知事決裁
蓮乗十互
【本文】知事決裁
課長の怪訝そうな顔に気づかぬ風で、雄三は稟議板の起案用紙を食い入るように見つめていた。押されたばかりの課長印は艶やかな赤だ。そっと指で触れてみる。凍みるような痛みが指先から骨を伝う。ゆっくりと指を動かして、起案用紙の印影を数える。
ひとつ、ふたつ……これで十四。あと十個。あと十日……。
雄三は呟くと、のそりとその場を離れた。課長は彼の姿が次長室に消えるのを確かめ、ふう、と大きく息を吐いて緊張を解き、椅子に深く身を埋めた。
「彼は、妙だぞ。どこか悪いのかね」
課長の問いに、隣席の課長補佐が耳打ちするように小声で応えた。
「息子さんを亡くしたばかりですから。彼の課の人間から聞いた話だと、どうも少し……疲れているらしくて」
「大丈夫かね、あの起案は、知事まで持ち回るんだろう」
「さあ……」
そのまま二人は不安げに口を閉じた。やがて雄三が姿を現し、今度は部長室の前で立ち止まる。稟議板に強張った目を落とし、口の中で何事かをつぶやきながら印の数を数える雄三の姿に、二人はぞっとするものを感じた。
*
雄三が一人息子の信夫を川で亡くしたのは、学校が夏休みに入ってまもなくのある暑い日曜日だった。
休日には読書を好む雄三がその日に限って遠出したのは、信夫にねだられたからだ。用事があるという妻を家に残し、雄三は信夫と共に車を走らせて川の上流に向かった。
小学五年生の信夫は、半袖と短パンから焼けた腕脚をひょろりと伸ばして、野球帽を斜にかぶると、早速に釣り糸を垂れた。涼やかな風が対岸の緑を揺らし、せせらぎは耳に優しく響く。数日前の大雨による増水もおさまり、幾分流れが速いように見える程度だ。
雄三は少し離れた草地にシートを敷くと、持参した文庫本を読み始めた。時折り信夫の様子をうかがうと、なかなか魚信が来ないようで退屈そうにしている。そのうち雄三は本に没頭して、信夫を振り向かなくなった。
どのくらい経ったろう、ふと顔を上げると、信夫の姿が河原から消えていた。信夫、と声を上げても返事はない。川縁には釣り竿だけが残されている。ジュースでも買いに行ったのだろうか。雄三は薄ぼやけた不安を覚えながら、土手を上り、自販機があったと記憶している方に向かって橋を渡ろうとした。
その時、橋からかなり下流の河原に緊迫した雰囲気の人だかりが見えた。雄三の胸を黒い予感がよぎった。転げるように再び土手を降りると、砂地を駆けた。
行楽客らしい人々の輪の中に、果たして信夫は横たわっていた。信夫、と叫んで人の輪に割って入ると、人工呼吸を試みていた若者が立ち上がり、怒鳴った。
「お前が父親か。どこに行ってたんだっ!」
雄三は信夫の傍らに膝をついた。水に膨れた腹と、濃紫色の肌は、もはや生命の取り返しようがない事を示していた。信夫、信夫、とうわごとのようにその名を呼びながら、雄三は亡骸の顔に手を這わせた。凍みるような冷たさが痛みとなって指に伝わる。
信夫が握りしめていた野球帽を胸にかき抱くようにしながら、雄三は号泣した。
*
部長まで稟議を受けると、雄三は次の印をもらう為に東庁舎を出た。
数十年前に建てられた古い県庁舎は、本来の建物に職員を飲み込み切れず、複数の分庁舎に分散している。だからこうして複数部局に稟議を持ち回るときは、まるで巨大な迷宮を彷徨うように右往左往しなければならない。
空には黒い雲が広がり、イオンの薫りが激しい雨を予感させる。肺に湿った空気が満ちて息苦しい。雄三は信号が青に変わるのを待ちながら、何度でも稟議板の赤い印影を数える。ひとつ、ふたつ……十六。あと八つ。
