2.5 無敵少女の秘密 ※三人称 ※流血・残酷な表現あり

 ゆるりと、目を瞬いた。

 豊かな水音と入道雲の明るい空、水の中にいようと容赦ない熱気がちりりと頬を焼く。

 乙音はぐっと背伸びをすると、最近よく遊ぶようになった少年と目を合わせた。

 線の細い少年だ。

 大人しく真面目な優等生といった風情の黒髪に、陰鬱な影がかかった物憂げな黒目、血の気の薄い頬はほっそりとして薄幸の美少年と捉える人間もいるだろう繊細な容姿をしている。

 けれど、そういった容姿は乙音という少女にとってはどうでもいいことだった。なんだったら、彼が陸に住むもう一つの人類であることも、車いすに乗っていることも、どうだっていい。

 周囲に同じ形をした人間がほとんどいない、稀な形をして生まれてきた少女にとってはすべての人間は均一に同じものに見えていた。

 それはあたかも、神や妖怪といわれる存在が周囲を見渡すような、透明な視線であった。

 だから、彼に声をかけたのも最初は気まぐれだった。

 なんだか詰まらなさそうな顔をしているから、今にも死んでしまいそうだから、そうされたら通行の邪魔だから、人が目の前で死ぬところを見たら明日のご飯が美味しくなくなりそうだから。

 適当な理由をいくらでも当てはめられるほど、理由のない行為だった。

 いつも通りにすこしだけ親切そうで、愉快で、明るい道化の顔を選んで話しかければ、少年は鬱陶しそうにしながらも乙音と遊んでくれた。


 予想外だったのは、睦月と名乗った少年が自身に懐いたこと――ではなく、乙音自身も彼に対して均一以上の面白さを感じたことだった。


 乙音にとって、家族以外で平らではなく感じた人間は、睦月が初めてだった。


 ただ陰鬱なだけかと思えば、同年代では生きにくいだろうくらいに頭がよく回るし、抱え込んでいるもののせいで口は重いが、好奇心は旺盛。勘がいいのか、感受性が高いのか、どうにも乙音の本性を見抜いている節がある。

 道化の顔に懐くならともかく、そこまで察しておきながら親しんで来ようとするものはこれまでいなかった。

 姿かたちも相まって、乙音の深淵に気づいた人間はいつだって――乙音を恐れた。

 それを悲しいと思ったことはない。当然のことだから。

 すこしだけ、寂しいだけだ。

 そう思っていたところにやってきた奇異な出会いに、上機嫌にならないはずがない。

 少年が少女の存在に救われたように、少女もまた彼の存在に救われていた。

 深度や粘度の差はあれど、それは想いの多寡ではなく互いの性情によるものであり、それを理解しているからこそ彼らは対等な友となれた。

 ゆるやかに、穏やかに過ぎていく日々は心地いいものだった。

 

 少年が何かに怯え、苦しんでいることを少女は知っていたが、あくまで自分には関係のないことだと思っていた。

 この複雑な少年の在り様自体が少女にとっては好ましいものであり、その一部である葛藤もまた愛でるに値するものであるからこその、傍観であった。

 

 だからこそ、今日この日、少年の目の奥に見えるものを乙音は許すわけにはいかなかった。


(『蟲』がいる)


 夜空を思わせる目の中に、うぞうぞと落書きのような『蟲』が巣食っているのを、見つけてしまったから。

 

 乙音は、生来他の人間に見えないものが見えた。

 尾びれ持ちであるが故かという疑念を抱いたこともあったが、集落にかつていた先達の尾びれ持ちにも見えていなかったから、おそらく個人の特性に由来するものであろうということは知れた。それが、幻覚であるという疑いは微塵も持たなかった。

 『蟲』は乙音が見えていると気づくや否や、必ずと言っていいほど襲い掛かってきて実際に危害を加えてくるという厄介極まりない性質を持ち、生傷を負ったことが無数にあったからだ。

