心で無気力な態度を取る敦彦であったが、不思議とこういった大掛りな物作りに対してだけは強い関心と興味を示した。
男の貫禄を言い訳に無駄に肥えて肉付きの良い男たちの賑やかな作業風景を見ながら、敦彦は自分だったらどんな山車を作るか? と、一人幾つか構想を練ってみたりもする。既成の物語の場面をただ再現するに留まった従来の山車制作の形式を抜け出して、題目自体を創作した完全にオリジナルの山車。予算の関係で五、六体乗せるが限度の人形の数も、大胆に十体くらいまで増やして、誰の目にも明らかな迫力を見せつける物を作ってみたい願望を密かに湧かせていた。実現可能かどうかは別として、敦彦はそんな事を一人つらつらと頭の中で考えている時がいつも無性に楽しかった。
物作りを通して自分の頭の中にある独自の世界を忠実にこの世に具現化出来たらどんなに楽しいだろうか?
漠然とではあるが、敦彦は自分の将来の方向性として、物作りに携わる職人の道を模索したりもしていた。ただ引っ込み思案な自分が社会に出てうまくやっていけるのかどうかを考えると、見通しはいつも決まって暗い隧道に入り一寸先も見えなくなる。
いつの頃からか、自分には実生活をまともに送る適応能力みたいなものが生まれ付き欠如していて、それは成長するごとに酷くなる一方だという強迫観念みたいなものが常に敦彦を支配していた。なるべくそれを表面に出さないよう、必死に正常な十代を装ってはいるが、人が当たり前に了承している社会の常識や慣習がどこか腑に落ちなかったり、人が日常生活において躊躇なく発揮している親密な社会的交流が敦彦には精神的な負担以外の何物でもなかった。住み慣れた地元とはいえ、この調子でここに残ったらいつか何らかの事情で回復不可能な破綻を招くだろうと本気で怖れていた。そのせいか間近で見ているはずの山車制作の風景はいつも遠く、自分はあくまでも鑑賞だけを許された部外者だと、敦彦は年配の者に誘われても決して作業の輪に加わろうとしなかった。
「なぁ泰雄、オメは高校卒業したら地元に残んのか?」
心地良く吹く夜風を受け、鼻歌まじりに煙草をふかしている泰雄に敦彦が問いかける。ややふっくらとした体形で何事においても常に緩慢な動きをする泰雄は多分自分の将来に対して何の不安も疑問も抱いてはいないだろう。日々淡々と生きている他の町民と同じく、泰雄も黙って親の仕事を引き継いでこの町に骨を埋めるはずだ。敦彦はそれを十分承知したうえで、それでも何か泰雄から競り上がって来ないものかと思って聞いた。
「ん、ああ、卒業したらが? んだなぁ、親爺の大工の仕事手伝うがら、そりゃ地元さ残っぺや。最初の何年かは他所の大工のとこさ修行しに行がせらっけどな」
泰雄の答えは予想通りの平然としたもので、好き嫌いとか、向き不向きなどを考慮した様子は一切なかった。
蛙の子は蛙。それと同じように大工の子である泰雄も必然的に大工になり、そしてやがて結婚して家庭を持つ。
「それはオメの親爺さんにそう言われだからが? オメ自身の本音はどげだんだ? 他にやりたい仕事とかはねぇのが?」
「オラん家は
泰雄に敷かれた人生のレールはどこまでも真っ直ぐで脱線する可能性はほとんどないようだった。当前の事として返って来た泰雄の答えに、敦彦はひどく突き放された思いがした。吸い忘れて放置したままの煙草が長い灰になって静かに地面に落ちる。
「おっ、敦彦、ちょっとこの下見てみろや。
泰雄が急に興奮しながら地面を指差す。敦彦が泰雄の指差す先を覗くとそこにはだらしなく伸びたピンク色の物体があった。ぬるぬるした粘着性のある表面に砂利が纏わりついていて、敦彦ははじめそれをミミズの死骸か何かだと思ったが、目を凝らしてよく見てみると、それは使用済みのコンドームだった。
「やっぱアベック本当にいだんだっ。間違いねぇ、このコンドームが証拠だ。まだ乾いでねぇがらさっきまでここのベンチで青姦しったがったなんねが? チクショウ~、もうちょっと早く来ればアンアン言ってっとこ見れだのによぉ」
泰雄が小枝を拾って乱暴にコンドームを弄くると、中から白濁した液体がどろりと垂れた。子宮に放たれれば新たな命として生まれたかもしれないDNAが、無念そうなニキビ面の十代に無残に捏ね繰り回されて地面に溶ける。
「しかしこんな
敦彦は発情したアベックに無闇に放出されて殺された億単位の水子の霊を想像して、コンドームに軽く手を合わせた。
「んじゃ、そろそろ上さ行ぐが?」
敦彦の目線の先、公園から急な石段を上って行った所に山の神を祀った古い祠がある。公園同様町外れにひっそりと佇んでいるせいか、普段は滅多に人が立ち寄る事のない場所で、祠には願掛けに訪れた人が奉納していった鎌や穴の空いた柄杓、人の頭髪を束ねた物などが無数に立てかけられていて、昼間でもどことなく薄気味悪い異様な雰囲気がある。夜ともなればその異様さは更に増し、神聖な気配がほとんど払拭され、魑魅魍魎たちが跋扈する異界の領域にでもなったかのような不気味さだけが漂っていた。
「泰雄、懐中電灯貸せや」
「えっ、マジで行ぐんが? あっち真っ暗だし洒落なんねぇ怖さだぞ。オラてっきり冗談だと思って懐中電灯、自転車のカゴさ置いで来たぜわ」
「行ぐに決まってぺや。いいよ、懐中電灯は俺が取ってくっから、オメは心の準備してここで待ってろ」
渋る泰雄をベンチに残して敦彦は一人自転車を止めた鳥居の前に向かった。泰雄の自転車の派手に歪んだカゴから懐中電灯を取って戻ると、泰雄がベンチで貧乏ゆすりをしながら忙しなく煙草をふかしていた。将来に何の不安も怖れも抱いていない泰雄が、たかが肝試し程度の事でひどく怯えている。敦彦はその様子が妙に可笑しくて、神社にたどり着く間に怪談話でも披露して泰雄をもっと怖がらせようと企んだ。
神社の石段から先は公園の外灯が弱々しく届いている程度で、敦彦は懐中電灯を点けて足下を照らしながら先頭に立った。怯える泰雄の溜息に似た息遣いを背中に聞きながら、「なぁ?」と、低い地声を更に一段落として泰雄に話しかけた。後ろで泰雄が立ち止まる気配があり「な、なに?」と声を震わせる。祠の奥に控える鎮守の森の闇が山風を受けて禍々しく蠕動しているように見えた。
「昔この山で神隠し事件あったの知ってっか? 昔って言っても江戸時代どがそんな昔の話じゃねくて、うちの母ちゃんが高校生ぐれぇの時だんげどよ」
「き、急に怖い話すんなよっ。……オラ、そんなの聞いた事ねぇ」
チラッと振り返った泰雄の顔が眉をひそめて強張り、明らかに迷惑そうだった。
「当時小学生だった女の子が四人でな、ここの公園でかくれんぼして遊んでだんど。一人捕まり、もう一人捕まり……だけどな。隠れたうちの一人の女の子ば鬼になった子が全然見つけられねくて、公園のどこ探しても出て来ねぇがら、心配なってみんなで探してみだんど。それでもその子は全然出て来ねぇくて……」
小さい頃、一緒に寝ていた祖母に何度か聞かされた昔話を下地にして、敦彦の即興怪談が滑らかに口を付いて出る。普段口下手でユーモアのセンスなどない敦彦だが、人が恐怖したり、不快になるような話をする時だけはどこか喜々とした調子でわりと饒舌になる。黙り込んで聞いている泰雄の様子を見て思わず顔がニヤついた。
怖がりなくせに泰雄は話の続きが気になってしかたがないのか、変な間を空けて焦らす敦彦に苛立ちながらもしっかりと耳を傾けていた。
「それでな、日が暮れてがら他の三人の子が親たちば呼びに行って、神隠しだ、神隠しだって町中大騒ぎになったらしい。警察と消防団さ連絡して、大人たちが総出で山狩りしてよ、夜になってがらもずっといなくなった女の子ば探した……」
「そんで? え? ど、どげなったなや、そ、その女の子?」
話のオチにはまだ早い段階で泰雄が堪らず結末を急かす。その声は完全に震えていて、神隠しにあった女の子の姿を探しているのか、視線が絶えず周囲の闇を彷徨っていた。
「いねぐなった女の子はそれがら三日後に見つかった。どごでだど思う?」
敦彦は無表情で泰雄の方を向き、泰雄を透かして背後の闇に呟くように意味深な質問をぶつけた。多少陳腐なオチでも最後に声を張り上げれば泰雄は完全にビビるだろう。