稟議制は、担当者の起案を関連部署が承認してゆく、県庁という巨大組織の意志調整手法だ。雄三は起案者欄にまず自分の印を押した。そして内容を説明しながらラインを持ち回る。係員二名、室長補佐、室長。本課の庶務担当二名、庶務係長、課長補佐、課長。主管課の経理担当、係長、総括補佐、課長。次長、部長。起案用紙の白に刻まれた赤い聖痕は既に十六。これから雄三は南庁舎で財政課担当と係長の稟議を受けた後、本庁舎で財政課長補佐、課長、総務部次長、部長、副知事そして知事の印をもらわねばならない。決裁を得る為に必要な印影は都合二十四個だ。
赤。赤い印影。白い夏の光。骨にまで浸みる蝉の音。みいぃぃぃぃん。汗。信夫の部屋に立ちつくす雄三。背中を向けて震える妻。みいぃぃぃぃん。主を失った勉強机。ベッドサイドに下げられた、もはや永遠に印が埋まることのないラジオ体操の出席カード。信夫が楽しむ事のできなかった夏休みの残り二十四日。みいぃぃぃぃん。赤。赤い印影……。
信号が赤から不意に青に変わった。
雄三は一歩を踏み出す。ぬちゃり、とアスファルトは川底の泥のように雄三の足を取る。水の薫りが急速に高まる。息苦しさに喘ぐと、気泡が宙にごぼりと漂う。耳元にはごうごうと激流の音。身体が重い。水の中をかき分けるように手を動かしながら歩く雄三を、通り過ぎる人々が不審気な目で振り返る。雄三の目の中で彼らは魚に変わる。くすす、くすす、と魚たちは笑う。笑って軽やかに泳いでゆく。
南庁舎のロビーに入ると、雄三はエレベーターに乗り込んで五階のボタンを押した。ゆっくりと透明な筒を上昇するエレベーターはガラスの金魚鉢だ。陽の光の届かぬ暗い水底を、雄三を乗せた金魚鉢が漂う。闇の中に一際濃密に浮かぶ人影。あれは死の影だ、と雄三は思う。信夫を死なせたあの日から、影はいつも俺の側にある。俺ももうすぐ。そういえばこの金魚鉢の酸素はいつまで持つのだろう。息が苦しい、苦しい……。
閉所恐怖にも似た不安発作で叫びだしそうになったその時、エレベーターの扉が開いた。
財政課分室に入ると、雄三はまっすぐ担当者の席に向かった。事前に電話で来訪を告げていたので、担当は席について待っていた。
「おはようございます。今日は、何ですか」
「……ラジオ体操です」
担当は顔を上げた。
「何ですって?」
「出席カードなんです」
目を丸くして自分を見ている担当に稟議板を差し出しながら、雄三は小さな声で続けた。
「信夫のカードです。信夫はもうラジオ体操ができないから、私が代わりに出席印を」
「どうして信夫君はできないのですか」
「死んだからです、私が死なせたから……」
「一体お前は、何をしていたんだ!」
その叫びに驚いてよく見れば、雄三の前に座っているのは担当ではなく、あの時信夫に人工呼吸をしていた若者だった。
「本を、本を読んでいました」
「それで息子が川にはまったのにも気づかなかったのか。それでも父親かっ」
若者の叱責に、雄三は何もいえずにただうつむいた。ごぼり。辺りに暗い水が満ちる。水は雄三の皮膚から浸透し、冷たく心を縛める。死の影がふらりと目前を横切って消えた。
「お前がちゃんとついていれば、彼は死なずにすんだ。せめてもっと早く見つけていれば。川が危険なことは分かっていた筈だ。それはあの世とこの世の聖なる境界だ。子供はたやすくその境界を渡ってしまう。地方分権の観点からいえばね。今年は見切り発車するにせよ、来年度予算では見直しが必要でしょう」
担当は起案用紙に印を押して雄三に戻した。
「じゃあ次、係長の所へどうぞ」
担当にうながされるまま雄三は係長席に歩んだ。席にいたのは彼の妻の静子だった。
