オムレツは永遠に

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オムレツは永遠に

 食事は物足りないくらいが良い。貝原益軒


 真夜中の電話ほど、恐ろしいものはない。

 日本が誇る大ホテルの総料理長であるシェフは、うつらうつらと、夢を見ていた。若いころ、先輩料理長ら上司の前で、シンプルながら、腕の冴えを象徴するオムレツだ。一人前、卵三個を使い、いつも通りの手順で、見事にさばき切り、居並ぶ料理人たちの称賛を浴びた。

 その誇らしい夢は、覚醒し暗転した。

 ナイトテーブルのスマートフォンに掛かって来た警視庁からの驚愕する電話。二十四歳になるカメラマンを目指す長女が、フランス南部でテロリストに誘拐された!

 衝撃的な知らせは、こうだ。

 世界反肥満連盟と名乗るテロリスト集団が、フランスのマルセーユで長女を誘拐し、その犯行声明がマルセーユの日本領事館に送られてきた。

(声明文)

 食料自給率四〇%を切る飽食・飽満国ニッポンは、自己コントロールを放棄し、世界の飢餓で苦しむ八億人の人々に背信行為を犯している。世界反肥満連盟は、この国の飽食のシンボルであり、悪魔的な存在である太ったシェフを罰せねばならない。彼らが、欲望の赴くままに食事を贅沢にし、本来的に三菜一汁の質素な無辜の民である日本人を堕落させたのだ。

 娘を無事に解放してほしければ、われわれの解放条件を受け入れよ。シェフは三カ月以内に三〇キロ減量せよ。人間が人間として自然な姿を戻ることを要求する。


 五十八歳になるシェフは、背丈は一メートル六〇センチだが、体重は九五キロもあった。シルクの青いパジャマが、ウエスト一〇二センチの脂肪の塊を優しく包んでいた。三カ月で九五キロの体重を六五キロまで落とせ、できなければ娘の命がない。この厚い脂肪を三〇キロ分、削ぎ落とせ。なんと非人間的な脅迫だろうか。

 人間が人間として自然な姿に戻る、詰まるところ、「標準体重」を指すのだろう。世界保健機関WHО、日本肥満学会の示す肥満のレベル、つまりBМI(BODY МASS INDEX)。【体重(㎏)】÷【身長(m) の2乗】=で算出する。シェフのBМIは三七・一一、シェフの身長による標準体重はBMI二二、五六・三二キログラムなので、なんと三八・六八キログラムも上回っている。

 このBМIの考え方は、ベルギーの統計学者、アドレフ・ケトレーが開発した。日本肥満学会は肥満のレベルを四段階に分け、BМIが三五以上四○未満は肥満3度としている。


 時に挫けそうになる気持ちを奮い立たせ、シェフはホテル二十五階のスイートルームで、まったくもって味気のないダイエット食を口に運んだ。眼下に煌めく東京の夜景が、貪欲な食欲、性欲を謳歌している都会人の舞台であることを考えると、実に気に障った。

 減量に突入して一週間。朝八時、昼一時、夜六時の三回に分け、アメリカのペンシル大学が考案した断食に近い特別治療食「痩せようスープ」をすすっているのだ。

 事件が伝わった直後のあの「御前会議」の模様が目に浮かぶ。

 社長室の真ん中に重厚なマホガニー製の円卓がある。その円卓を囲んで、五人の男が座っていた。シェフは料理人の制服である白いコックコート、黒ズボン姿で、首に白いスカーフを巻いていた。料理人のエチケットである短髪の頭には、高さ五○センチを超えるコック帽をかぶっていた。

 他の顔ぶれはホテルの四代目社長と、死んだ先代社長から四代目のお守り役を仰せつかっている専務総支配人、それに痩身研究家の大学教授、警視庁公安部のテロリスト対策担当警視だ。

 社長の深刻な顔はスポーツ三昧で鍛えた浅黒い肌に不似合だった。四十代半ばの社長は筋肉質のスリムな体に、英国の王室御用達紳士服メーカーであるギーブス・アンド・ホークスの高級スーツを決めていた。

 警視は典型的なドブネズミルックだ。社長とは対照的に、いかにも老けて見え、とても同じ年代とは思えない。ベルトが隠れるほど腹がせり出していた。

 教授は、軽蔑の眼差しを警視に向けた。教授自身は明るいベージュのジャケットを軽快に着こなしている。しかし、その頭の中は、不快感に満ち満ちている。教授にとって、肥満者は克己や自制の心に欠陥のある病人なのだ。

