ルサンチマンを数えて
祐喜代(スケキヨ)
ルサンチマンを数えて
安物のコートに昨日買ったばかりの数取器を忍ばせ、俺は午前中いっぱい寝て過ごした怠慢の籠もるアパートを出た。試しにコートの中で何度か数取器のボタンを押して、ステンレスが数字を刻む固くて冷たい手ごたえと小気味良い音を確かめる。コートから取り出して表示を見てみると、カウント数は「0007」だった。
昔から数を数えるのが苦手で、数えている時にちょっとでも何かに気を取られると、数えた数をあっという間に忘れてしまう。そんな俺にとって二千円と少々値は張ったものの、ボタンを押すだけで数を記憶する数取器はすごく便利な道具だった。リセットノブを回し、カウントをゼロに戻して再びコートのポケットに突っこむ。
四桁で九千九百九十九までカウントできる数取器。交通量調査のアルバイトくらいでしか見る事のないこの道具をプライベートで持っている人なんてほとんどいないだろうが、俺は、何故かこの数取器を前から無性に欲しかった。
日本では数字のデータを取らなくてはいけない、ごく限られた職種の人間にしか需要のない道具だけど、意外にも海外、特にサウジアラビアからは冬の時期になると日本の数取器メーカーに大量の注文が来るらしい。
遠いイスラム圏の国では日本に本格的な冷え込みがやって来る十二月のこの時期にメッカへ向けた巡礼が始まる。一日に何度かメッカに向かって祈りを捧げるイスラム教徒の信者は皆一人ずつこの数取器を携帯して、その祈りの回数を正確にカウントして、その従順な信仰心を神に示す。
向こうは大規模な砂漠地帯で中国あたりの安い数取器だと中に砂が入ってすぐ壊れてしまうから、イスラムの人たちは丈夫な金属で精巧に出来た日本製の数取器をこぞって買い求める。日本ではさほど日の目を浴びない道具だが、イスラム圏では人々の厚い信仰心を支える立派な道具として存在している。
そんな目に見えないイスラム教徒の信仰心のように俺にもこれで数えておきたいものがある。それはいつも予期せぬところからふいにやって来て、常に俺の周りに渦を巻いて俺を不快にさせる世の中の悪意だ。
指折り数えていたらキリがないその悪意を今からこの数取器で一つ残らず正確にカウントする。
(五十で必ずだ。五十になったら必ずやってやる……)
俺は一人そう呟き、すぐにカウントできるようコートのポケットの中で数取器を握ったまま、彼女にあげるクリスマスプレゼントを買いに午後の吉祥寺の街へ向かった。
狭い土地に凝ったデザインの家を構え、どこもやたらとペットを飼いたがる金持ち連中の住む住宅街を抜け、木の葉を残らず枯らしてすっかり冬支度をした井の頭公園への細い坂道を下る。
公園に入ると木々の間から大きな池とそこに浮かぶスワンボートの頭が見え、休日の余暇を過ごしに来た大勢の人たちの喧騒がどっと溢れてくる。冬の乾いた空気と時折吹く冷たい寒風が俺の敏感な肌に不快感を与え、季節が運んできた自然の悪意に少しだけ苛立った俺の右手が早くも数取器を押しかけた。
カチリと音が鳴る寸前で公園の路面に散った紅葉の鮮やかな朱色が目に入り、思いとどまってボタンから指を離す。
(自然に悪意を感じるのはちょっと違うか……)
カウントするのは人間の悪意だけにして俺は浮き立つ園内を足早に歩いた。
井の頭公園は吉祥寺のシンボルとして、狭い土地に犇めき合って窮屈な暮らしを余儀なくされる都会人の憩いの場所だ。
池のほとりに並ぶ二人掛けのベンチと小洒落たカフェはカップルが占領し、池を周遊するスワンボートと動物には家族連れが群がって休日の来訪者数を増幅させている。それに加えた単独のアーティスト気取りたちが、池の中央の七井橋から朱塗りの屋根を持つ端麗な井の頭弁財天の社と逆三角形の噴水を狙ってカメラを構える光景が今日もあった。
他にも休日の井の頭公園にはフリーマーケットのブースが出ていたり、珍しい民族楽器の演奏やパントマイムなどのパフォーマーまでがノコノコと顔を出して自由を謳歌している。
まるで絵に描いたように平和で、青空と笑い声がよく似合うその都会のオアシス的公園を、俺も東京に住みはじめた頃はそれなりに楽しんでいたけど、東京の生活に慣れ、公園の穏やかで自由な光景が当たり前になってくると、だんだんとそこに他人への配慮と遠慮がまったくない悪意を感じるようになった。
今七井橋を通行目的で渡ろうとする俺の目には、溢れかえる人、人、人がただ行く手を塞ぐ障害物にしか見えない。橋は本来通行するためにある物で立ち止まって景色を眺めたり、語らいあって居座り続ける場所ではないのだ。道が空いている時ならまだ問題はないが、休日の混雑した橋でそれをやるのは具の骨頂というもので、自分が他人の通行の邪魔になっていても、みんなが公園の開放感にどっぷり浸かって平然としている。
呆けた顔でスワンボートを眺めたり、人間のおこぼれに与って肥えた醜い鯉や亀を過剰に愛でたりして自分たちの世界に浸り、それ以外の事はまったくお構い無しだ。
平日なら一分もかからずに渡り切るのに、休日の今日は橋の真ん中まで辿り着くだけでもう二分もかかっている。
俺は数取器の押しボタンに親指をかけ、横一列に並んでベビーカーをゆっくりと並走させる主婦連中と前を見ずに蛇行しながら橋を横断する学生カップル、それから橋の欄干に腰を下ろして上機嫌に酒盛りを始めた脂質の多い中年親父たちにそれぞれ一回ずつカウントをくれてやった。
橋を渡り切り、ようやく歩行がスムーズになったかと思うと、今度は前から無駄に長いリードを持って雑種犬を三匹も引き連れた爺さんがふらつきながらこっちに向かって来るのが目に入った。
嫌な予感というか、予測通り爺さんはてんでバラバラの動きを見せる犬たちをうまく操る事が出来ずに、網で魚を追い込むように三本の長いリードを俺の足に絡めて来た。身動きが取れなくなって進退窮まった俺は要領の悪い爺さんに舌打ちをかまして、リードから逃れるためにとりあえず思い切り足を上げた。体のバランスを崩して多少無様な格好になったがなんとかリードを避ける事は出来た。
呆れて振り返る俺を見た爺さんは申し訳なさそうに一瞬苦笑いを浮かべたが、それでよしと思ったのか、そのまま一言の謝りもなく立ち去ってしまった。あいかわずふらつく爺さんのその後ろ姿が妙にふてぶてしいうえに愚鈍で醜かったので、俺は爺さんのその一連の行動を完全な悪意として受け取り、四回目のカウントを入れてやった。
これ以上煩わしい事のないよう、人通りの多い商店街を避けて、ひっそりとした住宅街の小路から吉祥寺駅南口の丸井デパートの前に出る。
中央線と京王井の頭線が吐き出した他所からの買い物客で人口密度がぐんと高くなった午後の吉祥寺は見るからに煩わしく、俺は早くも外出した事をひどく後悔した。
新宿、中野方面からやって来た中央線文化圏の民族と、渋谷、下北方面からやって来た渋谷文化圏の民族が丸井前の小さい横断歩道で融合して渋滞を引き起こし、俺はいつもここで無駄な時間を喰う羽目になる。
泥濘にはまったように身動きが取れない渋滞の列に並んで薄汚れた雑居ビルと雑居ビルの間の路地を忍耐強く進み、息が詰まる駅ビルの中を深海にいるような心細さでなんとか通過して駅の北口ロータリーに出ると、二つの民族の列はここでさらに本領を発揮し、ゆっくりと肥大化しながらサンロード商店街アーケードの中へ入っていく。
井の頭公園を出てからここまでの道のりだけでもう四回のカウント。彼女のクリスマスプレゼントを買うだけなのに、これから目的地である吉祥寺のロフトにむかう間に一体どれだけ多くの悪意に出会うのかを考えると気分が重くなる。
(誰も俺をイライラさせんなよ)
俺は祈るような気持ちで渋滞の列を離れると、サンロード商店街には入らずに比較的人通りがましな吉祥寺大通りから多少遠まわりして目指す吉祥寺ロフトへ行く事にした。
北口ロータリーの広場は、大きなカーテン状のイルミネーションを中心に十一月の早いうちからクリスマスムードが漂っていて、今の時間帯はまだ点灯されていないが、夕方くらいにはメインストリートのあちこちで幻想的な電飾が点り、都会生活者のくすんだ夜を彩る。
高額所得者も低額所得者もみんな一緒になって浮かれるクリスマスシーズンは、キリストの誕生を祝う華やかなムードを無理やりにでも満喫しようと普段より大勢の人が盛んに街に繰り出して来る。
そんな群集の浮かれ気分は本人らの自覚していないところで思わぬ悪意を生み、敬虔なクリスチャンよりも慎ましく生きている俺みたいな人たちに多大な迷惑をかける。
欲望だらけの都会の夜は特に悪意が活性化しやすいから、俺はそれを避けるために日が暮れる前にプレゼントを買い終えてアパートに戻るつもりでいた。
吉祥寺大通りの歩道は無造作に駐車された自転車やバイクで歩きにくく、人とすれ違う際には互いに気を遣わないとすぐにぶつかってしまいそうになる。
俺は来る人、来る人に道を譲って、極力体が接触しないよう努力したが、何度か我が物顔でひたすら道を直進してくる通行人に肩をぶつけられ、数取器をカチャカチャ鳴らしながら苛立ちを抑えた。ポケットから取り出して表示を見ると、カウントはすでに十回に達している。
そんな状況に歯噛みしながらヨドバシカメラのビルの前のT字路を本町新道の方に曲がろうとした時だった。突然背後に強い衝撃を受け、右肘に電気が走ったような痺れを伴う痛みを感じた。思わず顔を顰めてその場に蹲る。
「なんだよ畜生っ、痛ぇなあっ」
肘を摩りながら前方を見ると、一台の自転車が猛スピードで走り去っていく。今にも人と接触しそうな危ういハンドル捌きで、本町新道とサンロード商店街がクロスした人の流れの多い横断歩道を減速せずに横切り、どんどん小さくなってすぐに見えなくなった。
乗っていたのは黒い地味なナイロンジャンパーを羽織ったいい歳をした大人の男で、きっと俺を追い抜くときに自転車のハンドルが俺の右肘に当たったんだろう。結構な衝撃があったから向こうもぶつかった事にはおそらく気付いたはずなのに、止まって謝るどころか何のリアクションもない。
自分の運転技術を過信したその傲慢さと他人を傷付けて平気でいられるその無神経さに第一級の悪意を感じ、こればかりは一度に三回のカウントをくれてやった。
(五十で必ずだ。五十になったら必ず……)
一定の間隔で波紋が広がるように傷む右肘を押さえながらゆっくり立ち上がる。痛みの波が来る度に、俺のネガティブな精神領域が慈悲の心をすっかり飲み込んで気持ちをずぶずぶと暗い方に沈ませていく。もうロフトに行くのもアパートに帰るのも億劫になり、痛みが回復するまでただしばらくそこに気だるく突っ立っていた。
日射しの弱い太陽があるだけの殺風景な空を見上げ、自分に降りかかる理不尽な仕打ちを嘆く。気分はとにかく重かったが、彼女へのクリスマスプレゼントに意識を集中させ、億劫な気持ちを無理やり引き摺るように再び歩き出した。
ようやく辿り着いたロフトの二階のバラエティ雑貨売り場はクリスマスに合わせた商品をメインに据えて、目がチカチカするほど派手なレイアウトにすっかり様変わりしていた。
店内は十代、二十代の買い物客で溢れ、恋人や友人らと豊富に揃ったパーティグッズをあれこれ物色する楽しげな声でやたらとガヤガヤしている。
「見て見てっ、このシルバーのデコ超派手じゃない?」
「っていうか、パーティのメンバーとかってもう決まってんの? 去年は内輪だけでやったじゃん。他のクラスの子も合流とかになると、いつものノリでいけないからテンション的にちょっと微妙だったりするんだよね……」
「どうする? 思い切ってこの二万するヤツ買っちゃう? 高いけどこっちの方がクリスマスっぽいしさ」
俺は断片的に耳に飛び込んで来る浮かれた会話を聞きながら、溢れかえる客を掻き分け、当てもなく店内をうろついた。
吉祥寺の街自体は地味な普段着でも気楽に歩けるが、ここロフトとパルコだけは渋谷のカルチャー色が強過ぎて、来るといつも冴えない格好をしている自分に臆してしまう。他の客には愛想良く笑顔を振り撒く店員たちも、地味なコートを羽織った俺にだけはなんとなく冷やかな視線を送っているような感じがして、すぐに居心地が悪くなるのだ。
ポップだ、ファンシーだ、スタイリッシュだ、と得意げに自分の持ち味を主張する雑貨たちの中に、果たして俺みたいにしょぼくれた人間が気負うことなく買える素敵なクリスマスプレゼントなんてあるだろうか?
