僕の隠し子

品羽藍太郎

第1話



 古く立派な家。その重い玄関トビラが、音をたてて閉まった。


 わざと力強く閉めた訳では無い。壊れた油圧ゆあつダンパー、大きな家に似合う様に当然扉もそこそこ大きい、つまりそういう扉なのだ。


 ただいま。咳混せきまじりのしゃがれ声が、弱々しく、暗い玄関にぽつりと落とされた。


 仕事で疲れきった一家の主である男に、お帰りなさいも、ねぎらいの言葉も帰ってこない。しかし廊下の先の居間にはライトが灯り、そこから女の声が二つ。


 男の妻、そして来年大学生になる娘の声。


 男が居間を覗き、物言いたげに眺めていると、先ず男の妻が気付いた。


「あら……居たの」


 迷惑そうに眉を潜め、放たれた、痛ましい事件を見たかの様な沈んだ声色。男はなにも言えず、目を反らした先の娘と目があった。


「こっち見てんじゃねえよ」


 娘がそう吐き捨てて、携帯を弄りながらテレビを見ている。


 もし自分が亭主関白で、娘の態度を正そうとするきらいがあったならば、今激怒して、卓袱台ちゃぶだいの一つや二つ、容易にひっくり返していただろう。


 そんなもしもの想像が、男の頭を一瞬よぎった。


 しかし諦めていた、自分の周りの何もかもが、もうどうしようも無いと思って居たのだ。


「それ、そんな所に置いとかないで。自分の部屋に持っていってよ」


 男の妻が指し示したのは、テーブルの上の白い小袋。


 男が飲む薬の入った袋だ。


 男はそそくさとそれを掴んで、逃げる様に居間を出て、納屋なっとの釣具を鷲掴みにし、家を飛び出した。


 あんな家に居たら頭がおかしくなってしまう。そんな気持ちが男を駆り立てる。


 夜22時過ぎ。街頭もまばらな海沿いの田舎道いなかみちを、男が走る──。


 ──田舎道を終わりまで行くと、そこには男のお気に入りの場所があった。釣り場の岬だ。


 黄色い月明かりと紺の深い海の色。少しかすみがかったその場所の光景は、まるでゴッホの描く印象派絵画の様に幻想的だった。


 現実から切り離された場所。


 町外れの釣り場の岬で、今日も糸を垂らす。垂らしてやっと、男は一息つくことが出来た。


 釣りは男の唯一と言ってもいい趣味だった。しかしここへ来る楽しみが、実はもう一つあった。


 一匹釣り上げた後、しばらく糸を垂らしていた男の穏やかな表情が、何かに気付く。


 大きな魚……いや、小さいくじらが寄ってきたのだ。


「お。今日も来たな」


 男は驚いた様子も無く、嬉しそうに、釣れたばかりの新鮮な魚を海に放る。


 それを慣れた具合に、くじらの子がパクリ。鳴き声をあげた。


「もっとくれってか?悪いが今日はそれしかまだ釣って無い」


 男はくじらに話しかけている自分を、おかしい人間だなんて微塵も思っていなかった。なにせ、まともな話し相手などここ数年、このくじらしか居なかったのだから。


 小さなくじらと、男と、心地よい潮の香りと、さざ波の穏やかさ。今この場所には、それしか無かった。


「つまらない人生だよ。俺は金と、最悪な家族しか持って無い。あいつらは本当に酷い。人じゃない」


 目を深く閉じて呟いた男の、その瞼の裏にどんな過去があるのか、くじらには分からなかった。


 しかしそんな男の近くへ、くじらは寄ってくる。


「お前が俺の子供だったらな」


 乾いた声が、濡れたくじらの頭を撫でて、少し湿る。


 熱くなった眼差しで、くじらを眺めていた男が、急に咳き込んで胸を押さえた。


 肩を何度も上下させて、男が息を整える。それをくじらは、じっと待っている様だった。


「この世に未練など無いが、お前が大きく育っていくのを見たかった。大きくなって、大きな口で、あいつら何て丸呑みにしてくれよ……はは」


 男は短く笑うと、ふと思い出したかの様に、釣り用の撒きを取り出して、くじらの目の前に放ってやる。


 それをひとしきりたいらげて、くじらは嬉しそうに鳴き声をあげた。


「なにか食ってるお前は可愛いな。俺がここに来れるうちは、また魚でもなんでもやるよ」


 男が笑って、立ち上がって、帰り支度を始める。


 くじらに背を向けて、ぽつり。


「そうだ。死んだら俺の残したもの全部やるよ。金は……使えないかもしれないけど」


「またな」


 男はそう言い残して帰路につき、その途中で倒れ、そのまま運ばれた病院で寝たきりになった。


 ────────────


 数年後。


 古く立派な家の座敷に、正座の大人が三人。


「それでは遺言書を読ませて頂きます」


 遺言執行者の言葉を、黒い服の女が二人、聞いていた。


「私の金は全て捕鯨抑止団体へ寄付を」


「ふざけんな!あのじじい!やっと死んだと思ったら!」


 女の若い方が、読み上げた者へ掴み掛からんとばかりに迫る。しかし淡々と、続きは読まれる。


「それと私には……」


 遺言執行者の言葉が、そこで一瞬詰まる。


「……隠し子が居ます。お金以外の、私の残したものは全てその子に」


 青褪めて目を伏せていたもう一人の女が、目を見開いて、遺言執行者の口元を捉える。目の前のこいつの口は、今なんと言ったのかと。


 遺言書の続きにはその子がきっと釣り場の岬に現れるという事が書かれていて、それを知った二人の女は、飛び出すように海へと向かった。


「あいつ!隠し子なんて信じられない!そんなどこの馬の骨とも分からない奴!とっちめてやる!」


「居ないじゃない!どこよ!」


 遺言書に書かれた岬に着いて、血眼になって人影を探す二人。


 それを丸ごと包み込む、大きな影が一つ。大きな波の音と共に現れて、海へ消えた。


 太陽の光と、さざ波の穏やかさ、そしてくじらの鳴き声一つ。


 この場所にはそれしか無かった。


【終わり】

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