第八話(1/1) 疑心ある被験体が

 鬼怒川キヌガワヒカルは歩いていた。

 その道はいつもの登校路であった。鬼怒川晃が学校へ行く時、いつも通っている道であった。ただ、時間帯は違っていた。

 太陽は鬼怒川晃の見上げる先に居た。少しずつ動きながら、絶えず光を送っていた。

 日光を浴び、空気の温度もいくらか上がっていた。空気は元気よくエネルギーを配り回った。

 その温かさを風が巡らせた。行く先々で活気を伝えた。凍えてしまう物の居ないことを願った。

 その風に葉々は揺れた。雲が乗った。ポリ袋が逃げた。小鳥が踊った。

 小石たちは目を瞑っていた。建物たちにも大きく動く根拠はなかった。遠くを自転車が走っていった。自動車は何台も止まっていた。

 鬼怒川晃は両腕を広げた。そして、くるくると回った。軽やかな歩みであった。滑らかな流れ様であった。

 鬼怒川晃のそばに人間は居なかった。



 鬼怒川晃は校門を抜け、校舎へ向かった。校舎は鬼怒川晃を迎え入れた。

 靴とは昇降口で別れた。下駄箱に一揃いで預けた。入れ替わりで上履きが現れた。一日振りの再会であった。

 鬼怒川晃たちの生む音は、我先にと校舎を響かせていった。この音に物たちは和んだ。鬼怒川晃は歓迎されていた。

 鬼怒川晃は二年三組の教室に到着した。扉、掛け時計、黒板、教卓、窓、机、椅子。教室の中にも人間は居なかった。しかし、鬼怒川晃は人間の有無など気にしていなかった。

 鬼怒川晃は教室の名札に目を遣った。教室の名札を見ることに意味はない。その活動をなす根拠はない。鬼怒川晃は右前の扉から教室に入った。右前の扉を選ぶことにも意味はない。その活動をなす根拠はない。

 机たちの間を抜け、教室の左後ろに流れ着いた。そこには、ある机が居た。鬼怒川晃はその机に一礼し、鞄を預けた。それから、その机と一緒だった椅子に近寄った。再び一礼し、座った。遠慮がちに、静かに、当然のように、椅子に座った。

 一連の活動各々には、その活動をなす根拠がなかった。


 否、全ての活動に根拠はあった。意味もあった。訳だってあった。

 ところが、今の鬼怒川晃は、そのどれをも知らないのである。この教室に入った根拠も、あの道を選んで歩いた意味も、自身が目を覚ました訳すら、わからないでいる。わからないまま、鬼怒川晃は活動を成した。


 席に着いてからしばらく、鬼怒川晃は動かなかった。

 とは云え、右足や左足はちょこちょこと踵を浮かしていた。右手と左手は膝の上で小突き合っていた。目蓋は目の活動を続けさせていたし、心臓は動いていた。

 それでも、鬼怒川晃は動かなかった。背筋は軽く伸びていた。足先は床に触れていた。肩はなだらかな傾斜を保っていた。腕は肩から垂れ下がっていた。目は前を向いていた。


 ふと、鬼怒川晃は首を傾げた。鬼怒川晃は自身が何をしているのか知らなかった。成した活動の根拠を、自身が把握していないことに気付いた。

 鬼怒川晃は教室の内部を見回した。活動の根拠を、目的を探し始めた。

 立ち塞がっている扉が道空けることを待っているのかもしれない。掛け時計が送るサインに作用されているのだろうか。真っ緑な黒板が意味を抱えている気もする。正面で仁王立っている教卓が何かしそうだ。窓たちは誰かを見ているみたい。なぜ机や椅子はこうも大勢で集まっているのか。…寂しいからかな。

 鬼怒川晃は鞄を机の左手に預けた。そして、机の上に腕を組んだ。

 鬼怒川晃は見える物に答えを見出だせなかった。そのため、次は記憶を漁ることにした。顔を伏せ、目を瞑った。

 ただ、鬼怒川晃に記憶はなかった。鬼怒川晃は目を閉じただけであった。答えに近づくような事は何もできなかった。

 鬼怒川晃は活動を止めた。死んだかのように、もとい、壊れたかのように。



 鬼怒川晃は目を開いた。何度か瞬いた。自身の目が明いていると思えていなかった。瞬いても瞬いても、鬼怒川晃の視界は真っ暗なままであった。

 鬼怒川晃は暗闇に居た。

 手で顔に触れた。手が顔に触れた。そこまで近づいてなお、鬼怒川晃には自身の手が見えなかった。

 鬼怒川晃は腕を当てなく伸ばし、辺りを探った。その腕に引っ張られ、脚はふらふらと歩み始めた。腕がどこへ向かっても、足がどこまで進んでも、鬼怒川晃は何をも見つけられなかった。

 そこに何も居ないのだから、当然である。さらに云えば、鬼怒川晃の足だって何にも接していないはずであった。

 鬼怒川晃はついに立ち止まった。腕が体に寄った。脚も体に寄った。誰も居ないことに薄ら気付き始めていた。せめて、居るとわかっている自身に擦り寄った。鬼怒川晃は自身がそこにあると思っていた。

 だって、自身が自身に触れたのだもの。この身で確認できたのだから、この身は存在するのでしょう?

 鬼怒川晃がそう信じ続けられたならば、それでもよかった。

 しかし、鬼怒川晃は信じきれなかった。自身を確認できたと云う自身、それ自体を確認する術がなかった。身内票無効。循環論法。前提がおかしくなっていた。

 鬼怒川晃は自身の存在すらわからなくなった。あるいは、自身の存在意義を失った。自身の活動に作用される対象が確認できなかった。

 何はともあれ、今の鬼怒川晃は、自分を見つけられなくなっていた。



 鬼怒川晃は勢いよく頭を上げた。そこは二年三組の教室であった。

 涙が流れた。右手で拭った。その右手で、目の前に居た机を撫でた。左手は背後の椅子に添えた。

「ありがとうね。居てくれて」

 鬼怒川晃は微笑んだ。


 鬼怒川晃は顔を上げた。窓の外に一羽の小鳥が留まっていた。

「チチチッ」

「チチチ?」

 小鳥の言葉を繰り返し、鬼怒川晃は首を傾げた。小鳥も首を傾けた。

「キーン、コーン…」

 チャイムが鳴いた。小鳥は飛んでいった。鬼怒川晃は名残惜しそうに、小鳥が飛んでいく先を見た。そして、楽しげに笑った。

 鬼怒川晃は笑顔のまま鞄に手を伸ばした。鞄を膝に乗せた。鞄を開けた。ランチボックスを掬い上げた。鞄を閉めた。再び鞄を机に預けた。ランチボックスを机の上に座らせた。

 鬼怒川晃の動きはそこで止まった。何かを待った。誰かを待っていた。ところが、誰も来なかった。

 鬼怒川晃は右に目を向けた。鬼怒川晃が期待していたような事は起こっていなかった。もっとも、自身が待っていた対象の正体すら、鬼怒川晃は知らなかった。

 鬼怒川晃はランチボックスに向き直った。ランチボックスの蓋に場所を空けてもらった。手を合わせ、一言。

「さようなら」

 鬼怒川晃はサンドイッチ一切れの手を取った。咥えた。噛んだ。噛み切った。噛んだ。呑み込んだ。再び咥え、噛み、呑み込む。やがて、一部になる。


 もう一切れのサンドイッチとも別れ、鬼怒川晃は手を合わせた。

「ありがとうございました」

「ヒーさま。今まで、本当にありがとうございました」

 鬼怒川晃は一つの声を思い出した。落ち着きがあり、気力に満ちていた。おどおどした声でなかった。元気のない声でもなかった。ただ、寂しげではあった。

 とりあえず、鬼怒川晃はランチボックスの蓋に場所を返した。鞄を膝上に招き、ランチボックスを預けた。それから、鞄を放した。

 さてと、鬼怒川晃は思い出した声について考えようとした。しかし、すでに忘れてしまっていた。なぜ思い出せたのか、鬼怒川晃は把握していなかった。根拠を掴みきれていなかった。

 鬼怒川晃は仕方がなくなった。耳を澄ました。目を瞑った。それで何かが得られると思ったらしい。鬼怒川晃に聞こえたものは、流れる風の音や時を刻む秒針の音ばかりであった。



 そんな音すら聞こえなくなった。鬼怒川晃は目を開けた。視界は真っ暗であった。

 鬼怒川晃は思わず走りだした。地面を蹴った。

 ところが、生憎、そこに地はないのだ。鬼怒川晃の脚は虚空を切った。体がゆっくりと宙を転がった。助けを求めて腕を伸ばした。手は何にも触れなかった。それでも、鬼怒川晃の回転は止まった。