俺は売り物をあれこれ手に取って眺めながら、自分の美的センスを総動員して彼女のプレゼント選びに励んだ。
(予算は三千円以内、形状は持ち運びが苦にならない軽くてコンパクトな物……)
ぶつぶつ呟きながら一通り二階の売り場を眺めたが、条件に見合った物が見つからないので上の階の売り場へと移動する事にした。「ねぇ、アタシキャスター付いてるバックも欲しいから二階もちょっと見ていこう?」
「えぇーいいよぉ、クミ選び始めると長いからさぁ。先に鍋買ってからにしようよ」
「いいじゃん、行こう行こうっ」
三階へ伸びる昇りのエスカレーター前に見た目の良く似たギャル二人が居座り、ステップに乗りかけた状態で話し込んでいた。二人ともフード部分にファーをふんだんにあしらった白いロングコートを着て、コートの下から派手なカラーストッキングを覗かせている。出勤前のキャバクラ嬢が仲良く一緒に買い物に来たって感じだ。
「じゃあ、アタシ三階に行ってるから、クミだけ一人でバック見て来なよ」
「ヤダよ。一緒に見ようよぉ。アタシ一人じゃ決められないしぃ」
エスカレーターの先頭に立つギャルのコートの裾を掴み、クミと呼ばれたもう片方のギャルが駄々をこねて引き止めようとする。俺が近づいても二人は周囲が全然見えていないのか、一向にエスカレーターを退く様子がなかった。
進路を妨げられて足止めを喰らった俺は二人の後ろに並んで、冷やかな視線を送りながら二人の面倒くさいやりとりを黙って見ていた。クミと呼ばれた方のギャルが「お願い、お願いっ」と懇願しながら足踏みする度に、ブーツのカツッカツッという音がやたらとうるさく、苛立ち始めた俺の神経がどんどん尖っていった。
馬鹿によって削られる俺の貴重な時間。
(ち、またかよ)
俺はうんざりした深い溜息を洩らしまた数取器をカウントした。本町新道からロフトの中に入るエントランスでも歩みの鈍い家族によって同じ目に遭わされていたから、ロフトに来てからのカウントはこれで二回目だった。
0015。十五個の悪意による十五回の不快指数を数取器は忘れることなく正確に刻んでいる。
愚民どもの悪意はこの先も際限なく俺を苦しめ続るんだろうか?
俺は一向に退く気配を見せない二人のギャルに一瞥をくれ、仕方なく階段を使って上の階を目指した。
三階の文房具売り場、四階の家庭用品売り場、五階のインテリア雑貨売り場と、俺は全フロアーを隈なく歩き回ったが、結局理想のクリスマスプレゼントを見つける事ができなかった。
徒労に終わったロフトを後にして、寒空に祟られて強張る吉祥寺の街に戻ると、普段あまり足を向けない東急裏のエリアを頼ってそっちへ移動する事にした。
吉祥寺通りの信号を渡り、中産階級の紳士淑女ばかりを好んで吸い上げる威風堂々とした東急デパートを横目に見ながら、東急通りの細い路地に入った。
老舗東急デパートの威光を借りて商業化が進んだこの辺り一帯はブランドショップやカフェなどが密集する吉祥寺のお洒落スポットだ。通りは紳士淑女好みの東急デパートが消化不良を懸念して飲み込まなかった若者たちで溢れ、車が来ようがバイクが来ようが、歩行者天国でもないのに馬鹿面ぶら下げて悠悠と歩いている。行く手を阻まれたドライバーにクラクションを鳴らされてもまったく悪びれた様子もなく、のんびりマイペースにふらふらと道を譲る。
公園然りロフト然り東急裏然り、若者で賑わうスポットはどこも変わらず悪意たっぷりだ。
俺は東急通りを東急デパートの真裏に折れて、雑居ビルの地下にあるヴィレッジヴァンガードに足を向けた。東急裏に設けられた広いオープンカフェスペースを極力無視して足早に歩く。
金にも時間にもゆとりのない一般の日本人が、欧米人気取りで寒々とした殺風景なビルの谷間でコーヒーを飲む姿がどれだけ間抜け臭いか。ファッションも喰い物も音楽も、あらゆる娯楽が外国の猿真似。洒落た名前が付いてるだけでありがたがり、ろくに吟味せずすぐに受け入れる。
コーヒーとジャンクフードの匂いが充満する路地の一画に居並ぶ人たちの娯楽に貪欲な浅ましい笑顔。俺は無視するつもりがしっかりとその醜態を視界に留めてしまい、胃のムカつきを覚えながらコートのポケットの中でほとんど無意識に数取器をカチャカチャ鳴らしていた。
防空壕に潜り込むような気持ちでコンクリート剥き出しのビルの階段を地下へと降りる。非難した先は暗く湿った土中ではなく、怪しいネオンを放って雑然とレイアウトされたサブカルチャーの地下世界だ。
パルコにもう一店舗あるヴィレッジヴァンガードに比べ、東急裏のヴィレッジヴァンガードは広くて品揃えが良い。俺は秘密の地下に埋もれた宝物を見つける気分で、彼女のクリスマスプレゼントを探すべく、店内の探索を開始した。
外国から輸入された玩具や菓子類、ファッション小物やインテリア雑貨などが、危ういバランスで犇めき合い、一見雑に見える商品のレイアウトには店のスタッフの遊び心とセンスが窺えて、ただ見ているだけでも楽しかった。
売れ筋商品からレアなアイテムまで手に取る物全てが興味深く、普段あまり物欲が湧かない俺の購買意欲を必要以上に掻き立てた。
スチームパンク風の置き時計、デニムのマガジンラック、クラシックなポラロイド、ロックバンドのTシャツと缶バッジ、不気味な顔が浮き出た貯金箱、アメコミのフィギア、映画のパンフレットとポスター……。
小さい頃テレビでよく見たアメリカのホームドラマに出てくる子供部屋のやたらと広くてポップな雰囲気に憧れていた俺は、手に取った商品を自分の部屋に配置させ、いろんなパターンのイメージチェンジを楽しんだ。
楽しい想像の反動で黄ばんだ障子戸と擦り切れた畳の十畳に兄弟三人詰め込まれ、段ボールやビールケースを組んだバリケードを境にいつも醜い領土争いを展開していた幼少期が恨めしい。大人になって自分で部屋を借りるようになってもそのスケールの小ささと貧乏臭さは相変わらずだ。非正規の派遣労働者として働く俺の微々たる稼ぎでは、部屋のインテリアに気を遣える余裕などあるわけがなく、考えれば考えるほど裕福でない我が身の境遇が虚しく思えるだけだった。
思考がどんどん暗いほうに沈んでいくので、俺は自分の物欲を捨て、彼女へのプレゼント選びに戻った。
(どれにしよっかな?)
店内奥の書籍が並んでいる棚に進み、端からじっくりと眺めていく。
カテゴリーを排除した本棚にはサブカル要素の強い漫画、小説、エッセイ、画集、写真集などが犇き合い、知名度の低さや内容の過激さで他の書店では敬遠されがちな本まで堂々と平積みされて売られている。店のスタッフが書いたユーモアの効いたポップが本の持つ魅力と個性をうまく引き出していて、本好きの俺の好奇心を煽ると同時にどこか嬉しくもあった。
俺が買い物する中で一番テンションが上がるのは本。本を買いに行く時が何よりも楽しいし、やたらと心が弾む。
日々の生活に必要な日用品を除くと、俺の物欲の八割は本に向かっていて、その他の娯楽に関する商品にはほとんど興味がない。
俺は全ての娯楽の頂点に君臨するのは読書だと思っている。読書ほど有意義な時間を過ごさせてくれる物って他にあるだろうか?
