番外編(時系列はナンバー準拠)

0. きみと出会う一瞬前

 蝉の声が降っていた。

 車いすの重さに四苦八苦しながら車輪を転がせば、汗がまた一滴、一滴と顎から落ちて膝で跳ねる。

 景色は全然変わらないくせに、頭の上から降ってくる大音量と太陽の騒々しい熱に後押しされて、額から顎を伝って、はたまた首を伝って、膝の上に水たまりができそうなくらい汗がびしゃびしゃ湧いている。横を流れる水路に落ちたと言っても信じてもらえそうな位だ。


(ほんっと、暑くて嫌になる)


 湧いてくる汗を拭おうにも、つい数日前に腰かけ始めたばかりのこの器具の操作にぼくはまだまだ慣れていない。そんなことをすれば、微妙に緩やかな上り坂になっているこの道を逆走することになるのは目に見えている。

 というか、昨日うっかりそれをやって二度この坂を上るはめになった。腕が筋肉痛になりかけたし今も回復しきっていないのだから、絶対にやりたくない。

 たった数日のことではあるが、こういった器具で激しいスポーツをこなしている人の腕が逞しく引き締まっているわけだと、小学生ながらに思ったりもしている。


(だいたい、こんなの用意しなくたっていいのに)


 ようやくわずかでも勾配のない道までたどり着いて、額からだらだらと流れ出す汗を腕でぐいっと拭い、息をつく。

 この車いすは、よく言えば両親の愛であり、悪く言えば短慮の結晶だった。

 両親は善性の塊のような、いわゆる『いいひと』だ。

 誰かを悪く言うこともなく、困っていることがあると見れば助けを出し、自分が損をしてでも他人の世話をする。そう言ったことを当たり前にやってのける人たちだ。姿勢やその性質自体は尊敬に値する。

 けれど、その善性と引き換えにしたように、いささか頭の良さというものとは縁がない人たちである。ということも、この十年近くを彼らの子供として生きてきて認識せずにはいられない彼らの性質でもあった。

 こんなことを言うと、『まだ成人には程遠く、親に養われている身でなんてことを言うんだ』と怒り出す人がいるかもしれない。けれど、夏祭りで掬い上げた金魚を何も調べず水道水へ投げ入れて、弱っていく様を見ながら「大きいところに移してあげたのになぜだろう」と首を傾げるだけの姿を見てから言ってほしい。

 庭に金魚を埋めるための穴を掘った日の、夏のくせに妙に冷え込んだ空気を今も覚えている。

 ぼく自身が調べるという行為を知っていれば、こんな目に合わせることなどなかったのだ。後になって借りてきた飼育方法の本の前でうなだれた時に頭から伸し掛かった、後悔や腹の底に落ちていく無力感と名付けられるべき感情の温度を忘れてはいない。

 善意も知識がなければ、命を奪うことがあるのだと、ぼくは知ったのだ。

 

 そして今、ぼくがこんなにも汗をかくはめになっているのもまた、両親の無知なる善意によるものだった。

 ぼくをこの車いすの上に置いた症状は、足を少しばかり激しくひねった。ただそれだけだ。病院でもまずは松葉杖を渡されたし、それで十分だと言われ、僕もその通りにしようと思っていた。

 だというのに、両親は『足がうまく動かないならこれが必要でしょ』と一直線に車いすを買ってきた。大げさだと、こんなものは要らないと言えればよかったものを、拒否しきれなかったぼくも、駄目なのだろう。けれど。


(二人がどうしようもなくなるのは、ぼくにだけ、なんだよな)


 そう思うと、拒絶しようとした口が縫い付けられたように動かなくなってしまう。


 ――少し前に、妹が生まれた。

 あの両親が本当に妹の面倒を見られるのかと不安に思った時期もあったが、不思議なことに両親の善性が先走った事件は今のところ起きていない。

 善性がなくなったとか、学習するようになったとか、そういうことではない。今も変わらず金魚事件のようなことは起こしている。

 けれど、こと妹のことに関しては、今まで一度もそれが発揮されたことはない。

 もちろん、妹が無事なのはいいことだ。

 まだふにゃふにゃとしている妹に、金魚の身に降りかかったようなことが起こっては大変だ。何も起こらない事に越したことはない。

 それでも、祖母から散々ぼく自身が幼児だったころに両親が巻き起こした善意からくる騒動を聞かされていたこともあり、どうにも首を傾げずにはいられなかった。

 第一子なんてそんなものだよ。というのは訳知り顔の祖母の言である。

 そんなものだろうか。自分を育てた経験があるから、二人はこうも落ち着いているのだろうか。そう納得しようとする自分がいる反面、どうにも『もしかして』を疑う自分が心臓に同居している。

 何度も振り払おうとしたけれど、この車いすを与えられたことでひとつ気づいてしまったことがあった。


(ぼくだけに、あの無知で無垢な――暴力的な善意は注がれている)


 妹という比較対象ができて、すこしだけ自分を外側から見られるようになってしまったぼくがたどり着いたそれは、鍵だ。

 然るべき場所に差し込めば、答えを指し示すようにできている。これまで無数にぼくに提示された情報の数を考えると、ジグソーパズルのピースと言ったほうが適切かもしれない。

 そしてぼくは、もうほとんど全景が見えていて、たった一ピースが欠けているだけのパズルを目の前にして立ちすくんだ。

 どう考えても、見方を変えても、そこにある絵図が変わることがない事実に、怯えるしかなかったからだ。

 本当なら今すぐにでもこの重たい車いすから立ち上がって、導き出された絵を両親に叩きつけるべきであるというのに。

 ――気づけばぼくは両親のもとに帰る道から逸れて、水路を覗き込んでいた。

 幸いというべきか『通行人』はいないらしく、凪いだ水面しかそこにはない。小さく唇を噛んだ自分の顔がくっきりと映り込んでいる。


(ぼくは、あの二人にとって)


 水底の暗い所へ頭から落ちていってしまいそうなくらいに、首が前へ前へと傾いていく。喉がカラカラに乾いていると、ふいに気づく。

 ――このまま、落ちてしまおうかな。

 そんな考えが頭をよぎった時だった。


 ぱしゃん、と水を打つ軽やかな音と共に、暗鬱とした頭を洗う、薫風を思わせる声がぼくの鼓膜を揺らしたのは。


 そうしてぼくは、真珠色に彩られた将来の親友と出会った。

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