ダルマさんが転んだ
祐喜代(スケキヨ)
ダルマさんが転んだ
実家の母親から「甲斐ちゃんが自殺した」と聞かされた時、僕は正直そんなに驚かなかった。
小学校以来ほとんど会っていなかったから、さほど悲しくもなかった。ただ子供の頃、甲斐ちゃんとよく遊んでいたお稲荷さんの山のお堂に、人がほとんど寄り付かなくなってしまった事だけがなんとなく寂しかった。
お堂はお稲荷さんを祀る山の麓にあり、木漏れ日程度の陽しか差さないから、いつも涼しい。
太鼓だけが置いてあるガランとしたお堂は、普段静かだけど、春になると近くの桜が咲いて大人たちの酒飲みの場所になったり、子供たちの行事も多く、神楽や相撲大会の時は町内総出で賑やかだった。
僕にとってそのお堂は甲斐ちゃんと二人でよく遊んだ秘密の場所だった。だから甲斐ちゃんがぶら下がって死ぬ場所として相応しい気もするけど、残された者には忌々しい場所でしかなくなってしまった。
母親の話によると、甲斐ちゃんは年下の奥さんをもらって、その奥さんの実家に婿養子に入って暮らしていたようだった。
小心者でプライドの高い甲斐ちゃんにそんな肩身の狭い暮らしなど出来るはずがない。
どの仕事に就いてもあまり長続きしなかったらしく、そのフラストレーションからか、奥さんに内緒で家の金を持ち出しては、パチンコばかりに興じる毎日を送っていたようだった。
「甲斐ちゃん、だいぶ借金もしてたみたいだから、それで精神的に参っちゃったんだろうね」
それは違う。
「ダルマさんが転んだからだよ」
母親の言う事はいつも正しいが、それがなくても甲斐ちゃんはどうせ死ぬ運命だったのだ。
僕しか知らない甲斐ちゃんの死の真相を、その時ふと思い出した。
「ダルマさん?」
「うん」
「なにそれ?」
「母ちゃんに言ってもわかんないよ」
甲斐ちゃんは見栄っ張りで嘘つきだから、母親の言うように婿養子の気詰まりと借金を苦に自殺したと思う。でもそれだと浮かばれない気がした。
甲斐ちゃんの魂がじゃなくて、僕が。
僕と甲斐ちゃんの思い出がだ。
僕が甲斐ちゃんとよく遊んでいたのは小学校の時だけで、僕が同級生にイジメられていた時期によく遊んだ。
甲斐ちゃんは僕より3つ年上で、僕の兄と同じ学年だった。将来は野球選手になりたかったらしく、兄と一緒の少年野球チームに入っていたけど、甲斐ちゃんも同級生に馴染めないのか、チームでの練習以外はいつも一人でいた。
使い古したジャイアンツの野球帽を被り、甲斐ちゃんの家の前にある空き地のコンクリート壁にボールをぶつけて、甲斐ちゃんが一人でキャッチボールをしているところをよく見かけた。
「ここはオレの場所だぞ。邪魔だからおまえはあっちに行け」
僕が一人で本を持って空き地に行くと、先にキャッチボールをしていた甲斐ちゃんがそう言って僕を追い出そうとした。でも僕もここしか行く場所がなかったから、なるべくキャッチボールの邪魔にならないように、空き地の隅の方で本を読んでいた。そうすると、たまに甲斐ちゃんがわざと僕の方にボールを投げたりする。僕はそれでも意地を張って、気にしないふりをしながら居座り続けた。
「しょうがないな、じゃあお菓子買って来いよっ。どうしてもここで本読みたかったらお菓子買って来いっ」
僕も甲斐ちゃんもこの空き地は譲れない。
「お菓子買って来たらここにいてもいいの?」
「いいよ。でもおまえだけだぞ。あとは誰も連れて来るな」
僕は甲斐ちゃんにそう言われ、本を空き地に地に置いたまま、すぐに近所の駄菓子屋まで走った。駄菓子だったら、僕の小遣いの百円でも二人分は買える。