文字の綴られた薄っぺらい紙が何枚も折り重なって「本」という厚みを持った時に、そこには時間や空間の制限がない、無限の情報世界が広がる。そこにはある個人の人生が丸々詰め込まれていたり、とうに過ぎ去った過去の歴史や未だ見ぬ未来の事象までもが壮大に描かれていたりするのだ。
読書は真実も虚構も関係なく、この世のあらゆる知識を俺に与えてくれる。この世にある書籍の数は途方もなく膨大で、一生かかっても読み切る事は不可能だ。俺が一冊読み終わるよりも早いスピードでどんどん増殖を続け、紙媒体以外に形を変えてもおそらく未来永劫残る文化だ。
本がある限り俺はおそらく一生飽きる事がない。無人島に漂着して一人だけ取り残されたとしても本さえあれば孤独を感じずに生きていけるだろうし、無期懲役を言い渡され、生涯を獄中で過ごすことになったとしても本さえあれば退屈せずに生きていけるだろう。読書は俺にとって、食事や睡眠に匹敵するくらい大事な行為なのだ。
書籍の売れ行きがどんどん低迷している近年の書店状況において、あまり脚光を浴びる事のない本たちにスポットを当て、その楽しさや面白さを再認識させようとするヴィレッジヴァンガードの冒険的な姿勢に感心し、何か一冊買おうと、俺は彼女へのプレゼント選びをまたもそっちのけで本漁りを始めた。
気になるタイトルの本はとりあえず手に取って眺めてみる。出版社名と著者名を確認し、表紙カバーのデザインをじっくりと観察してから中を開いて目次の項目に目を通す。
興味深い項目があればその箇所のページだけ拾い読みしてみたりしながら、真に購入するべき一冊をじっくりと検討する。
本といえど新刊で買うのは高い。普段一冊百円の古本ばかり買い漁っている俺は、滅多に買う機会がない新刊を選ぶとなると事の他慎重になる。
一度読んだらそれでおしまい、なんていう一過性の付き合いの本ではなく、出来ればずっと手元に置いて繰り返し読みたくなるような本を買いたい。それには表紙カバーのデザインや本文内容ももちろん重視するけど、一目見た時に「これだ、この本だっ」ってなるような、ある種のフィーリング的なものを最重要視する。
一冊一冊丁寧に本棚を眺めていって、ふと絵本コーナーに差し掛かったときに、俺が買うべき強烈な存在感を放つ一冊が見つかった。
それは手のひらサイズの小さな絵本で、重くて暗い雰囲気を持つモノクロームの表紙には、黒い帽子を被ってコウモリ傘をさしている全身黒ずくめの死神みたいな人物と、それに寄り添う無表情な子どもたちが緻密な線のタッチで描かれていた。
絵本のタイトルは「ギャシュリークラムのちびっ子たち」。著者はエドワード・ゴーリーという、俺の知らない外国の作家で裏表紙には墓石か棺桶の固まりのようなものが描かれている。
タイトルと表紙だけではどんな内容かまったく想像がつかないが、子供が読むには相応しくない絵本のような気はした。
ゆっくりと絵本を開く。物語の始めに、誰かに宛てたような「ヘルネに」という一文があり、次のページから表紙の子どもたちと思われる、AからZまでのアルファベット順に並んだ二十六人の子どもたちの悲惨な運命が淡々と綴られていた。
―Aはエイミー かいだんおちた
一人ぼそっ、と呟くような短い文章。その文章の挿絵の中で白いワンピースを着た女の子が広い階段を滑り落ちていた。自分で滑って転んだとか誰かに押されて転んだとか、詳しい事は一切書かれていないが、哀れなその子のあっけない「死」のニュアンスだけは濃密に伝わって来た。
―Bはベイジル くまにやられた
次のページは山道かどこかで二匹の大きな熊に挟まれる男の子の絵だった。熊の脅威に怯える男の子の蹲った背中が物悲しい。男の子と熊が出会う経緯はやはり窺い知れないが、二人目の子にもあっけない死のニュアンスが濃密に漂っていた。
続くC、D、E、F、G……と、二十六人の子どもたちが次々に可哀相な最期を迎えていく。
―Lはリーオ がびょうをごくり
―Rはローダ あわれひだるま
―Zがジラー ジンをふかざけ
この絵本には他の絵本に見られる道徳的なメッセージはなく、漠然とした状況の中でただ子どもたちが死んでいく物語だけがある。現実の日常で起こっている子供の不幸なニュースの寓話であるようなこの絵本を読んでいるうちに、俺はどんどんゴーリーのブラックな世界観に引き込まれていった。四方八方に死が潜んでいるような言い知れぬ不安に包まれる感じがクセになり、たった二十六ページの物語を俺は繰り返し何度も読んだ。
(この絵本が意図するものは何だ)
夢中になって立ち読みしている俺の側を他の客たちが商品を物色しながら通り抜けていく。他の客が通過しやすいように十分通路を空けているつもりなのだが、中には露骨に邪魔臭そうな顔で俺を睨んでは、わざとらしく肩をぶつけていく者もいた。俺はその度に有意義な読書を中断され、その不快さに舌打ちをした。
(お前らはどうしてこうも他人への配慮がヘタなんだ。周りをよく見て行動しろよっ)
俺は絵本に目を向けながらも、まわりの客たちが放出する悪意に気を取られるたびに数取器をカウントした。
後ろを通過する客たちが俺に強くぶつかった回数と俺のすぐ横で立ち読みしている男の耳障りな咳の回数。それにその男が立ち去る時に見せた、売り物書籍への乱暴な扱いを含めた、合計七回のカウント。表示された数字は三十をオーバーしていた。
しつこく付きまとう悪意に辟易しながら絵本のあとがきに目を落とす。あとがきを読んでいるうちに俺はある事に気付いた。
悪意。この絵本にも目に見えない悪意がしっかりと存在している。
ゴーリーという作家がこの奇妙なテイストの絵本で伝えたかったテーマは俺が常にこの世の中に対して感じているものと一緒だった。絵本に登場する二十六人の子どもたちはこの世界が無意識に振りまく悪意の犠牲者として描かれていたのだ。
一番はじめの階段から落ちて死んだエイミーは大人たちが自分の体格や趣向にだけ合わせて設計した階段の、悪意ある傾斜と高さによって殺され、一番最後のジンをふかざけして死んだジラーは、酒好きの父親が娘の前で美味そうに酒を飲み、それを不用意にジラーの手の届く範囲に置いた不注意によって殺された。
(世界は悪意に満ちている)
俺は大人たちが無意識に吐き出した悪意によって死んでいった子どもたちの無念さを胸にしっかりと抱き、絵本をゆっくりと閉じた。
そして数取器を強く握り、ギャシュリークラムのちびっ子たちを死に追いやった悪意にしっかりとカウントをくれてやった。
悲嘆にくれながら店内を彷徨い、迷いに迷った末、彼女へのクリスマスプレゼントは店内に流れていたジャズピアノ曲のCDに落ち着いた。透明感のある切ないジャズピアノの旋律がいつもどこか物憂げなところがある彼女のイメージによく合っている気がした。
プレゼント用に可愛くラッピングしてもらったCDと運命的な出会いを感じさせたゴーリーの絵本をぶら下げて、俺は凍てつく夜の吉祥寺をあてもなく歩いた。路地から路地を彷徨い歩き、東急裏の奥に昔からある高級住宅街を一周して、人通りの多い中道通りに入る。
昭和の民家を押し退けるように参入してきたオシャレな雑貨屋が軒を並べる夜の中道通り商店街を歩いているのは暇つぶしのカップルばかりで、たまにその間を縫うように、地元の主婦が漕ぐ自転車が颯爽と走り去る。
時間が静止しているかのようにスローな人の流れに抗い、一人足早に通りの隅を歩いていると、飲食店の軒先から漏れてくる様々な料理の匂いにつられたのか、急に腹が鳴って空腹感をおぼえた。
昨日の晩に二食分のインスタントラーメンを啜って以来何も食べていない。非正規雇用の貧しい経済的理由から、食事は一日一食と決め、それもなるべく外食を控えて自炊を心がけるようにしていた。今日の晩御飯も家に帰ってから冷蔵庫の頼りない食材を駆使して何か適当に作って食べるつもりでいたが、突如やって来た空腹状態は足取りをふらつかせるほどに耐え難く、家に帰りつくまでに体力がもたないような気がしたので、気は進まないが今日は外食を許す事にした。
安ければ別に不味くても構わない。生命維持に必要なエネルギーを確保できればそれでいい。洒落た雰囲気もいらないし、気の利いたサービスもいらない。俺にとって食事は楽しみではなくただの義務だった。
中道通りに軒を連ねる飲食店の看板を一つ一つ見てまわり、自分の懐具合に見合ったメニューを提供してくれる店を探す。
和食、中華、イタリア料理、スペイン料理、
ベトナム料理、インド料理、タイ料理……。
吉祥寺の小規模な一商店街の、たかだが数百メートルしかないこの狭い通りには世界各国の食が溢れていて、俺はその種類の多さと決して安くはない値段に目が回った。店の中を見ても入っているのはその洒落た雰囲気にマッチした客層だけで、くたびれたスーツや薄汚れた作業着姿を快く受け入れてくれそうな様子はなかった。
俺みたいな日陰者が気兼ねなく入れそうなのは東急裏の新規参入の波に揉まれて風化の色合いを濃くした地元の定食屋か中華飯店くらいしかなかったが、油っぽいスタミナメニューばかりがびっしりと並ぶメニューに辟易して、仕方なく吉祥寺大通りにあるファミレスに足を向ける事にした。
夜になって人出の増えたアーケード街を空腹のイライラを引きずりながら歩くのは極めて困難で、些細な悪意をも感知しやすくなっている俺はファミレスに辿り着くまでの間に計六回のカウントを余儀なくされた。
家族連れで混み合うファミレスの待合席で三十分待たされた後、ようやく店員に四人掛けのボックス席に通されて腰を落ち着けると、俺はメニュー表を開くのも億劫なほど疲れ切っていた。体が沈みすぎないちょうど良い固さのソファシートと店内の暑すぎる暖房が微かに眠気を誘う。
俺は投げ遣りな感じでメニュー表を開くと、最初に目に飛び込んできた蟹の入ったドリアとコーヒーを注文した。ただソファシートに身を預けてジッとしていると、料理が出てくる間に寝てしまいそうな気がしたので、ソファから背を離し、テーブルに肘をついた状態で店内を見渡した。
ファミリーレストランの名の通り、客はほぼ家族連ればかりだった。一人で来店しているのは俺くらいのもので、時折ボックス席に定員オーバーの人数できつきつに詰めた家族たちが、一人悠々と四人掛けの席を占める俺に向かって、一人のくせにそんな広いところに座るなよ、とでも言いたげな恨めしい視線を送ってくる。俺はそんな不満を訴える家族と目が合うたびに視線を全然関係のない方向に逸らした。
どこを見ても単純で無能で凡庸な家族たち。安っぽい晩餐を囲んで抑えの利かない大声を出しながら、ハンバーグやらスパゲティやらをぐちゃぐちゃとその開いた口から下品に覗かせ、会社の上司の愚痴や近所の奥さんの悪口などを延々と披露している。
俺は席についてまだ間もないうちにもう居心地が悪くなり、注文した料理をキャンセルして店を出ようかとも思ったが、空腹の胃が定期的にキュッと痛んでそれを拒むので仕方なく注文した料理が運ばれるのを辛抱強く待った。
「そいつ、俺より四つ下なのにさ、完全に三十超えてるよな? ってくらい老けて見えんの。髪型とか着ている服とかも、それ一昔前に流行ったやつじゃん、って感じでダサいしさ、それでいつも作業中隠れてこそこそケータイとかいじってんのよ。友達か彼女かわかんないけど、やたらと女から来たメールを自慢げに俺に見せて来てさ、「こいつホントしつこくって困ってるんすよ」とか言って、いちいち自分が女にモテてるみたいなアピールしてくんの。もうホントうざいんだけど、一応上司から俺がそいつの面倒見るように頼まれてっからシカトするわけにもいかないでしょ? だからマジで今ストレス半端ないんだよね……」
俺の隣の席は十代で早くに所帯を持ったチャラい感じの家族連れで、襟足と前髪の片方だけを長めに伸ばした茶髪の男が、知的さの欠片もない聞き苦しい言語能力で誰かの悪口をしきりに捲くし立てていた。
