光と闇

壮大な散文詩を読んでいるような感覚を味わえた。恐らく、旧約聖書の創世記を意識しているのだろう。以下は僕の手元にある聖書の抜粋である。

「神は「光あれ」と仰せられた。すると光ができた。神は光を良しと思われ、光とやみを分けられた神は光を昼と呼び、やみを夜と呼ばれた。こうして、夕べとなり、朝となった」(創世の書第一章三節から五節)

しかし、作者は「光」よりも先に「言葉」を持ってくることで、〖小説の創世記〗なるものを表現しようとしているように思えるのだ。言葉と感応を巡る問答は複雑を極めている。言葉によって名前を与えることで、我と彼は否応なしに区別される。感応による意思疎通とは、我と彼が未分化な状態であり、光が生まれる以前の世界ーーつまりは渾沌の世界なのである。言葉は光であり、感応は闇であるのだ。

小説を書く者たちにとって言葉とは光であり、これをなくして世界を見ることはできない。物事に光(言葉)を当てることで擬似的に世界を創り出す、これが小説家の役割である。感応による意思の疎通とは闇に閉ざされた渾沌の状態なのだ。

感応と言葉、どちらが便利な意思疎通手段かと聞かれれば、前者を指さす人々が多いのだろう。しかし、角度を変えて見たとき、それが果たして優れた方法であるのか、一抹の疑問と不安が残される。言葉の意義を知っている者であるこそ、理解できる世界を描いた作品だった。