花束はドライフラワーにした【エピローグ後の乙音の話】

 どうやらわたしは『焦がれる』という感情とは無縁らしい。

 そう腑に落ちたのは、故郷を離れてから三か月くらい経った時のことだった。

 海の温度、流れの強さ、重さに、匂いに、味。繋がっているはずなのに故郷とは別物に思える海が泳ぎ進めるほどに全身を満たして、その度に遠くに来た実感と共にその自由に酔いしれる。

 故郷のことは嫌いじゃない。

 家族もいれば友達もいる。食べ物だって美味しいし、一定の安全も保障されている。わたし個人の葛藤とか本能的な忌避や好奇の目はあれど、肉を毟られ血を奪われる迫害や信仰が届いたことは、今のところない。

 幸いなるかな、お互い血迷ったら頬を張り倒しあえる半身が隣にいたし。

 そんな欠点よりも利点の方が多い郷里だとしても、未だこの胸に恋しさはない。

(薄情かな)

 睦月が生存確認にくれた、データ送信機能付きの防水カメラが胸元で揺れる。深海でもひしゃげないというそれを惜しみなく寄越した半身にちょっと相談したいところだ。『乙音が人でなしなのは今に始まったことじゃないのに、何を今更』と言われるのは想像に易いけれど。

 いや、改めて考えると口が悪いな。どうしてあんな子に育っちゃったんだろう。

 元からか。

 わたしが人でなしなら、わたしの半分である睦月だって人でなしで然るべきだ。

(とまあ、ここまで睦月のこと考えても、別に恋しくはならないんだよなあ)

 会いたい気持ちがこれっぽっちも込み上げてこない。

(そもそも、よくわかんないかも。そういうの)

 よくよく考えれば、わたしは生まれてこのかた、その手の強烈な感情に脳を支配されたことはないのかもしれない。

 睦月がいつだか言っていた気がする【平らに世界を見ている】というのはこういうところだろうか。別に興味がないわけではないのだけれど。

「……なに?」

 思考を邪魔する悪寒が、尾びれを掠めた。

「【蟲】? 大きすぎない?」

 ぞりぞりと不快な感触が神経を削るように背骨を伝う。

 人に巣食い、その精神を苗床にした末に崩壊させる正体不明の——正直生物かもわからないモノ。それが【蟲】だ。

 正式名称はわからないし、なんだったら他の人がどれだけこいつを認識しているかもわからない。尾びれもちには不思議なことに寄ってこず、二足歩行なら陸人でも水人でもおかまいなし。

 だから、海の中で見かけること自体は別に珍しいことではない。

 だが、その大きさは驚異的だ。

「……ダイオウイカくらい?」

 ぎょろりぎょろりと回転する目玉はわたしの身長よりも大きいだろう。肉食でなくとも、飲み込まれそうで気味が悪い。

 まあ、【蟲】はなぜだか泳ぐ時にどれだけえ巨大だろうと波に影響を与えない上に、泳いでいる時は捕食行動をとれないようなので杞憂だが。

 そんなことを思っているとぐわりと潮の流れが強くなった。大きくたわんだ海面にバランスが崩れる。

「なに……?」

 頭の中で警鐘が響くのと同時に、足元をゆっくりと泳いでいた【蟲】の動きがあわただしくなった。

「逃げてる?」

 こみあげた不吉な予感に、【蟲】が背を向けた方向を睨みつける。

 波がある。

 海面直下を一定の大きさのものが潜行するときに起きる、ささやかでもやけに目立つあの波だ。あれが奇妙な流れの原因だろうか。

(……それにしては、小さい?)