「……何をしに来たの」
静子はじっと固まって動かぬ目をしている。みいぃぃぃん、みいん、みんみんみんみいぃぃぃぃん。暑い夏。信夫の部屋。雄三を激しく罵り、心を固く閉ざして実家に帰った静子。
「あの子の未来を奪ったあなたが、今更」
「信夫の代わりに、ラジオ体操の出席カードを埋めているんだ」
「それが何になるのよ」
「夏休みの数だけ揃ったら……」俺も川に行くんだ、という言葉を雄三は飲み込んだ。
「揃ったら何。信夫はもう帰ってこないわ。可愛かった信夫。あなたが悪いんだ。あなたが殺したんだ。あの子を返してよぉ!」
静子は机上の筆立てを投げつけた。筆立ては雄三の胸に当たると砕け散り、欠片はクリーム色の魚餌になる。わらわらと鋭い歯をした魚たちが集まって、雄三の耳を鼻を指を囓る。鈍い痛みに雄三は呻いた。夏の白い光はいつしか再び暗い水に変わり、黒い血が煙のようにゆらゆら立ち昇る。
「もう、二度と会いたくない」と静子は呟く。
「愛している」
「聞きたくない。見たくない。殺してやりたい」
「せめて印鑑を。信夫の為に」
静子は乱暴に印を押すと、稟議板を雄三に投げ戻し、机に突っ伏して嗚咽した。
*
外はいつの間にか激しい雨だ。ごろごろと雷が不安な音を響かせる。傘を持たずに来た雄三は、稟議板を上着の内にかばいながら南庁舎を出た。大粒の雨が錐のように雄三の皮膚を鋭く殴打し、たちまちずぶぬれになる。
十八日が埋まった。あと六日。あと六日で信夫の夏休みは終わる。
本庁舎は道路のすぐ向こう岸だ。しかし夕立のせいで道路はひどく増水し、うずまく激流が雄三の行く手を阻んでいる。横断歩道も信号も水に流されて役に立たない。駆けてきた大型トラックは見る間に巨大なカジキとなって、ざぶうん、と激流を跳ねて通り過ぎた。
水はこんなにも凶暴な顔を秘めているのに、どうしてあの時俺は、信夫を一人にしてしまったのだろう。俺も行くから。信夫、お前の夏休みを印で埋めたら、俺も行くから。
雄三は意を決して激流に足を踏み入れた。一歩、二歩、膝から腰へ胸へと水かさは増し、全身から急速に体温が奪われる。ごごごおう、と水は吼えて雄三を飲み込んだ。鼻から口から泥の水が体内に侵入し、激しくむせる。痛い痛い。苦しい。白濁した世界をぐるぐる翻弄されて、どちらが上かも分からない。
泥水のスクリーンにセピアの映像が浮かぶ。赤ん坊の頃の信夫が、優しい顔をした若い静子に抱かれて笑っている。声はない。ただカタカタと古い映写機の回る音がする。信夫は這い、立ち、歩く。幼稚園での劇。小学校の入学式。親子遠足。キャッチボールをした帰り、つないだ手のぬくもりと夕焼け……。
信夫は雄三と静子の夫婦にとって初めての、そしてたった一人の子供だった。成長する信夫の純な笑顔や泣き声は、彼の心を柔らかくしてくれた。人付き合いが不得手で、つらい思いを隠しながら仕事を続けてきた雄三は、信夫からどれだけ生活する勇気を与えられてきただろう。
ふっ、とスクリーンが途切れて水面から顔が浮かぶ。激流は交差点を右折し、県庁本庁舎の地下へと注ぎ込んでいる。ぽかりと開いた暗渠の入り口は、そのまま死の世界へと続いているようで、雄三は川岸に泳ぎ着こうと必死で腕を動かした。だが圧倒的な水の流れは雄三を翻弄し、暗渠へと飲み込んだ。
*
どのくらい気を失っていたのだろう。
雄三は闇の中に横たわっていた。水音が聞こえる。身体を起こし見回すと、とろりとした闇に時折り微かな光が揺れる。闇の中を川が流れているのだ。目をこらすと、闇の方々に風景が浮かんでは消える。木々の影。橋の影。雲の影。鳥の影。ここはあの河原だ、と雄三は悟った。信夫を亡くしたあの河原が、ネガフィルムのように目前に広がっていた。
