第九話(1/2) 形ある物が
「…どうぞ」
気怠そうな返事が聞こえた。
「失礼します」
槌ノ子乃文は扉を開け、部屋の中に入った。広い部屋の中央、姫はソファーに座っていた。
声音から感じ取れた通り、姫は項垂れていた。手を祈るように組み、そこに額を置いていた。訪れた従業員の方を見ていなかった。何かを考え込んでいるようであった。
槌ノ子乃文は入り口から少し進み、立ち止まった。姫に一礼し、口を開いた。
「報告に参りました。
スベルさんと
私からは以上です」
「そうですか。ご報告、ありがとうございます」
姫は顔を上げ、微笑んで見せた。明らかに作り笑顔であった。槌ノ子乃文の表情も暗くなった。
「姫さま、大丈夫ですか?」
「大丈夫です。嘘です。大丈夫ではないです。全然大丈夫じゃないです」
姫は再び顔を伏せた。そのまま二、三度、首を横に振った。動きを止めると、姫は下を向いたまま話し始めた。
「ヒーさまを現実にお帰ししました」
「はい」
「ヒーさまはとても素晴らしい御方でした。人間にして境界のない御方でした。道徳を知ってなお、分け隔てのない御方でした。楽園に相応しい御方でした。そう判断しました。
なので、現実へお帰ししました。ヒーさまからすれば、本来、夢ノ国へいらっしゃる意味もなかったのです。私の勝手にお付き合いくださったにすぎないのです。
加えて、ヒーさまは人間さま方の居ない場所を望んでおられました。先ほど、改めてお話を伺いましたが、心境にさほどの変化は見られませんでした。
なので、人間さまを夢ノ国に集めております。現実における人間さまの数を減らしております。事の果て、世界から人間はなくなるでしょう。人間な物の方々は居なくなるでしょう。
ただ、ヒーさまの記憶は編集させていただきました。
そうすれば、居なくなった物のことを思い出さずに済むと思ったのです。要らない物のことは思い出しすらしないほうが幸せだと思ったのです。消えた物のことを思い返しても仕方がないと思ったのです。
そうですよね? 仕方がないですよね? そこに居る物を想ってくれたほうが、よいですものね?」
姫は黙った。顔を伏せたままであった。槌ノ子乃文は姫に尋ねた。
「それで。ヒーさまはいかがお過ごしなのですか?」
姫は少しだけ顔を上げた。依然と口元は隠れていたが、目は姿を見せた。真っ直ぐに下を向いていた。
「暗闇の中を爆走なさっておいでです」
槌ノ子乃文は視線を隅に遣った。
「暗闇と言うのは、あの、何もない場所のことですか?」
「はい。夢ノ国があった場所です。夢ノ国であって夢ノ国でない場所。今や、夢ノ国でも現実でもない場所。言ってしまえば、夢ノ国寄りの夢現です。夢夢現です」
槌ノ子乃文は姫に視線を戻した。いつの間にか姫の顔は落ち、組んだ手の陰に戻っていた。姫は零すように言葉を吐いた。
「ヒーさまはお気に召さなかったのでしょうか。やはり、人間を消しても楽園は生まれないのでしょうか。結局、私たちは楽園を作れなかったのでしょうか。私たちは間違えたのでしょうか。
ススムさんも私たちに従わないと言っていましたね。でも、ススムさんも私たちと同じように世界を見ていたのですよ? 私たちと大差ない意見を持っていたのですよ? それでも、私は間違えていたのでしょうか」
「ええ。私たちは間違えたのですよ」
姫は槌ノ子乃文を見た。槌ノ子乃文は目を伏せていた。微笑んでいた。
「姫さまはヒーさまを好いていらっしゃいますか?」
「はい」
姫は間を置かずに答えた。そして、眉を顰めた。
「乃文さんは、そうでなかったのですか?」
「まさか。ヒーさまは素晴らしい御方です。特待に値する御方でした。従業員一同、その事に異論はございません」