 それだけなら無意識の自傷とも考えられたが、避けた場所にあった岩礁が削れるといった実害を何度も目の当たりにすれば、もう迷う必要はなかった。

 在るということを認識してすぐに、それを『蟲』と呼称することにした。

 必要はなかったが、それが正しいことだと少女は知っていた。

 春の後に夏が来るように、雨は天から降るように、生きるためには呼吸が必要であるように、誰に教えられることもなく正しいことをそれと知る本能が少女には宿っていた。

 『蟲』を観察するうち、乙音は一つのことに気づいた。


 それすなわち、アレは人の心を食らうものである。という事実に。


 すっと琥珀色の目が剣呑に光る。

 ――『蟲』に心を食われたものは、在り様が歪む。

 例えば、穏やかで心優しかった隣人は他者を苦しめることを厭わない非道な男になり嘆いた身内に説得され死んだ。

 例えば、美しいものを守るために脅威に立ち向かっていた気高い戦士は美しいものを独占するために連続通り魔になり牢の中で死んだ。

 例えば、生真面目でいつだって懸命だった隣のクラスの少女はあらゆるものに怠惰になり最期には生存すら諦めて鮫に食われた。

 例えば、誰も手の付けられない暴れん坊だった不良少年は大人しくなった末に海底のガス噴出口に身投げして死んだ。

 

 正が邪になるにしろ、邪が正になるにしろ、歪むというのはひどく生命のバランスを欠くものらしく、アレに宿られたものは必ず狂を発して死んでいった。

 それが『蟲』の生態によるものであるならば、なんてことはない。人が魚や豚や牛や鳥や植物の命を喰らうように、あれもまた人間を食らっているだけだ。生命の当たり前のサイクルとして、自分に向かってこないものは乙音も見逃す気でいた。

 けれど、乙音の直感はそれを『正しいこと』として認識しなかった。

 『蟲』は命ですらないと、少女の中の何かが叫んでいる。

 情報なんてそれだけだ。けれど、それで乙音には充分だった。

 

 彼女は目の前に『蟲』が現れたなら容赦せず、駆除することを選んだ。

 

 『蟲』の正体が何かはわからない。知る気も無い。必要ならばいつか答えが目の前に現れると、少女は知っているから。

 川が海へと流れていくのと同じくらい自然な行為として、半ば自動機械のように体に染み付いた作業を開始しようとして――事は起こった。

 

 普段と何が違っていたのか、乙音にはわからない。

 いつものように手を伸ばし、いつものように自分に食らいつこうとした『蟲』を引きちぎる。ただそれだけのはずだった。

 ひょっとしたら、初めてできた身内以外での『お気に入り』が関わっていたから、少しばかり怒っていたかもしれない。

 もしかしたら、そもそも睦月に巣食っていた『蟲』が普段引きちぎっていたものとは質の違うものだったのかもしれない。

 そんなあらゆる『いつもとほんの少し違うこと』が積み重なった結果かもしれない。

 理由の答えは誰も知らないが、ただひとつ、誰の目から見ても明らかな事実として、言えることがある。

 

 ――『蟲』は、睦月の体を使って乙音を殺そうとした。

 

 ごみを取るふりをして手を伸ばした少女の腕に巻き付くはずの不可視の蟲は、睦月の目から飛び出すことはなく、少女の耳にだけ届く声で甲高く嗤った。

 次の瞬間、明らかに動揺した表情の睦月が、その表情のまま乙音の首に手をかけた。

 華奢な部類に入るはずの少年の腕で振るえるとは思えない膂力で、真珠色の体が陸に引きずり出される。それはさながら放り投げるような乱雑さで、小さな肢体がしたたかにコンクリートの地面にたたきつけられた。

 衝撃を受けると呼吸が一瞬止まるのは、陸人でも水人でも同じことだ。

 上手く息ができない乙音の体の上に、車いすからずるりと這い降りた睦月の体が馬乗りになって伸し掛かる。

「いやだ、どうして、なに。これ」

 ぼたぼたと、睦月の夜色の瞳から零れ落ちた大粒の涙が乙音の頬に降り注ぐ。

 乙音は舌打ちしたい衝動をこらえ、咳き込むばかりの口で強気に微笑んだ。

「そんな、に泣かなくてい、いよ。わたし、死なないから、さぁ」

 ぎちぎちと、首にかかる力が増していく。首に指が食い込むのを感じながら、少女はこんな時でも淡々としている自分に内心吹き出しそうだった。

 こんな時でさえ、自分は人間らしくなれないのかと、心底絶望しながら。

(本当、わたしって『何』なんだろう)