 おおよそ見て取った大きさが成人男性程度であることが、また不気味さを呼んだ。あの【蟲】が一目散に逃げ出すほどの脅威にしては、あまりに小さい。

 ソレは【蟲】を追うように直進している。

「ん? 直進……っやば!」

 反射的に身を翻す。

 さきほどまで【蟲】はわたしの尾びれを掠めていてた。

 つまり、あの波の航路はこちらに向いている。

 こんなだだっ広いところで正面衝突の末に海の藻屑とか御免被る。

 巻き込まれないように道を譲る。ぐおんと揺れた水面に咥えられたまま体が思い切り揺さぶられ、それがなくなる頃にはもう周囲に異様なあの波も追いかけられる【蟲】の姿もチラとも見えなくなった。

「なんだったんだろ。まあいいけど……いやよくないな?」

 胸元に揺れていたはずのカメラが消えている。先ほど触れた時にはまだあった。それ以降頭のてっぺんまで潜った記憶はない。何より、首にかけるためのベルト自体は残っている。

 ちょうど餌泥棒にあったように、ぷつんとカメラだけがベルトから引きちぎられている。

 まだ貰って三か月。新品であり何度もわたしの無茶な泳ぎに付き合っても取れる気配のなかったそれが自然に千切れるとは考えにくい。

「さっきのやつか」

 尾びれに不要なまでの力が籠もった。行こうと思っていた方角から先ほど【蟲】と波とが消えていった方向へと進路を書き換える。

「わたしから宝物を奪うなんて、いい度胸」

 そちらも速いが、こちらだって遊泳速度では負けていない。

 トップスピードのカツオを何度も追い抜いて鍛えた尾びれの威力、とくと見るがいい。


「嘘すぎない?」

 結果から言おう。惨敗だった。

 追いつくどころか、影すら踏めなかった。

 小さなプライドがわずかに損なわれた羞恥心にいささか身悶えながら、手近な岩礁に腰掛ける。肌を刺す冷気にぶるりと体を震わせた。

「えー。ここどこだろ」

 リュックの中から水人用の防寒具を取り出して、周囲を見渡す。

 水人は特殊な皮下構造をしているから滅多なことでは寒さに震えるほどにはならないはずだ。だがここは妙に寒い。

 見上げれば曇天。海の色は重く、波は砕いた鉱石のように鋭く重く岩を削る。

「だいぶ北の方かなあ。あ、そだ。睦月に聞こう」

 近くの小島に雪が積もっている。ずいぶん辺鄙なところに来たみたいだ。

 睦月に持たされた通信機の発信ボタンを押す。三コールくらいして、『何?』と無愛想な声がした。

「睦月ー。わたし今どの辺にいる?」

 遭難対策に持たされたGPSは睦月の方にも同期してある。地図も海図も読めるけれど正直この寒さでそっちの受信機を取り出す気になれない。

「なんで自分で見ようと思わないわけ……は? なんで北極圏にいるの乙音。方向感覚狂った?」

「北極圏かあ。寒いわけだ」

「質問に答えろ」

「カメラ盗られたっぽいから追いかけっこしてたらなんかついた」

「馬鹿なの。追いかける前に僕に連絡しなよ」

「え、怒るでしょ」

「軽装備で北極圏に行くのに比べたらまだ怒らない。馬鹿にはするけど」

「悩ましい二者択一」

「切っていい?」

「ごめんってば! ねえ。ここからカメラ泥棒また追いかけるからさ、ひと月経ってもわたしが連絡しなかったら探しに来てくれない?」

「いや、堂々と無法者のところに単身乗り込もうとするんじゃないよ一般市民。……まあいいよ。言っても聞かないでしょ。ただし一週間で区切るから」

「えっ」

「えっ、じゃないよ馬鹿乙音。本当だったら一晩しか待たないところをきみを信じてかなり譲歩してるからねこれでも」

「んふふふ、わかったよ。一週間ね。あ、一回期限の時にコールしてね。忘れそう」

「頭いいくせに記憶力ゴミなの?」

「あ、あー電波がー」

「衛星通信だよこれ……こら乙音!」

 よし、これで万が一何かあっても体は回収してくれるに違いない。

 通信をぶっつり切って、ポーチに通信機をしまう。次繋げた時までにある程度の成果をあげれば許してくれるだろう。睦月はわたしに辛辣だけどわたしの大活躍は大好きなのだ。可愛いやつめ。

