17.5 恋する乙女は微笑んだ ※三人称
美しい清水がサァサァと流れ落ちては花のように咲き乱れ散り果てる滝つぼの中、千早は憂いを帯びた瞳で物思いにふけっていた。
さらりと流れる濡れ羽色の髪も美しい彼女の心を占めているのは、一年前の夏にただ一度であったのみの、陸人の少年であった。
短く刈り込んだ鋼のような髪も、よく鍛えられた日本刀のように美しい切れ長の目も、艶を帯びた健康的な褐色の肌も、発展途上ながら見事なバランスで筋肉を纏わせた足も、すべてが思い出すだけで少女の胸に甘い痛みを走らせてやまないこの世で唯一無二。
手当ての礼もせず立ち去る無礼も、血族しか立ち入ることのできない神聖な滝つぼに無遠慮に落ちてきた蛮行も、千早にとってはもはやどうでもいいことと成り果てている。
あの少年が欲しくてたまらない。
名前すら知らない相手にそう思うことを、運命と言わずして何と呼べばよいのか。
世間的には箱入りと呼ばれる立場であり、なおかつ運命至上主義しかいない環境下で育てられた彼女がそう結論を出したのは、至極自然の事だった。
昼も夜も、果ては眠っている間でさえ、少女は常に彼のことを思い続けた。
そんな彼女に、家令がひとつの報せを持ってきた。
「お嬢様。先日お世話になった海の方から小包みが届いております」
「あら? なにかしら」
小首をかしげた雪花石膏の頬の上で、絹糸のようなぬばたまがさらりと流れる。
増水した川に流され、、海まで流れ着いてしまったことは記憶に新しい。
うわさに聞いていた海は塩辛く、体が強く浮かび上がり、そしてなにより驚くほど深く広い場所だった。そこで暮らす人々も、どこか閉塞感のある川とは違い、いつだって飛び回る鳥のように自由な気質をしていて、迷い込んでしまった千早にもとても親切にしてくれた。
大人たちにとっては大切な幼子が目の前で流れていった大事件であるこの出来事も、それまで縄張りであるこの一帯から出たことがなかった幼い少女にとっては心躍る冒険として鮮やかに心に焼き付く思い出として刻まれていた。
「数日前にお嬢様の忘れ物があったというお電話をお受けしておりますので、その品ではないかと」
記憶を探り、物思いの合間に声をかけられたような気がする、と曖昧に頷く。
「そういえばそんなお話もあったわね」
「今お渡ししますか? それともお部屋へ?」
「……そうね、今貰おうかしら。ちょうど戻ろうと思っていたの」
水から上がり岩の上に腰かけると、丁度両手を合わせたくらいの包みが恭しく差し出される。ありがとう、と笑いかけて受け取れば、予想外の軽さが腕に伝わった。
差出人は海で千早を保護してくれた家にいた、同い年の真珠色の少女だ。快活さと妖しさを併せ持った魅力的な彼女のことをすっかり好きになっていた千早は、まあ! と喜色を帯びた声をあげる。
けれども、一つ不思議なことがあった。
(忘れ物なんてしたかしら……?)
あの日、千早は龍を目指して荒れ狂う濁流の中に飛び込んだ。
当然、余計な装飾品は自室に置いてあったし、海から帰るときも忘れ物がないか念入りに従者たちが調べたのだ。見落としがあったとは思えない。
「それに乙音ちゃんったら、お家にじゃなく千早に直接お電話をくださればいいのに」
せっかくお友達になったというのに、と柔らかな頬がぷっくりとむくれながら包みを解いていく。家のものに見られたらはしたないと叱られてしまいそうだけれど、家令も別件ですでに立ち去った今、この場にいるのは千早しかいない。
ころん、と爽やかなライムグリーンが膝の上で転がった。
「これは……石? と、お手紙ね?」
拾い上げて木漏れ日にかざしたその石は、奇妙な形をしていた。
まるでお山の形に切り出したように、あるいは涙の形を縦半分に割ったように、半月というには下膨れで、三角というには丸くて歪な形。
こんなものを自分の持ち物にした覚えはないけれど、と思いながら手紙をあらためる。
「封筒が、二つ……? ああ、こちらは乙音ちゃんね。こちらは……」
海色の封筒に真珠色のキラキラ光る文字は宛名を見ずともだれからかよくわかった。けれど、その下に潜ませるように重なっていたもう一通は見当もつかない。
淡く静かな朝焼けの色に似た薄桃色に小さな箔押しの星が散ったその封筒に、差出人の名前はない。けれど、すっと胸がすくような柑橘のいい香りがする。
まるで、あの日の彼のように。
思い至って、千早の胸が強く高鳴った。
まさか、ひょっとして。とはやる胸に指先が震える。
出来る限り丁寧に、丁寧に、万が一にでも汚してしまわぬように、けれども一秒でも早く――そう、鼓動にせかされて封筒を開く。
かさりと広げた便箋に綴られていた文字に、少女はいよいよ息をのんだ。
『拝啓
名前も知らない、あの日のあなたへ』
けして上手いとは言えない、字から緊張が伝わるような歪な文字で綴られたそれ。けれど、どんなに美しく大きな金砂よりも、彼女にとっては価値のあるものだ。
一気に体温が上がり、頬はおろか耳までが赤々と染まる。あまりの嬉しさに、その場で飛び跳ねてしまいたくなる。あまり大きく動いては大人たちが駆けつけてしまうと沸騰した頭ながらに必死にこらえながら、千早は手紙を胸に掻き抱いた。
「まぁ! まぁ! 乙音ちゃんったら……! 約束、守ってくれたのね」
あふれ出す歓喜の合間で、真珠色の少女の言葉が反響する。
『みかんの香りがする背の高い男の子?』
『同じ学校にいたような……。調べておくよ』
『うまくいったら唆してみるから、楽しみにしておいてよ。千早ちゃん』
珍しい一本の尾びれを器用に揺らして笑った彼女に感謝を捧げながら、少女はいっとうお気に入りのレターセットを取り出すため、滝の奥にある自室へといそいそと、怪しまれない程度に速足で戻っていった。
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