 社長が教授に訊いた。

「三カ月で三〇キロも痩せられるものかね」

「もちろん、可能ですよ。減量とは、お分かりでしょうが、毎日の摂取カロリーを落とすことです。消費カロリーの方が摂取カロリーより多ければいいのです。単純なことです。わたしの最近の臨床例では、三カ月間で、実に四〇キロの減量に成功した女性がいます。特別治療食はアミノ酸、ビタミン、ミネラルをバランスよく配合し、一食分がたったの八〇キロカロリー、卵のM玉一個分に過ぎない。つまりですよ、一日三食で計二四〇キロカロリーですよ」

 教授は続けた。

「体重一キロ減らすには、約七〇〇〇キロカロリーを消費せねばならない。体重三〇キロの減量は、すなわち二一万キロカロリーを体外に捨てねばならないわけですよ。二一万キロカロリーは、卵のM玉で計算すると、実に二千六百二十五個分、オムレツなら、何人前作れるでしょう、シェフ、千人前は下りますまい」

 ここで律儀な性格のシェフは補足した。

「当ホテルは一人前三個です。で、千人は取れません。八百七十五人分です」

 教授は出来の悪い生徒を見る先生のように、一同をジロッと見回した。

「一日の消費カロリーは基礎代謝、生活活動代謝、食事誘発性熱産生の三つに分けられましてね、だいたい七、二、一の割合です。シェフの年齢の五十から六十九歳の成人男子はですね、一日に二四五〇必要です。差し引きすると、三〇キロ減量には絶食するしかない」

「死んじまう!」

 社長がすっとんきょうな声を上げた。

「わたしの計算では、シェフは一日、約二四〇キロカロリーの特別治療食を取る。そのペースでいくと、一カ月に七二〇〇キロカロリー、つまり体重の減り方がちょうど一キロ分、遅くなります。三カ月で三キロです。つまりですな、二七キロ減量し、この最後の三キロをどう処理するか。みなさん。外科手術で超過分のおぞましい脂肪の塊を一気に取ってしまいましょう!」

教授は、右手で腹をかき切る真似をした。

「素晴らしい。それで一件落着だね」

社長が感心した。

「日本で認可されている食欲抑制剤、第三種精神薬のサノレックスは使いましょう。服用対象者はシェフのようにBМI三五以上の高度な肥満で、服用期間は三か月間以内と法律で決まっていましてね、一日昼に一錠、効き目を見てさらに朝に一錠の服用で主成分のマジンドールが減量効果をもたらします。脳の摂食調整中枢と視床下部に作用し、食欲が減退すると同時に消費エネルギーを高め、代謝を促進します」

 教授は自信たっぷりだ。

 警視には情報はゼロだ。インターポールからは、なしのつぶてだ。ニッポン警察のメンツを守るには、沈黙するに限る。


 「御前会議」の目的は、シェフは分かっていた。社長は、この機会を利用してホテルの名を世界に改めて売り込もうとしていた。

 社長の演説が耳に残る。

「しっかりしたまえ、シェフ。わたしはわがホテルの総力を挙げて、きみをバックアップする。都会のオアシスと呼ばれる、このホテルが、人道上由々しき問題を放っておけるはずがない。定期的にテレビや新聞、インターネット、雑誌の取材を受け、周知せねばならない。ホテルのホームページに特別コーナーを開設する。『シェフのダイエット日記』はどうだ。テロリストどもに減量中の姿を刻々と報告する必要もあるだろう。このホテルは、愛のホテルだ」

 シェフは腹立ちが募った。特に社長のバカさ加減には呆れた。ダイエット突入の日、華々しくセッティングした大宴会場の記者会見で、社長は殉教者を演じた。

「シェフの試練を、わたしは共に分かち合うつもりだ。わたしは現在、体重が八○キロあるが、三カ月で一〇キロの減量を宣言する。シェフに比べ、ささやかな挑戦ではある。だが、社長たるものが、座して部下の苦しみを傍観してはいられないのだ」

 新調したばかりの三つ揃いのスーツの上着を脱いで、ややせり出した胴囲をなぞった。報道陣のカメラのシャッター音がまるで、中華街の爆竹のように鳴り響いた。それに目が眩むほどのフラッシュだ。