同級生が来ない場所はこの空き地だけだ。仲良くしてもらえなくても、外で遊べる場所がこの空き地しかなかったから、どうしても甲斐ちゃんから空き地を使用する許可を出して欲しかった。
駄菓子を買って戻って来ると、甲斐ちゃんが僕の本を勝手に読んでいた。
「本当に買って来たのか?」
「うん。だってお菓子買って来たら空き地にいてもいいって言ったから」
そう言ってお菓子を渡すと、甲斐ちゃんは少し戸惑いながら、僕が買って来たお菓子を物色した。喧嘩にならないよう、同じお菓子を二人分買って来たのに、甲斐ちゃんは「これとこれはいらないからお前にやる」とか言って、好きなお菓子を二、三個ポケットに入れると、あとは全部僕にくれた。
「よし、約束どおり、オレがいない時もこの空き地に来ていいからな」
甲斐ちゃんはそう言うと、また一人壁とキャッチボールをし始めた。
僕もそんな甲斐ちゃんを横目にしながら、また一人で持ってきた本を読んだ。本当は読んでいるふりをしていただけで、甲斐ちゃんがまた話しかけて来るのを待っていた。
空き地で甲斐ちゃんが一人でキャッチボールをしている時は、空き地には他に誰もいなくて、近所の子が大勢空き地で遊んでいる時、甲斐ちゃんの姿はそこになかった。
甲斐ちゃんに空き地の使用許可をもらってから、僕は甲斐ちゃんがいる時だけ空き地に行くようになった。
行く時は必ず二人分の駄菓子を持って行き、甲斐ちゃんに何個かあげた。
甲斐ちゃんはいつも遠慮しながら、僕があげたお菓子は嬉しそうに受け取った。
「甲斐ちゃんはどうして他の子と遊ばないの?」
僕は甲斐ちゃんがいつも一人でいて、他の同級生と遊ばない理由がずっと気になっていた。甲斐ちゃんに対する興味はそれだけだったかもしれない。
「みんなオレより野球ヘタだから、一緒には遊べない」
「甲斐ちゃんは野球しかしないの?」
「うん。野球が一番好き。野球出来ないヤツとは遊ばない」
なんとなく嘘だと思った。
僕は少年野球をやっていなかったけど、僕の兄が言うには、甲斐ちゃんはそんなに野球がうまくないらしい。でも空き地に行くたびにキャッチボールをしていたから、野球が好きなのは本当だろう。
「おまえは何でいつもこの空き地に一人で来るの?」
壁にボールをぶつけながら、今度は甲斐ちゃんが聞いて来た。
「ここ以外で遊ぶとイジメられるから。他の場所で遊ぼうとすると、見つかって通せんぼされるんだよ」
「誰に?」
「クラスの子」
僕がそう答えた時、甲斐ちゃんが一瞬だけ嬉しそうな顔をした気がした。
「おまえはいつも本読んでるけど、野球はしないのか?」
「しない。下手くそだから混ざりたくない」
「今日は何の本持って来た?」
「今日はマンガ」
キャッチボールの手を止め、甲斐ちゃんが僕の横に座った。
「貸せ、ちょっと見せろ」と言って僕が持ってきた漫画雑誌を手に取る。
キャッチボールしかしないはずの甲斐ちゃんが、興味津々で漫画雑誌に目を落としている。
「面白いな、このマンガ」
「甲斐ちゃんはマンガ全然読まないの?」
「読みたいけど、うちの親はケチだから買ってもらえないんだよ」
「じゃあ、そのマンガはあげる。もう全部読んだし、続きはお小遣いで買えるから」
「別にいらないよ。でも全部読むまで借りてていいか?」
「いいよ」
その漫画雑誌は結局忘れてしまったのか、甲斐ちゃんから返してもらっていない。ただそれから僕は甲斐ちゃんとよく話すようになり、一緒に遊ぶようになった。
「おまえこの空き地以外どこへも行けないんだろ? オレが連れてってやるから行きたいところ言ってみろよ」
「お稲荷さんの山にあるお堂わかる? あそこに行きたい」
「なんで?」