 そんなことを思いながら、乙音と名付けられた真珠色の少女は――少女の形をした『何か』は、少年の腕をつかんだ。


 ぬるりとした感触が掌に伝わる。


 頬に肩に落ちた血の、鉄臭い臭気が少女の鼻をついた。


 もう随分と前から、筋肉量にも耐久性にも見合わない膂力を無理やり発揮させられている彼の腕は、あらゆる場所から自壊を始めていた。頬に降り注いだ涙の中にも限界を訴える血涙が混ざっている。

 当然の結果だった。

 水圧や強烈な水流に耐えるため、水人は陸人の肉体よりもずっと強い肉体を有している。同じような形をした二本足同士でもその差は歴然としており、肉体による優劣が序列となりやすい幼少教育においてはもしもの事故を防ぐため、水と陸の教室はわけておくことが法律で定められてるほどだ。

 ――ましてや、海獣と同じような下肢を持つ乙音はなおのこと。

 集落の誰よりも深く潜ることができる肉体だ。首は筋肉が薄く他の部位に比べれば弱いとはいえ、人体の仕組みも理解していないような存在が素手でどうにかできるようなものではない。

 

 琥珀色の目がゆっくりと瞬いた。

 天から雨が降るように、太陽が東から西へ往くように、少女は正解を悟る。

 悟ってしまった。

「……これはさすがに、怖がられちゃうかもなあ」

 べしん、と重く尾びれが地面を叩く。呆けたようにつぶやく表情は年相応に幼い。


 その首には依然として、血まみれの手がかかっている。


 腕を掴んでおきながら引き剥がせずにいる理由は二つ。

 一つは、掴んだ腕があまりにもぼろぼろで、下手をすれば千切れてしまいそうな有様であったから

 もう一つは――友人の表情が、あまりにも不安げだったから。

 怪異に体を操られ、そのうえで意識もある。そんな生き地獄の中で不安でない生き物など同種の怪物か、それに挑む英雄だけだろう。通常ならば、同情し、共感し、義憤にかられるなり、怖気づくなりするしかない。


 けれど、乙音の精神は怪物或いは英雄と呼ばれるものに分類されるものだった。

 故に、少年の恐怖に引きずられることなく思考できる。


 けれど――彼女がたとえそういう存在であったとしても、まだ経験の足りない幼子であることもまた、覆しようのない事実だった。


 何をすればいいのかはわかる。

 どうすれば自分も睦月も助かる道に至るか知っている。

 それでも、『初めてできた自分の深淵を恐れない友人に恐怖されるかもしれない』という可能性を踏み越えて行動することに、乙音は戸惑いを覚える。

 それは、少女自身でさえ気づいていない、人間性の発露であるとも言えた。それが胸に起こした小波は、いつか大波となるかもしれない。

 しかし――それは、今ではない。


「ごめん、にげて」


 逡巡は、そのか細い声が耳に届いた瞬間に、終わった。


「……そっか」

 急速に頭が冷えていく。

(自分の事ばかり考えているから、気づかなかった)

 痛みがあるのだろう、辛いのだろう、苦しいのだろう、負担が限界を超えているのだろう。掴んだ腕がずっとぶるぶると震えているのは、そんなことからくるものだと少女は思っていた。

 それらは決して、不正解ではない。どれもが正しく、けれども最も大切な原因が抜け落ちていただけのこと。


「きみ、わたしを守ろうとしているんだね」


 天から雨が降るように、そして――雨粒が一点に落ち続ければ岩をも穿つように。当然の理として、どれだけ貧弱だろうと、人種の差があろうと、採算度外視の馬鹿力で首を絞められ続けていたならば、死なないまでもとっくに窒息なり静脈閉塞なりで昏倒していても可笑しくなかったのだ。

 それが起きていないということは、手加減をされていたということ。

 今も少年の目の奥で激しい殺意を掲げている『蟲』が手加減などするはずもない。

 ならば、それを為しているのは、睦月に他ならない。

 