 社長の大芝居にシェフは胸がむかついた。社長の仕掛けを知っていた。彼の着ていた高級仕立てYシャツの下には、晒しが厚く巻いてあった。腹をグルグル巻き、即席で太ったのだ。薄い鉛の板まで入れて、実際の体重七〇キロに一〇キロ上乗せした。見せかけの肥満だ。後は、少しずつ晒しを切り、鉛板を外して減量するわけだ。


 どうにも寝つけなかった。耐え切れず、シェフはベッドを抜け出て、バスルームに走った。歯ブラシにラミネートチューブから押し出したペーストを山盛りに載せた。口の中に突っ込んだ。

 ペーパーミントの辛味だ。力任せにゴシゴシと磨いた。歯茎に軽い痛みを感じた。空腹感が、やや遠ざかった。ペパーミントの爽快感が飢餓感を抑えた。歯ブラシを激しく上下させた。泡だったペーストをペッと大理石の洗面台に吐いた。血が混じって茶色っぽかった。

 鏡に映った疲れた男。皮膚は艶がなく、フランス料理人の粋を漂わせていた口ひげは不揃いになり、みっともなかった。目には憔悴の色を深くたたえていた。

 シェフは、メリメウールの濃紺のスラックスをはき、グレイのポロシャツを着て、部屋を出た。廊下には誰もいない。物音すらしない。開いたエレベーターは無言で、不気味に待っていた。

 最上階でシェフが取り仕切る、フランス料理の最高級レストランは夜のしじまに眠っていた。シェフは付属厨房のパントリィの錠を開ける磁気カードを差し込んだ。ドアが開くと、厨房内は自動的に明かりが点く。パントリィはメインキッチンで一次的に調理した料理を最終的に加熱や盛り付けなど二次加工する厨房だ。

 シェフが足を踏み入れると、サッとサフランの香りが鼻をかすめた。すると、目前にスズキのサフラン・ワイン蒸しが現れた。一瞬、まばたいた。スズキは消えた。幻だった。

 料理をストックしてある冷蔵庫から、シェフは好みのフォアグラとウサギ肉の二種類のテリーヌを取り出した。ステンレスの型に入ったままだ。ためらいはあった。衝動と理性の狭間で、今やろうとしていることが、どんなことか分かっていた。

 一週間で減量した一・八キロを水泡に帰すかも知れない。しかし、食欲を刺激する副交感神経の命令をもはや拒めなかった。愛しいテリーヌよ。シェフは心を込めて、呟いた。シーザーはいった。サイは投げられた。頭はプッツンだ。シェフはフォアグラのテリーヌにかぶりつき、ルビコン河を渡った。

 ダイエットのチャレンジャーが自分の墓穴を掘るにふさわしい、棺桶型のテリーヌ。えぐられた角に、クッキリと歯型が残った。お次は、ウサギ肉の番だ。それを咀嚼するのももどかしく、ほんのひと噛みで、ゴクリと飲み込んだ。

 喉が詰まった。料理用の白ワインの半分差し込んだコルク栓をポンと抜き、一気にラッパ飲みした。テリーヌの塊が食道を落ちて行った。

 シェフの口の周りは即席のピエロだった。茶色と赤の食べ滓がデコレーションとなっていた。両手は脂ぎってベトベトだ。

 ポロシャツの胸元には、こぼれた白ワインが幾筋もシミとなった。リノリュウムの磨き抜かれた床は、食い散らかしたテリーヌの小片で汚れていた。

 シェフは荒い息を吐いた。食い漁った爆発的なエネルギーのあと、沈黙していた理性が目を覚ました。肩で息する自分に気がついた。どんよりした視線が、次第にこの事態を掌握し始めた。

 調理台に転がったステンレス製の箱型パットが目に入った。空だ。透明な緑色のワイン瓶も空だ。胸元からフルーティな香りが漂う。両手は、明らかにテリーヌの残滓にまみれている。

 ウウッ、げっぷが出た。シェフはくぐもった嗚咽を漏らした。同時にパントリィを飛び出し、従業員専用のトイレに突進した。洋式の便座を跳ね上げ、便器を左手で抱えた。右手の人差し指、中指、薬指の三本をまとめて、喉の深く突っ込んだ。扁桃腺をかきむしらんばかりに刺激した。