俺はウエイトレスが運んできた蟹のドリアをせかせかと機械的に口の中に放り込んでは、嫌でも耳に侵入してくる隣のテーブルの会話を黙って聞き続けた。
「トシヤと俺も入ってるんだけど、会社に”若パパ会“っていうサークルがあってさぁ。二十代で子どもいるヤツ集めて定期的に飲みに行く会なんだけど、そいつ子どもいねぇくせに会費安いからそれ狙って参加したいとか言ってくんだよね。親とか経験してないヤツ入ったって会話合うわけないから、断わってんだけどしつこくてさ……」
「それはマジうざいね。アタシの前のバイト先でもいたよ、そういう子」
「マジで? そういうヤツらってホントなんなんだろうね。空気読めないっつうか、なんつうか……」
「KYだね、KY。KUUKI、YOMENAI、ハハハッ」
KY。俺は隣のテーブルのギャルママが不用意に発したその二文字を聞いた時に強烈な不快感を覚えて、反射的に数取器を素早く二回押した。
空気の頭文字である「K」と、読めないの頭文字である「Y」。この二つのアルファベットで空気が読めない人の事を指すアホのスラング。俺はテレビやラジオから流れるその言葉を聞くたびに、あたり構わずゲロを吐き散らしたくなるような胃のムカつきと、その文化レベルの低い言葉を簡単に受け入れる世間の風潮に強い嫌悪感を抱いていた。目の前で実際に使っている奴を見たのは今日が初めてだが、生で耳にするKYは嫌悪感を通り越して最早憎悪に変わろうとしていた。
俺は食べ終わったドリアの皿にスプーンを叩きつけるように置き、呼び出しボタンを押してウエイトレスになるべく早く食後のコーヒーを持ってくるように頼んだ。
使ってなかったウェットティシュを適当な大きさに千切り、くしゃくしゃに丸めて両方の耳の穴に突っこむ。それでも隣のテーブルの不愉快な会話は俺の脳神経を破壊しようと、以前変わらぬボリュームで塞いだ俺の耳に届いた。
俺はヴィレッジ・ヴァンガードの買い物袋からゴーリーの「ギャシュリークラムのちびっ子たち」を取りだし、店内の鳴り止まぬ悪意の轟音から身を守るため、自分と同じ被害者たちが身を寄せる暗く湿った絵本の世界へ避難した。
(Aはエイミー、かいだんおちて…… Bはベイジル、くまにやられて……Cは……)
目の前の視界を絵本で埋め、声にならない声でぶつぶつと文字を呟いていくと、次第に店内の雑音が遠のき、まったく気にならなくなってくる。それと同時に強い眠気が襲ってきて、絵本の世界がおぼろげに歪んで見えてきた。何度か無理に目を見開いて抗ったが、ウエイトレスが食後のコーヒーのカップをカタッ、とテーブルに置いた音を合図に俺の意識は完全に眠りの中に落ちていった。
息荒く山村の農道を走る俺の目の前に異常に大きな満月がある。春の微かに暖かい夜気とは対照的に、満月は青白く澄んだ冷たい輝きを放って、俺の全身に迸る狂気を照らしていた。
事件の発覚を遅らせるため、夕暮れ時の段階で村の街灯を全部壊して回ったのだが、不覚にも満月の明かりで俺の姿は夜道でもはっきり目立った。
黒い学生服を着て、頭に鉢巻で括りつけた二本の懐中電灯を差し、地下足袋を履いて、その上にゲートルの代用として白い包帯を適当にぐるぐる巻きつけ、いらなくなった靴の紐を束ねたものに自転車用のナショナル電燈を通し、首から下げる。頭の中で今夜の復讐を何度も綿密にシュミレーションしたつもりだが、必要最低限に抑えたはずの装備が意外なほどに重かった。
武器は背中に一振りの日本刀と、腰のベルトにサバイバルナイフを一本引っかけて、両手に主力の猟銃を持った。猟銃を手にしたのは今日が初めてで、頭の中で何発か試し撃ちはしたが、装填されている弾が何発なのかは正確に把握していない。
俺は昭和十三年に岡山県の津山で起きた通称“津山三十人殺し”で知られる犯人の都井という人物に同調して、その異様な格好を真似ていた。
事件に関連する書籍を読み漁り、なるべく忠実に事件当時の都井の姿を再現してみたつもりなのだが、鏡で確認した自分の姿は、俺が憧れた鬼気迫る都井の姿とはほど遠い、どこか幼稚で滑稽なものだった。
闇夜に額の懐中電灯を爛々と光らせ、静まり返った真っ暗な村道を颯爽と駆け抜ける都井に比べ、俺の動きは装備の重さであまりにも鈍く、すぐに息が上がって途中何度も立ち止まった。おまけに綿密に打ち立てた犯行計画が出だしから躓いてしまい、思いどおりにいかない現実を前に半ばやけくそで農道を迷走しているような状態だった。
三十人を殺した都井の場合はまず自宅を出る時に自分の祖母を容赦なく斧で殺害している。六畳間の炬燵で眠っていた祖母の顔に何度も何度も斧を叩きつけ、その勢いで祖母の首は約半メートル離れた障子に向かって飛んでいったらしい。
肺結核で両親を早くに失くし、小さい頃から祖母の庇護の下で育てられた都井は、自分がこれから犯す重罪のせいで祖母に不憫な思いをさせてしまう事がとても気がかりだったという。都井が祖母殺害で見せた、潔いまでの凄惨で残忍な手口は、祖母を苦しませずに涅槃に行かせてあげたいという気弱なお婆ちゃん子の、悲しくも強い愛情表現だったのだろう。
だから俺もそれに倣って祖母を殺害する筈だったのだが、薄明かりの茶の間のテーブルにぽつんと置かれた飲みかけの焼酎と、そこで突っ伏すように静かな寝息を立てている祖母の姿を見たら急に殺す気が失せた。俺が犯罪者になろうがなるまいがどうせ祖母に染み付いた孤独は多分それほど変わらない。
都井は肉親の返り血を浴びた事によって踏ん切りがついたのか、そのまま勢いづいて次々と恨みのある人たちを殺害していく。大量殺人計画に対する不安と迷いが消えた都井の行動は大胆かつ終始冷静で、警察に事件が発覚するまでにターゲットを確実に仕留めていった。
それに比べて俺は自分が今走っている農道の記憶さえも曖昧になっていて、そもそもこの山村自体が見覚えのない土地のように感じ出していた。どこかで見た事のある風景ではあるものの、俺が慣れ親しんだ地元の風景ではない違和感が常に付き纏う。
周囲に広がっているのは角度が急な背の低い山々で、その陰鬱とした閉塞感を覚える山々の手前には深い森があり、煌々と輝く月の明かりの下でも森の奥は奈落の底のように暗かった。
山と森と田んぼしかないその辺鄙な土地にやはり見覚えはなく、俺が走っている農道はずっと平坦で、道の先に民家が見えて来ると、そこから徐々に下っていった。
俺はまばらに点在する古臭い茅葺き屋根の民家のどの家に押し入ればいいのか、もう一度頭の中でよく検討してみた。
殺害するターゲットとして挙げたのは十人。十人のうち三人は小学校の同級生で、残る七人はこれまでに働いてきたバイト先の上司や同僚たちだった。七人の中には直接面識のない社長連中なんかも含まれている。
どいつもこいつも悪意の塊のような存在。笑えるくらいに無知で傲慢で、自分の愚かな行動や言動にこれっぽっちも羞恥心を感じない最低な人種だ。彼らが無意識に放出する悪意は、生まれながらに彼らが持っている劣性のDNAと、周囲の愚かな環境が生み出した誤った価値観や思想を根城にしていて、彼らにはそれが罪深い事だという自覚がまったくなかった。
加害者意識のまったくない彼らの悪意によって被害者だけが一方的に生まれ、法では決して裁かれる事のない罪の前になすすべなく泣き寝入りをする。そうやって踏みにじられてきた被害者の感情を納得させるには被害者が直接その加害者を裁くしかない。
事件当時の新聞やラジオで稀代の大量殺人鬼として扱われた都井だって元はそんな被害者の一人だ。
貧しい家庭環境と生まれつき病弱な身体。人生のスタートから過酷なハンデを背負った都井に対する村人たちの差別的な目が彼を孤独に追い詰め、やがて残虐な犯行に駆り立てた。
嘲り罵りの悪意に晒された彼の孤独な精神が、然るべき粛清を求めて闇夜の村道を駆け抜ける。俺が都井に同調して彼を英雄視した理由はそこにあった。村の慣習と一部の特権階級が覆い隠した村人たちの悪意を都井はその凶行という手段で持って世間に明るみにしたのだ。
因果応報。例え法が罪を裁かなくても罪は賢明なる者の手によって必ず裁かれる。
俺は殺すべき十人のターゲットが苦悶の表情を浮かべて悔い改めながら死んでいく様子を想像してほくそ笑んだ。時折風に吹かれた森のざわめきが、殺せぇ、殺せぇ、と囁いているように聞こえ、まだいくらか迷いのある俺の殺意を強く後押しする。
俺は辿り着いた民家の表札を一軒一軒確かめ、そこがターゲットの家かどうか慎重に調べた。たまに不用意に物音を立ててしまう事もあったが、どの家も相当深い眠りに入っているのか何のリアクションもなくひっそり静まり返ったままだった。
農道を順に辿った五件目の民家の表札に俺はようやくターゲットと同じ苗字を見つけた。デパートの夜間清掃のバイト先で知り合い、いつも人を小馬鹿にしたようなにやけ顔をしていた「篠崎」。まだ迷いがあるものの、一人殺せば弾みがつくだろうと、俺は篠崎の家の裏手にまわり、無用心な勝手口をそっと開いて、静かに中へ侵入した。
篠崎は会った初日からとにかく印象の悪いヤツだった。挨拶もろくに出来ない礼儀知らずで、年下のくせに新しい職場に入って緊張している俺を面白がって、妙な先輩風を吹かせながら必要以上に馴れ馴れしく接してきた。「まぁ俺なんかは簡単に出来るけど、新人のキミにはちょっと難易度が高いかもねぇ」
俺に仕事を教える時に篠崎が発したその一言が無性に腹立たしくて、俺は仕事以外の事では極力篠崎と口を利かないようにしていた。
それがあってか篠崎は俺に無口でつまらないヤツというレッテルを貼り、いつも何かと優越感に浸っているように見えた。俺は篠崎のそんなにやけ顔を見るたびに、嫌悪感で鳥肌が立った。
篠崎はファッションに興味があるらしく、休憩時間はいつもファション雑誌を見ながら、適当な話し相手を見つけて、篠崎独自のくだらないファッション観を得意げに披露していた。
篠崎の出勤時の私服は細身のスーツスタイルが多く、男ばかりの狭くてむさ苦しいロッカールームで作業着に着替える時、周囲に気を遣う事もなく無駄に時間をかけて着替える。作業着の着こなしにも篠崎なりのこだわりがあるらしく、まくった作業着の裾の位置やズボンのベルトの高さなどをしきりに気にして、納得がいくまで何度も調整を繰り返していた。
俺はわりと早いうちに仕事に慣れ、順調に清掃作業をしていたが、篠崎のせいで三ヶ月ももたずにその仕事を辞めた。常日頃感じていた篠崎へのストレスがある日の出勤時に爆発したのだ。
いつも篠崎より先に出勤していた俺はその日たまたま篠崎より遅れてロッカールームに入った。遅い時間に入ったロッカールームはひどく混んでいて、俺は篠崎の横にほんの少し空いているスペースに自分の荷物を置いて着替えていた。
「ちょっとそこ入られると狭いんだけど」
きつい香水の匂いを振りまきながら篠崎が露骨に不快な顔をしながら棘のある調子でそう言って来た。俺は一瞬むっとしたがそれを顔には出さず、すいません、と一言謝って極力篠崎の着替えの邪魔にならないよう気を遣ったが、着替えを終えた俺が私服をロッカーに入れようとした時、
「そんな地味な服、わざわざロッカーに入れなくても誰も盗まねぇよ」
と、篠崎が独り言でもいうようにぼそっと俺に呟いた。そしてロッカーの小さな鏡を見ながら髪を撫で付けている篠崎のにやけ顔から、ハハッ、と俺を罵倒する下卑た笑い声が洩れ、それを見ていた周囲の何人かがつられて一緒に笑った。
反射的に全身の血が逆流するような怒りが湧き、俺の右手が撫で付けた篠崎の髪を無意識に引っ掴んでいた。そしてそのまま怒りに身をまかせ、篠崎の身体を思い切りロッカーに叩きつけた。
「ふざけんなっ、このナルシスト野郎がっ。邪魔なのはちんたら着替えてるおめぇの方なんだよっ」
派手な音を立てて、篠崎の頭がロッカーの扉にぶつかる。俺は完全にキレていた。抑えられない暴力衝動に駆られ、俺は二度三度と立て続けに篠崎の頭を全力でロッカーにぶつけた。