「ど、どごでや?」
「それはなぁっ、ここの山の神の神社の中だぁっ。首から上がねぇ姿さなって転がってだがったんだどぉっ」
「うおぉいっ」
怯えきった泰雄の顔が想像上の真っ暗な境内に首無しの女の子を据えていた。話を安易に猟奇的な展開にしてしまったが、それでも臆病な泰雄にはそれなりに効果があったようで、石段を上る泰雄の重い足取りがピタッと止まり、もうそこから先へ一歩も進もうとしない。
「早く来いや、泰雄。これぐらいの話でビビんなじゅ。全部嘘に決まってっぺやぁ」
敦彦は笑いながら、石段を上りきったところで足を止め、泰雄を待った。
「そうじゃねぇ、お、おい……あ、あれ見ろ、敦彦っ」
恐怖に捉われたまま蛇の妖女に睨まれて石化したように身を固くした泰雄が、敦彦の背後の神社の境内を震えながら指差した。敦彦が振り返ると、祠がある場所の裏手、暗いはずの鎮守の森がぼんやりと光っている。
霊が浮遊しているのだろうか? 唐突過ぎるタイミングで起こったあり得るはずのない光景に敦彦は息を飲んだ。山風が吹くとその鎮守の森の光もゆらゆらと揺れて、どことなくそれが禍々しい意志を持って蠢いているように感じられた。自分で作った不謹慎な神隠しの話が恐怖に拍車をかけ、首から上のない女の子の霊が森を彷徨っている姿を敦彦は否応なく想像した。
「おい、何か音も聞こえねぇが? ……カツッ、カツッってよ、洒落なんねっ、これマジでヤベェぞ、敦彦っ」
泰雄は顔面蒼白で今にもその場にへたり込んでしまいそうなほど怯えきっていた。泰雄が言うように敦彦も微かな物音とそれに続く人の声らしきものを聞き、全身に鳥肌が立つのと同時に恐怖で体が強張った。
深夜のこの時間のこんな場所だ。公園で青姦したアベックの罰が回って来たのか、それとも敦彦の不謹慎な怪談話が変なモノを呼んだのか、とにかくこの不可解な現象は直感的に見てはいけないものだという警告を二人に発していた。
二人がただ息を飲んで見守る中、人の声が徐々に明確なものになり、それはひどく擦れた無機質な声で経文のような独り言を繰り返しているようだった。
「キチガイ親爺とインラン娘がぁ、キチガイ親爺とインラン娘がぁ、キチガイ親爺とインラン娘がぁ……」
「おい、聞こえだが?」
「……うん、聞こえだ」
耳を澄ましてはっきりと聞き取ったそれは経文なんかではなく、屈折しきった女の恨み言だった。
「オ、オレもう限界だ。ヤバすぎるっ。早ぐ帰っぺ、敦彦っ」
「ちょっと待て……この声なんか聞いたことあっぞ」
戦慄が走る呪詛に心当たりはないが、それを発している女の声に敦彦はどこか聞き覚えがあった。それは小さい頃から何度も耳にしているごく親しい者の声で、顔を合わせる度に柔和な笑顔で挨拶を交わしてくれる幼馴染の母親の声とよく似ていた。
「おい……この声、ひょっとしたらエツん家の母ちゃんがもしんね」
声の主が知り合いだと分かると、多少は恐怖が薄れた。見てはいけないモノを見る勇気の代わりに、見てはいけないモノを絶対に見なくてはいけない義務のようなものが敦彦の中に生じ、事態を完全に把握するまで引き返せない強制力が敦彦を森の奥へと誘った。
「お、おいっ敦彦、どこさ行ぐっ? 早ぐ帰っぺってっ」
一刻も早くその場を立ち去りたい泰雄を無視して、細心の注意を払いながら敦彦は明かりの灯った場所に近づいていった。
「キチガイ親爺とインラン娘がぁ、キチガイ親爺とインラン娘がぁ……」
杉の木々の陰から陰へと身を隠し、吊り下げたランタンの下に仄かに浮かんだ声の主の顔を確認する。声と同様に親近感のあるその面影はやはりエツの母親だった。
ひどくやつれたエツの母親が呪詛を呟くたびに、手に持った石を自分の正面の御神木に打ち付けている。打ち付けられた石の先には藁で編んだ粗末な人型の物が釘で貼り付けられ、静まり返った鎮守の森にカッ、カッ、とそれを抉る固くて鈍い音が響いた。