「涼しいから。本当はあそこで本読みたいんだけど、クラスの子の家の前通るから、そこで見つかって通せんぼされるから行けないんだよ」
「じゃあ通せんぼされたら、おれがそいつに石投げるから、今度そこのお堂に行こう。そのかわりマンガいっぱいもって来いよ」
休みの日。僕は朝からリュックに甲斐ちゃんが読みたいと言っていた漫画本をいっぱい詰めて空き地に行った。
甲斐ちゃんが菓子パンを食べながら先に待っていて、僕を見ると慌ててその菓子パンを飲み込み、指についたクリームを履いていた半ズボンに擦り付けた。
「朝飯はもう食って来たか?」
「うん」
「で、マンガはちゃんと持って来た?」
「うん、持ってきたよ」
リュックから漫画本を取り出して、甲斐ちゃんに見せた。甲斐ちゃんは僕が持って来た漫画を地面に一つずつ広げると、「オレはこれから読むから、おまえはこれな」と、はしゃいでいた。そして空き地にある石を何個か拾ってポケットに入れた。
「やっぱりここで読まない?」
「なんで? お堂で読みたいんだろ?」
「そうだけど……」
お堂に行く途中、クラスの子に見つかって通せんぼされるのも嫌だったけど、なんとなく甲斐ちゃんと一緒にいるところを他の人たちに見られるのが嫌だった。甲斐ちゃんはたぶん本気でクラスの子に石を投げるつもりだ。そうだとしたら、後で僕が一人になった時や、学校にいる時に酷い仕返しをされるかもしれない。それを考えたら急に怖くなった。
「石投げたら仕返しされるよ、たぶん」
「やり返せよ」
「それが出来ればイジメられてない」
「弱虫だな、おまえ」
「甲斐ちゃんもでしょ?」
「は? そんなわけないだろ、オレはやったらやり返すし、言われたら言い返すぞ」
僕に対しては確かにそうだと思った。僕が弱いから甲斐ちゃんは強いふりが出来る。
試しに言い返してみようか?
でもそれを甲斐ちゃんに言ったら甲斐ちゃんは一緒にお堂に行ってくれなくなる気がした。
「オレもお堂に行きたいから、とにかく行くぞ」
お堂まで行くには商店街の通りを抜けて、そこからお稲荷さんの山へ続く脇道へ入る。
規模は小さいけど、昔宿場街として栄えていた商店街には蔵を持つ屋敷の家が多く、クラスの子の家も呉服屋を営む屋敷だった。
甲斐ちゃんと一緒に商店街を歩きながら、窓がたくさんある屋敷のどこかからクラスの子が注意深く外を見張っている気がしてハラハラした。
一人で商店街を通る時は、なぜかいつも必ず見つかって通せんぼされていたけど、甲斐ちゃんと一緒の今日に限ってすんなり通れる事が出来た。
そそくさと細い路地に入ると、このあたりの土地を所有している地主の家の塀がずっと続き、それに沿った脇道の反対側には錦鯉が優雅に泳ぐ石畳の堰が流れている。堰に掛かる小さな橋を渡り、白い石で出来た鳥居を潜れば、お堂まではあともう少しだった。
お稲荷さんを祀る山は背の高い木が生い茂っていて薄暗く、お堂の手前には誰かが避暑地として使っている別荘の家があった。
「ここホント涼しいな」
「でしょ? ここはあまり人が来ないし、静かだから空き地よりもいいよ」
「でもここだと野球は出来ないな」
大した道のりではなかったけど、誰かに見つかる緊張からようやく解放されてホッとした。ガランとしたお堂に二人で寝そべり、甲斐ちゃんはすぐに漫画を読みだした。
「お菓子も持って来たから食べていいよ」
「うん。じゃああとで代わりにタダで麦茶飲めるところ教えてやるよ」
甲斐ちゃんがそう言って遠慮なく僕のリュックからお菓子を取り出して食べた。麦茶は自分の家でも飲める。でもどこか得意気な顔をしている甲斐ちゃんにそれをいうのは悪いと思って黙っていた。