「よし、行くかー」

 目指すは、あの小島の横っ腹にあからさまに開いた怪しげな洞窟だ。

 何かあれば御の字。何もなくても今日の宿にはなるだろう。

 

「うわ暗っ」

 呟くと同時に拳より少し大きな灯籠貝を点灯する。サザエに似たこれは蓋にナイフを差し込んでがぱりと開けば、自分の周囲くらいなら照らせるくらいの光を一定時間灯す特性がある。

 洞窟の中は苔の一つも生えていない。地元の洞窟は光らないまでも必ず何かしらの藻類は生えている。北極圏というのはこういうものなのだろうか。

 奥に進めば、地面の中心をちょうど抉るような水路が海から奥まで途切れることなく続いていた。ゴツゴツとした岩肌は逆立ちで進むと手のひらを痛めそうだからありがたい。

(結構長いな。もしかして向こうまで抜けてる?)

 一応周囲を警戒してはいたけれど、虫一匹いない。

 これは今夜の寝床決定かなと思い始めた時、洞窟の奥からそれは聞こえた。 

「……なに、この音」

 風のように軽やかで水のように狂おしく、自然と融け合っているのに浮いて聞こえる高音域。それでいてイルカやクジラにしてはいささか低い。

 だが、間違いなく美しい旋律だ。

「——歌?」

 耳にするだけで心臓が小さく軋むような、甘く伸びやかな声。少女のようなトーンだが、ファルセットを効かせた男性の声にも聞こえる。性別を置き去りにする魔性に満ちている。

 ふらふらと、ゆらゆらと、酔っぱらったみたいに両脇の岩肌にぶつかりながら進んでいく。時折頬や肩にビリッと走る痛みすら、気にならない。

 そうして進んだ一瞬にも永遠にも思える道程の果てに、真白の光を受ける一つの影があった。

(人、魚?)

 あれほど気に食わなかった呼称が自然と喉奥に込み上げた。一瞬の自己嫌悪が込み上げ、たちどころに氷解する。

 岩の裂け目を額縁のようにして歌う男は、年若い男性の姿をしていた。洞窟のへりに腰掛けるその下半身は二足ではなく尾びれに覆われている。

 常識に当てはめれば彼は水人だ。

 しかし、斜陽に照らされた彼の肌に浮かぶ雫型の煌めきがそれを否定している。頬に、腰に、胸元に。滑らかなグラデーションで全身に美しく並ぶ、雫型の——鱗。

(水人に、鱗は生えない)

 尾びれもちの類似形態は海獣であって魚ではない。塩基配列はあくまで哺乳類だ。

 驚愕に目を凝らせば、念押しのように男の下半身はまさに魚類のそれだとわかった。さらには腰の横から控えめに繊細な胸鰭も生えている。どれをとっても、遠い昔にお伽話として紡がれた【人魚】というにふさわしい。

 男の造形もまた、その幻想に拍車をかける。

 朗々とした魔声を発する唇は美しく、斜陽に映える眉から鼻筋は一つとして無駄がない。リュウグウノツカイめいた一筋の赤を混ぜる銀髪は硬質ながら艶やか。それら全てを支える上半身は名工の掘り出した彫刻にも似て、その青白い肌に張り付いた髪の一筋一筋が凄絶な色気を放つ。

 歌う男は、海神が顕現したような大層な美男だった。

(……んん? なんか思考がいつもと違う? ……まあいいか)