 ウゲッ。今度は後悔のマグマが、食道を這い上がり、口腔を瞬時に満たし、噴き出した。便器内にたまった水の中へ、ドボン、ドボンと音を立てて落ちた。

 息つく暇もなく、嘔吐を繰り返した。吐くたびに涙腺が圧迫され、涙が眼鏡に滴った。視界がぼやけた。目の前の便器の輪郭がかすんだ。シェフの白目を真っ赤に充血していた。

 便器を前に、ぐったりと座り込んだ。半開きの口、口ひげが吐瀉物にまみれて、光っていた。濁った滴がひげから顎を伝って、ポロシャツのボタンの一つに落ちた

 ああ、なんてことだ。狭いトイレに浮遊する自分の眼の焦点を絞ろうと顔をしかめた。満ちた腹を嘲笑う理性の飢餓。こともあろうにトイレの中で、日本の超一流シェフが呆然自失の様なのだ。

 古代ローマ人は、美食を貪欲に追求した果て、食べた物を自ら吐き出し、また新しい美食に夢中になった。シェフは、そんな食文化を断じて否定してきた。それは爛熟し、退廃した文化の末期的症状にほかならない、と思っていたからだ。だが、もうローマ人を笑えない。食文化を論じるプライドは木端微塵に砕け散った。

 

 あのマホガニー製の円卓がある社長室で、例の五人が集まっていた。

 教授は、パソコンのキーボードを叩いて、シェフの減量経過のデータを壁いっぱいの8K液晶モニターに映し出した。そのご託宣は、ついに三○キロの減量達成に迫り、シェフの体力は急速に衰弱している。しかし、間一髪で滑り込める。

 滑り込めるとは、命は失わずに済む、との意味だ。「おまけに」と教授は人ひとりの命を手玉に「肥満による種々の成人病も治る」と、至って楽天的だ。

「どうです、シェフ、気分はいかがです。こう、身体が軽くなると、人間は空をも飛べるような気分になるものです。身体とともに精神にまでまとわりついていたぜい肉がきれいさっぱりとなくなる」

 教授は、口元に笑みを浮かべ得意顔だ。

「つまり、身も心も軽くなるっていうやつですよ」

「いや、もういけない!」

 警視が、大声で異議を唱えた。

「シェフはこのままでは、死んでしまう。今が、潮時です」

「この期に及んで何を言い出すのですか」

教授が、顔を紅潮させて反論した。

「減量への最大の挑戦は、成就しようとしている。人間本来の自然な姿に戻るのです。これは、肉体からの精神の解放です。憎むべきぜい肉は昇華し、真の自由を得る。目的は達成せねばならない」

 警視は頭を左右に大きく振った。

「入ってくれ!」

 ドアが開いた。

 一人のコックが、姿を現した。おっ、シェフ、その人ではないか。

 警視は四人のそれぞれの反応に、ニヤリとした。社長は、ハッと右手で口を覆い、教授は、驚きで目の玉が転げ落ちそうだ。総支配人は目だけを動かし、円卓のシェフとドアのシェフを見比べていた。

 そしてシェフは、ちょっと驚きをにじませながら、穏やかな笑みさえ浮かべて、ドアに立つ自分に目を遣った。大海に浮かぶ木葉のように自分の運命に、もはや恬淡としていた。

「ご紹介します、みなさん、シェフの替え玉です」

替え玉は、その声を合図に三歩、前に進んだ。

 高いコック帽を被り、白く清潔なコックコート姿で、どこから見てもすっかり痩せ切ったシェフだった。胡麻塩の無精ひげまでそっくりだ。敢て相違点を探せば、本物には失われた生気が、替え玉の双眸に伺えることだろう。

「ヘルスメーター!」

 警視は社長室の外で待機していた部下に命じた。パリッとしたスーツ姿の若い警察官が、コンパクトな薄手のヘルスメーターを手に入って来た。うやうやしい仕草で替え玉の足元に置いた。

 警視が、黙ってうなずくと、替え玉はヘルスメーターに乗った。デジタルの数字は、六五・〇でピタリッと止まった。替え玉は世界反肥満連盟が要求した三〇キロの減量を達成しているのだ。

「ニッポン警察の特殊メイキャップ技術は、ハリウッドに負けません。この男はまだ四十代のわれらが同僚です。テロリストの要求を受けて以来、警察なりに様々な角度から検討を重ねてきました。残念ながら、お嬢さんの救出はまだですが、シェフの生命の安全を図るのもわれわれの任務です。科学警察研究所の協力を得て、顔、体形の同一性、動きの同一性を追求しました。実に、ミッション・インポッシブルですな。その成果がご覧のとおりです。