「最近空き地に遊びに来るヤツ増えて来たから、二人で遊ぶ時はこのお堂に来ような」
漫画を読むのに飽きて来たのか、甲斐ちゃんが立ち上がって、お堂にある太鼓に近づいた。
「おまえ、ちょっと太い枝見つけて拾って来いよ」
「太鼓鳴らすの?」
「うん」
「別荘の家の人に怒られないかな?」
「ちょっとくらい鳴らしても大丈夫だろ」
拳で軽くコンコンと、太鼓を鳴らしながら、甲斐ちゃんがはしゃぎ出した。
「あまり大きな音で叩かないでね」
甲斐ちゃんに言われたとおり、僕は太い枝を探して拾い、それを甲斐ちゃんに渡した。
ドンッ。
注意したのに、甲斐ちゃんはやっぱり力いっぱい太鼓を叩き、周囲にかなり大きな音が響いた。
ドンッドンッ。
「マズイよ。そんなに叩いたら誰か来るよ」
「大丈夫だからおまえも叩いてみろ」
音が大きい事よりも、この太鼓はここで何か行事をする時だけ鳴らす太鼓だから、勘違いした人が集まって来るのが嫌だった。それでも面白がって立て続けに太鼓を叩く甲斐ちゃんに腹が立ち、リュックに漫画を戻して一人で帰ろうとした。
「ちょっと待って、どこ行くんだ?」
「甲斐ちゃんが太鼓鳴らすから、もう帰るよ」
太鼓を叩いていた枝を遠くに投げて、甲斐ちゃんが慌てて僕を追って来た。
「なんだよ、急に。もう太鼓叩かないから、麦茶飲めるところに行こう」
「麦茶なんか家でも飲めるし」
「家でも飲めるけど、そこは家より涼しいし、家の冷蔵庫より冷えてる麦茶が飲めるんだよ」
「いらない。飲みたくない」
それでも甲斐ちゃんは僕を宥めるために錦鯉が泳いでいる堰の路地までついて来た。
「じゃあ、この川の鯉捕まえてよ。そしたら許す」
いつも僕に横柄な態度を取る甲斐ちゃんが、機嫌が悪くなった僕の態度に焦っている。その様子を見て、なぜか意地悪な事をしてみたくなった。
「こんな鯉、余裕で捕まえられるよ。見てろよ」
何の躊躇もなく、甲斐ちゃんは靴を履いたまま堰に下りて行った。下りる時、堰のぬめりに足を取られて転び、着ていた服を派手に濡らした。
堰を流れる小川は甲斐ちゃんの腿くらいまで浸かる水嵩だった。
鯉の動きは素早く、腿まで浸かった甲斐ちゃんの下半身は思うように動かなかった。
派手に服を濡らした甲斐ちゃんは半分やけくそになって、大胆に鯉たちを追った。
「くそっ、でも今ちょっと鯉に触ったぞっ」
甲斐ちゃんが興奮しながら僕に叫ぶ。それでも結局鯉は捕まえられなかった。
「びしょびしょだね」
「うん、母ちゃんに怒られる」
「じゃあ服乾いてから、麦茶がタダで飲めるところに行こうよ」
びしょびしょになって堰から上がって来る甲斐ちゃんを見ていたらすっかり機嫌が直った。
「タダで麦茶飲めるところまで結構遠いから歩いてるうちに乾くと思う」
甲斐ちゃんは水の滴るサンダルをペタペタ言わせながら、「こっち、こっち」と先に歩き出した。
商店街を避けて、僕の知らない入り組んだ路地をひたすら歩いていく。いつも一人でいるわりに、意外と行動範囲が広い甲斐ちゃんに少し嫉妬した。「あそこの家の犬吠えるからな」とか、「もうちょっと行ったところの小屋に七面鳥がいるぞ」とか、僕より先を行きながら、いろいろ教えてくれた。
隊長気分でどんどん進んでいく甲斐ちゃんの歩幅に合わせて歩くのは結構大変だった。
その後ろ姿は頼もしかったりもするけど、足手まといになったら置いて行かれそうな薄情さもあるような気がして、小走りで歩かないと距離が空く。
「まだ? ちょっと疲れて来た」
距離が空いて不安になると、甲斐ちゃんに向かってそうぼやいてみる。僕の兄だったら、面倒臭そうな顔はしても止まってくれる。
甲斐ちゃんは止まってくれるだろうか?