 鬼怒川晃はなんとか立ち上がろうとした。スタート地点から保てていた体勢を取り戻そうとした。しかし、できなかった。

 環境は何も変わっていなかったが、再形成というだけで、うんと難しくなっていた。重心がゴロゴロと転がった。両脚は拠り所を求め、伸縮を繰り返した。両腕は鬼怒川晃の体を無責任に振り回した。

 ついには、右足が存在しない地を押した。上半身は逆らうように縮こまった。重心は大きく揺れた。両腕が前へ出た。手は当てなく飛んでいった。その先には何もなかった。そのくせ、鬼怒川晃は地面の存在を疑いきれなかった。勢いそのまま、鬼怒川晃は姿も形も存在もない何かと衝突した。

 瞬間、鬼怒川晃は自身の形を失ったかのように錯覚した。変な話、自分が壊れたかのように感じた。



 鬼怒川晃は恐る恐る顔を上げた。とうに日は傾いていた。校舎は仄暗かった。

 はっきりしない思考のまま、鬼怒川晃は自身の両手を見た。握り、握り、開いた。安堵したように微笑んだ。周囲の光景が陰っていても、暗闇より暗いということはなかった。

 鬼怒川晃は立ち上がった。机から鞄を引き取った。元の場所へ帰ることにしたらしい。

「お待たせ」

 鬼怒川晃は声を掛けた。何に? 活動主である鬼怒川晃にも理解できていなかった。首を傾げ、机と椅子の位置を周囲に合わせた。

「じゃあね」

 今度の挨拶は、机と椅子と、窓と教卓と黒板と掛け時計に対するものであった。あと、扉。鬼怒川晃は左後ろの扉と握手を交わし、教室から去った。



 暗闇。

 鬼怒川晃は耳を塞いだ。何も聞かなければ、聞こえるも聞こえぬも同じだと思った。独りであるも独りでないも同じだと信じた。

 鬼怒川晃は目を瞑った。何も見なければ、見えるも見えぬも同じだと思った。独りであるも独りでないも同じだと信じた。

 鬼怒川晃は体を丸めた。何にも触れなければ、触れえるも触れえぬも同じだと思った。独りであるも独りでないも同じだと信じた。

 そんなはずはなかった。

 しかし、そうだと思い込むことが、鬼怒川晃の精一杯であった。思い込めさえすれば、そうなるのだと信じていた。願っていた。



 日曜日


 鬼怒川晃は誰かの泣く声を聞いた。声の聞こえた方へ手を伸ばし、声の主を視界に連れ込んだ。目覚まし時計であった。鬼怒川晃は目覚まし時計に微笑んで見せた。

「おはよう」

 目覚まし時計をなだめ、元の場所に座らせた。

 鬼怒川晃は布団から離れた。掛布団は端で座した。鬼怒川晃は衣服を代えた。寝巻は二度寝を始めた。待機していた制服が鬼怒川晃に先を促した。

 鞄の持ち物を確認した。何が必要で何が不必要か、鬼怒川晃にはわからなかった。それでも、鞄があまりに得意げなので、鬼怒川晃も「これでいい」と笑った。

 そこまで済ますと、鬼怒川晃は鞄と共に部屋を出た。

「いってきます」

 鬼怒川晃は居間で鞄と別れた。鞄はお気楽なもんで、「何かあったら呼んでね」と云って寝転がった。そんな鞄に少し羨ましそうな視線を飛ばすも、鬼怒川晃は大人しく洗面所へ向かった。