槌ノ子乃文は姫に笑んで見せた。姫も笑んだ。槌ノ子乃文は笑んだまま首を傾けた。
「ですが、姫さま。さらば、私たちは人間と何が変わるのでしょうか」
姫は大きく一瞬きした。それから、ゆっくりと俯いた。槌ノ子乃文は言葉を続けた。
「人間が楽園を残せるはず、ないではありませんか。わかりきっていた事ではありませんか。『人の振り見て我が振り直せ』だったのです。私たちも間違えたのですよ。人間のことを言っている場合ではなかったのです」
姫は堪えきれずに顔を上げた。笑顔であった。お淑やかに、大仰に、幸せそうに、楽しそうに、悲しそうに、笑っていた。
「そうですね。そうですよね。そうでしたよね。それでは、どうしようもないですよね」
夢ノ国は人間の存在に邪魔され続けていた。人間が居たために、思い描いた形見を残せなかった。誰もが望んだ楽園は作れなかった。
せめて、人間が変わってくれればよかった。人間のままでいなければよかった。『特別』の意味に気付いてくれればよかった。
「『人間』と変わらない」なんぞ、姫は受け入れたくなかった。侮辱もいいところであった。
ところが、姫は槌ノ子乃文の指摘を否定しなかった。むしろ肯定した。それは姫が優しかったからではない。槌ノ子乃文の伝え方が上手かったのだ。周到だったのだ。ちょっとズルかったのだ。
姫にとって、その指摘を肯定することは悔しい事であった。しかし、それ以上に、根拠を否定することが寂しい事であったのだ。寂しく思えなければ、
鬼怒川晃は鬼怒川晃で、残り五、六十年ほどの時間を、唯一の人間として過ごしたはずである。鬼怒川晃とはそういう物であった。しっかりと形見は残されていただろう。
夢ノ国が楽園を作れなかったのは人間の所為である。しかし、形見を残せなかったのは夢ノ国自身が原因であった。鬼怒川晃を特別視した夢ノ国の過失であった。
そして、夢ノ国はこの事を鬼怒川晃の所為にできなかった。人間の所為で陰っていた心は、鬼怒川晃によって照らされたのだ。あの日、夢ノ国は鬼怒川晃の御蔭で救われた。鬼怒川晃の所為など、言うはずがなかった。
姫は目尻に集まった涙を拭った。
「ああ、気付きたくなかったなぁ」
ふと、姫は首を傾げ、槌ノ子乃文を見上げた。
「あれ? それでは、ススムさんはこの事に気付いているのでしょうか。私たちが人間していると知っていたのでしょうか」
槌ノ子乃文は目を伏せた。
「いえ。気付いていないと思います。姫さまに逆らう理由が「なんとなーく」でしたから」
槌ノ子乃文は顔を上げた。
「そうですか。そうですね。そう言っていましたね。それは少し羨ましいですね。…きっと、羨ましい事ですよね」
「そうですね」
姫はソファーから立ち上がった。静かに歩きだした。ソファーの前から去り、長机の短辺側を過ぎ、もう一つのソファーを過ぎ、そこで立ち止まった。
姫は左の方に顔を向けた。なんら変哲のない壁を見つめた。その壁から一人の人間が走り込んできた。鬼怒川晃であった。
鬼怒川晃はつまずくように立ち止まった。光景の変わったことや、抵抗の消えたことが起因していた。一度、手は膝に着いた。ところが、膝が床に着き、手も床に落ちた。
鬼怒川晃は大きく息を吸うために、大きく息を吐いていた。大きく息を吐いたために、大きく息を吸っていた。顔を下に向け、肩を波立たせていた。
呼吸が落ち着くと、鬼怒川晃は周囲を見回し始めた。前方、窓々から見える七色の空。鬼怒川晃はその蠢きに見覚えがあった。左方、大きな扉と槌ノ子乃文。見覚えがあった。しかし、何も思い出せなかった。右方、姫。見覚えがあった。しかし、誰だかわからなかった。
姫は鬼怒川晃のそばに座した。膝を着いた。
「ヒーさま。お気分の具合はいかがでしょうか。大丈夫ですか?」
鬼怒川晃は姫に笑顔を見せた。ぎこちない笑顔であった。
「すみません。大丈夫です。お気遣い、ありがとうございます」
鬼怒川晃は姫の目を見つめた。
「ところで、どちら様でしたでしょうか」
姫は微笑んで見せた。
「いえ。はじめまして、ですよ?」
槌ノ子乃文は口を噤んでいた。視線を端に逸らした。そのまま、窓に目を向けた。空は七色に蠢いていた。
槌ノ子乃文は再び姫の方を向いた。御辞儀をし、扉を開けた。静かに部屋から去ろうとした。
「皆さん、私の使い方が荒いんですよ」
「申し訳ないです」
「言われてみれば、確かにそうですね。私、羽田さんに頼ってばかりですね。いつもありがとうございます」
「いえ。辛見さまはよいのです。辛見さまに頼られることが私の役目と申しましても、過言には当たらないでしょうし。
私が言った「皆さん」とは…」
「姫か?」
辛見伖の後ろから八草辷が声を飛ばした。羽田共輔は前を向いたまま答えた。
「姫もよいのです。と言いますか、姫の補佐こそ私たちの役目でしょう。従業員は夢ノ国のために居て、姫は夢ノ国の活動をなしているのですから。
私が言っているのは、槌ノ子さんとスベルさんですよ」
「誰がスベルだ!」
八草辷は後ろの方で叫んでいた。
辛見伖は首を傾げた。
「でも、姫さまの所へ連れて行くように言ったのは、槌ノ子さんですよね?」
ダウト。
「羽田さん、スーちゃんからも何かお願いされたんですか?」
「いえ。そういう事ではありません」
羽田共輔は微笑んでいた。
「私は「使い方が荒い」と申したのです。
確かに、今、私は槌ノ子さんから回って来たお仕事を行っています。槌ノ子さんに関してはそういう事かもしれません。しかし、スベルさんに関しては否なのです」
八草辷は静かであった。
「スベルさんは私を殴りましたよね? 蒸し返すつもりもなかったのですが、強いて例を挙げますと、その事です。「乱暴に扱うと壊れてしまう」と申したかったのです」
辛見伖は苦笑いを浮かべていた。
「羽田さん、自分のことを物みたいに言うんですね」
「物ですよ?」
羽田共輔は辛見伖に笑って見せた。そして、再び前を向いた。
「従業員は人形なのですから」
「はい。その事はスーちゃんから聴きました。でも、だからって、そんな卑下なさらなくても…」
辛見伖は言葉を詰まらせた。羽田共輔は口角を上げていた。八草辷はずっと俯いていた。
おもむろに羽田共輔は口を開いた。
「辛見さま。辛見さまは『物』と仰いましたが、生物と非生物の境界ってなんだと思いますか?」
「境界…」
「少し古い表現でしたでしょうか。相違でも差異でも、なんでもよいのですが」
辛見伖は呟くように答え始めた。
「心でしょうか。心があれば生物、心がなければ非生物だと思います」
「心ですか。よいですね。古い云い方ですと『意思』とも表しますね」
羽田共輔の声は明るかった。変に明るかった。
「では、心とはなんでしょうか。喜怒哀楽のことでしょうか。よい事が起これば喜びや楽しみを感じることでしょうか。悪い事が起これば怒りや哀しみを感じることでしょうか。それが心でしょうか。
であれば、どのように心の有無を測ればよいでしょうか。
心は活動として表れるのです。そして、かつて、表れた活動そのものを『意思』と云いました。
よい事が起これば喜ぶのでしょう? 楽しむのでしょう? 悪い事が起これば怒るのでしょう? 哀しむのでしょう? その意思に基づいた活動を行うのでしょう? その活動に基づいた意思があるのでしょう? さらば、意思は活動でしょう。活動は意思でしょう。
とすると、心は、意思は、活動は、生物にしかない事なのでしょうか。いえ、非生物にもあるはずです。変わらない物なんてないはずです。