丑の刻参り。エツの母親が目の前で繰り広げていたのは信心深い町の者たちでさえとうに忘れ、何世代も前の時代に打ち捨てた忌まわしい呪いの行為だった。どんな理由があってエツの母親がそんな行為を行なっているのかは分からないが、敦彦は変わり果てた親しい者の常軌を逸した姿に、ただならぬ負の圧力のようなものを感じ、御神木の藁に釘が打ち込まれる度に全身が硬直して、その緊張から来る足の震えが止まらなかった。
敦彦の後ろで様子を窺っていた泰雄が目の前の非日常的な出来事の恐怖に耐えかねて、身を潜めていた場所から思わず走って逃げ出した。その音に驚いた敦彦が慌てて泰雄の後を追いかけようとした時、物音に気付いてこっちを振り向いたエツの母親と完全に目が合った。
敦彦が知っているエツの母親とは別人格としか思えない鬼気迫る表情に浮かぶ一瞬の困惑。敦彦はそれを受け止める間もなくすぐに顔を逸らしてその場を走り去ったが、おそらくエツの母親の目にはっきりと自分の顔が映っただろう。
必死で逃げ帰った公園の入口で泰雄が震えながら敦彦を待っていた。
「……あれ、本当にエツの
「そんなの知らねぇよっ。でもあれは確かにエツの母ちゃんだ。エライもん見でしまった……いいが、泰雄。この事は誰さも言うなよ。エツの母ちゃんさもなるべぐ近寄んな、何が理由であんな事してんのがわがんね以上、ヘタに関わり合うどオレだも巻き添え喰らって
「ああ、あれって人ば呪う儀式だべ? そんな洒落なんねごどオラ誰さも言わね、言うわげねぇべなっ」
それから二人は家に着くまで一言も口を利かずに帰った。とんでもない肝試しになって敦彦は身も心も十分に冷えたが、その夜は一晩中身体の震えが止まらず、結局一睡も出来なかった。
あの忌まわしい夏の夜に見たエツの母親の虚ろな目の奥に宿っていた底抜けに深い憎しみと絶望感。窓辺にうな垂れながら敦彦はエツが柄にもないお守りをぶら下げ、神に縋ってまで遠ざけたいものが、あの時エツの母親が御神木に投げかけていた呪詛であるような気がし始めていた。
泰雄と固く口を閉ざして何事もなかったように沈黙を守った三日後、エツの母親は鎮守の森の同じ御神木で首を吊って死んだ。
変わり果てたエツの母親を最初に発見して警察に通報したのは山の神勧進の行事で準備に訪れた近所の人で、話しはすぐに町中に広がった。
「エッちゃんの家も大変だなや。ついこの前も父ちゃんが大火傷して入院したばっかりだっていうのに、今度は母ちゃん亡ぐなって、これがら先どげすんなぁべなや? オラだちも気をつけねぇと、まんず不幸じゃ続くもんだはげなぁ」
詳しい事情を知らない人たちはただ気の毒そうにエツの家の行く末を案じていたが、エツの家と親しい付き合いのある一部の者たちはエツの家庭に関する、声を大にしては言えない様々な憶測を少人数で酌み交わす酒の席などで囁き合った。
「エッちゃんと親父さんがな、その……なんていうが、声大きくしては言えねぇげど、〝近親相姦〟って言うながじゅ? 要するに親と子のふしだらな関係よ。たまに隠れでそういうごどしてだらしい」
地区の集まりから真っ赤な顔で酔って帰った敦彦の父親が、茶の間の座椅子にどっと腰を下ろすなり眉を顰めてそんな報告をした。エツの母親が自殺した理由を知りたいのは幼馴染の敦彦だけでなく敦彦の家の者たちも皆同じで、知り合いの不穏な噂にバツの悪い顔をしつつも皆内心では興味を示していた。
事件らしい事件など滅多に起こらない退屈な田舎の事だから、この手の話題は不謹慎にも貴重な退屈しのぎとして有難がられる。
「あそこの母ちゃん、夜たまに隣町のスナックさ手伝い行ぐがったべ? そん時に家でよ、親爺さんがエッちゃんの寝てる部屋さ潜り込んで、こそこそとイタズラすっかたなぁど。我が娘相手に何考えでんのかわがんねぇげど、エッちゃんもエッちゃんで、最初のうちは抵抗すっかったなげども、親父さんにそういう事されでるうちにすっかり慣れではァ、そのうち盛りのついた猫みだいに自分の方がら親爺さんの寝床さ行ぐようになってしまったどぉ」