 必要ならいずれわかるだろうと微かな違和感を放置して、パチパチと両の手を打ち鳴らす。

 高鳴る心臓をさらに早めるように。そして、この絶世の歌声に惜しみない拍手を贈るために。

『……だれだ?』

 深海色ディープブルーの瞳が、ゆるりとこちらを見た。

 警戒というよりは、困惑。そして一匙の好奇心がその表情には滲んでいる。

 わずかな親近感と多大な幸運に弾む胸を飼いならしながら、笑みを浮かべて会話を続ける。

「旅のものだよ。お邪魔してごめんね。少し探し物をしていて」

『……どうして手を叩いた?』

 上背のある姿に似つかわしくない、どこかあどけない仕草で青年が首を傾げた。年若いと言っても年上に見えたが、実際はそうでもないのかもしれない。

「歌上手かったら拍手するでしょ」

『ハクシュ』

 パチパチと再び実演してみても思い当たる節がないと言わんばかりの反応だ。

「そういう文化ない感じね」

 思えば、水人も水中と空気中ではジェスチャーを自然と使い分けている。水中で素晴らしいパフォーマンスをしたものには拍手ではなくバブルリングを贈る方が一般的だ。

 こうして向き合うほどに彼が突然変異の水人などではなく、紛れもない人魚であるという確信がむくむくと膨らんでいく。

 特に深い色をしたその目は、ヒトのそれではない。瞼があるからわかりにくいが、魚やクジラの類によく似ている。

 観察する視線に気づいているだろうに、朴訥とした表情のまま青年がゆらりと首を傾げた。

『名前は』

 会話というもの自体が不慣れなのだろうか、ただ自分の心に浮かんだ疑問をぽん、ぽん、と投げてくるようなその言葉はやはりあどけない。

「わたしは乙音。そっちは?」

『■■■』

 聞こえたその音列は、氷が軋む音めいていた。

「……ごめん、もう一度」

『■■■。そちらの聞き取れた音でいい。キミたちには発音できないだろうから』

 青年の薄青く長い尾びれが、ぱしゃんと水を蹴った。

 自分もよくやる仕草だが、彼は今悲しんでいるのだろうか、怒っているのだろうか。それとも、楽しんでいるのだろうか。

 感情の読み取れない彼の目をじっと見つめ、それからそっとため息をつく。リスニングできないものは仕方ないが、単に愉悦の材料になるのも癪だ。

「じゃ、お言葉に甘えて。【ロビン】って呼ぶね」

『音が同じようには聞こえないが』

「中途半端に呼ぶのも嫌じゃない? 歌声が綺麗だから、駒鳥ロビン

 人魚に鳥の名前をつけたところで罪ではないだろう。

 にっと笑って見せれば、ロビンは小さく肩をすくめてわずかに眉を和ませた。

『……変な娘だ』

「ありがとう。誉め言葉だよ」

 変、と言われることなど慣れっこだ。気にも留めず、己の好奇心のおもむくまま質問を重ねる。

「ところでさ、どうやって喋ってるの?」

 歌を紡ぎ終わってからその唇は一度たりとも開いていない。その上、声は耳の奥で聞こえている。

『思念言語だ。知らなかったのか』

 当然の如く告げられた答えに首が傾ぐ。そんな言語体系は聞いたこともない。

 わたしの傾いた頭に合わせるように、ロビンの首の角度も深くなる。

『オトネはヒトだろう。俺はヒトに通じる音声言語を有していない。故に思念を直接送っている』

 エコーロケーション、テレパシー、エムパス、思念波――どうにか自分の中の知識と擦り合わせ、やっとの思いで吐き出した言葉は響きだけ見ればひどく陳腐なものだった。

「魔法みたい」

『魔法か』

 ロビンが反芻するようにその単語を舌先で転がした。

『なるほど、キミたちの言葉で言うなら、おそらくそれが一番近い。だが、何を驚くんだ』

「えっ?」

 男の平らな声は此方の驚愕を置き去りにして連なっていく。待ってほしい。

『キミも使えているだろう』

「はっ?」

『わざわざ音声言語にくせいと重ねているな。どういう意図だ?』

 重ねられる衝撃の事実を受け止め損ね、間抜けな音を零すしかない口をなんとか引き結ぶ。

 いくばくかの沈黙の後、動揺を殺し損ねた声のまま、問いを投げかけた。

「……そんなファンタジーな力、身に着けた覚えがまったくないんだけど」

『ふむ。では素質だけで使っているのか。優秀だな』

「待って一人で納得しないで」

 人を混乱に陥れておいて勝手に納得するとは何事だ。ふむ、と青年が顎に手を当てながら頷く。

『オトネ。キミ、これまでシャチなどと話せたことはあるか』

 心臓が軋んだ。

「…………、あるよ」

 喉の粘膜が貼り付いてしまったように、声がかすれる。

『キミが彼らと交わした言葉がそれだ。ヒトはどうか知らないが皆使っている』

「……へえ」

 そっけない声と同時に、歪な笑みが口元を汚したことを自覚する。

(ああ、やっぱわたしがおかしいのか)