 マスコミの前で別人とは分かりません。素っ裸になっても、減量による腹の皮の弛み具合まで、きめ細かく似せてある。一物までは保証できませんが」

 警視はクスッと笑った。

「みなさん、もうシェフにこれ以上の減量を強いる必要はありません。あとは、替え玉に任せなさい!」

 警視は有無をいわさぬ調子だった。

 教授のこめかみに青筋がクッキリと浮かんだ。円卓の縁に置いていた両こぶしが一瞬、プルルっと震えた。

「許せない。自己鍛錬に対する冒涜だ。三〇キロ減量の勝利を目の前に、あなたは何もかも台無しにするのですか。著名な痩身研究家であるわたしに対する侮辱だ。こんな子供だましで、用意周到なテロリストに、通じると思っているのですか」

 教授は、激怒した。

「きみらは何も分かっていない。ぜい肉が、人間精神を抑圧しているのに、ダイエットは精神の自由を求める壮烈な闘いだ。なぜ、こんなことが理解できないのですか。やめてくれ、警視、お願いだ。こんな侮辱的行為を即刻、引っ込めてくれ。シェフに減量を続けさせよう。お願いです」

 まるで教授は人が変わったように、警視に哀願した。

 警視は冷静に付け加えた。

「教授の言動は、肥満者に対するヘイトクライム、憎悪犯罪の疑いを、わたしは感じています。ペンシル大学の調査チームは『ファット・シェイミング』の報告を出していますね。教授は当然、ご存知でしょう。知らないわけがない。これは、太った体形を嘲笑し、いじめの対象とする偏見の社会状況を報告したレポートですね? 肥満差別そのものです」

 教授は青ざめ、立ち尽くした。

 若い警察官が、深刻な表情で入って来た。警視のそばに立つと、ボソボソと耳打ちし、一枚のメモを手渡した。ポーカーフェイスの警視の眉間が一瞬険しくなった。フッとため息をつき、社長を凝視した。

「何かあったのかね」

 社長は、不安げに訊いた。自分に関係のある話だと、直感したのだ。そわそわと両手を揉んだ。

「新たな事態が起きた。社長さん、気を確かに持っていただきたい」

 警視は、険しい表情で続けた。

「警視庁に今入った情報によると、アメリカを旅行中のご子息が、米国のテロリストグループに誘拐されました」

 社長はすぐに事の次第を飲み込めなかったが、代わりに総支配人が反応した。

「まさか」

「残念ながら、FBIが確認しました。ニューヨークタイムスに犯行声明が届いているとの情報です。誘拐はフェイクではありません。お気の毒ですが」

「その犯行声明の内容はなんだ」

 社長は浅黒い額に脂汗を滲ませて訊いた。高級スーツで決めたスマートな身体が、ひどく震えていた。

 警視はメモを一度、黙読して説明した。

「犯行声明によると、ビフテキ・スピリットは、米国産農産物輸出の過激派ですな。日本が米国農産物をもっと食べるように要求している。現状が少々、我慢ならんようです。しかし、人質解放の条件は、実に皮肉だ。ビフテキ・スピリットのヤツらは、シェフの誘拐事件を茶化しているとしか思えません。あなたにアメリカン・ビーフとカリフォルニア米をたらふく食べて、三カ月で三〇キロ太れというのが、解放条件ですわ。

 もちろん、ニッポン警察は、ご子息の救出にFBIと協力して全力を挙げますが、何せ大統領が大統領ですから、自国産の輸出に異常に熱心な方ですしね。FBIも遣り辛いでしょう」

「世の中、狂っている。このわたしがなぜ、三〇キロも太らねばならない。糖尿病、脳卒中、心筋梗塞、成人病の元凶に自ら進んで身を捨てろ? わたしは、わたしはいったいどうすればいいのだ」

「あなたが、シェフと同じように父親としての愛情を、太ることで世界に示すしかありません。愛のホテルでしょ」

 警視の言葉に、総支配人が深く頷いた。

「なぜだ、なぜ、わたしが狙われる。不合理だ。理不尽だ。肥満なんて金輪際、嫌だ」

 不合理? 何が、不合理だ、この現実世界は不合理だらけではないか、これで本当に苦しみを分かち合えることになった、とシェフは、ほくそ笑んだ。笑いを堪え切れず、破顔一笑、そこで目が覚めた。