(弱いくせに)

 乙音にとって、世界は平らだ。

 遠く空高くから見下ろせば海も山脈も平らに見えるように、あらゆる人間は等価値に愛おしい。

 ――それは、性質であると同時に、自分が強い生き物であるという自覚があるから。

(自分のことでいっぱいいっぱいのくせに)

 そこを初めて超えてきた、家族以外の人間は特別だ。

 そう自分が定めたから、特別だ。

 ――それは、傲慢であると同時に、自分の特異性に食い殺されないようにするための自衛策。深く関わるものが少ないほど、傷つくことは減るから。

 

 エゴの塊のような自分の理念を覆すことはない。

 しかし、それを掲げる以上は果たさねばならない義務があることを、少女はこの瞬間自覚した。胸がすくような爽快さが全身を満たす。


 乙音はこれまでの人生のなかで一番柔らかく、微笑んだ。


 掴んだままだった友の腕から手を放し――血みどろの手でそのまま少年の顔面を鷲掴む。くぐもった声が掌を濡らした。


「嫌ってもいいよ。呪ってもいい。わたしに関わったから、おかしくなったんだと恨んでも構わない」


 親指と人差し指の間から覗く、涙目になった夜色の瞳に静かな声が注がれる。

 馬乗りになっているのは未だ少年の方だというのに、すでに主導権は少女が握っているも同然という異様な空気が、二人以外の誰もいない水辺に満ちていく。


「きみが嫌っても、遠くから勝手に友達だと思っておくから」


 見開かれた目の黒色に、空いていたもう片方の手を突き付ける。


「だから、睦月は睦月らしく、生きていて」


 そして、少女は親友の瞳に指を突き立てた。


 正しく言うならば、瞳の中のように見える『蟲』の巣へ、無遠慮に指を侵入させた。血が溢れることはなく、肉の感触もない。ただ木の虚に指を突っ込んだような、奇妙な感覚が指先に伝わる。爪の先に触れたうぞうぞと動くものを何とか人差し指と中指で挟み込む。

 驚愕のあまり後ろ向きに倒れていくその体を追うように起き上がり――勢いよく、挟み込んだ『それ』を引き抜いた。

 おどろおどろしい音を立てて、睦月の目どころか体の中に納まるはずもない大きさの『蟲』が、眼窩から引きずり出されていく。

 少年の身長の倍の長さ、太さは一番細いところで小指程あり、最も太い部分では大人の胴よりも太いその『蟲』が落書きのような手足を開閉させる。最後にひと足掻きしようと言わんばかりに強く体を捻った『蟲』の胴を、力強く振り上げた尾びれで叩き潰す。

 敵うはずもない一撃だ。けれど、その一撃は『蟲』の活動を粉砕する。

 ――乙音は知っていた。『蟲』は実際に人体に住み着くわけではなく、人体と重なる何か透明で小さな袋状の物の中にいて、そちらに触れる分には人体を傷つけることはないことも、『蟲』には一撃入れればその威力に寄らずかならず破壊できる紋様がかならずあることも。


 誰に教えられることもなく、生まれた時から、知っていた。


 そして、これが実際に眼窩に指を突き立てるその瞬間まで、突き立てられる側に尋常でない恐怖を与える手法であることも、知っていた。

 常人と異なる感覚を持つとはいえ、乙音は別に加虐趣味でもなんでもないのだから、できれば避けたい手段だった。


 ぐったりと倒れ伏し、意識を失いかけている睦月を見下ろしながら、乙音は懐から一つの石を取り出した。

 血のように紅い、星のような形をしたそれは、誰にも見せたことがない乙音の秘密道具だった。たまたま海の底で見つけたこれは、広く知られる空気石と同じように不思議な特性を持っている。


 その特性は、生物無生物問わず、あらゆる状態を回復させること。


 医者や学者に見せれば世界がひっくり返るようなものであることくらいは、正解をわざわざ悟るまでもなく、小学生の頭でも容易に思いつくものだ。

 よって今のところ世界をひっくり返す予定はない少女は、ごく個人的な用事でしか使用しないことにしている。

(さすがに治さないと死んじゃいそうだしなあ)