 自分以外にシャチと話せる人なんて知らない。同じ尾びれもちでさえ。半身とはいえ、陸人に過ぎない睦月は言わずもがなだ。あの子とわたしは欠けを埋め合えるからこそ、共感とは一番遠い存在だ。

 自分でも知らない間に降り積もっていた孤独にロビンが触れている。不思議と、嫌悪はない。

 美しい男が花のように微笑んだ。

『オトネ。俺はキミが気に入った。キミが望むならば知らぬものを教えよう』

「いいの?」

『ああ。好きなだけここにいてくれて構わない。あいにくと、キミの探し物は俺の知るところではないが』

 それはとても魅力的な誘いだった。

 疲れ果てた体は休息を求めていたし、単純な知的好奇心もくすぐられる。

 何より、まだ心がこの銀青の青年と共にいたいと騒いでいる。

「……じゃあ、お願いしようかな」

 彼の手を取る。

 瞬間、背筋が粟だった。


 覚えのある気配が尾びれの下をずろりと横切る。

(【蟲】? また?)

 漣も影も見当たらないが――この異様な存在感は間違えようもない。

 先ほどよりは一回り小さそうだが、こうも連続で遭遇するのは流石に珍しい。

(わたしには多分来ない……けど、ロビンは?)

 焦りが脳髄を焼く。守らなければという気持ちばかりが先行する。

「ロビン! わたしの後ろにいて!」

『オトネ?』

「ごめん。質問は後で、——ロビン!」

 振り返った先、彼の背後に【蟲】の触腕が見えた。ずるりと鎌首をもたげたそれはゆらゆらと揺れながら、脊髄のあたりへ鋭い棘をむけている。

(どこから? いやそんなのどうでもいい!)

 無我夢中で手を伸ばす。寄生されたところで掴み出せばいいだけだろうと理性が告げる。

 だが、美しい生き物の首に無遠慮に触れること自体が許せない。

(届かないっ……えっ?)

 ぐるんと、触腕の向きが変わった。

 鋭い棘の先端がこちらを向く。がぱ、と棘が四方に開く。粘液が糸を引き、内側にみっちりと生えた牙のエナメル質の上をヌメヌメとした光が滑る。

 その奥にある、人の頭ほどの眼球と目があった。

(こいつ、ただの【蟲】じゃない⁉︎)

 それは、明確な害意。

 これまで尾びれもちに見向きもしなかった従来の【蟲】ではあり得ない圧を前に、動けと命じる心を置き去りにして体が硬直する。

「——あ」

 死ぬ。

 本能で悟る。これは自分を殺そうとしている。冷たくなった指先を握りしめ、ただ迫り来る異形の口を見つめて、呼吸が細くなる。

 ぐい、と腕が引かれた。

『おい』

 美しい声の乱雑な言葉と共に体が海の温度に包まれた。

 薄青い鱗に覆われた長く筋肉質な腕が、わたしを抱き寄せている。

『この子に触れるな。害虫ごときが』

 ぐちゃり。

 鈍い音がして、【蟲】の触腕が弾け飛ぶ。スライム状の欠片がぼたぼた大きな水かきのある手から溢れていく。

『大丈夫か。オトネ』

「ロビン……うん、ありがとう。大丈夫」

 青い目がうっそりと微笑んだ。

『驚いた。キミ、アレが見えるんだな』

「ロビンこそ」

 恐怖や緊張では大した音を立てない心臓が早鐘を打ち、肋骨の奥から全身に巡っている。初めての感覚だ。

 モゾモゾと襟元を正していれば、ロビンから小さく笑うような音が聞こえた。いけない。好奇心に負けがちなのは悪癖だ。

『邪魔はあったが、改めて。これからよろしく。オトネ』

「こちらこそ」

 握り合った手は、海の温度をしていた。

 