 トイレの中だ。

 世界最高ランクのシェフが、便器を友達にダイエットの孤独と悪夢に浸っている。これは実際受け入れ難い現実だ。シェフは眩暈を感じた。悪夢が、こんなに狭い、反吐にまみれたトイレの空間を駆け巡っている。

 ここは混沌の世界だ。精神をズタズタに裂くほど、わたしを苦しめる。ダイエットが意識革命だと? その革命は無血では有り得ない。当代一流のシェフを苛み、その流れた血で贖うのだ。

 過去に来日した米国大統領のレセプションを取り仕切った栄光は、便器の穴の中へ投げ込まれてしまった。と、突然、アメリカ国歌、星条旗よ永遠なれが聞こえてきた。現職大統領がタキシードの胸を張り、誇らしげにスターズ・アンド・ストライプスを見上げていた。米国産牛肉のステーキとハンバーガーがやたら、好きな男だ。

 と、フランス国家のラ・マルセイエーズが流れてきた。何代か前のフランス大統領が五味求心の誉れと絶賛した「食いしん坊の六角形」であるフランスの官能的なペリグー・ソース。ボルトとアルマニャックにトリュフのみじん切り、トリュフの汁を使ったこのソースを大統領はこよなく愛していた。しかし、肥満を極端に恐れていた美食家の大統領は「美味しく食べて太らない料理」の探究者でもあった。

 賓客が口に運ぶ一挙一動と、その顔の輝きに、シェフはどれほどのエクスタシーを感じるか。二つの国歌が、渦を巻いてシェフの脳髄に雪崩れ込んだ。灰色の脳細胞が共鳴して呻いた。

 頭の中に、大編成のオーケストラが宿っている。フォルティッシモ、フォルティッシモ。頭のアンプが焼き切れそうだ。

「助けてくれ!」

 シェフは短髪の頭を抱え込んだ。唸った。ぜいぜいと、荒い息を吐き、不協和音の呻きを漏らした。頭が火照った。爆発しそうだ。

 シェフは、トイレのコックをひねった。便器の中に水が勢いよく流れ込んだ。その水を両手にすくい、顔にぶちまけた。二度、三度、後頭部から降り注いだ。

 耳を澄ました。ぷっつりと二つの国歌は消えた。

 また幻聴なのだ。

 シェフは怯えた。

 この次には、何が襲って来るのか。もう疲労困憊だ。飢餓が脳構造を変質しちまった。衣食足って礼節を知る。わたしは今や礼節とは縁遠い存在なのか。この総料理長を務めるわたしが、だ。

 便器の縁に両手をつき、ヨロヨロと立ち上がった。この醜態をいつまでも続けるわけにはいかない。トイレのドアを開け、通路に立った。はるか向こうにエレベーターが見える。スウィートルームに戻らねばならない。

 わたしは、総料理長なのだ!


 スウィートルームに戻った。

 激しい胸の痛みが襲った。崩れ落ちる、その一瞬、シェフの脳裏に厨房にいる若き日の自分が、鮮明に甦る。

 総料理長、名誉総料理長、副料理長ら大先輩の面々が、才能溢れる自分に目を凝らしている。直径二四センチ、重さ七八〇グラムのフライパンは黒光りしていた。こうでないと美しく淡いキツネ色のオムレツは焼けない。

 シェフは両手に握った二個の卵をステンレス製のクッキングテーブルの角にぶつけ、それぞれ片手で割って、ボールに落とした。さらにもう一個。一人前は三個だ。塩と胡椒を軽く振り、フォークでササッとかき混ぜた。

 フライパンを熱し、サラダオイルをひいた。全体になじませ、そのオイルをオイルポットにあけた。と、氷水の入ったソースポットから賽の目のバターを一個つまんでフライパンに投じた。ジュッと、跳ねた。

 バターの色がキツネ色に変わり始める。その時、シェフはボールの卵を一気に流し込んだ。前後に揺れるフライパン。右手の一本のフォークが軽いフットワークで卵を泳いだ。フランス料理のもっとも基本にして、それ自体が料理として完全に確立しているもの、それはオムレツ。至高の味わい。

 総料理長たちは互いに顔を見合わせた。笑顔で満足げな表情が、若者の才能を認め、それからのシェフの未来に大いなる勇気と情熱を与えたのだ。

 ああ、あの喜びに満ちた、門出の日。栄光の日々よ!

 翌朝、シェフのスイートルームで、スマホの着信音は繰り返し、主を呼び続けた。


 人は生きるために食べる。食べるために生きるのではない。ソクラテス   

                                    了

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