煙草

夏川 流美

【 煙草 】


 その後ろ姿に、胸を高鳴らせた。


 揺れるさらさらの髪の毛と、窓を開ける骨張った指と、蒸し暑い夜には不釣り合いな白い首筋。ひとり勝手に部屋を出て行く様子に私だけが気付いて、そっと立ち上がる。



 ベランダに向かった憧れの先輩。手すりにもたれ掛かって頬の熱を覚ましていた。伸ばした腕の方向から、うっすらと灰色の煙が立ち上っているのが見えた。


 もっとよく見える角度を探して首を傾げてみたり、少し屈んでみたりするうちに、先輩は指先で摘んだタバコを口に咥えた。


 数秒の間をおいて、暗晦あんかいな空の彼方へ煙を飛ばした。私の目線は口元に釘付けになっていた。僅かにとんがらせた唇は、名残惜しそうに開かれている。


 タバコを吸っている時にしか見られないそんな表情に、胸が締め付けられて苦しくなる。見るたび、いつも切なくなった。



 抑えきれずに、窓に手を掛ける。静かに開閉すると、ただ黙って後ろに立った。手を伸ばせば触れる距離。街の光と夜空が混ざり合う空間で、2人きりのこの居場所に顔が綻ぶ。


 こちらに気付かないまま煙を繰り返し吐き出す様子を、暫く堪能してから声をかけた。



「先輩は、なんでタバコを吸ってるんですか?」



 驚いて肩を跳ね上がらせた先輩が、苦笑いを浮かべて振り向く。気まずそうに頭を掻き、胸ポケットから取り出したタバコの箱を差し出してきた。


 また、胸が大きく鼓動する。

 初めてだ。先輩からタバコを貰うなんて。いつもはさっさと消しちゃうか、気にせずひとりで吸い続けるかの2択なのに。


 今日はずるい先輩だな、と考えながら恐々とタバコを一本手に取る。先輩と同じタバコ。これを吸えたら、もっと近付けるだろうか。もっと親しくなれるだろうか。



 てっきりライターも貸してくれるかと思って待っていたが、着火源は何も差し出してくれない。無論、タバコを吸ったことのない私はそれらを持ち合わせていない。



「先輩、ライターとか貸してもらえますか?」



 手すりにもたれ掛かる体制に直った先輩に、隣から問いかけた。すると、顔だけ向けて悪戯っ子のように笑い、歯を見せる。



「え、吸うの?」



 先輩が差し出してくれたんじゃないですか。そう言って少しむくれて見せると、はは、と笑って遠くへ目を向けた。先輩が持つ、すっかり短くなったタバコの煙で月の光が霞む。



「子どもにはまだ早いよ」



 ぼそりと呟く先輩。子どもだなんて。いくつも離れてるわけじゃないのに、とは思っても、口に出せなかった。私の目には何故か寂しそうな横顔が写ってしまって。


 それからはお互い何も言わず、ずっと向こう側に視線を向けている。時々浮かぶタバコの煙に目を奪われながら、先輩がくれた1本を大切に手の中に仕舞い込んだ。






「……煙草を吸っている理由はね」




 夜風にさらわれてしまいそうな掠れた透明な声で、前触れもなく先輩が呟く。はい、と返事をすると、一口分の煙を置いて続けた。






「いつ死んでもいいと、思っているからだよ」









――その後、先輩が「いつ死んでもいい」理由を聞けないまま3年が経った。


 もう先輩は卒業してしまい、ベランダで会話して以降、2人で話す機会は来なかった。今だって忘れられていないのに、連絡は一度もとっていない。


 先輩から連絡がくることも、分かってはいたけれど一切無かった。寂しさに弄ばれながら、思い出として片付けられない私の心に時々悩まされている。





 今日はサークルの打ち上げに来ていた。とはいっても、ただお酒を飲みたい人の集まりのような感じで。親しい友人に連れて来られたものの、打ち上げが始まってからは放置されてしまった。


 段々とヒートアップしていく空気に疲労を感じ、騒がしさからこっそり離れる。あの時の先輩をまぶたの裏に浮かべると、ひとつずつ行動をなぞっていった。




 吐き出した煙を目で追いかけて、空に上って透明になっていく向こう側に、遠い街の光を見る。



 体の力を抜き、ベランダの手すりにもたれかかれば冷たい金属の温度が伝わってきた。どこか少しだけ蒸し暑い、そんな夜には嬉しい冷温だ。



――先輩は、もうタバコを辞めただろうか。



 自分が吸い始めたきっかけとなる存在。渡された一本を素直に受け取ったのは憧れていたから。先輩のようになりたかったから。同じ銘柄を吸えるようになれば、ほんの僅かに近づけた気がした。




「先輩は、なんでタバコを吸ってるんですか?」




 いつの間にか、部屋から出てきたらしい後輩の声が後ろに立つ。徐に顔を上げ振り向くと、一本吸うか、と箱を差し出す。真面目で優等生な、いつかの自分に似ている後輩は、こちらの申し出をやんわり断った。




「タバコって嫌いなんです。自分にも周りにも悪影響じゃないですか。だから本当は、先輩にも吸ってほしくないんですよ」




 君は可愛い子だな、と頭を撫でる。普段なら絶対にやらないこんなことをしたのは、夜風に酔っていたせいかもしれない。


 ぐしゃぐしゃに散らかされた髪の毛を、不貞腐れたように整える後輩が横に並ぶ。暗い空を仰ぐ後輩に倣って、一口分の煙を吐いた。




「吸っている理由はね」


「はい」




 よく澄んだ返事は、耳にとても馴染む。君は良い声もしているな、と心の内に秘めて、慈しむように細めた目を向ける。



 今、後輩が見ている私の姿は

 過去に私が見た先輩の姿にどのくらい近付いているんだろう。


 そんなことを考えながら、ずっと忘れられない言葉を答えに出した。




「いつ死んでもいいと、思っているからだよ」

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煙草 夏川 流美 @2570koyama

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