 それからの日々はあっという間だった。

 ロビンは訥々とした喋り方から想像もつかないほど指導がうまく、わたしは早々に簡単な身体強化の魔法や着火魔法ならば使えるようになった。その上、水人の長老でさえ知らないような海底の秘密も教えてくれた。

 次々と満たされる好奇心に、お腹がいっぱいになってしまいそうだ。正直とても楽しい。

 ちなみに、今は少し出かけると言って洞窟から出ていったロビンに変わって留守番中だ。

「でも、なんか忘れてる気が……って、あれ?」

 きらりと、海中で何かが光った。

 細く裂けたその岩間は特殊な流れになっていて危ないから、とロビンに近づくことを禁じられていた場所だ。海においては珍しい話でもないので、特に疑問に思うことなく従っていた。

「んん?」

 だが、妙にその光が気になった。

「……危なそうなら戻ればいいか」

 経験上、この手の直感は当たる。幸い先ほど危険を察知すると光るアラートヤドカリを捕まえたばかりだ。この子を道連れにすれば死ぬことはないだろう。

 多大な緊張と少しの期待を込めて、潜水する。

 そして、絶句した。

「これは……わたしの、カメラ?」

 北極圏にやってくるきっかけとなった行方不明の宝物が、そこにはあった。

 ロビンにはもちろん存在を知らせていた。これを探してここに来たことも、親友の贈り物であることも、目印に書いたマークも、詳細な形も描いて見せた。

(ロビンが気づいていなかった、と思うのは、無理があるよね)

 この数日で分かった。ロビンは縄張り意識が強いタイプだ。自分の領域であるこの洞窟には自分が認めたものしか存在することを許さない。それは生物に限らず。漂着物でも容赦なく選別される。

