最終話
それからしばらくは、アベル様は元気なご様子でした。
私との会話も少しずつ増え、朝日が上ると共に起きて身体を動かすようにもなられました。
私は正直ほっとしておりました。アベル様の体調が目に見えて良くなっているように感じたからです。
しかし、長年の不摂生に蝕まれたアベル様のお身体はすでに手遅れの状況だったのです。
ある晩、私が眠りにつこうとする頃に、アベル様の咳が聞こえてきました。
それはどこか悪魔の呼び笛のような、不吉な響きのする咳でした。
「アベル様、大丈夫ですか?」
様子を見に部屋に入った私のこともかまう余裕がないのか、アベル様は咳を吐き出し続けます。
私は急いで駆け寄り、お背中をさすります。
「アベル様、ゆっくりと呼吸を整えてください」
私は声をかけますがアベル様は苦しそうに胸を押さえ身体を震わせます。
一瞬、アベル様の動きが止まったかと思うと、次の瞬間アベル様は咳と共に大量の血液を吐き出しました。
「アベル様!」
布団は真っ赤に染まり、アベル様の目は朦朧としております。
私は立ち上がり、医師を呼ぶために部屋を飛び出しました。
戦場看護師として従事していた私ですが、このときはなぜかとてつもない恐怖と悲しみで心がいっぱいになっていたのです。
暗闇のスラムの道を、泣き出しそうになるのをこらえて全力で走りました。
診断を終えた医師の話では、今晩が峠だということでした。
診断結果を聞いた私は、受け入れられない気持ちでいっぱいでした。
出会った頃よりあんなにも元気になられたのに。私の脳裏にはふたりで食卓を囲んで会話をしたときの思い出がよぎります。
アベル様は鎮痛剤が効いたのか、今は落ち着いたようにすうすうと寝息を立てていらっしゃいます。
私はベッドの横に椅子を持ってきてアベル様のお顔を眺めています。
ひび割れた皺の目立つ、無精ひげのそのお顔が、今はどういうわけか少しだけ幼く見えました。
私はなぜか微笑んでいました。それがどういう感情なのか、私にも分かりません。
「ミミリア」
ふと、私を呼ぶ声が聞こえました。
アベル様の目がうっすらと開いていらっしゃいます。
「はい」
私はアベル様と目を合わせます。
「手を、握ってくれないか」
アベル様はかすかに右手を動かされます。
「はい」
私はその手を両手で包むように握ります。とても固く、冷たい手でした。
「ありがとう。君が来てからは悪夢を見ることは少なくなってきていたんだがな。それでも少し、怖いんだ」
アベル様がわずかに私の手を握ってきます。
「大丈夫です。私はずっとここにいますから」
思いを伝えるように私は両手に力をこめます。
アベル様は何も言わず、ただ少しだけ柔らかな表情で目を閉じられました。
私は、もうこの先アベル様の目が開くことはないと悟っておりました。
静かな部屋に、アベル様の寝息だけが響きます。
私は手を握ったまま、アベル様の呼吸に合わせて上下する胸を見つめておりました。
やがてその動きが不規則になります。
上がって、止まって、下がって、止まって。
呼吸の音が徐々に弱まっていく様を、私は見届けます。
そうして、ひときわ大きく胸が膨らんだかと思うと、アベル様の動きが完全に止まりました。
私は握っていた手を離し、アベル様の両手を胸元で重ね合わせると、一度だけその冷たいおでこを撫でました。
******
「ご苦労だったな」
後日、
「いえ。とても光栄なお仕事でした」
私は国王様に頭を下げます。
「そうか。・・・・・・私は彼に借りがあったんだ。この国の闇を、すべて彼に背負わせてしまった」
国王様はまるで独り言のように呟きます。
「褒美は何が良い? できる限りのことは叶えてやるぞ」
「それでは国王様。
******
「ママ! 洗濯物、干し終わりましたよ!」
ひとりの少女が私に笑顔を向けてきます。
「ありがとうルチ。それじゃあみんなの昼食の準備を手伝ってもらえる?」
「もちろん!」
あの日、ぼろきれを着ていた少女は、いまや立派にこの家の年長者として頑張ってくれています。
私は国王様に報酬として大きな家を頂戴しました。
維持費や食費なども国から支給されております。
私はその家を孤児院とすることにしました。
未だに続く戦争や、貧しさゆえに孤独になった子どもたちを引き取ります。
私はこの施設に名前をつけました。
――アベル・フォンダガーデン孤児院。
あなたの名前を冠したこの施設が、ささやかでもあなたの魂を癒やしてくれることを望んで。
あなたが英雄であることが、語り継がれることを願って。
【英雄の看取り士――完】
英雄の看取り士 飛鳥休暇 @asuka-kyuka
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます