第九話(2/2) 形ある物が
辛見伖はおずおずと部屋に入っていった。
「失礼します」
姫は奥のソファーに座っていた。手前のソファーには
「あれ? ヒーちゃん?」
辛見伖が鬼怒川晃に気付いた。鬼怒川晃は辛見伖に目を向けた。
「ヒーちゃん、居るじゃん。よかったぁ。会えないかもって思ったぁ」
辛見伖は鬼怒川晃の隣にしゃがみ込んだ。鬼怒川晃は首を傾げた。
「辛見さん?」
「そうだよ。辛見さんだよ」
辛見伖は笑んだ。
八草辷は姫のそばまで進み、立ち止まった。
「姫さん。これ、どういう事だ?」
姫は八草辷に微笑んで見せた。
「そうですね。
姫は再び正面に顔を向けた。
「物は根拠に基づき、活動を行います。意思を行使します。そして、根拠に左右された活動は、その活動もまた、別の活動に作用します。他の物に記憶されます。そうして根拠は繋がっていくのです。記憶は繋がれていくのです。
『記憶』とは活動の根拠を云います。活動の根拠を『記憶』と呼びます。
鉛筆さまの例でお話ししましょう。ここでいう記憶は、鉛筆さまが紙さまにどう当たったか、ですね。強く当たれば濃い線が、弱く当たれば薄い線が引けます。どんな線を引いたかで、どのような当たり方をしたか、見当をつけられます。
そうですね。最近だと動機って云い方もありますよね。
根拠のない活動はありません。しかし、根拠を失った活動は起こりえます。記憶が消えても意思は生まれます。由縁を忘れても簡単には変わらないのです。雀百まで、です。バカは死ぬまで、です。
でも、なくてもよいなら、抱えている必要もないではありませんか。そうして手離すことを『忘れる』というのです。
記憶の編集も大差ありません。記憶の取捨を預からせていただくだけです。大した事はしていないのです。勝手な事ではあるのですが、ね。
ですが、忘れても、記憶は活動の根拠として残ります。簡単には消えてくれません。忘れたって、活動の根拠を見つければ思い出せるのです。改めてその根拠に作用されるのです。
私はヒーさまの記憶を編集しました。しかし、ヒーさまは根拠を探し、見つけ出してしまいました。それだけなのです」
鬼怒川晃と辛見伖も姫の話を聞いていた。八草辷は少し考え、頷いた。
「うん。俺の聞き方が悪かったな」
八草辷は尋ね直した。
「姫さん。どうして鬼怒川晃が夢ノ国に居るんだ?
姫は楽しそうに答えた。
「なんとなーく」
ふと、八草辷は辛見伖の視線に気付いた。
「なんだよ」
辛見伖は小声で言い放った。
「なんとなーく」
「なんだよ!」
姫は笑っていた。
「という訳で、キャンペーンは中止です」
姫は両手のひらをポンッと合わせた。八草辷は苦い表情をしていた。
「やけにさっぱりしてるな。もう形見はいいのかよ」
姫は八草辷を見上げた。笑顔であった。そのまま何も答えなかった。
一方、鬼怒川晃は話を呑み込めていなかった。姫が何を取りやめると言い、八草辷が何に顔を顰めているのか、わからなかった。鬼怒川晃は『形見』という単語が指している物すら知らぬままであった。
そんな鬼怒川晃に声を掛けたのは、辛見伖であった。
「なんかね。夢ノ国に人を集めてたんだって。それで、人類が滅亡するところだったんだって」
「滅亡って…」
鬼怒川晃は辛見伖に視線を向けた。辛見伖の説明を信じていなかった。ところが、すぐに現実の様子を思い出した。
「ああ。確かに滅亡してたかも」
「でしょ?」
辛見伖は嬉しそうに笑んだ。鬼怒川晃は辛見伖に軽く頭を下げた。
「せっかく教えてくれたのに、疑っちゃってごめんなさい」
「大丈夫だよ。私もスーちゃんから聴いただけだったから」
「そうなの?」
鬼怒川晃は顔を上げた。そして、八草辷の方を見た。八草辷は相変わらず顔を顰めていた。
「ホント、あんたら、人類の存亡に興味なさすぎるだろ」
「そういうものだよ」
辛見伖は鬼怒川晃の手を取った。
「人間って大なり小なりそういうものだよ。誰も人類規模、世界規模の心配なんてできないんだよ。ただただ、自分にとって大事な物事だけを危惧するんだ。それが繋がって、大きく見えているだけなんだよ。
それで、私も人間なんだ。人類とかさ、現実の状況とかさ、そんな大雑把な事は考えられないんだよ。私は私にとって大事な事しか考えられないもの。でも、それだけ考えられれば満足なんだ。きっと、人類みんな、そういうもんだよ」
辛見伖は鬼怒川晃に微笑み掛けた。辛見伖も夢ノ国と同様、鬼怒川晃を特別視していた。
鬼怒川晃は辛見伖に笑い返して見せた。鬼怒川晃にとって辛見伖は切っ掛けであった。辛見伖を通し、鬼怒川晃は自分以外に興味を持ち始めていた。ただ、それは辛見伖を特別視する根拠たりえていなかった。
八草辷は苦笑っていた。八草辷は人間をよく知らなかった。八草辷の知る人間とは、辛見伖、鬼怒川晃、人混み。それらくらいであった。限定的であった。辛見伖の語る「人類みんな」を信じ込んでもいないが、八草辷には疑えるだけの記憶もなかった。とりあえず、辛見伖の意見にあった『人間の考え方』が、自身の予想に沿っていたことは笑えた。冗談だろ、と。
姫は呆れたように笑んでいた。
「そういう取り払い方もあったんですね」
辛見伖には境界があった。辛見伖はちゃんと人間であった。そこに間違いはなかった。しかし、辛見伖の持つ境界は生物と非生物の境界でなかった。人間は姫が思っていた以上に多様であった。十人十色であった。
辛見伖は姫に顔を向けた。姫は腰を上げた。
「とにもかくにも、夢ノ国は壊れます」
鬼怒川晃と八草辷も姫の方を見た。姫の表情は穏やかであった。
「壊れたらどうなるか、どう変わるのか、私にはわかりません。わかっている事は、壊れるという事だけです。夢ノ国は夢ノ国でなくなります。夢ノ国として溜め込んできた根拠は流れ、消えていきます」
一度、姫は視線を下げた。それから、八草辷の顔を見た。
「勘弁してくれよ」
姫が問う前に、八草辷は答えた。意地の悪い笑みであった。大人しい笑顔であった。どこか悲しげな微笑みであった。
「俺だって夢ノ国の一部として活動してんだ。最期まで仲間外れってのは、辛辣が過ぎるんじゃねえのか?」
「そうですか。そうですね。そうですよね」
姫は残念そうに、安心したように俯いた。
八草辷は鬼怒川晃と辛見伖に向き直った。
「という訳だ。実際どうなるかは知らねえが、とりあえず別辞だ。さようならだ」
姫も鬼怒川晃と辛見伖の方へ顔を向けた。辛見伖は立ち上がった。
「そうなんだ。お別れになっちゃうんだ。お別れは寂しいけど、スーちゃんはスーちゃんを貫くんだね。そこはなんだか嬉しいな。
あの右も左もわからなかったスーちゃんが、右も左もわからぬまま人混みに飛び込んでたスーちゃんが、…あれ? スーちゃん、結局、右も左もわかってなくない?」
「辛見もわかっていなかっただろ」
「と言うか、別辞より謝辞が欲しいな」
「悪かったよ。東奔西走に付き合わせて悪うございました!」
「いや、違くて。EとかWとかじゃなくて。そっちの意味じゃなくて。「さようなら」とか「悪かった」とかより、「ありがとう」を伝え合いたいなって。…スーちゃん、聞いてる?」
八草辷は鬼怒川晃に視線を移した。
「鬼怒川も、ありがとうな。実は全部、あんたの御蔭だったんだな。鬼怒川が居なければ、俺たちは不正解を成し遂げるところだった。本当にありがとう」
鬼怒川晃は首を横に振った。仄かに笑んでいた。
「お礼を言ってもらえるような事はしてないよ。私がしたくない事はしていないもの」
「そうけ」
八草辷は微笑んだ。正直、謝辞くらいは素直に聞き入れてもらいたかった。しかし、鬼怒川晃の在り方を変えようとも思わなかった。
鬼怒川晃は表情を変えないまま続けた。
「だから、私は感謝より謝罪が欲しいです」
「なんでだよ。なんのだよ」
「ほら。初めて会った時の悪口罵倒」
「あんた、意外と根に持つんだな」
八草辷は苦く笑った。鬼怒川晃はしたり顔で応えた。
ところが、八草辷は笑むだけだった。当然、真に受けて謝りなどしなかった。残念ながら、トゲのある事を言い返したりもしなかった。八草辷は案外あっさりとしていた。鬼怒川晃もそれ以上踏み込まないことにした。
鬼怒川晃は真面目な表情に戻った。姫に顔を向けた。
「姫さん。私、楽しかったです。
夢ノ国は居心地がよかったです。皆さん、優しかったです。なんと言いますか、大切に思えるものを共有していると言いますか。皆さん、姫さんが大事なんだなって感じました。
現実も楽しかったんだなって思います。人間が居ない世界は居心地がよかったです。でも、多少乱れているくらいが丁度よいのかもしれません。居心地がよい場所を探すのも、居心地が悪くないとできないんだなって知りました。あれ、存外楽しい事だったんですね。
姫さん。私、楽しかったんです。そして、その事に気付けたのも、そうであったのも、姫さんが居たからなんです。今まで本当にありがとうございました。
また会えた時は「お久し振りです」と言わせてください」
辛見伖は首を傾げた。八草辷は姫に目を向けた。姫は鬼怒川晃を見つめていた。