突然自分の身に襲ってきた暴力の嵐に、篠崎ははじめ驚いてもがくだけだった。周囲にいる奴らも唖然とした表情で俺と篠崎を傍観しているだけですぐには誰も止めに入らない。
「やめろっ、やめろよっ」
篠崎がジタバタと暴れて髪の毛を掴んでいる俺の右手を振り払い、逆上した真っ赤な顔で俺に組み付いてきた。
ロッカーに叩きつけられた篠崎の頭部は薄っすらと血が滲んでいて、興奮しながら何発か俺を殴っているうちに、その血が額を伝って顔全体に滴り落ちてきた。その血を見て、ようやく周りの連中が俺たちのケンカを止めに入る。
俺は同僚二人に押さえられて少しだけ冷静さを取り戻すと、睨み合った篠崎から視線をはずし、おとなしくその仲裁に従った。それでも篠崎は自分の血に興奮して怒りが収まらないらしく、攻撃的な態度を変えずにひたすら俺を罵り喚いた。俺は篠崎が放つ小学生レベルの低脳な悪口を黙って聞きながら、そんなヤツに感情を昂らせてまともに相手してしまった自分を後悔した。
しばらくしてから班長の葛西が騒ぎを聞きつけてロッカールームに入ってきた。色褪せた作業帽を目深に被った四十過ぎの無精ひげが渋面を浮かべ、面倒くさそうに俺と篠崎を交互に見比べる。篠崎が頭部に負った怪我を調べ、持っていた汚いタオルで応急処置を施すと、俺と篠崎以外を全員ロッカールームから出し、残った俺たちに何があったか事情を聞いた。
バツの悪い空気に遠慮して俺が押し黙っていると、被害者面した篠崎が一方的に自分に都合の良い主張を捲くし立てた。
「俺が着替えてたら、俺の隣にこいつが無理やり入ってきて、俺と肩がぶつかったかなんかして突然キレたんすよ。そんでこいつに髪の毛掴まれて頭ロッカーにぶつけられて、俺が抵抗したらそのままケンカになって……もうホント最悪っすよ」
「そうなのか、田島?」
篠崎の話を聞いた葛西がだんまりを通している俺にも、何か発言するよう促してきた。
どちらに否があるかなんて雰囲気でだいたい分かるはず。
俺は事実を歪めて伝えた卑怯な篠崎と勘の鈍い葛西との面倒臭いやりとりがアホらしくてしょうがなかった。
「ちょっと篠崎さんに腹の立つことを言われたんで、自分でも気付かないうちに暴力振るってました。以後気をつけます。どうもすいませんでした」
篠崎を責めたところで、どうせこいつは自分の非を素直に認めはしない。だから本意ではなかったが、俺は早々と折れて二人に向かって謝罪した。葛西はそれで納得した態度を示したが、空気の読めない篠崎がそこに余計な一言を加えて再び話をもつれさせた。
「ちょっと葛西さん、ただ謝られてもこっちは怪我させられてるんすよぉ。このまま話が終わったんじゃ、俺的になんか納得いかないし、いつキレるかわかんない奴と一緒に仕事するなんて怖くて嫌っすよぉ」
こいつをクビにしてくれっ。
要するに篠崎は葛西にそう言いたいらしい。その女々しくふて腐れた顔の口元だけがいつものようににやけ、俺を陥れようとする狡猾な悪意がそこに見て取れた。話を蒸し返す篠崎に葛西はうんざりした溜息をつき、気まずそうな顔で俺を見た。
「田島も謝ってんだから、もういいだろ篠崎。お前にも原因があるようだし、とりあえず今日のところはこれで丸く収めとけよ」
「ああぁ? そんなの納得いかないっすよぉ、葛西さん前に言ってたじゃないすかぁ? 〝無口で協調性のない奴って困るよなぁ〟って、あれ、こいつの事でしょ?」
篠崎のふいをついた一言に葛西の目が泳いだ。動揺しているのか露骨に俺から目を逸らすと、妙にそわそわし始める。
「もうあれだ、あれ。そ……その、いつまでもウダウダ言ってねぇで、とりあえず早く着替えて仕事行けっ。お、俺は急がしいんだから、くだらないケンカくらいで時間取らすなよっ」
作業ズボンのポケットに突っこんだ両手を忙しなく揺すりながら、葛西はそう言い残してそそくさとロッカールームを出て行った。篠崎と二人だけになったロッカールームはただ居心地が悪く、代謝が活発なむさ苦しい作業員たちの体臭と消化不良の悪意が一体となっていつまでも漂っていた。
篠崎から受けた侮辱、周囲にいた連中の嘲笑、葛西の陰口。それらが渾然一体となって俺の労働意欲をすっかり萎えさせた。そして俺は集団の場が必然的に生む異質な物を排除しようという空気に耐えかねてその日のうちに清掃のバイトを辞めた。
以後それがトラウマのようになった俺は他のバイトでも似たようなトラブルを起こし、どれも長く続かなかった。
そのきっかけを作った篠崎への恨みは六年経つ今でも風化する事なく、俺の記憶の中でずっと息を潜めていた。
樽に保存された糠漬けと灯油の匂いが渾然と漂う土間を上がり、板の間の廊下に立ち止まって耳を澄ますと、開け放たれた茶の間の奥の部屋から微かな寝息が聞こえてきた。用心のため頭の懐中電灯と首から提げた自転車用のナショナル電燈を消す。
ターゲットを殺す際、俺は事件の発覚を遅らせるため、ターゲットと同居する家族たちも一緒にこの手にかけようと思っていた。恨みのある対象ではないから、なるべく苦しまないよう、殺し方には重々配慮するつもりだが、実際はそううまくはいかないだろう。ヘタをすれば殺し損ねて逃げられたり、隙を突いた反撃を喰らって俺が殺される可能性だってある。
俺はこの家が本当に篠崎の家かどうか確かめるため、とりあえず家の中を物色し、記憶にある篠崎の所持品を探した。茶の間にあるタンスや引き出しを開け、中の物を一つ一つ取り出してみたが、出てくるのは爪きりやライターなどの日用品と社会保険証や銀行通帳の類いで、篠崎がこれ見よがしに身につけていたシルバーのアクセサリーなどは見当たらなかった。一つでも見つける事が出来れば、俺は確信を持って躊躇なくこの家の者たちを殺して回ることができる。
茶の間の奥から漏れ聞こえてくる鼾を気にしながら探し続けるものの、篠崎を証明する物は何一つ出て来ない。聞こえてくる鼾がたまに無呼吸状態になったりするところをみると、奥で寝ているのはおそらく篠崎の父親か祖父だろう。
俺は鼾の主を起こさぬように茶の間を出て、篠崎本人がいると思われる二階へ向かった。板の間の廊下をゆっくりと歩き、階段は匍匐前進で一段一段慎重に上がっていった。階段脇のトイレから洩れるクレゾールの匂いが床擦れ擦れを伏せて進んでいる俺の鼻腔をきつく塞いで、その強烈な匂いのせいで息を殺すのが困難だったが、なんとか物音を立てずに階段を上りきる。
二階の廊下は窓から差す満月の光で仄かに明るかった。静まり返ったその廊下に月に照らされて長く伸びた俺の影が映る。頭に括りつけた二本の懐中電灯が角、手にした猟銃が金棒のように見え、そこに長身の鬼がいた。
俺はようやく殺人鬼として様になった自分の影に気をよくしながら、手前の部屋の襖をそっと静かに開けた。全ての照明を消して閉め切られた真っ暗な部屋に廊下の月明かりがすぅと差し込んでいく。部屋の奥まで伸びていったその明かりが寝ている誰かの頭部を照らした。
こんもりと満ちる化粧の匂い。寝ているのはおそらく篠崎の母親だろう。目の前の侵入者に気付かずリズミカルな寝息を立てて熟睡している。
(こいつを殺すのは篠崎本人をやってからだ)
俺は寝ているその女を不用意に起こして騒がれぬよう、そっと襖を閉めて廊下の奥の部屋へ移動した。これからいよいよ人を殺すのかと思うと、少しばかり緊張で手が震えた。 奥の部屋から微かに物音が聞こえる。俺は部屋の襖に手をかけ、深呼吸を一つしてから、恐る恐る襖を半分まで引いた。俺はてっきりそこに寝静まった闇があるものと思っていたが、部屋は煌々と明るかった。
予想を裏切った展開に動揺した俺は眩しい部屋の中に、狭いベッドの上で淫らに縺れ合っているな男女の裸を見た。忙しない動きでギシギシとベッドを軋ませ、男も女も遠慮がちな歓喜の声を漏らしている。
二人とも行為に夢中で部屋の襖が開いた事にすぐには気付かなかったが、女の上に覆いかぶさる姿勢で俺に背中を見せていた男が、体勢を変えようと上半身を起こした時、襖の外に立つ俺の気配に気付いて急にこっちを振り向いた。互いにぎょっとした表情がかち合う。
「わぁっ、な、なんだよっお前っ」
驚きが一瞬にして恐怖に変わったその男の顔に俺は確かな見覚えがあった。ターゲットである篠崎本人に間違いない。
篠崎はベッドから転がるように飛びのいて、部屋の壁に張りついた。突然現れた異様な出で立ちの俺を見て極度のパニック状態に陥り、全身を激しく痙攣されながら声にならない悲鳴を上げている。
ベッドの上に四つん這いになって、何の恥じらいもなく大胆に己の恥部を晒していた女もようやく異常に気付いて俺の方を見た。
女の甲高い悲鳴が家中に響く。悲鳴に焦った俺は慌てて持っていた猟銃を構え、悲鳴を上げ続ける女の腹部を狙いながら、震える手つきで撃鉄を起こした。撃鉄は想像していたよりも固くて重く、銃を扱う時の正しい手順を知らない俺はドラマや映画の見様見真似で銃床を左肩に当て、照星を覗くやいなや引き金を引いた。
ズドォン、という派手な音とともに強烈な振動が身体全体を揺さぶり、左肩が勢い良く後ろに飛ばされて、銃身が思い切り跳ね上がった。よろけた体が襖ごと廊下に後退する。
激しい掃射音でひどい耳鳴りがする耳を押さえながら、弾を撃ち込んだ女の方を見た。だらしない大の字になってベッドの上に倒れている女の腹部がまるでカエルの解剖のように開帳していて、その破裂した腹部から中に詰まっている臓器を余す事無くぶちまけていた。
名前も年齢も血液型も知らない見知らぬ女が気の毒にも俺の最初の犠牲者になってしまった。性交の快楽が突然途切れたと思ったら、次の瞬間にはもうあの世行き。女があまりにもあっけなく死んだからか、不思議と罪悪感のようなものはまったくなく、ただ立ち込める硝煙の臭いが俺に一線を越えた実感を持たせただけだった。
俺はしばらく女の死体を呆然と眺めてから、銃の衝撃に戦いて一時その存在を忘れていた篠崎の方に目を移した。
顔に怯えの色を一層深めて壁際に蹲っている篠崎は、恐怖が極限に達したのか、哀れにも失禁していた。常に一定の速度で震え続ける篠崎の下半身が畳の上に見るに耐えない汚物を垂れ流し、狭い部屋が硝煙とその排泄された汚物で耐え難い悪臭に包まれた。
「いい年こいて漏らしてんじゃねぇよ、篠崎っ、臭せぇだろ、馬鹿っ」
俺がそう怒鳴っても篠崎は目に涙を溜め、あわわ、うわわ、と何の意味もなさない言葉を呻くだけだった。
部屋に充満した悪臭に耐えかねて空気を換気しようと窓に近づくと、先の女の悲鳴と銃声を聞いて目を覚ましたのか、隣接する家々の明かりがぽつりぽつりと点るのが見えた。同時にこの家の階下から、騒ぎに動揺して慌しい動きを見せる物音が聞こえた。
「なんじゃあっ? 何を騒いどるんじゃあ? 今もの凄い音がしたぞっ」
茶の間の奥で寝ていた鼾の主だろうか? 強い警戒心を感じさせる足音が一歩一歩ゆっくりと階段を上ってきて、この家に緊迫した空気が漂う。何故か一番近い隣の部屋からは何のリアクションもなく、気付かずにそのまま寝ているのか、ずっと静まり返ったままだった。
村の人たちに早くも騒ぎを露呈させてしまった俺は、後先考えずに迂闊に銃を使った事を強く後悔した。音の大きい猟銃の使用はターゲットに逃げられた時と駆けつけた警官隊に進路を阻まれた時だけにしようと決めていたのに、女があげた悲鳴に焦って衝動的に撃ってしまった。
近隣の住人たちが警察に連絡をするのは時間の問題だ。ターゲットである連中をじっくり嬲り殺している余裕はもうない。
丸裸の自分を庇うように蹲っている篠崎の首筋に日本刀を当て、不用意に騒ぎ立てるのを遮ると、階下の男がこの部屋に踏み込んでくるのを息を殺して待った。倒れている襖の入口からそいつが顔を見せたところへ渾身の一撃を叩き込み、その後立て続けに篠崎を斬り捨てるつもりだった。隣で寝ている女は部屋から出て来ない限りそのまま見逃すことにする。
(あと何人殺せるかな?)
