第6話 ヘクサの洗礼
◇ ◇ ◇
食後に空き部屋へ案内すると、さっそく想定外の現実を目の当たりにしたライナスは固まっていた。
間もなく冬を迎える、山に囲まれた限界集落。
最新の家とは違う気密性の低い古民家。使っていない空き部屋。
これらが組み合わされば発生するのは――。
「カ、カツミさん……この、ニオイは?」
ドアを開けた瞬間、鼻が悶えそうなほど青臭いニオイがして、慌てて俺たちは自分の鼻を摘まむ。
電気を点け部屋を照らして現れたのは、日当たりの良い八畳の洋室。部屋の脇には乱雑に段ボールが積まれ、床はホコリとともにある物が無数に散らばっていた。
困惑しているライナスに出て行きたくなりそうな手応えを感じつつ、俺は淡々と説明してやる。
「ヘクサだ。カメムシのことな」
「もしかして、床に落ちている黒いの、ぜんぶ……」
「おう。数年使ってないからな。その分溜まってる。頑張って掃除して使えよ」
「は、い……」
「俺の所でやっていくなら、常にこれとの戦いだからな。ほら、生きているヤツもいるぞ。カーテンの所に何匹もいる。これがここの当たり前だ。慣れないようなら諦めた方がいい」
俺がカーテンにしがみつくヘクサを指さすと、ライナスから息を引く音がする。
明らかに部屋の惨状にドン引きした気配がライナスから漂う。しかし、
「慣れます! 慣れてみせます……っ」
グッと拳を握って持ち直す。やはりライナスの根性は目を見張るものがある。チラリと見やる横顔は青ざめ、逃げ出したくてたまらなさそうだが。
道具を渡さなかったらイジメになると思い、俺は近くに立てかけてあったホウキとちり取りをライナスに渡した。
「じゃあ頑張れよ。俺は台所で後片付けしているから、寝る場所が確保できたら呼びに来てくれ。布団を出してやる」
踵を返して台所へ向かおうとしていると、かすかにライナスの「うー……」と臭そうに唸る声がする。
ヘクサの臭いは長年慣れ親しんだ俺でも未だに慣れない。というかヤツらを見ただけで、俺は背筋がざわついて逃げ出したくなる。
あれは慣れるものじゃない。
生理的な嫌悪感はライナスでも耐えられはしないだろう。
漆芸を学びたいのは良い。だが、俺の所は止めておけ。
この場所がどんな所かも、俺がどういう人間なのか分からないヤツが、ここで学び続けるなんて――。
居間の鍋や食器を片付け、洗いながら俺は苦笑を漏らす。
「明日には弟子辞めたりしてな。そうなってしまえばいい」
ヘクサは自然が豊かな所に出てくる虫。
だから町中の塗師に弟子入りすれば、ここまで酷いヘクサ地獄を味わわなくても済む。せいぜい数匹程度だ。
「カツミさん、ちょっといいですか?」
食器を洗い終えていない時に話しかけられ、俺は驚いて思わず肩が跳ねる。
「早いな、ライナス」
「まだ掃除、終わってないです。ゴミ袋、取りに来ました」
「そうだな、悪かった。市指定の専用袋だ。これに詰めてくれ。不要なら部屋の物は全部捨てても構わん」
「え? 何かのトロフィーもありましたよ?」
「いらん。昔の結果を惜しむ趣味はないんだ」
いつだったか忘れたが、全国漆芸コンクールに応募して評価された際に貰ったもの。認められたことは嬉しかったが、トロフィーを飾る趣味はなくて内心困った覚えがある。
もらってすぐに捨てるのは気が引けたから、空き部屋にしまっていただけ。未練があった訳じゃない。
形に残すのは作品だけでいいんだ。
完全に割り切っている俺とは違い、ライナスは不本意そうに顔をしかめた。
「じゃあ私、欲しいです。シショーのトロフィー」
「別に構わんが、ゴミじゃないか?」
「シショーのものは、全部ゴミじゃないです。宝です。捨てるなんてもったいないです」
「いや、使わなけりゃゴミだろ。しかもヘクサ部屋に放置だ。ニオイが染みついているぞ?」
「いいです。それでも。下さい」
本当に物好きな奴だ。
呆れながら「お前がいいなら」と言えば、ライナスは破願した。
「大切にします。シショーの一部、ですから」
……なぜそんな顔で笑える?
心底嬉しそうに、このまま死んでも良いと言い出しそうな表情しやがって。
ああ、調子が狂う。俺を無暗に認めるな。
俺の中身は、ただ漆黒を極めて沈みたいだけの、陰険男なのだから――。
その日の夜、俺が寝る時間ギリギリにライナスは部屋の最低限の掃除を終えることができた。
俺の寝室から廊下を挟んで斜め向かいの部屋――親父が寝起きしていた部屋。
もう絶対に使うことはないと思っていた部屋に誰かが寝ている。離れているのに気配を感じて落ち着かなかった。
すぐに出て行くはずだ。なぜなら――。
――わぁぁ……っ。
ウトウトし始めた時に、ライナスの悲鳴がかすかに聞こえてくる。
あそこは俺の部屋よりもヘクサがよく出る。多分寝床に落ちてきたんだろう。下手したら顔に……。
ライナス、お前が俺を選んだせいだからな。
ひと晩ヘクサと格闘して考え直せ。生理的嫌悪はなかなか慣れないぞ。
心の中で本人に聞こえない忠告を呟いてから、俺は目を閉じて眠りにつく。
いつもは俺だけしかいない家。
離れていても人がひとり増えたせいか、ほんの少しだけ空気が温かく感じられる。
ライナスが来て面倒なことばかりだが、これだけは良いと思える。寒いのは嫌だ。
ただ、慣れたくはない。これが当たり前になってしまったら――。
……寝る前に考えることじゃない。
小さく首を振ってから、俺は眠るために力を抜いていく。
どうかライナスが早く俺の所から離れるようにと願いながら。
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