 自身の支度。何も考えず、手の動くままに任せる。細かい所は後から直せばよい。今は必要最低限でいい。

 鬼怒川晃は台所へ移った。食べ物の支度。朝食と昼食を完成させる。

 緋。

 左手の人差指に血が滲んでいた。鬼怒川晃が目測を誤り、包丁が切ってしまったらしい。

 鬼怒川晃は流れ出る血を見つめ、微笑んだ。

「おはよう」

 そして、支度を続けた。


 朝食と昼食を連れ、鬼怒川晃は居間に戻った。朝食は机に預けた。昼食は鞄に預けるつもりだった。しかし、鞄はしっかりくつろいでいた。

 鬼怒川晃は意地悪く鞄を揺さぶった。鞄は不意を衝かれて驚いた。ランチボックスに鞄の面倒をお願いし、鬼怒川晃は食事を成そうとした。

 椅子に腰掛けた。手を合わせた。

 スカーレット。

 左手の人差指。血が指に絡まっていた。傷は深い訳でもなかったが、すぐに塞がるほど浅くもなかった。

「…痛い」

 鬼怒川晃は首を傾げた。

「痛い?」

「まあ、気にしないでよ。そんなに痛くないし」

 何かが答えた。鬼怒川晃はある物の存在を思い出した。

「絆創膏…」

 鬼怒川晃は立ち上がり、鞄に近づいた。

 鞄は拗ねていた。それでも、素直に絆創膏を呼んでくれた。

「ありがとうね」

 鬼怒川晃は絆創膏を指に巻いた。

 それから、鬼怒川晃は再び椅子に腰掛けた。手を合わせた。

 絆創膏は傷口から離れていた。鬼怒川晃はもう一度お願いした。ところが、指が何度か動くだけで、絆創膏は簡単に諦めた。鬼怒川晃と絆創膏はその遣り取りを繰り返した。


 結局、その絆創膏は壊れた。絆創膏としての活動を続けられなくなってしまった。元・絆創膏。亡骸。

 鬼怒川晃は人差指に目を戻した。血は止まっていた。

 鬼怒川晃は血の流れ出た根拠を考えた。血の止まった根拠を考えた。血に止まってほしかった根拠を考えた。絆創膏に頼った根拠を考えた。絆創膏が応えてくれなかった根拠を考えた。

「絆創膏の貼り方なんて、コツを覚えるだけだから」

 鬼怒川晃は聞き馴染みのある声を聞いた。鬼怒川晃自身の声であった。以前の鬼怒川晃は、今の鬼怒川晃が知りたがった根拠を全て知っていた。

 鬼怒川晃は新しく絆創膏を招いた。今度は絆創膏の姿勢を気にした。ピンと張ってもらった。今度は自身の在り方を気にした。傷口を絆創膏の中央に合わせた。今度はお互いの妥協点を探った。絆創膏ができる限りしっかりと、鬼怒川晃が許せる限り緩く、貼った。

 指が動いても、絆創膏はなかなか離れなかった。その様を、鬼怒川晃は微笑ましそうに眺めた。


 鬼怒川晃は机と椅子のもとへ戻った。

「いただきます」

 鬼怒川晃は食べ物を壊し始めた。それが鬼怒川晃の活動であった。今さら、不思議な事はなかった。

 しかし、鬼怒川晃は考え始めた。考え始めてしまった。食事の根拠を。身支度の根拠を。荷物を確認する根拠を。着替える根拠を。目覚める根拠を。

「ごちそうさまでした」

 鬼怒川晃は食器を台所に連れて行く。洗う。どうして? 鬼怒川晃は洗面所で再び身支度をする。どうして? 居間で鞄の手を引く。どうして?

 足が止まった。鬼怒川晃は鞄に顔を向けた。

「私、会いたいのかな」

 鞄から手を離した。

 自身が誰に会いたいのか、鬼怒川晃はわかっていなかった。ただ、これから向かう先には居ない気がしていた。昨日それはそこに来なかった、と思う。

 別な場所で待っているのだろうと考えた。違う場所で待たせているのだろうと感じた。

 鬼怒川晃は鞄の隣で座った。

 しかし、どこなのだろうか。

 昨日右に曲がった道を左に曲がればよいのだろうか。否。それではキリがないし、そんな当て推量では辿り着けないだろう。鬼怒川晃は何かに感付いていた。その場所が心から離れていない場所だと信じていた。活動に沿った場所だと信じていた。

 鬼怒川晃は横になった。

「そこになら、居たのかな」

 何度か躊躇った後、鬼怒川晃はギュッと目を瞑り、手で顔を覆った。



 目を開いた。視界は真っ暗であった。暗闇。

 鬼怒川晃は膝を抱えていた。体が重かった。頭から質量あるドロドロをかぶっているようであった。だのに、立ち上がろうとすると、手足は当てもなく滑っていった。ふわふわと浮いているようであった。

 鬼怒川晃は辺りを見渡した。やはり何も見えなかった。第一、そこには何も居ない。

 それでも、鬼怒川晃は進んだ。手は宙を掻いた。足は何もない場所を蹴った。泳いだ。

 やがて、足は存在しない地を踏めるようになった。手は掻くことをやめた。脚に力が入るよう、腕を丸ごと振り動かした。走った。

 前後も正誤もないのだが、鬼怒川晃は進み続けた。

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