「全然まだまだ」
甲斐ちゃんは止まらずに歩き続けた。でも少しだけ甲斐ちゃんの歩く速度は遅くなった気がした。
しばらく歩くと人通りの多い国道に出た。
「あとはこの国道を真っすぐ歩けば、着く」
こんな遠くまで来て麦茶を飲みたいとは思わないけど、炎天下の暑さにやられ、喉がカラカラだった。
国道に出てから二人で並んで歩いた。鯉を捕まえようとして派手に濡れた甲斐ちゃんの服もすっかり乾いていた。
反対側の歩道を自転車に乗った三人組みの小学生が通り過ぎた。通り過ぎた時、二人で歩いていた僕と甲斐ちゃんの方をジロジロ眺めていて、その間甲斐ちゃんはなぜかずっと三人から目を逸らしていた。
「今の知ってる子だったの?」
「なにが?」
「今、自転車で向こう側を通って行った三人いたでしょ?」
「いたか? 気付かなかった」
甲斐ちゃんにも一人だと心細くて通れない道があるのかもしれない。それからしばらく甲斐ちゃんは黙ったまま歩いた。
黄色の建物の団地を通り過ぎたあたりで信号を渡り、反対側の歩道に移動して、またしばらく歩いた。
「やっと着いたな。ここだよ」
甲斐ちゃんが連れて来た場所は農協だった。
こんなところに子供だけで来ていいのかな?と思い、戸惑っていると、甲斐ちゃんが何も気にせず、勝手知った様子で事務所の中に入って行った。
「ほら、これ。ここの麦茶はタダで飲めるんだ」
事務所を入ったすぐ手前に給水器が設置してあって、甲斐ちゃんは横に備え付けてある紙コップを手に取ると、躊躇せずに給水器のボタンを押して、麦茶を紙コップに注いだ。事務所の中には、そこで働いている人と、長い椅子に腰かけて、何かの手続きを待っている人がたくさんいた。
余程喉が渇いていたのか、甲斐ちゃんは紙コップの麦茶をゴクゴクと一気に飲み干すと、すぐにまた給水器のボタンを押して二杯目を注いだ。
「はぁ、やっぱここの麦茶うまい。おまえも飲めよ」
「この麦茶って、ここで働いている人と、ここに用事がある人しか飲んでダメなんじゃないの?」
「なんで? 別にいいんだよ。だってご自由にお飲みくださいって書いてあるだろ」
給水器には確かにご自由にお飲みくださいと張り紙がしてあった。
僕は大人しか用のない場所に子供だけで来たのが初めてだった。とにかく居心地が悪く、麦茶を飲んでいいものかどうかすごく迷った。
そこにいる人たちは誰も僕たちの方を気にしていない。ただたまに誰かが僕たちに気付いて目が合うと怒られるような気がした。
「せっかく来たのに飲まないの? おまえも喉乾いてるだろ?遠慮しないで飲めったらっ」
甲斐ちゃんが見かねて、新しい紙コップに麦茶を注いで僕に渡した。
手に取った紙コップの麦茶はとても冷たかったけど、共犯者にされたような気分になった。
「外出よう。外で飲みたいから」
「中の方が涼しいだろ? そこの椅子に座って飲めばいいじゃん」
「嫌だっ。外で飲む」
図々しい甲斐ちゃんに嫌気が差して、紙コップを持ったまま、飲まずに外に出た。
「待ってっ、最後にもう一回だけ飲むから、外で待っててな」
お堂の時みたいに甲斐ちゃんを追いていくつもりはなかった。ただ事務所には居たくなかったので、事務所の前の駐車場に座り込んで甲斐ちゃんを待った。外の茹だるような暑さに耐えかね、冷たいうちにと、一口だけ紙コップの麦茶を啜った。一口のつもりだったけど、緊張からの解放感もあってか、結局そのまま全部飲み干した。家で飲む麦茶とそんなに変わらない味だった。それでもまだ喉は乾いていたから、近くにあった自動販売機でコーラを買った。
コーラのプルタブを開けようとした時、ちょうど甲斐ちゃんが事務所から出て来た。
「結局あれから二杯も飲んだ」
得意気にそういう甲斐ちゃんを無視して、コーラを一口啜った。
「麦茶よりコーラの方が何倍もうまい」
本心でそう思ったのかどうか分からないけど、僕は甲斐ちゃんにそう呟くと、わざとゲップをして見せた。
てっきり「オレにも一口くれ」と、言ってくると思った。でも甲斐ちゃんは下を向いたまま黙って僕が飲み終わるのを待っていた。