例えば、鉛筆。人間の云う非生物です。鉛筆は紙に当たると、線を引くという活動を行います。紙に当たるという事が起きれば、線を引くという意思を表すのです。
例えば、夢ノ国。夢ノ国におられる物が活動を行うと、夢ノ国はその活動を続けさせるという活動を行います。物の活動に対し、その活動を続けさせようとしたのです」
羽田共輔はそこで話を止めた。辛見伖は難しい顔をしていた。
「物にも心があるってことですか?」
羽田共輔は答えなかった。八草辷は呟いた。
「生物にも心なんかないってことだよ」
八草辷は顔を上げた。城に着いていた。しかし、辛見伖は羽田共輔の問いに執心していた。
「じゃあ、命ですか? 命があれば生物、命がなければ非生物、みたいな」
「命。有無を問うならば測れる形がいいですね。命の存在期間で考えましょう。『寿命』で考えましょう」
羽田共輔は城に入っていった。
「ですが、寿命こそ非生物にもあるではないですか。活動の続く期間が『寿命』なのでしょう。でしたら、寿命のない物などないではないですか。
鉛筆の例で続けますと、芯のなくなるまでが寿命ですよね」
辛見伖は笑んで見せた。
「そう言われると、物にも命があるみたいですね」
「命があるみたいですよね」
羽田共輔は振り向かなかった。
「夢ノ国は楽園を作りたかったのです。ただ、少しだけ時間が足りなかったのです。完成の瞬間は寿命に収まらなかったのです。
それでも、私たちは諦め切れませんでした。形見を残したかったのです。夢ノ国としての一生を無下と思いたくなかったのです」
辛見伖は羽田共輔の背中を見ていた。八草辷は辛見伖の足取りを眺めていた。
羽田共輔は立ち止まった。辛見伖も八草辷も少し後れて止まった。大きな扉がそこにあった。
「こちらが姫の部屋です」
羽田共輔は辛見伖と八草辷に目を遣った。
辛見伖は今さら緊張しだしていた。辛見伖は姫を知らなかった。ただただ扉の荘厳さに威圧されていた。薬指と小指に力が入った。中指と人差指には力が入らなかった。そんな違和感を親指で抑え込んでいた。
八草辷は改めて緊張しだしていた。八草辷は姫を知っていた。ただ、最後に姫と会った時、八草辷は勢いで言葉を吐いた。この扉の向こうで起こった事だった。もう一度同じ質問をされても、八草辷は同じような答えを出すだろう。しかし、それがわかっていても、気まずさは消えなかった。
羽田共輔は扉に視線を戻した。握り拳を作った。手の甲を扉に向けた。
そこで扉が開いた。中からは槌ノ子乃文が出て来た。
「あ。槌ノ子さん。辛見さまとスベルさんをお連れしましたよ」
「え? ああ、ありがとうございます」
槌ノ子乃文は辛見伖に視線を移した。辛見伖は笑顔を作っていた。軽い罪悪を感じていた。八草辷はそっぽを向いていた。「誰がスベルだ」と小さく唱えた。
「では、行きましょうか」
槌ノ子乃文は羽田共輔の腕を掴んだ。
「え?」
槌ノ子乃文は辛見伖に御辞儀した。辛見伖も咄嗟に頭を下げた。
「あの、槌ノ子さん?」
槌ノ子乃文は歩きだした。羽田共輔は後ろを向いたまま引っ張られていった。
「槌ノ子さん。私の出番、終了ですか? 最後はみんな揃って大団円ってのもいいと思うのですが。そう思いません?
…槌ノ子さん、聞いてます?」
槌ノ子乃文は振り返らなかった。羽田共輔は嘆いた。
「ホント、皆さん、私の扱いが雑い!」
やがて、槌ノ子乃文と羽田共輔の姿は見えなくなった。
辛見伖は呟いた。
「なんて言うか、さ。あんな大人になりたいよね」
「そうか」
八草辷は目を伏せた。首を傾げた。
「…そうか?」
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