 喉が渇く。耳の奥を嫌な心音が叩く。握りしめた手のひらにカメラの凹凸が食い込んだ。視界がなんだか狭い。呼吸って、どうやっていたっけ。

 ピリリリリ。

 焦燥に飲まれそうな頭を洗うような、冴え冴えとした電子音が頬を叩いた。

「! そ、そうだ。一週間。睦月——知らせ、なきゃ」

 この洞窟に入る直前に交わした約束が、霧が晴れたように思い出された。通信機を掴む。——その手首を捕まえる温度があった。

 いつの間に戻ってきていたロビンの手だった。

『オトネ』

「……離してくれる? 前に言ったでしょ。一週間経ったら親友に生存報告する約束なの」

『約束……破ったら、罰があるのか?」

「さあね。でもわたしが破りたくないってだけで充分じゃない? 離してくれる? 洞窟の外で話してくるから」

 悲嘆が口をつきそうになるのを堪えながら、青い目を見据える。

 彼の目は、あいも変わらず深く澄んでいた。わたしの胸に抱きしめられたカメラも見えているだろうに、罪悪感も戸惑いもない。

 電子音が背を押すようになり続ける。

 チラリと、青い目が通信機を見た。壊される。そう直感する。

 気づけばわたしは、全速力で洞窟から逃げ出していた。

 ロビンは鯨のような呼び声だけを投げて、追いかけては来なかった。


 ようやく受信を押した通信機から、半身の声がする。

「乙音。大丈夫?」

「睦月、どうしよう」

 懐かしい声に安堵が込み上げる間も無く、情けない声がこぼれた。通信機の向こうで睦月が顔色を変えたのがわかる。

「何があったの」

「本物の、人魚がいて」

「本物……それで? 何かされた?」

「され、たといえばされたけど、それはどうでもよくて。いやどうでもよくなくて」

「乙音、落ち着いて。深呼吸。そこ安全?」

 皮肉屋の睦月が真正面から心配するほどに自分が混乱しているのだと自覚する。促されるまま呼吸を深め、なんとか言葉を紡ぐ。

 洞窟で明らかに水人ではない尾鰭と鱗を持った男と出会ったこと。

 その男は自分しか見えないと思っていたものを共有できたこと。

 これまで見たことも聞いたこともない【魔法】を、【海の秘密】を教えられたこと。

 探していることを伝えていたカメラを、隠し持っていたこと。

 全てを一息に吐き出して睦月の返答を待つ。こんなこと、信じられないだろうか。これまで感じたこともない弱気の虫が顔を覗かせた。

「で、乙音はどうしたいの」

「どうしたい……って」

「聞く限り、カメラに関してはそんなにそいつに対して怒ってないでしょ。……というか、最初から分かってたんじゃない? そいつがカメラ泥棒だって」

「そんなこと」

「ない? それこそ、そんなことないだろ。というか、その程度の推測を立てられないなら僕は一人旅なんて殺してでも止めた。きみはカメラ泥棒を追って洞窟に入った。そこは人魚君の縄張りだった。その時点でもうわかるよね。いつもの乙音ならさ」

「……そうかも?」

 淡々とした声に、少しずつ動揺が凪いでいく。鏡を前にして身支度をしているうちに落ち着くみたいな、そんな感覚だ。

「推測するに、乙音は『期待』しているんじゃない?」

 期待。意外な言葉に「へ」と間の抜けた声が出た。

「何かしてもらえるって期待じゃなく、『信頼したい』とか、そういう期待だよ。それが裏切られそうだから反発してる。裏切られても信頼したいから、頭ごなしの批判はしたくない。だけど、全部無抵抗に受け入れたくもない。僕にはそう思えるよ。……面白いことになってるね。乙音」

 実に楽しそうだ。性格が終わってる。だがそれを揶揄う気も起きないくらい、半身の言葉は的を射ていた。

「ねえ睦月、どうしたらいいと思う?」

「もう決めてるくせに聞くの」

「背中押してほしい気分」

 深いため息。呆れ返ったような沈黙を経て、睦月が呟くように言った。

「骨は拾ってあげる」

「やったね」

 それでは、一世一代の大勝負のお時間だ。

 

 旅券取ったから今日中に終わらせてよ。なんて無慈悲な言葉と共に通信は終わった。

 ぐっと伸びをして、再びロビンの縄張りである洞窟へと入る。

 この数日楽しい日々を過ごしたとは思えないほど重々しい空気に満ちていて、歓迎されていないのがわかった。

 それでも気にせず進めば、いつもの岩にロビンは腰掛けていた。気づいているだろうに、頑なに銀色の頭はそっぽを向いている。

 どうせなら目を見て言いたかったけれど、まあいいか。

「あなたが好きだよ。ロビン」

 見切りをつけるのが早い方だし、焦がれることとは無縁だった。わたしの舞台に登ろうとしない相手に興味すら持たない、半身のことを言えない人でなし。それがわたしだ。

 それなのに、現実を曲げてでも手を伸ばそうと思えた。

 世間一般では違っても、これがわたしにとっての恋と名付けよう。

 きっかけは知らない。同じものが見えるという共感かもしれないし、ひょっとしたら一目惚れかもしれない。彼の歌に惑わされただけかもしれない。それでもいい。どうだっていい。

 それら全てをひっくるめて、わたしは彼に期待しているのだから。

 海の色をした瞳がこちらを見る。驚愕の奥に歓喜を携えて、薄青の手がこちらに伸びる。

『オトネ。本当か? キミも俺のことを? なら、もうどこにも』

「ただね。ロビン。あなたがわたしから世界を奪うなら、それを受け入れることはできないよ」

『オトネ……?』

 手がぴたりと眼前で止まった。

「ある程度は譲歩するよ。違う個体だから。でも、全部譲ってもらえると思われるのは癪。わたしは欲張りなんだ」

 事態を飲み込めていない様子で普段より幼なげに目を瞬かせるロビンの頬を、両手で包む。ひんやりとした海に似た体温がわたしの熱を奪ってぬるくなる。鱗が焼けたように白んでいく。

