カフェイン依存症

姫川翡翠

 教室に戻ってくると、出た時と同じ風景が広がっていた。

「ねぇ、起きて。もう下校時間だよ」

 貴咲きさきが帰る支度をしながら声を掛けても、机で伏して眠っているあおが目覚める気配は一向にない。

 夕日によって外は真っ赤に染まっている。しかし、電気が全て消されているこの教室は、すでに薄暗い。学校の教室の窓は日中に太陽の光が差し込んでくるように、必ず南向きになっていると聞いたことがある。だから西からの夕日は差し込んでこないのだ。

 頬に触れる程度に吹き抜けていく風も、目を凝らせば見える程度の明るさも、碧の快適な眠りにちょうどいいのだろう。腕の中に埋もれて寝顔が見れないが、きっと気持ちよさそうにしているはずだ。

 貴咲はわざとらしく大きなため息を吐いてから、碧のもとに近づいた。あえて足音を荒立てて歩いてみたのだが、碧はスウスウと穏やかに寝息を立てたままだ。だから肩を揺すってみたが、髪がサラサラと揺れただけで碧は起きなかった。何の手入れもしていないと言っていたはずなのに、あでやかで美しく伸びた黒髪がとても羨ましい。貴咲はきょろきょろと辺りを見回して、ほかに誰もいないことを確認する。

「起きないのが悪いんだから……」

 貴咲はひとりで言い訳をしてから、徐に手を伸ばして——別にこれが初めてというわけでもないのに手が震えて緊張している——碧の髪に触れた。碧の髪は直毛で癖がなく、絹のようにやわらかい。櫛を入れるように、慎重に指を通す。引っかかることなく隙間からツルリとこぼれ落ちる。それから手癖のように三つの束により分けて編み始める。三つ編みが上手にできた。しかし手を離すとすぐにほどけてしまう。なんてしなやかな髪。つい楽しくなって何度もなんども繰り返してしまう。

「ほんと、なんてきれいなんだろう」

 思わず口に出た言葉。比べて自分の髪は、と思いながら、貴咲は自分の縮れ毛に触れた。それはなんとも形容しがたい——。

「ん」

 碧は不意に顔を上げた。貴咲は自分の髪に触れていたことを隠すように、また碧の髪に触れた。

「くすぐったい」

 そういって頭を振ったが満更でもなく、制服の跡が付いて赤くなっている碧の頬は緩んでいる。碧は、貴咲に触れられるのが好きなのだ。それを貴咲は知っている。16歳の割には大人びているが、しかし誰よりも無邪気に変化する碧の顔が貴咲の方を向いた。

「あ、前髪変になってる」

 貴咲は碧の寝癖を直すように何度か撫でつけたが、これがなかなか上手くいかなかった。碧のような髪は癖が付きにくいが、ついてしまうとなかなか取れないらしい。

「へん?」

「変じゃないけど……」

 むしろ今の碧の気だるげな雰囲気と、寝ぐせの無造作な感じがマッチしている。それに前髪が目にかからないようになっているから、その点でも貴咲にとっては好ましい。

「じゃあそのままでいいよ」

 碧はそう言ってまた机に突っ伏す。机にあごをのせて大きく伸びをする姿をみて、貴咲はなぜだか自宅で飼っているパグを思い出した。

「起きた?」

「ううん。まだ」

 碧は伸ばしていた腕を折りたたみ、腕枕を作ってもう一度寝る体制に入った。

「もう」

「だって」

「わかってる」

 貴咲は買ってきた缶コーヒーを手渡す。

「ふふ。ありがと」

 碧は眠そうな目をこすりながらも、早速プルトップを持ち上げる。カシュッといい音が教室に響いた。それにつられて、貴咲も自分のミルクティーを開けた。

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