6、確信

「笑わないって約束していただけますか?」


 美弥があまりに真剣な顔をして言うものだから、私もそれに応えねばと思った。


「わかった、笑わない」


 もうこっちの――血液の中の世界に来ることに、抵抗は一切なくなっていた。私はこっちの世界にいる彼女らに会うために何度も何度も、血液の中に浸水した。彼女たちと話をしたいというのももちろん理由の一つではあるが、やはりそれは結果ではなく過程に過ぎず、彼女たちのような若い女の子と会話をすることで心身共に若くなる、これこそが真の理由であった。


「あのですね、私実は……好きな人がいたんですよ」


「いいことね」


「……はい、私その人のことがずーっと好きだったんです。子供の頃から」


 彼女は照れ笑いをし、顔を赤らめた。それから唐突にまるで会話の流れに逆らうかのように、真剣な表情へと顔を一変させて。


「実は私……というか、私の母親ですね。すっごいクズだったんです。自分は何もできないくせに他人のことばかり悪く言って……私はずっとその母親から虐待を受けていたんです」


「その話と好きな男の人、何か関係があるの?」


「あ、はい。子供の頃からその人は、そんな母親から私のことを守ってくれたんです」


 私は心の中でまさかと思った。恋愛の形というものは人それぞれだろうが、今私の考えていることがもし事実だとしたら。美弥はゆっくりと深呼吸すると


「私が好きなのは私の兄なのです」


と、私の予想通りの言葉を放った。


 美弥はその後、自分の兄の魅力について淡々と私に語り続けた。母親に殴られた時に救ってくれた話、熱湯をかけられたときに氷を持ってきてくれた話、母親からもらうことのできなかった夕食を自分の部屋まで運んでくれた話など。正直なことを言ってしまえば、聞いていて不快なものばかりだった。だが、私はそれよりも狂っている殺人を犯した身であるのだから、それを不快に思うことはきっとおかしな話なのだろう。


 美弥が兄とした性行為の話をし始めてからは耳をふさぎたくすらなった。美弥は本当に自分の兄のことを愛していたらしい。美弥は少しおかしいのかもしれない。私とは違ったベクトルできっと狂っているのだ。

美弥だけじゃない、ここにいる子たちは少なからずどこかがおかしかった。そのおかしな部分が表面に表れている子もいれば、歩んできた人生がおかしい子もいる。私が選んだ彼女たちは何かが変だった。それはつまり私が無意識に、そんな変な彼女たちを選出していたことになる。


 一体どうしてなのだろうか……。


「あ、そうだサチさん。この前の頼み事……まだでしょうか?」


私が少し呆けている間に、兄の話は終わっていたようだった。


「ああ……そのことなら大丈夫、もう決めているから。今日中に一人を送れるはずよ」


「本当ですか? やったあ!」


「ええ、だからちょっと待っててね」


 そろそろ約束の時間だ。私はゆっくりと立ちあがる。


「それじゃあ、そろそろ帰るわ」


「送ります」


「ありがとう」


 一つ引っかかっていた。美弥は今、自分の兄のことをどう思っているのかということだ。好きだった、という表現から察するに、今はそうではないのか。それとも……。


「大丈夫ですよ」


 唐突に美弥が口を開いた。


「大丈夫です、私はサチさんのことを恨んでなんていませんから」


「……え?」


「私はあっちの世界ではいなくなってしまったし、もう兄と会えることもないでしょうけれど、それに関して私は怒ってなんていませんから」


 見当違いもいいところだった。私はそんな心配などしていない。私は美弥のことを嫌っているわけではない、むしろ好意的に思っている。だがだからと言って彼女の生前の想いについて案じたりなんかしない。どうでもいいのだ。


「そう、それは良かったわ」


 しかしおかしな話だ。普通なら美弥は私のことを恨んでもいいはずなのだ。それなのに、彼女は私を恨んでなんかいない、と言う。どこまで本心なのかはわからないが、どちらにせよ彼女は死にたがっていた。病的にまで好きだった兄のいるあっちの世界から逃げ出そうとしていた。それは何故なのか。もう兄のことを好きではなくなってしまったから……なんてそんな簡単な話ではないはずだ。


 もしかしたらその兄から裏切られたのかもしれない、と私はそう思った。何らかの理由で、美弥は兄から手を離さなくてはならなくなってしまった。それは同時に、彼女にとってあっちの世界から手を離すのと同等の意味を持っていたのだ。だから死のうと思った。自分のものにならない兄がいる世界なんていてもしょうがない、と。

私はこちらの世界の浴槽に浸かりながら彼女に問うてみた。


「お兄さんはあなたが死ぬ前どうしていたの?」


 美弥はあからさまな作り笑いを浮かべた。


「さあ知りません。どういうわけか唐突に出て行ってしまいましから……ミノルにぃは」


ずぬり


 ……ミノル?


 沈む。沈んでしまう。


「ミノルにぃなんて死んでしまえ」


 違う……この女は知っている。自分の兄がどうしていなくなったのか。どうして自分のところから消えてしまったのか。


 ずぬり


「それでは……また来てくださいね、サチさん」


 同じ名前の人間なんていくらでもいる。彼から妹がいるなんて話も聞いたことはない。でもその名前は私にとって、私の全てなのだ。生きる意味であり、こうして彼女たちを殺した理由でもあるのだ。


「ミノルって……いうのは……」


 身体が完全に血液の中に沈んでいたが、どうにかして彼女に問いたかった。彼女の兄が、私がよく知っているあのミノルと同一人物であるのかどうか。彼女の動く口元を、声は聞こえてこないがどうにか見ることはできた。その動きはどうやらミノルのフルネームを発しているようだった。


 ずぬり


 そして確信した。


 彼女、美弥は、ミノルの妹であり、私の知るミノルは彼女、美弥の兄であるということを。



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