 ごめんね、ロビン。

 あなた色に染まり切るほど可愛い女にはなれない。あなたしか見ないほどわたしの世界は狭くない。あなたに抱いた恋に殉じるほどわたしは優しい女じゃない。

 わたし、染められるより染めたい派なんだ。

「わたしと同じ分、あなたもわたしの世界に生きてよ」

 それが無理だというのならば、この恋は泡になるのが相応しい。

 

 脅迫のような告白をした翌日。

 わたしは洞窟から一番近い飛行艇の港にやってきていた。もちろん、睦月を迎えるためだ。

「あ、いた。睦月ー! こっちこっち!」

 タラップを危なげなく踏んで下船した睦月に手を振る。流石に最後に直接顔を合わせてから一年も経っていないからか、生来の暗さが滲んでいるような陰鬱な顔は微塵も変わっていない。真っ黒な目が億劫そうにこちらを向いた。

 遠路はるばる会いにきた親友の顔じゃないんだよそれは。

 まあ、それが睦月らしさなんだけど。もっと旅費がかからない行路だってあるのに、わざわざ水人も海からあがりやすい港を選んだあたり、なんやかんやわたしに甘い。

「なんだ。拾う骨ないんだ」

「おかげさまでね。というか、もうちょっと労いとか再会の感動とかない?」

「出発前に通話したし。というか乙音だって目カラッカラでしょ。お互い様」

「ぐうの音も出ない」

 通話がなくても多分こんな感じの再会だったんだろうな。わたしと睦月の関係はそんな感じだ。

「で? 人魚君は?」

「流石にまだ人の街は嫌っぽいから海の近くで待ってるよ。会う?」

「あとでね。それよりこれ重いから持って」

 押し付けるみたいにバサリと投げ渡されたのは花束だった。

 白いライラックだけで作られた、別に重くもなんともない小さな花束。

「なにこれ」

「初恋成就おめでとう……って感じ」

「うーん。睦月らしいようならしくないような」

「素直に受け取ってよ。一応僕の気持ちだから」

 気持ち。花言葉というやつだろうか。

「……念のため聞くけど、睦月ってわたしに初恋奪われてたり」

「するわけないだろ。気持ち悪いこと聞くのやめて」

 すさまじいげんなり顔を向けられた。

「というか乙音も鳥肌立ってるし……自分で言ってダメージ受けてどうするの」

「うん。正直後悔してる。で? 気持ちって? 花言葉っていっぱいあるし、違うので受け取ったら睦月怒るでしょ」

「うん」

「じゃ、教えて」

 まあなんとなく予想はついているのだけれど。

 この半身は自分で自覚している以上にロマンチストで、わたしのことを言えないくらいに格好付けなのだ。

 苦虫を百匹くらい噛み潰して飲み込んだような顔をして、睦月が口を開いた。

「…………【友情】、【思い出】、【青春の喜び】」

「へーぇ?」

「ニヤニヤ笑いやめて。別にいいでしょ」

 睨まれても、笑いが止まらない。なんともまあ可愛い半身だ。

「でもま、睦月さんや。友情と青春の喜びはもらうけど、思い出はいらないよ」

「あ?」

「いや顔こわ。——だってさ、わたしたち、まだ思い出に綴じられるには早いでしょ」

 真っ黒な目が見開いて、白夜の光に輝きを帯びる。本当後ろ向きな半身だ。勝手にわたしの舞台から降りるつもりでいたらしい。

「これからだよ。睦月。わたしたちの世界はこれから幕が上がるんだ」

「……乙音が幕を上げる、の間違いでしょ」

 呆れたような言葉と皮肉屋の笑みにそうでなくちゃと笑い返して水路をゆく。そんなわたしに寄り添って、睦月が陸路を歩き出す。


 この数年後、わたしたちは魔法を世界に広めたことで思い出どころじゃない存在になってしまうのだけれど。それはまあ、どうでもいいことだ。

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人魚のきみと猿のぼく 冴西 @saenishi_sunayori

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