それはエツに思いを寄せる敦彦にとってひどく耳障りな話であったが、どうせ酔っ払った連中が艶っぽい話しに縁のない自分の不甲斐なさをやっ噛んだ挙句、変に面白がって勝手な想像を膨らませた戯言にすぎないと、頑なにエツを擁護して、この下世話な噂のどこかに弁解する余地はないかと、辛抱強く話の続きを聞いた。
父親の話によると、エツの父親に大火傷を負わせたのは、二人の淫らな関係を知ったエツの母親だった。女の勘が働いたのか、エツの母親は前から自分の夫に自分以外の女の臭いを嗅ぎ取っていたのだろう。普段から何気なく夫の会話や行動に目を光らせ、浮気の証拠を掴もうと一人躍起になっていた矢先、体調が悪くて早めに店を上がって帰宅した寝室に、夫と自分の娘が懇ろになっている裸体を見た。
その日真夜中に逆上したエツの母親が悲鳴に近い怒声を上げて騒ぎ立てるのを、同じ団地に住む何人かが聞いているらしく、狭苦しい借り住まいに突如訪れた修羅場は夜通し団地の安眠を妨げ、薄っすら明るくなった朝方になってようやく終息を迎えたという。
激しい口論の果てに疲れ切って眠りこける父親と、多少冷静さを取り戻してコーヒーを飲もうと台所でお湯を沸かす母親の姿を見てエツがすっかり油断した時に事は起きた。
マグカップに注がれるはずの薬缶のお湯がピーッ、と沸騰の合図を鳴らし、エツの母親の手に握られたままゆっくりと寝室の方に踵を返す。
薬缶の取っ手を握るエツの母親の顔は張り詰めていた神経が一気に解けたように呆然としていて、黙って見守るエツの目の前を足早に通過し、寝室で大の字になっている父親の方に向かった。そして愛でる花に水でも与えるように、薬缶のお湯が父親の下腹部辺りに静かに注がれた。
酒やけしてざらついた声の父親が鳥類のような長い悲鳴を上げ、その悲鳴でハッとしたエツの母親はそのまま家を飛び出し、気が触れるほどの熱さにのた打ち回る父親を見たエツがすぐに救急車を呼んで病院に運んだ。
「隣近所が見聞きした状況がら推測した話だがらよ、あまり調子さ乗ってヘタな事は言わんねげども、あの家だったらまんざらあり得なぐもねぇなんねが? エッちゃんの母ちゃんは都会の飲み屋で働いでだぐれの小綺麗な人だべし、エッちゃんもそれさ似て色っぽい女子さなったもんなぁ。そういう間違い起ごってもなんとなく不思議ではねぇような気はするなぁ」
エツの父親も母親も元々は都会から何らかの事情でこの田舎に移り住んで来た人間だ。世知辛い都会の暮らしに追い立てられ、逃げるように舞い戻った田舎の借り住まい。
人付き合いが浅く殺伐とした都会の生活をそのまま持ち込んでしまったエツたちのような家族にはこの土地での暮らしは向いていない、と敦彦の父親は独りごちて勝手にそう結論付けた。
好きな女を侮辱された内心の反論を抑え、敦彦は父親の話をその場は無言で突っぱねたが、事の真相を知るエツ本人の口からそれを確認する事だけは絶対に憚られた。世間が口にする誹謗中傷の全てを嘲笑うかのように、母親の悲惨な死を目の前にしてもどこかあっけらかんとして普段と変わらない快活さを見せ続けるエツを前にすると、全てが退屈しのぎの興味本位で歪められた嘘のような気がして、エツの母親が自殺したのはやはり自分たちがあの晩、偶然にも丑の刻参りの儀式を目撃したせいで呪いが反射したからだという思い込みに留まらせた。そして敦彦はその思い込みを補完するために、事件後しばらくしてから一人こっそり鎮守の森から稚拙な人型の藁人形を持ち帰り、庭の焼却炉にくべて静かに念仏を唱えながら完全に灰にした。
藁人形の中に入れてあった紙切れには「悦子」という名前が確かに記されていたが、敦彦は普段自分が呼び慣れた「エツ」という愛称の方が彼女には相応しいと、呼び慣れない「悦子」という名前の方は忘れた。
電話ボックスの前に昨晩と同じ黒のステップワゴンが横付けされる。浮ついた軽いクラクションが閑散とした町道に響き、手を振りながら満面の笑顔で迎えたエツが吸い込まれるようにその助手席に乗り込んでいく。
「遅いよォ~」