三十人殺しはおろか、絶対に殺しておきたいターゲットの十人さえ、きちんと殺せるかどうか危うい。一人、二人殺した程度の小規模な殺人事件では地方のメディアがほんのちょっと騒ぐくらいで一週間も経てばすぐに風化する。長期間全国ネットで取り上げてもらえるような大事件でないと、俺を悩まし続ける悪意が世の中に明るみになることはない。これでは見えない悪意に翻弄される被害者たちが泣き寝入りして終わる社会のままだ。
「おいっ、
俺は一階にいた男が部屋の入口に現れたと同時に迷う事なく日本刀を振り下ろした。肉を断ち切る確かな感触が日本刀の柄を握る両手に伝わって来る。斬られた相手が襖の上に倒れ、黄ばんだ襖がみるみるうちに赤く染まっていく。
俺はすかさず振り返り、白目を向いて気を失っている篠崎にも容赦ない一太刀を浴びせた。手元が狂った刀が篠崎の顔面を抉るように切りつけると、気絶していた篠崎が我に返って絶叫を上げた。それでも死なずにまだ蠕動し続ける篠崎の喉めがけて、とどめとばかりに血脂の浮いた日本刀を真っすぐ深々と突き刺す。水道管が破裂したように血がゴボゴボと噴出して、篠崎の周りに真っ赤な血溜まりが出来た。
正式なターゲットを仕留めたというのに俺はただ息を荒げながら、妙にあっさりとした心持ちで目の前の惨状を眺めていた。転がる死体を見ているうちに微かに芽生えた達成感のようなものは時間に追われた状況の中で迅速に処理され、俺は慌てて階段を駆け下ると、近隣の動きを気にしながら篠崎の家を後にした。
見渡す限り村中のどの家からも明かりが灯っていて、ここでの騒ぎが思っている以上に拡大していた。周囲から不安げに話し込む数人の話し声がして、隣接する家の窓にはじっと外の様子窺う人影も見えた。
俺は手入れがされていない雑草だらけの植えこみに身を隠し、人目につきやすい農道を避けて、ぬかるむ田んぼの中に入った。全身に泥を塗りたくり、奇襲をしかけるゲリラ兵のように田んぼに同化すると、不快な泥の中に身を沈め、ゆっくりと匍匐前進を開始した。
遠くの方でパトカーのサイレンが鳴り、静かな山間の農村が冷や水を浴びたように騒然となった。
けたたましいサイレンの音が徐々に近づいて来て、明滅する赤いランプを交差させた二台のパトカーが篠崎の家に向かって疾走していく。
俺はパトカーをやり過ごすと、すかさず立ち上がって農道に戻り、田んぼの泥を纏ってさらに重くなった体を村の下手にある家々に向けて走らせた。警察に事が発覚した以上、悠長にターゲットを探している時間はない。ターゲットであろうとなかろうと、見つけた村人は片っ端から殺すつもりだった。
記憶にない村の風景の中にようやく一軒の見慣れた家が見えてくる。それは小学校の時に俺をいじめた同級生の川原の家だった。
ターゲットの一人でもある川原は、俺がわざわざ侵入するまでもなく家族と一緒に家の外に立っていた。パトカー出動の事態に不安を煽られ、みんなで様子を見に表に出たのだろう。小学校を卒業してもう二十年近く経つのに、何故か川原は小学生の時のままだった。パジャマ姿の天然パーマが父親の手をしっかりと握り締めて月夜の明るい闇に目を凝らしている。
俺は目の前の不思議な光景に驚きながらも、速度を落としてゆっくりと川原に近づいた。ふいに怯えながら周囲を見張る川原の目と俺の目が合った。
「うえあぁっ、お化けっ。パッパパ、お化けがいるっ、そこにお化けがいるよぉっ」
異様な姿で迫ってくる俺を見て川原が絶叫した。それを聞いた家族全員がこっちを振り返る。本当に化け物と勘違いしたのか、俺を見た家族全員が一斉にパニックに陥り、皆慌てて家の中へなだれ込んだ。
追いつきそうな僅かな差でガシャリ、と玄関のドアが勢い良く閉められ、慌しく防犯チェーンがかけられる。俺は玄関ドアに体当たりをかましてからドアノブを強引に蹴った。
「い、一体なんなんだ、お前はっ。強盗かっ? 人の家に何しに来たんだっ」
川原の父親が玄関ドアを蹴って中に侵入しようとする俺を一喝する。その声はどこか頼りなく、家族を守りきるのに十分な威厳が備わっていないように感じられた。突然の異常事態に怯える一小市民の男がそこにいるだけ。
「やめろっ。やめるんだ。警察を呼ぶぞっ」
「俺はお前の息子を殺しに来たんだっ。恨みがあるのは息子だけだから大人しくここを開ければ他の奴の命は助けてやるっ」
母親のものと思われる悲鳴がひいっ、と家の中ではち切れ、俺の要求に対する返答の代わりにドタドタと家の奥に避難する家族の足音が聞こえた。玄関には川原の父親だけが一人残って断固俺の突破を阻止する構えを見せた。
「見ず知らずのお前がうちの息子に何の恨みがあると言うんだっ?」
連中は俺が何者であるか分かっていないようだった。
「田島だよっ、田島商店の田島陽平だっ」
「田島商店? ……田島商店の陽平って、田島周平さんとこの子だろ? お前が何故陽平くんなんだ? 陽平くんはうちの子と同じ小学生だぞ。変な冗談はやめてくれっ」
川原たち家族と俺の間にある奇妙なズレ。まるで時間が止まっているようだった。さっき見た川原はもちろん、その家族も俺が小学校の時のままで存在している。
「信じようが信じまいが俺は本当に田島陽平なんだよ、なぜお前らはあの時ままなんだ? 俺が小学校の時から何も変わっていないみたいじゃないかっ」
まるきり理解不能な現象に腹を立てた俺は、一度玄関口を離れ、固く閉じた玄関ドアに向かって猟銃を構えた。適当に狙いをつけた銃口から一発、二発、三発、と立て続けに鉛の弾を掃射する。聴覚を狂わせる轟音と嗅覚を麻痺させる硝煙の臭いによろめきながら、なんとか身を立て直して玄関ドアに目を向けると、ドアの何箇所かに破裂ができていた。
俺は強行突破を果たすべく、手にした猟銃を逆さに構えると、銃床の部分を力任せにドアに打ちつけて、破裂した箇所を広げていった。
「う、撃つなっ……頼むから撃たないでくれっ」
破裂したドアの穴から玄関の中を覗くと、貫通した弾が当たって負傷したのか、上り框に倒れ伏した川原の父親の姿が見えた。
苦痛に顔を歪めて見苦しく命乞いをする一小市民。そこに父親の威厳などまったくなく、ただ無力な男性がだらしなく横たわっているだけだった。
「恨むならお前の息子を恨め、お前は知らないだろうが、俺は小学校時代ずっとお前の息子にイジメられていたんだ。理不尽な凶行だ、なんて思ってくれるなよ。これはお前らの悪意から身を守る正当防衛であると同時に、法で裁かれないお前の息子にきちんと罪を償わせるための超法規的措置なんだよっ」
加え続けた銃床の打撃で最後までしぶとく俺の侵入を拒んでいた防犯チェーンが外れ、玄関のドアが勢い良く開いた。
「う、ういやぁぁぁぁぁぁぁっ」
川原の父親が侵入してきた俺を見て、絶望的な悲鳴を上げた。少しでも俺から遠ざかろうと、芸のない海驢ように必死の腹這いで家の中に入ろうとする。
俺は背中の日本刀を抜いて、一向に前に進まない川原の父親の両太腿を交互に力いっぱい斬った。
「おおぉ、おぅ、おおぉっ」
斬った拍子に出た川原の父親の悲鳴は、嘘みたいに海驢そのものだった。鮮血を滴らせ、骨まで達した無残な両腿の切り口を見ようと、背中を反らせて首を無理に捻る川原の父親が可笑しくて、俺は思わず日本刀を手にしながら吹き出した。
家中に響き渡る悲鳴と笑い声。地獄絵図っていうのはこんな感じなんだろうか?
俺は笑いながら川原の父親の首を刎ねると、この悲惨な状況を客観的に見ているもう一人の自分に気付いた。
目の前に転がる川原の父親の死体。本当なら気持ち悪いとか、酷いとか、惨いとか、とにかく不快な感情を喚起されて吐き気を催しているところなんだろうけど、その時の俺はあらゆる感情を一切排除した、知的好奇心だけで目の前の死体を見ていた。例えばそれは医者が人体を解剖する時や食肉加工をする業者が動物を屠殺する時の感覚に近いのかもしれない。
俺はしばらく呆然と川原の父親の死体を眺めていた。酔っ払って帰って来たサラリーマンが、ただ玄関で力尽きて眠りこけているようにも見える。試しに足で蹴ってリアクションがないかどうか確かめてみたりもした。まだ生きていた頃の温度があるだけで当然動かない。手足を完全に投げ出して、微かな悲鳴も息も洩らさずにただそこに横たわっている。
世界との交信をぷっつりと絶ち、誰とも意志の疎通を図れなくなった肉の塊り。これはもはや人間ではない。俺の方に興味がなかったら、鑑賞するにも退屈な無用の長物だ。人間を人間として認識できるのは生きている間だけで、死んだ後の川原の父親はただの物体にすぎなかった。
俺は死体を飛び越え、家の中に上がりこんだ。長い廊下の一番奥。突き当たりの部屋から残った家族の啜り泣きが聞こえる。おそらく家族たちは突発的に起こった銃声から始まって、両腿を日本刀ですっぱりと斬られ絶命する父親の一部始終を、身を寄せあって怯えるその部屋の中でしっかりと聞いていただろう。自分たち家族が何故こんな理不尽な目に遭うのか不思議でしょうがないはずだ。
長くて薄暗い廊下に泥で重くなった俺の足音が響く。
「……フフフッ、お前ら全員こんな目に遭うのは理不尽だって思ってるだろ? 身に覚えはないって? ……なら教えてやるよ。かわはらぁ、原因はお前なんだよ。お前が俺をイジメたからなんだよぉっ」
俺は奥の部屋に向かってそう叫んだ。一歩近づくごとに、すすり泣く家族たちのボリュームが上がる。中には呼吸困難をともなって悲鳴が途切れがちな者もいた。
「俺は……俺は何の因果があってお前にイジメられたんだ、かわはらぁ? お前は俺の何が気にいらなくて俺の上履きの中にソースをかけたりしたんだよ? 何が気にいらなくて俺の椅子の下に画鋲を置いたりしたんだぁ? 体操着も捨てられて、掃除用具を入れるロッカーにも閉じこめられたっけなぁ……」
小学校の時に味わった辛い体験が恨み辛みの言葉と共にフラッシュバックする。無意識にしゃべり続ける口の中が変に渇いて、砂を噛んだようにざらついた。
「図工の時間、担任の今井先生が褒めてくれた神社の絵。あれに墨塗って真っ黒にしたのお前だろ? 実際お前がやったとこ見たわけじゃないけど、俺には分かるんだよ。俺のいない間に、お前がケラケラ笑いながら俺の絵をめちゃくちゃにしてる姿が俺には容易に想像できるんだよ。……あん時はホント悔しかったなぁ」
鍵の掛かった部屋のドアに猟銃を向けた。ドアノブを狙って撃てば一発の掃射で鍵が外れるだろうと思い、照星に視点を固定させ、ぶれないようにゆっくりとドアノブに移動させる。うまくピントが合うように照星を覗く目を鋭く細め、もう片方の目をしっかり閉じると、慎重に猟銃の引き金を引いた。ドアノブにピッタリと重なっていた照星が撃つ直前、ほんの僅か右にずれた。
ズドォンッ。一瞬の閃光と衝撃の後、狙ったドアノブに目をやると、ドアノブは破壊を免れて無傷のままだったが、代わりにドアの横の壁が大きく穿たれている。打つ直前に生じたほんの僅かなズレが本来の弾道を大きく外した結果だった。
掃射の残響音と硝煙が廊下を流れ、しばらく時間が静止したような静寂があったが、すぐに部屋の中から家族たちの悲鳴が上がる。かつてない危機に瀕し、全員が人間離れした高音域で、〝誰か助けてっ〟〝殺さないでっ〟と好き勝手に命乞いを繰り返す。
俺はそんな川原一家の身勝手な態度に心底うんざりした。
「ギャーギャーうるせぇんだよ。お前らいつから被害者になったんだ? みっともねぇ命乞いなんかしやがって。自分たちが加害者だっていう意識はこれっぽっちもないのか? 俺に対する謝罪はどうしたんだよ? 謝罪はっ」
俺は猟銃の銃口を両手で持って振りかぶり、銃床部分をドアノブに思いきり叩きつけた。ドアノブを固定している金具が弾け、銃床の舳先がドア板にめり込む。
「やめてっ」
ドアが破壊される激しい物音に反応して川原の母親が我先に悲鳴を上げる。それを追うように川原と川原の姉も小さく呻いた。どいつも自分の恐怖と向き合うのに精一杯で、俺に謝罪する余裕はまるでないようだった。謝罪しようがしまいがどのみち殺すつもりだが、「ごめんなさい」の一言でもあれば出来るだけ苦しまないであの世に行けるよう、殺し方には十分配慮してやるつもりだった。
俺は逆さにした猟銃をやや上の方に短く持ち替えてもう一度大きく振りかぶり、確実にドアノブにヒットするよう狙いをつけて振り下ろした。
銃床がドアノブに触れた瞬間、ズドォン、と予想を遥かに上回る激しい音と衝撃が加わって、一瞬眩しい光が目の前を覆う。ドアを破った時の猟銃の手ごたえが何故か重く腹の方にまで伝わり、体が不可解な反動を喰らって後ろに吹き飛んだ。俺は急速に脱力すると、沈むように廊下にへたり込み、そのまま仰向けに倒れて天井を見上げた。
(あれ、銃が暴発したのか?)