「ここまでせっかく来たから、おまえに面白いもの見せてやるよ」
僕がコーラを飲み終わるのを待ってから、甲斐ちゃんがそう切り出した。
「面白いもの?」
「うん。呪いのダルマ」
「呪いのダルマ?」
「そう。ダルマさんが転んだって言って、後ろ向いてたらセーフだけど、前向いてたらアウト」
「前向いてたらアウトって、前向いてたらどうなるの?」
「前向いてたら、大人になってから不幸になって死ぬんだ」
「嘘だ、そんなの」
「じゃあ、見に行こうぜ。いつも後ろ向いてるからたぶん大丈夫だと思うけど、オレは一度前向いているダルマを見た事あるよ」
甲斐ちゃんが言うその呪いのダルマは事務所の裏手にあり、カーテンが閉まっていなければ、事務所の最上階にある窓際にその姿が見えるらしい。
前を向いているダルマを見たら死ぬ。それ自体もすごく嘘臭いけど、それを一度見た事があると言った時に、甲斐ちゃんが見せたどこか誇らしげな表情が何より嘘臭かった。
でも僕はそういう迷信や怪談めいた話が好きだったので、甲斐ちゃんの嘘に乗っかり、そのダルマを見に行くことにした。
「そこの角曲がったらすぐ見えるけど、ビビッてないか?」
「ビビッてないよ。どうせ嘘だもん」
「嘘じゃないっ」
甲斐ちゃんが少し声を荒げ、急に真顔でそう言った。
「ダルマさんが転んだって言ってから見るんだぞ。もしダルマが前向いてたらホントに死ぬからな。オレの親戚の叔父ちゃんが言ってたんだから間違いない。叔父ちゃんも前向いたダルマ見たから死んだんだ。オレもその時叔父ちゃんと一緒に見たから、絶対ホントだ」
甲斐ちゃんの叔父さんは農家で、理由は分からないけど、作業小屋の中で農薬を飲んで死んだらしい。
「その話がホントだったら、甲斐ちゃんも大人になったら不幸になって死ぬんだよ?」
「うん。きっとそうなるよ」
ダルマより甲斐ちゃんの真顔が怖かった。
「怖かったら、別に見るのやめてもいいんだぜ」
「嘘かホントか確かめたいから、見るよ」
角を曲がり事務所の裏手に出た。事務所の裏手は職員用の小さな駐車場になっていた。
「ホントに見るのか?後悔しても知らないぞ」
「ダルマさんが転んだっ」
甲斐ちゃんに言われたとおりそう叫んでから、半信半疑で事務所の裏手の窓を見上げた。
どこだろう?
事務所の窓は所々カーテンが閉まっていて、人目につかない場所だからか、埃で汚れている窓が多かった。
「どのへんにあるの?」
「一番上の階の真ん中あたりの窓にあるはず」
甲斐ちゃんがなるべく窓の方を見ないようにして、上の階を指差した。
甲斐ちゃんが指差すあたりに目を向けると、確かに古ぼけたダルマのような物が窓際に置いてあった。
そのダルマはすっかり色が剥げて、真っ赤ではなく、白っぽいダルマになっていた。その窓の部屋自体がもう何年も放置されているような雰囲気だったから、呪いのダルマと呼ばれても不思議ではない不気味さがどことなくあった。
「あった。見つけたよ」
「今、どっち向きになってる?」
甲斐ちゃんが窓から背を向けて聞いて来る。
ダルマは後ろを向いていた。
「後ろ向いてる」
「ホント?」
「うん、ホント」
甲斐ちゃんがゆっくり振り返って問題の窓を確かめた。
「ホントだ、後ろ向きだ。良かったな、おまえは呪われなくて」
そう呟く甲斐ちゃんの声は沈んでいた。
「もう帰ろ」
「うん」
帰りは事務所の裏手から農協の倉庫がある抜け道を通って家路に着いた。暑くて歩き疲れていたから二人とも無言だった。
それからもしばらく甲斐ちゃんと一緒に遊んだけど、甲斐ちゃんが小学校を卒業してからほとんど会う事もなくなった。
甲斐ちゃんの訃報を母親から知らされるまで、その思い出すらもすっかり忘れていた。生きているうちに再会しなければそれはもうずっと死んでいたのと変わらない気がする。
あの空き地とお堂にも、もうたぶん行く事はないだろう。
ダルマさんが転んだ 祐喜代(スケキヨ) @sukekiyo369
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