予感にかられて雄三は川縁を凝視した。闇に一際濃い人影がうずくまっている。死の影が、最後に見た信夫の格好を真似て闇に溶けていた。見回せば河原には様々な影が蠢いている。あの川で命を落とした者たちの亡霊なのだろう。川は生者と死者の国の狭間。俺はもう、死の国へ渡ってしまったのだろうか。まだ印は集まっていないのに。まだ……。
不意に川縁の人影が立ち上がり、少年のシルエットになった。
「ぼくの望んでいるのはそんな事じゃないんだよ、お父さん」
シルエットはぼんやりと淡光を放ちはじめた。後ろ姿の少年は、黄色い野球帽をかぶり、半袖短パンから日に焼けた細い腕と足を伸ばしている。信夫、と雄三が口の中で呟いた途端、少年は駆け出した。河原から遙か天空の高みに階段が伸び上がる。少年は階段を駆け登り、その果てにある光の中へ飛び込んだ。
「信夫!」
雄三も少年の後を追って走り出した。あの時は間に合わなかった。信夫を助ける事はできなかった。今度こそ。長い長い階段を駆ける。中年にさしかかる肉体は酸素を求めて悲鳴を上げる。腿が激しい疲労で熱を持ち、膝が震え出す。今度こそ、今度こそ。息を整える為に少しだけ立ち止まった。河原を見下ろすと、死の影たちは艶やかなモノクロームの川に次々と溶けてどこかへ流れてゆく。雄三再び上を見上げた。階段の先にはまばゆい光があふれていた。最後の力を振り絞るようにして駆け上がると、雄三はためらうことなくその光の中へ飛び込んでいった。
*
県庁の三階にある財政課本室は、広い窓から差し込む陽光につつまれていた。光はいつしか夏の鋭さを失い、季節が移り変わろうとする時の柔らかな香りを放っている。
階段の先が財政課であった事に、一瞬、雄三はとまどった。はっとして稟議板を探す。泥の水に溺れたにも関わらず、起案用紙は濡れも汚れもせず、純粋な白さのまま上着の内側にあった。残された稟議印欄はあと六つだ。
雄三はまっすぐに課長補佐の席に向かうと、稟議板を差し出した。
「信夫がここを通りませんでしたか」
「ああ、ついさっきね。まだ間に合うさ」
補佐は赤い印を起案用紙に押した。あと五つ。次は課長席に向かう。
「私の大切な息子なんです」
「ならば、彼を悲しませてはいけないね」
課長は印を押すと、雄三に向かって諭すような表情をした。あと四つ。雄三はそのまま総務部次長室へ入った。
「信夫を死なせたのは私です」
「そんなに自分を責めるもんじゃない」
次長は朱肉の跡を起案用紙に刻むと、雄三に手渡し、励ますように肩を叩いた。
部長室に入るとそこは古いお堂だ。部長席のあるべき所に、くすんだ色をした地蔵が佇んでいる。赤の前掛けが目に暖かい。雄三は合掌瞑目した後、稟議板を差し出した。
「部長、稟議印をいただけますか」
地蔵は稟議板を受け取ると、しばらくの間無言で起案を読み、顔を上げた。
「子供はね、死ぬと賽の河原に行くんだよ」
「はい」
「そこで子供たちは功徳の為に河原に小石の塔を積もうとする。でも、じきに鬼が邪魔をしてその塔を崩してしまうんだ。現世にいる父母たちは、そんな子供のことを悲しんで、子供の元へ届けと願いながら、現世の河原に一個、一個、石を積んでゆく。──君はもう、十分に石を積んだのではないのかね」
雄三は唇を噛んでうつむいた。
「でも、まだ……」
「君の気持ちは彼に届いている。もういいんだ、そろそろ自分を赦しても」
地蔵はその固い石質に柔らかな微笑を浮かべ、雄三を優しく見つめた。手にした錫杖の先で起案用紙に触れると、しゃりん、と涼やかな音と共に赤い印影が現れた。