そう思った時、ようやく俺の腹部がこれまで味わった事のない異常な鈍痛と熱さを訴え、それに伴う硝煙の臭いが息を塞ぐように鼻を覆った。
耐え難い苦痛。自分に起こった事を頭で理解するのが怖かった。腹部に負った傷を見たり、直接触ったりしたらその途端に死が確定されてしまうような気がして、心臓の鼓動だけを頼りにジッとしていた。
(し、死んじゃうのかな?)
陸に打ち捨てられた魚のように、あやふやな呼吸を繰り返し、腹部に圧し掛かる重苦しい痛みに悶えながら、なんとか死を先延ばしにしている感じだった。
家の外からパトカーのサイレンが微かに聞こえて来た。どうやらここでの騒ぎも露呈したらしい。パトカーが激しい唸りを上げて家の敷地内に入ると、すぐに警官たちが慌しく車のドアを開けて降りてくる音がした。
ぞろぞろと二、三人の足音が玄関先に回り、警察官の一人が玄関先の異常な事態を発見して、うっ、と低いうめき声をあげた。
「死体だ、死体だぞっ。ここにも死体がある、一体どうなっとるんだ、これは?」
警察官たちの間に緊迫した空気が走る。事件らしい事件なんてない長閑な山村だけに、警察官たちが死体を目の当たりにした時の反応はまるで素人のようで、ホラー映画の悪夢のような光景に全員が震え上がっていた。
物々しい雰囲気の中、一人が県警に無線で連絡を入れるためにパトカーに戻り、残った警察官たち全員が、携帯している拳銃を構えて家の中に入って来た。
廊下になだれ込む彼らの足音が鈍い振動となって俺の頭に響く。次第にそれが気にならないくらい意識がぼんやりして来て、あらゆる苦痛が和らいでいった。
「ここにも誰か倒れているぞっ」
此岸と彼岸の間で霞む視界に初老の警察官の顔が割り込んでくる。目と目が合った。
「ん……生きてる? おい、こっちは生きてるぞっ」
倒れている俺を見つけた初老の警察官の反応は、身振り、手振り、声、全てが過剰だった。初めて遭遇する異常事態に興奮し、警察官として職務を全うしようとする使命感と田舎者の野次馬根性がごっちゃになった複雑な表情をしていた。
〝大丈夫か?〟〝意識はあるか?〟 などと大声で俺の容態を確認する所作がひどく雑で、俺はその度に安らかな眠りを妨げられる不快感を覚えた。それでも俺の肉体にはもうそれが自分の物というような感覚はなく、視界は限りなく白く広がって、意識はいよいよ彼岸に向かって解放されていった。
薄桃色の空間にだだっ広い原っぱが見える。遠くに運河のような大きな河が流れていて、近づくとすぐにそれが三途の川だと分かった。「おい、しっかりしろっ、しっかりしろっ」
白装束を着た大勢の行列に混じって俺が当たり前のように河を渡ろうとすると、初老の警察官の声がうるさく耳元で響く。これが九死に一生を得た人たちがよく口にする臨死体験ってやつだろうか?
呼び戻そうとする声に従って引き返したら命が助かったとかいうが、俺は別に死んでもよかった。ターゲットを全員殺害して凶行の片がついたらどのみち自殺するつもりでいたし、戻って生き返ったところで残りの人生はきっと想像を絶する地獄だ。呼びかけに甘んじて引きかえすメリットなどこれっぽちもない。
〝おーい、おーい、〟と初老の警察官がしつこく何度も俺を呼ぶ。無視しようとしても声は全然止まなかった。
「お客さん? 起きてください……お客さんっ」
俺は初老の警察官ではない、女の人の声で目が覚めた。ぼんやりとした視界に明る過ぎる照明と大勢の人の声が飛び込んで来る。どうやら俺は不覚にもファミレスのソファで眠ってしまったらしい。ひどく嫌な夢を見ていたようだが、起き上がると同時に夢の内容はどんどん失われて、後にはうっすらとした恐怖だけが残った。
「今日は大変混雑しておりますので、申し訳ありませんが仮眠などはご遠慮ください。よろしければ新しいコーヒーお持ちしましょうか?」
側に立っている店員さんに居眠りを注意され、俺は涎の垂れたテーブルを上着の袖で慌てて拭くと、苦笑いしながら、結構です、と軽く頭を下げた。
どれくらい眠っていたのか分からないが店内は相変わらず混んでいる。まだ一口も啜っていない食後のコーヒーはすっかり冷えていて、寝起きのざらついた口の中を潤すにはひどく不味かった。やっぱり新しいコーヒーをもらうんだった、と軽く後悔する。これ以上長居しても店に迷惑なので俺は席を立って会計することにした。
寝起きの頭に店内の喧騒は煩過ぎる。月曜の朝に迎える倦怠感のようなものを引きずりながらレジに向かうと、慌しい接客に追われ、露骨にイライラしている様子の若い女の店員が、俺が差し出した伝票を奪うように受け取り、無言でその金額を手荒くレジに打ち込む。
小銭で無駄に膨らんだ財布の中身をすっきりさせようと思い、提示された金額を一円単位でぴったり支払う。小銭を数えるのに多少もたついたが間違いなく金額どおり店員に渡した。大量の硬貨を渡された店員がそれを一枚一枚目で追いながら大袈裟にうんざりしたため息をついた。
店員は終始ふて腐れた顔で俺が支払った金を数え終えると、ありがとうございました、も言わず、レジからレシートを引きちぎるようにして俺に渡した。
完全に接客失格だ。マニュアルを無視し、自分の感情を剥き出しにして客に八つ当たりするなんてサービス業にあるまじき行為。俺がもし店長だったら即刻やめさせている。この店の店長を呼んで、彼女の接客態度に気分を害した、とクレームを言おうかと思ったが、ここまでの愚民には何を言っても無駄なような気がしたのでやめた。
あくまで俺の想像だが、彼女の横柄で傲慢な接客態度には、男好きのする恵まれた顔立ちで普段から店長に気に入られているという自信が窺え、その庇護の下で多少のミスや粗相を多めに見てもらえる甘やかされた事情があるんだろう。雇われている者も雇っている者も馬鹿なんだから俺のクレームにまともに耳を貸すはずがないのだ。しかたがないのでカウントだけくれて渋々店を出る。
外は来た時よりも冷えていて、吉祥寺大通りを強く吹きぬける寒風のせいもあってか、苛立つ俺の神経を更に鋭く尖らせる。そして運悪く、外の寒さで体が急速に冷えたせいか、突如腹部が遠方の雷鳴のように轟き、俺は店を出て数歩も歩かないうちに腹を下してしまい、直下型の便意を解放するため、すぐ近くのヨドバシカメラのビルに避難した。
半年程前からだろうか? 外食すると何故か突発的な腹痛に襲われ、いつも冷や冷やしながらトイレに駆け込む破目に陥っていた。腹痛開始から十分程度が我慢の限界で、その間にトイレにたどり着けないと俺の肛門括約筋は恥辱にまみれた汚物を公衆の面前で排泄してしまう事になる。
一刻を争う事態。俺は最悪の結末を避けるため、いつどこで気性の荒い便意が訪れてもいいように、吉祥寺の街で利用できるトイレの場所をかなり細かく把握していた。ヨドバシカメラのビルは各階に広いトイレが確保されているので今回ここで便意を催したのは不幸中の幸いだ。
駆け込んだヨドバシカメラの店内は、年末のボーナスを当てにして家電を買い求めに来た家族連れで溢れていた。家電メーカー各社が競い合って推奨する新商品に触れながらのんびりと品定めを楽しむ客の間を縫って、俺は焦れったい思いをしながら目指すトイレに向かって急いだ。
清潔で広いスペースのトイレ。四つある個室のうち一つが空いていた。腰のベルトを緩めながらその空いている個室に入る。そして勢い良くジーンズを下しながら便座に腰かけ、間髪入れずに堪えていた物を噴射した。
便器を派手に汚す下品な音。案の定ひどい下痢だった。出したと同時にそれまでの苦痛が安堵に変わり、俺はほっと一息ついて脱力した。
だいぶすっきりはしたものの、まだいくらか腹に留まっている気配があるので、俺は腸内にある汚物を全て空にしようと、そのまま力んで長期戦の構えに出た。出そうで出ない意地の悪い便意に翻弄されながら踏ん張っていると、コンコンッ、コンコンッ、と誰かが個室のドアを慌てた様子でノックした。ふと目をやった足元のドアの隙間から薄汚い白のスニーカーの先が覗いている。ひどく何かに急かされているらしく、小刻みに足踏みしては、ドアの前を落ち着きなく右往左往していた。
ここのトイレの個室は外側のドアに取っ手が付いていないタイプなので、使用者がいない時は常にドアが開いた状態になるように設計されている。わざわざノックしなくても中に人がいるかどうかは、ドアの開閉を見れば一目で分かるはず。それを知っててノックしたのか、知らずにノックしたのかは分からないが、とりあえず俺はそのどこか無遠慮なノックに対して何のリアクションもせずに、そのまま踏ん張った体勢を維持し続けた。
ドォンッ、ドォンッ。黙って踏ん張っていると、ドアに掌底でも食らわしたような衝撃があった。追い込まれた人間のがさつでデリカシーの無いノック。俺は相変わらずドアの下の隙間で右往左往しているその薄汚いスニーカーに対して無性に腹が立ったが、それでも変な波風が立たないよう気を遣って柔らかなノックをし返した。ついでにコートのポケットに手を突っこみ、数取器をまた一つカウントする。
「ちぇっ、なんだよ、いるならはじめから返事くらいしろよっ」
ドアの外にいる相手が小さい声で舌打ちしながらそう言うのが聞こえた。ようやく個室が使用中である事を理解した薄汚いスニーカーは、さらにそわそわした気配を見せると、俺が出るまで待つつもりなのか、一向にその場を立ち去ろうとしなかった。
内容のはっきりしない独り言をぶつくさ呟きながら、時折大きな咳払いで自分の存在をアピールする態度が堪らなく不快だった。
(無知蒙昧、厚顔無恥とはまさにこいつの事だ。こっちが下手に出ればいい気になりやがって……)
しばらくして隣の個室が空いた。ドアが開いたと同時に、外で待っていた薄汚いスニーカーが中から出てきた人を半ば押し退けるようにして個室に滑り込むのが音と気配で分かった。その後叩きつけるようにドアが閉められ、勢い良く押し上げられる便器の蓋の音と、恥をまったく知らない巨大な屁の音がトイレ中に響く。
音も然ることながらその臭いの方も凄まじく、何を食べたらそんな悪臭になるのか首を傾げてしまうほど耐え難いものだった。高カロリーな物ばかりを貪る、食い意地の張った醜い肥満体が目に浮かぶ。
俺はしつこく居座り続けて消えさろうとしない屁の臭いに顔をしかめながら、不本意な追加のカウントを入れてやった。
リミットまでの残りのカウント回数は五。
(馬鹿の発する悪意が俺にどれだけ生き辛い思いをさせているか。この愚民どもっ、今にわからせてやるっ)
軽度の便意がまだ続き、完全に快調とは言えない腹具合だったが、俺はその場の居心地の悪さに耐えかねて、そそくさとトイレを出た。
(こんな世界はもう懲り懲りだ。親愛なるラスコーリ・ニコフ君、俺もとうとう腹を決めたよ)