 周囲に誰もいないことを確認し、石をあてがう。時間が逆巻くように血みどろだった姿がきゅるきゅると巻き戻っていくのを見つめていれば、ぴくりと睦月の瞼が動いた。

「……起きた?」

 さて、何と言ってごまかそうか。石を懐にしまいながら考えているうちに、睦月の目がいつもの陰鬱な光を帯びて瞬き、きょろきょろと辺りを探るように眼球があちらこちらへ向き始める。

 そして、迷子のようだった目と少女の琥珀色がぱちんとその視線をかみ合わせた。

 ただでさえ血の気のない頬が青ざめていく。

 震える体に、怯える唇。予想通りの光景だ。

 乙音はあきらめたようにため息をつき、微苦笑を浮かべる。

 睦月の声が痛めつけられた動物みたいに悲痛に響いた。


「きみといると、ぼくはおかしくなる」


 乙音がいいよと許した言葉を、混乱のままに投げつけて、その投げつけた言葉で自分自身が傷つくみたいに表情を歪めていく。


(睦月がそんな顔をする必要はないのに)

 思う言葉は、乾いた喉を通らない。

 

「もう、ぼくに関わらないで」


 そう吐き捨て、車いすにしがみつくように腰かけ去っていく少年の背を見送りながら、英雄未満の少女は笑みを消す。とても笑っている気分ではなかった。


 『蟲』を駆除された宿主は、寄生されていた間の記憶を失ってしまう。

 残されるのは、本能にこびりついた駆除者への恐怖のみ。


「嫌がらせなんだね、これ」


 今さら分かったよ、とひとりごちて少女は水路の奥に潜った。呼吸が続く限り、沈んでいたい気分だった。


(睦月の目はここの所毎日見ていたから、寄生されたのは今日だよね)

 これまでの交流の記憶を奪われなかったことを喜ぶべきか、今日を最後にそれが途絶えてしまうことを嘆くべきかの判断がつかない。

 ごぽりと大きめの水泡が口の端から漏れた。

 

(……って、あれ? これ、睦月の方がまずいのでは?)


 泡の中に鬱屈を預けたように、少女の頭が冴える。

 あの陰気な友人からしてみれば、これまでなんともなかったのに突然懐いていた友人への態度を自分勝手に急変させてしまった上に、その理由も自分自身ではわからない。という混乱必至の出来事が起こったことになるのではないか? と思い至った乙音の顔がざっと青ざめた。

 普段前向きな人間ならまだしも、睦月は何かに悩んでいる最中だ。しかも基本的な性格も陽気とは言えず、けれども責任感だけは人一倍強い。

 そんな人間がこんな出来事に遭遇して――果たして、罪悪感を感じずに思い出の一つとして処理できる日が来るだろうか。

(無理そうだよね)

 下手すると折角止めたというのにどこかで自殺しかねない。


 乙音がとれる選択肢はそう多くない。

 見捨てるということを端から選択肢に入れない以上、自殺しないようつけまわして陰ながらに助けていくか、睦月の記憶に合わせて『突然暴言を吐かれたけどまったく気にしていない人』を演じるかの二択と言える。


(つけまわしたら気配で不眠症とかになりそうだしなあ……)


 睦月の過敏さを思えば、前者は存在しないも同然だ。後者だって、刻み込まれた恐怖心が罪悪感に勝ってしまえば意味がない。

 だから、乙音は賭けをすることにした。

 勝てなければそこまで、お互い傷つくことになる。きっと生涯これ以上は見つからない友人を永遠に失うことになる。

 それでも、信じてみたいと少女は賭け台に自分を載せた。


 翌日、なんとなく選んだ睦月が来そうな水路で泳いでいれば、やはりというべきか、いつも以上に陰鬱な顔をした少年が少女の目の前に現れた。

 茫然とした様子の彼に、なんてことない声で声をかける。

 

 いかにも、たまたま泳いでいただけというように、舞台の上に踊り出る。


「あ、むつきんだ」

 

 どうか怯えないで、まだ友達でいて。

 ――わたしにきみを守らせて。

 そんな願いを込めながら、少女はいつも通りに笑ってみせた。

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