「はい。ぜひ」
姫は頭を下げた。
「こちらこそ、本当にありがとうございました」
姫は顔を上げた。窓の外を見た。空は七色であった。七色が蠢いていた。
「お時間ですね」
鬼怒川晃は目を覚ました。
夕暮れ。日は沈みかかっていた。
鬼怒川晃は体を起こした。鞄を枕にして眠っていた。
鬼怒川晃は鞄を開けた。ランチボックスを取り出した。その場で蓋を開けた。手を合わせて、一言。
「いただきます」
鬼怒川晃はサンドイッチを食べた。
「ごちそうさまでした」
ランチボックスを台所に持っていった。洗い物を始める前に、人差指の絆創膏を剥がした。捨てた。
その後、鬼怒川晃は体を洗い、軽く勉強をし、鞄の中身を揃え、布団に入った。眠った。
鬼怒川晃は暗闇の中へ至った。
「ここでは会えない、か」
鬼怒川晃は呟き、その場に腰を下ろした。何もする事がなかった。何かを持って眠れば、ここに反映されるのであろうか。鬼怒川晃は電灯と本を思い浮かべた。
遠くから目覚まし時計の音が聞こえた。
月曜日
鬼怒川晃は目覚まし時計を止める。体を起こす。布団を出る。制服に着替える。鞄の中身を確認する。鞄を部屋から居間へ移す。洗面所で身支度をする。台所で食事の用意をする。ランチボックスを鞄に入れる。朝食を机に置き、椅子に座る。食べる。台所で食器を洗う。洗面所で再度身支度。居間で鞄を拾う。玄関で靴を履く。鞄の中身を確認する。扉に手を添える。
「いっています」
鬼怒川晃は二年三組の教室に到着した。教室の名札を一瞥し、中に入っていった。まだ朝早く、教室に人間は居なかった。鬼怒川晃は自身の席に着き、荷物を片した。一人、本を読み始めた。
しばらくすると、他の生徒たちも現れだした。鬼怒川晃は本を見つめたまま、雑音に意識を向けた。
「起きたら週末が消えていた」「丸二日眠ってしまった」「私は土曜日だけ起きていた」とかとか。
耳新しい情報もなくなり、鬼怒川晃は読書に戻った。
ガラガラと扉が開いた。教室は一瞬だけ静まった。鬼怒川晃も顔を上げた。辛見伖がそこに居た。何事もなかった。生徒たちは各々、雑音をたて直した。辛見伖は自身の席に着いた。
鬼怒川晃は顔を下げなかった。固まっていた。鬼怒川晃の目には、いつかの光景が映っていた。
椅子、机、窓、教卓、黒板、掛け時計、扉。近くの物ほど歪んで見えていた。遠くの物ほど整って見えていた。
今まで気にならなかったのならば、今さら気にする必要のない事であった。新しい事実が判明したとて、何を変える必要もなかった。原理を知ったか知らないかで環境が、与えられる作用が、変わる訳でもなかった。活動を変える根拠になりえていなかった。
人間は仲間内で作った道理だけを気にしていればよいのだ。
加えて、鬼怒川晃の視界に人間は居なかった。人間の形だけが見えていた。人形。七色が蠢く人形。操り人形。
操り人形だったとして、操り主は誰なのだろうか。少なくとも、この世界には居ない。
どこにも操り主が居ないのだとしたら、操り人形でないとしたら、これらの人形は吊り下げられた展示物にすぎない。片付ける煩わしさが、邪魔っ気に勝っている状態。存在していること自体に意味はない。存在していなければならない訳はない。根拠もないまま、埃が高々と積もっていく。いっそう片付けが面倒になっていく。
いつか一思いに捨ててしまおう。
鬼怒川晃は視野を窄めた。
鬼怒川晃が姫に伝えた言葉、嘘はなかった。実際に思った事を言った。騙すつもりはなかった。現実には楽しいと思える事もある。今さら、人間が居たってよい。居心地が悪いことも悪い事ばかりではない。何も嘘ではない。
しかし、この先、幾度となく、鬼怒川晃は人間の居なかった週末を思い出すであろう。後悔するであろう。人間を忘れていたとは云え、わざわざ人間の居る状態に戻す必要はなかったでないか、と。
鬼怒川晃が何をしたと云うのだ。
ふと、何かが鬼怒川晃の気を引いた。狭くなった視界の隅で何かが動いた。
辛見伖であった。辛見伖は振り返り、小さく手を振っていた。釣られて、鬼怒川晃は手を振り返そうとした。
ところが、その時、再び扉が鳴った。先生が教室に入って来た。生徒たちは一人一人の席に着いた。チャイムが鳴った。辛見伖も前を向いてしまった。鬼怒川晃は中途半端に上げた手を下ろした。そして、本を閉じた。
形ある夢が 背向ヤタラ @yatara_semukai
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