俺の足は手頃な武器を求めて自然とサンロード商店街の刃物店に向かって行った。商店街は人通りがさらに増えていて、もっぱらアルコールを含む夕飯にありつこうとする人たちでごった返していた。そのほとんどが浮かれ、週末の夜の喧騒にすっかり溶け込んでは、誰もが無意識に悪意を生み出していた。
中でも特に気に入らないのは自分の存在が著しく大勢の通行の妨げになっている事に気付いていないチラシ配りのバイト要員たちだ。労働意欲というものを微塵も感じさせないむさ苦しいドレッドヘアーや顔中に夥しい数のピアスを空けている者が当たり前のようにチラシを配っているその光景が甚だ不快で、俺はそいつらが近寄ってくるたびに顔面を殴り飛ばしたい暴力衝動に駆られた。
愛想のまったくない、どこか投げ遣りな感じの態度で一方的に押しつけられる不必要な販売促進情報。一応もらってやっても、そいつらの口からは感謝の言葉の一つも出て来やしない。それどころか無視して受け取りを拒否すると、露骨に舌打ちして、斜め下から鋭く俺を見上げる始末だ。
俺は相手の顔面を殴らない代わりに、数取器をカチッと押した。もういちいち表示を気にする事もない。
秒読み開始。吉祥寺史上最悪の夜になる事を願いつつ、俺は目指す刃物屋を見つけて、表のガラス戸を潜った。眼鏡をかけた六十後半くらいの神経質そうな老人が無言で俺を出迎える。外の人通りの多さとは関係なく、店内は外との交流を遮断したように閑散としていた。刃物ばかりがずらりと並んだ狭い店内に、店の主人と二人きりという状況は変な気詰まりがして落ち着かない。
店の主人の方も突然来店してきた挙動不審の見慣れない客に少しばかり驚きと緊張を抱いたのか、わざと伏し目がちに視線を外して、俺に気付かれないように何気なくこちらをちらちらと観察していた。俺は壁に吊るした刃物を物色している視界の端でそれをひしひしと感じた。
普段この店を訪れるのは近所付き合いのある主婦連中か、自分の終生の商売道具として、刃物にこだわりを持たなければいけない職人たちくらいなのだろう。この店の主人にしてみたら、俺みたいな安いよれよれのコートを着た飛び込み客は明らかに異質な存在なのだ。店の主人がそれこそ刃物のように鋭い観察眼を俺に向けてくるのは凶器になりゆる道具を取扱っている責任上やむを得ない事なのかもしれない。何を目当てにここへ来たのか分からない以上、店の主人が俺に対して警戒を解く事はないのだ。
俺は主人のいる側から死角になるショーケースの中の刃物に目を移した。調理用の包丁やナイフが見栄え良く整然と陳列されていて、俺はその精巧な作りと高い値段を見て目を丸くした。
眺めてみると和包丁だけでも柳刃、薄刃、鎌形薄刃、相出刃、見卸出刃、蛸引など様々な種類がある。中には刀匠だった家柄を継ぐ名人たちの品もあり、その銘を彫り込んだ伝統的な製造法で丹念に仕上げた刃物なんかは、古美術品でも鑑賞しているような気分を味合わせた。
手持ちの金が五千円しかない俺は、結局どれにしようか迷うまでもなく大量生産されたステンレス製の安い包丁を買う事になった。
ショーケースの上のフックに吊ってある、「切れ味バツグン!」の文字が浮いている包丁を手に取り、年季の入ったレジカウンターに置く。
「すいません、これください」
「あぁ……はいはい、包丁ですね。えっと……二千三百七十円になります」
店の主人はあえて俺の顔を見ない不自然な態度で値札のシールに目を落としながら商品の代金を告げた。俺がジーンズの尻ポケットに入っている財布を取り出すのに手間取っていると、店の主人はその間を埋めるように、濁った老眼鏡のレンズから鋭い目を覗かせてぽつりと俺に話しかけて来た。
「熱心にショーケースの中を覗いているようでしたけど、調理師の見習いか何かやられてるんですか? 何か他に御入り用の物がありましたら、お探ししますけど……」
「えっ?」
後ろ手にもぞもぞポケットをまさぐっていたら財布に繋げたウォレットチェーンがコートの端に引っかかって、不意をついた店の主人の質問が一瞬分からなかった。
「あ、いえ、自炊用に家で使う包丁が欲しかったんです」
「そうですか。はぁ、なるほど、なるほど……」
財布から代金を取り出して渡すと、店の主人は半分納得したような顔付きで釣り銭を用意しながら呟いた。俺は店の主人が言う、なるほど、という一言が引っかかり、何か値踏みされたような気がして軽く腹が立った。
「家庭で使う程度の包丁でしたら、わざわざうちみたいな専門店でなくてもスーパーとかホームセンターでも売ってらっしゃるでしょ? 最近はやたらと通り魔事件だとか物騒な事件多いもんですからね。お客さんみたいに若い人がうちなんかに来られると、つい使い道が気になってしまうというか……あ、別に変な意味じゃないですよ。ただ一応念のために確認したかっただけでございます」
老眼鏡を過剰に近づけてつり銭を数えながら、世間話でもするように店の主人は俺にそう言った。
(見透かしてんじゃねぇ、先の短い老人は世間の話題に疎い方がいいんだ。老成した気遣いで余計な説教なんかしてると今に痛い目に遭うぞっ)
俺は店の主人の不用意な一言にカウントを入れて店を出た。ビニール袋に入れた包丁を隠すように小脇に抱え、残り三回のカウントとなった栄えある悪意を待った。眼光鋭く通りに目をやると悪意はすぐにやって来る。
ど派手なコートを来た年増の女が、肩で風を切りながら通りをこちらに向かって歩いてくる。けばけばしいだけの高級感を身に纏い、道行く人たちの視線を自分に振り向かせようとする高飛車な歩き方はまるでセレブ気取りで、虫唾が走るほどに浅ましく、地面を必要以上に蹴るその真っ赤なハイヒールの靴音がひどく耳障りだった。俺の前を通りすぎる時に振りまいていった噎せ返るほど甘ったるい香水の臭いにも十分悪意があり、俺は苛立ちを通り越してなんだか楽しくなっていた。
残り二回。
(さぁお次は一体誰だ?)
とりあえず吉祥寺の駅に出ようと、東急チェリーナードの通りを狭苦しいハーモニカ横丁に入ると、そこに泥酔して前後不覚の状態に陥っているサラリーマンの男がふらふろと漂っていた。
はちきれんばかりに肥えた醜いスーツ姿から、アルコールとニンニク臭い息を吐き散らし、大声で放たれる迷惑な独り言は、会社の愚痴と家族に対する不満で満載だった。男の独り言は親身になってくれそうな話し相手を求めて、通路を行き交う人や路上の猫、店の看板や閉じたシャッターと、いろんな所に向けられていた。
歩いているのか停滞しているのか分からない速度で管を巻き続ける男を俺はなるべく見ないように通りすぎようとしたが、男は俺に絡む気満々で、臭い息を思い切り吐きかけながら気安く話しかけてきた。
「よう、兄ちゃん。おめぇはちゃんと働いてんのかぁ? 俺は毎日女房子供のために働いて、今日もこうして堂々と酒飲んでんだぞぉ、なんか文句あっかよぁ? おぅ?」
安月給で会社に扱き使われているうえに、家では家族に虐げられて父親としての威厳が保たれていないのだろう。男は俺を勝手に自分より弱者な存在と判断して、壊れそうな自尊心を守るために、俺を罵っては満足気な顔をしていた。
バブルの好景気に踊らされて、何も疑わずに社会の歯車になった馬鹿の戯言。俺は笑えるくらいに哀れなその男にすかさずカウント入れ、「どけよ、おっさん」と一言かましてから男を押し退けた。オイルの切れた使い物にならない歯車はその場に派手にもんどり打って、立ち去る俺に何か吠え続けていたが、俺はまともに相手などするはずもなく、無視してその場を去った。
ラスト一回。吉祥寺史上最悪の夜は目の前だ。
俺は吉祥寺駅に佇み、悲劇の引き金を引く最後の悪意を探して、やたらキョロキョロと周囲に目を泳がせた。
吉祥寺の街に繰り出す人の群れと他の街に帰宅する人の群れが交差する中心で、俺は目まぐるしい人の流れに身を任せながらビニール袋の中で大人しく控えている武器がゲラゲラ笑い出す音を聞いた。
すれ違う人みんなが俺を邪魔臭そうな目で見る。俺はいつも道を譲ってきたのに、そいつらは俺にまったく道を譲ろうとはしなかった。遠慮なく肩と肩をぶつけて来て、俺が道を譲らないと分かれば、明白な敵意を剥きだしにして俺を突き飛ばした。
ラスト一回どころか無数の悪意が野放しにされた状態でもうカウントし放題だった。一人で歩いている者はしみったれた顔をしているか不満げな顔で、連れと一緒に歩いている者たちは、むやみやたらと馬鹿笑いしている。
俺はもう数取器を押す必要がなかった。ビニール袋の中に手を突っこみ、包丁の包装を解く。
(何人くらい殺せるかな? 今まで一番最悪だったケースを越えるには何人殺せばいいのかな?)
体は大量殺人の興奮で打ち震えていたが、頭の中はひどく冷静だった。
(一人殺すのに要する時間は何秒? 警察が連絡を受けて俺の所に到着する時間は何分?)
「……陽ちゃん?」
(まずはじめは誰から殺す? この中に怯まず俺に抵抗を試みる奴は何人いる?)
「陽ちゃん?」
(まずはこいつを刺して、その次にあいつ、そしてそいつとそいつを……)
俺は頭の中で一通り大量殺人の流れをシュミレートすると、ビニール袋の包丁をしっかりと握り締めた。
腕を組んで歩くラブラブなカップルが視界に入る。俺はそのカップルを一番はじめのターゲットに決め、その二人に向かって走り出そうとした時、
「……陽ちゃんてばっ」
ふいに後ろから誰かが俺の肩を掴んだ。振りむくとそこに俺の彼女がきょとんとした目で立っていた。
「えっ、あれ? ……なんで?」
仕事で忙しいから連休はあえないと言っていた彼女がどういうわけか目の前にいる。
「なんでって、仕事早く終わって時間が出来たから会いに来たんだよ。改札出たら陽ちゃんっぽいの見かけたから声かけたのに、陽ちゃん全然気付かないんだもん」
「……ああ、ごめん、ごめん」
俺はビニール袋から半分出かかった包丁を慌てて袋の中に押し戻した。包丁を握っていた手がわけもなく震え、俺は急に歯止めがかかった殺意を誤魔化すために、ぎこちない笑顔を作った。
「何してたの?」
「いっいや、ちょっと買い物しに街へ出てたんだよ」
「そっかぁ。晩御飯はもう食べた? 食べてなかったら陽ちゃんの家で鍋でもしようと思って材料買ってきたんだけど、家に包丁とかある?」
「えっ? な、ない……いや、あるよ」
俺はビニール袋の中の包丁と彼女を交互に見ながら、自分の状況をまだよく理解出来ず、ただひたすら苦笑いを浮かべていた。
そんな俺の手を彼女がそっと握って来る。よく分からないまま夜の駅前を彩るイリュミネーションを二人でぼんやり眺め、それが思いのほかキレイだと感じた。
俺はとっくにカウントし終えた数取器をリセットして、彼女の手の温もりを確かめながらまだ微かに震えていた。
ルサンチマンを数えて 祐喜代(スケキヨ) @sukekiyo369
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