碧の不眠症が貴咲にバレたのは、もう1年以上も前のことだ。碧は授業中によく居眠りをしてしまい、先生に注意されることが増えていた。クラスメイトはそれを茶化したりして笑ったが、どうやら貴咲には思うところがあったようだった。

 ある日の放課後、それまでほとんど話したことがなかった貴咲に碧は呼び出された。そして問いただされた。碧は困った。しかし貴咲があまりにも真剣だったから、誤魔化せなかった。

「母さんが、父さんをイジメるんだ」

「うん」

「僕がベッドで寝ていると、毎晩、怒鳴り声が聞えるんだ」

「それで」

「父さんは僕たちのために頑張って働いてくれているのに」

「そうだよね」

「それでも『優秀』じゃないからって」

「うん」

「それで、さいきん、日に日に、やつれてて」

「辛いね」

「ぼくも、『ゆうしゅう』、じゃ、ない、から」

「そんなことないよ」

「こわくて」

「大丈夫、安心して」

「ちが、ちがうんだ、べつに、そんなじぶん、のことじゃなくて、おとうさんが」

「うん、わかってるよ」

「ごめんなさ、い」

「大丈夫だよ。あなたは何も悪くないから」

 嗚咽がとまるまで、貴咲は待ってくれた。涙と鼻水で厚い化粧が全部落ちてしまって、その下に隠していた素顔が表れた。それを見ると、貴咲は碧を抱き締めた。胸の中で過呼吸気味になっている碧に、

「疲れちゃったね。眠っていいよ」

 放課後の教室。ひとの気配が消えた二人だけの場所で、貴咲は言った。苦しかったはずの呼吸はあっという間に凪ぎ、感じたことのない安心感の中で眠りに落ちた。

 碧が目を覚ましたとき、外は真っ暗で、とっくに完全下校は過ぎていた。しかし当たり前のように貴咲はいて、碧を膝枕しながら髪を撫でていた。

「あ、ごめん。起こしちゃった」

 急いで手を離す貴咲。

「え? いや、こっちこそ、ごめん。こんな遅くまで……あ、しかもこんな床に座らせちゃって」

「全然大丈夫だよ。それよりどう? 久々に眠った感想は」

「……とてもいい気持ちだ」

「そっか。よかった」

「ありがとう」

「ううん、いいの。さあ、帰ろっか。そろそろ本当に怒られちゃうから」

 碧は起き上がって荷物をまとめた。そして、貴咲と一緒に教室を出る。途中、職員室に寄って、先生に一言挨拶をしてから昇降口に向かった。

「ところでさ、どうして僕の髪なんか触ってたの?」

 思い出したかのように碧は聞く。間を持たせるための何気ない質問のつもりだった。しかしなぜか貴咲は、あからさまに動揺した。

「それは……、なんというか、きれいだったから」

 顔を赤くして、さっきまでの包容力なんて微塵もない。貴咲は年相応な少女だった。

 そういわれるとなんだか照れ臭い。でもなぜか無性に嬉しかった。

「僕も気持ちよかったから、また触って欲しい、かな」

 碧は言った。それから返事までに妙な間があった。おかげで自分の気持ち悪さに気が付いて後悔したが、

「そ、それじゃあ……」

 と貴咲が赤ちゃんを相手にしているかのような風に優しく触れてきた。その丁寧で柔らかな手つきは、まどろみを呼び戻す。さすがに今眠くなってしまうのはまずい。

「ちょっと待って」

 碧は自分の鞄から、魔法瓶を取り出して一口飲んだ。

「コーヒー?」

 香りで気が付いたようだ。

「うん」

「好きなの?」

「あんまり。苦いし」

「じゃあなんで?」

「カフェインが入ってるから、眠気覚ましに」

 碧が授業中に眠らないようにと対策を講じた結果がコーヒーだった。結局眠ってしまうけれど、飲まなければそもそも話にならない。そういうわけで、最近はすっかりカフェイン依存症となってしまっていた。

「なんだろう、髪を撫でられると眠くなっちゃって。今眠くなると、電車で寝過ごしちゃう」

 魔法瓶の中身を飲み干した。

「それじゃ、じゃあ続きする?」

「ううん。もういいや。昇降口ですることでもないし、早く帰ろう」

 碧は少し名残惜しく思った。その日はそれで終わった。その日で全て終わったんだと思った。

 しかし、次の日も、またその次の日も、貴咲は放課後の教室に碧を呼び出した。そして「おやすみ」と碧の髪を撫でてくれる。

 そして今でもほとんど毎日、貴咲は碧の睡眠に付き合ってくれている。そして寝覚めには必ず缶コーヒーを渡してくれる。

 もう碧はコーヒーを飲んでいない——貴咲が渡してくれるもの以外は。

 母は碧の前では一切、そういった素振りは見せなかった。だから碧が何を言ってもはぐらかされて無駄だった。けれど正直、母なんてどうでもよかった。いわば碧から実母へのせめてもの情けのようなものだった。

 碧は父と何度なんども話し合った。繰り返し同じ話をした。根気強く説得をした。そしてこの前、やっと父は離婚を決意してくれた。最後に「ごめんな、こんな頼りない親父で」とはにかんだ父を見て碧は泣いてしまったけれど、それは同情とかじゃなくて、たぶん、父を守ることができたことの安堵からの涙だった。

 父との2人暮らしがはじまって、もう2か月になる。

 貴咲には全て話した。貴咲はすべて知っている。碧にカフェインはもう必要ない。

 それでも互いに何も言わない。

 欲しいのはただ——そう、これはただの依存症だ。

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カフェイン依存症 姫川翡翠 @wataru-0919

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