「さあ、行きなさい。最後のお別れに」
*
失礼します、と声をかけて、雄三は副知事室に足を踏み入れた。副知事は執務机に向かい書類を手にしたまま、顔を上げた。
「稟議をお願いにあがりました」
「はい」
副知事は眼鏡をかけると、稟議板を受け取って、起案用紙に目を走らせる。選挙で選ばれた知事を別として、県の事務吏員としての最高位にいるその人は、思慮深い顔の皺と白髪で豊かな経験を感じさせた。
「これは、例の補助金だね」
「はい」と雄三は頷いた。
「知事も気にしておられたからね。問題も多かったけれど、ようやく動き出すわけか」
副知事は感慨深げにいうと、稟議板を机上に置いた。そして机の引き出しを開けると、黄色い野球帽を取り出して頭にかぶる。
副知事室に涼やかな風が吹いた。
「やっと会えたね」
副知事席から立ち上がった少年は──信夫は父の顔を見上げた。
「信夫。どうしてお前は行ってしまったんだ」
「風が、吹いたから」
「風?」
「帽子が飛ばされて、川に落ちたんだ。お父さんは一生懸命本を読んでるみたいだし、川も浅くてすぐに取れそうに思えたから、自分で取りに行った。でも流れはとても急で、帽子に手が届いたと思った途端、僕は水に飲まれた。声を上げる暇もなかった」
「ごめん。信夫、ごめん。お父さんがちゃんとしていれば」
信夫は何もいわずに、目を落として、起案用紙を見た。
「お父さんは、こんな仕事をしていたんだね」
「ああ」
「でも、お父さんの仕事じゃないものが混じってるみたいだ」
そういって信夫は起案書類の間から、一枚のカードを抜き出した。それは途中まで印を押された、ラジオ体操の出席カードだった。
「でも、まだ……」
「いいんだよ。これは僕のものだから、僕が持っていく。お父さんはお父さんの事を考えて。それから、お母さんの事を考えてあげて」
雄三は机を回り込むと、信夫の体を抱きしめた。小さな体が雄三の腕の中で温もりを伝える。しばらく父と子は抱き合った後、どちらからともなく体を離し、握手をした。
「これまで本当にありがとう。そして、さよなら」
信夫がいった。雄三は、大切なものを心に深く深く刻み込もうと、まっすぐに信夫を見つめた。
信夫は再び副知事席につくと、帽子を脱いで引き出しにしまった。代わりに印鑑を取り出し机上の朱肉をつけて、起案用紙に押しつける。後には鮮やかな赤い印影が残された。
「はい、ご苦労様」
副知事は優しい目をして、雄三に稟議板を手渡した。ありがとうございました、と応えて、雄三は稟議板を受け取った。
*
副知事室から知事室へ続く廊下の途中で雄三は立ちつくし、ぼろぼろと涙をこぼした。何を泣いているのか、自分でもよく分からない。淡々とした仕事の最中なのに、どうしてこんなにも心が揺れるのだろう。起案を持ち回りながら、どこか別の世界を彷徨するもう一人の自分を夢見ていたようにも思える。それはきっと悪夢だったのだろう。けれどその終わりは優しいものであったに違いない。この涙は嫌なものではなく、心の澱を洗い流してくれるから。
ハンカチで顔を拭いながら、雄三は考える。この仕事が終わったら、休みをもらおう。そして静子を迎えに行こう。俺たちには、もっとゆっくりとした時間と会話が必要なんだ。
稟議板に目を落とす。起案用紙には既に二十三個の稟議印が集まっている。
さあ、知事決裁だ。
雄三は威儀を正すと、知事室の光の中へ一歩を踏み出した。
了
知事決裁 蓮乗十互 @Renjo_Jugo
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