どんな奴なのか? フルスモークのせいで運転している男の顔は分からない。それがエツにお似合いの相手なのかよりも、敦彦にはエツがその男と今夜性的な行為に及ぶのかどうかだけが気になった。
相手の男に対する嫉妬と何の手出しも出来ずに傍観する自分への苛立ちで噛みしめた奥歯が軋む。黒のステップワゴンがそんな敦彦の視線を察するかのように素早くその場を走り去る。ひどく乾燥して肌寒い夜の空気のせいでまた敦彦の手の平が赤くひび割れた。
十二月に入り、町中の家々がすっかり軒下の雪囲いを終えると、コンクリートを打ち込んだような鉛色の空に初雪が舞った。それが数日後の夜更けから重いボタ雪に変わり、早くも町は大雪に見舞われる。
豪雪地帯のこの町は、真冬を迎える前に過剰な雪を背負い、全てが白一色の景色に閉ざされた住民たちは監獄と変わらない退屈さと過酷な不便さを強いられて次第に寡黙になる。
悪天候に左右されながらどの家も隣近所との交流さえ断って、それぞれが所属する職場の往復とそれを可能にするための雪掻きを日に何度もこなす。二世帯で家族が多い家や年の若い男手がある家はまだいいが、一人暮らしの年寄りが自尊心だけを頼りに生きている家なんかは、放置された雪にそのまま押し潰されるか、意地でよじ登った屋根での除雪作業のふとした不注意で、あっさりと命を落とす事態を毎年のように招く。健全な老人が誰の目にも触れずひょっこりと姿を消したら、「春になったら
この町の人にとって豪雪地帯の冬はただ耐え忍ぶのが運命と諦める時期であり、白銀の山々が織り成す景色がいかに雄大で美しいとはいえ、冬の訪れを喜ぶ者はおそらく一人もいない。
春先に大学受験を控えている敦彦も冬休みの期間中は町の誰とも顔を合わせず、ほとんど家から一歩も出ない生活を送っていた。勉強机に無雑作に広げた試験の問題集は手付かずのまま放置され、その代わりに始めた二万ピースのジグソーパズルが根気良く着々と組み合わさっていく。三分の二以上出来上がったそのジグソーパズルはフリューゲルスの『バベルの塔』で、敦彦は地上を離れた神の視点で描かれるこの絵がいつからか無性に好きだった。
ノアの子孫であるニムロデ王が神と同等の地位を得るために建設し、その叛心と傲慢さゆえに神の怒りに触れて破壊された伝説上の塔が退屈を持て余す敦彦の手で再建される。敦彦はいつかたった一人で実物を建造してみたいと思っていた。その壮大な願望をパズルという手軽な作業で消化する事に微かな虚しさはあるが、それでも指先だけは機械的な動きでピースを追って、未完成の塔をせっせと積み上げていく。
たった一人でこの巨大な塔を作るとしたら何年ぐらいかがっかな?
一応大学への進学を決めたものの、そこから先の展望がまったく見えていない敦彦は、時々そうやって不毛な空想の計画へ逃避する。敦彦は自分の内向的な性格が将来の社会生活にもたらす影響を悲観的に捉え、実社会に参加する意志がずっと希薄なまま、いずれは無様な路上生活を余儀なくされる浮浪者になるか、追い詰められてつまらない犯罪に手を染める反社会的な人間になるだろうという、漠然とした予感を抱いていた。大学への進学を決めたのは、そんな暗い将来を余儀なくされた自分に対する執行猶予期間を与えるためのようなもので、華々しいキャンパスライフで青春を謳歌する期待などは一切なかった。
それまで黙々と動き続けていた指先が空の部分か水辺の部分か判然としないピースの群れを前にしてふと止まった。
真っ白に近いピース。そのピースと未完成な箇所をただ眺めるだけで無駄に時間が過ぎていく。敦彦は夕飯を食べ終えてからもうかれこれ三時間近い時間をこのパズルの作業に費やしていた。はかどらなくなった作業に嫌気と軽い眠気を感じ、敦彦は暖房の効き過ぎた部屋の空気を一度入れ替えようと、外の冷気が張り付いて固く閉じている窓をこじ開けた。
切り妻屋根から垂れ下がった雪に太い氷柱が何本も連なり、窓に冷たい天然の格子を作っていた。その格子の隙間から吹き込んでくる強い寒気と粉雪が敦彦の顔に張り付いて、敦彦が顔を顰めると、乾燥した唇が切れてプツッと血が滲んだ。
換気も早々に窓を閉める時、敦彦は氷柱の格子の隙間からちらっと家の前の電話ボックスを確認してみたが、そこにエツの姿はなかった。電話ボックスはもう半分以上雪に埋まり、今は使用出来ない状態になっている。
敦彦は時折そうやって来るはずのないエツの姿を窓から確認していた。秋の暮れまでは頻繁に来ていたエツだったが、しばらく理由のない不登校が続いたのをきっかけに電話ボックスへもまったく姿を見せなくなった。
母親を亡くし、父親も火傷で入院するという不幸に遭遇したエツは、父親が退院して家に帰って来るまでの間、父親の兄弟の気遣いで親戚の家に居候する事になった。そして二世帯の七人家族に無理やり加わえられる形で、三人の従兄弟たちと狭いスペースの部屋を分け合ったプライベートのない暮らしを余儀なくされていた。
他人と空間も時間も共有しなければならない居候生活は、一人っ子で自由気ままな性格のエツには苦痛なものでしかなく、食事時にあれこれ干渉しすぎる大家族の団欒は、それが親身であるほどエツの居心地が悪くさせた。エツが夜な夜な電話ボックスに現れて、自分を都合良く保護してくれる男の家を転々とするようになったのはそれからだ。
「テレクラ」も「援助交際」もエツにとってはただの逃避手段でしかなく、その記号が持つ世間的な後ろめたさなどエツには何の痛手にもならなかった。不良少女のレッテルを剥がすのに必死なのは学校や親族といったエツ以外の人間だけで、当の本人は何も変わらない。エツはただ男を狂わせる丙午に生まれた女の呪縛と、華奢な身体にのしかかる不毛な田舎の事情に身を任せているようだった。教室の机で頬杖をつきながらエツがよくぼやいていた「退屈」の二文字は敦彦が思っている以上に切実なものなのかもしれない。そしてエツは初雪が降るのを待たずに行方を晦まし、地元から完全に姿を消した。
「なぁ敦彦、オメ知ってっか? エツ今、海沿いの繁華街で働いでるみったぞ。先輩たぢが飲み行った店で付いた子がエツだったらしくてよ、前よりもかなりケバくなって、常連の客さ売春みでだごどももやってだどがっていう話しだぞ」
自由登校の期間に入った閑散とした教室で、大学受験の勉強をしていた敦彦の耳に、ヒマを持て余して登校して来た泰雄のゴシップが入る。それは地元からいなくなったエツの近況で、下世話な話が好きな泰雄が膿んだニキビ面を引き攣らせて興奮するのも無理のない内容だった。
「あのエツのごどだもん、まぁそんなもんだべなぁ」
敦彦はある程度覚悟というか、いなくなったエツの展開が大体自分の想像どおりだったので、泰雄の話しを聞いても大して驚かなかった。エツはもう正式に退学処分になり、反省したところで学校には戻って来れない身だったから、どこでどうしようが敦彦の身辺は何も変わらなかった。エツに会えない淋しさは冬の間だけで、卒業間近になった今は恋心もすっかり覚めて妙に落ち着いている。
「なんだ、それ? 白げるごと言うヤツだな。オメ、エツに会いでぐねぇのが? 頼めば同級生価格で童貞ば捨てれっかもしんねぇんだぞっ。オラようやぐ車の免許取れだがら、卒業したら車でオメば連れで行ってやっかど思ったのに」
「行きでば一人で行げ。オレはとにかく受験勉強で忙しいんだ」
敦彦は机に広げた試験の問題集から一度も顔を上げずに、退屈そうな泰雄をそう言ってあしらった。まったく会いたくないと言えば嘘になるが、一足先に春を迎えて大人になってしまったようなエツに会いに行くには、自分はまだ幼すぎると思った。
「ちぇ、つまんねなぁ。急にマジメぶってよぉ……。じゃあ一応教えておぐげど、エツに会った先輩がその時エツの電話番号聞いだらしいなぁげど、その番号、体育館のトイレの個室さイタズラ書ぎされったみった。〝いつでもヤレる女の電話番号〟だど、もしエツど連絡取りでば、消されねうぢにそれ見てみろや」
勉強に集中してまったく話しに乗って来ない敦彦に愛想を尽かした泰雄が、そう言って教室を出て行く。自分が思いを寄せていた幼馴染はどこまでも不名誉な仕打ちを甘んじて受け入れるつもりらしい。敦彦はそんな底抜けに強かで不器用なエツの生き方に呆れると同時に、それがエツの生まれながらに持つ業というものならば、幼馴染の自分だけはいつまでも変わらずに擁護してやらなければならないような気がした。エツの鞄にぶら下がっていたあの不釣合いな赤いお守りがそうであったように。
車の排気ガスと泥で汚れた残雪を踏んで迎えた卒業式の日。何の感慨もないまま卒業証書を手渡され、終始ぼんやりと式に望んだ敦彦は、在校生が歌う蛍の光の合唱と来場者の拍手でくすんだ紅白幕の会場を退場する時、一人そっと列を外れて体育館のトイレへ入った。薄暗い個室の中を一つずつ確認して泰雄が言っていた電話番号の落書きを探す。体育館のトイレは滅多に使用する者がいないからか、幸いにもその落書きはまだ消されずに残っていた。個室のドアの内側にマジックで書き殴られた〝いつでもヤレる女の電話番号〟の文字。その下に米粒くらいの小ささでエツに繋がるであろう十一桁の数字が並んでいた。
断ち切ったはずのエツへの未練がまだ微かに燻っていたのか、敦彦はどうしてもエツに聞いておきたい事があった。それはかつて聞きそびれたデリカシーのないどうでもいい質問だが、嘘でも本人の口からその答えを聞かないと、なんとなく気持ちがモヤモヤした。敦彦は卒業証書の余白に電話番号をメモすると、まだ鳴り止まない蛍の光と拍手の方へ戻った。
教室で担任が送る別れの挨拶を上の空で聞き流した後、ここの土地柄で遅咲きを余儀なくされた枝だけの桜のアーチを潜った敦彦は、同伴した母親を振り切って一人足早に家に向かった。
エツが不在だった自由登校期間の猛勉強が功を奏して、なんとか第二志望の大学へ進学が決まった敦彦はこの春から地元を離れる。その前にまだ拭い去れない自分の青臭さに対するケジメを取るため、敦彦は自分の家の正面の電話ボックスから卒業証書にメモした電話番号に電話した。敦彦が卒業の晴れ晴れしさや清々しさを感じられるのはそれが済んだ後だ。長年の付き合いがある幼馴染と一言も口を聞かずにこのまま地元を去るのはやはり淋しかった。
プルルゥ、プルルゥ……。何度かのコールの後、「……誰?」と、不審そうに応対する親しい者の声がした。それはいつでもヤレる匿名希望の女の声ではなく、小さい頃から聞き慣れた幼馴染の声で、敦彦は何の躊躇もなく電話した自分に今さらながら戸惑った。
「お、オレ、今日、卒業したぞ」
「はぁ? 誰?……ってか敦彦?」
「んだ」
話す内容が見つからず、ぶっきら棒に切り出した言葉が妙にたどたどしかった。
「げ、元気か?」
「何それ? 元気だけど……ってかアタシさ何か用あんな?」
「特に用があるってわけじゃねぇげど」
「じゃあ何? 何で電話して来たな?」
「オメに聞き忘れだ事あると思ってよ」
「ん? 何や?」
「……オメ、まだ処女が?」
面と向かっては聞けない、胸の奥でずっと気になっていた事がやっと敦彦の口を突いて出た。
「へ?」
「それを前から聞ぎでがったんだ。まぁなんていうが、オメ、前にオレさ「童貞が?」って聞いだべ。多分それのお返しだ」
「ハハハッ、バカッ。急に電話して来て何その質問? そんなの敦彦さなんか教えるわげねぇべな」
「んだが、じゃあオレももうオメさ用ねぇ。この春から東京だ。バイバイ、達者でな」
電話口にいつもと変わらないエツがいた。天真爛漫で天の邪鬼なエツ。大した会話もなく一方的に電話を切ったが、敦彦はそれでもう充分だった。もう二度と会う事がないかもしれないが、エツがどこで何をしていようと、幼馴染で一番エツの事を理解している自分になら簡単にエツの居場所を探し出せる気がした。
敦彦は電話ボックスを出ると、微かに春の陽気な気配が漂う空を見上げて大きく息を吸い込み、幼馴染にバイバイは不要だったと思い、「またな」と一人呟いた。
エツに春 祐喜代(スケキヨ) @sukekiyo369
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