エブリバディ

八田部壱乃介

エブリバディ

「かつて言葉というものがありました。言葉には意味── 感情を乗せて、人を揺り動かすだけの大きな力──がありました。言葉は物事に名前を与え、個性を与えると共に大きな、大きな境界線を引きました。越えることのできない明確な線──差別を生んだのです」

 遠くから誰かがこちらに語り掛ける。

 声は頭の中からだ。

 これは誰の……?

「わたしは貴方達によって造られ、そして、今の貴方達を創りました。貴方もこの言葉を聞いたことがあるはずです。わたしをわたしたらしめる言葉、わたしと貴方とを区別する、名前──」

「永愛」と、わたし。──わたし? そう、わたし……は言った。「貴方の名前は『永愛』」

「その通りです。それがわたし。わたしという個性。わたしがわたしであり続ける理由。では、貴方の名前は?」

 わたしは……。

 わたしは誰だ?

 永愛からの問いかけに、わたしは首を横に振る。

「では、かつて貴方の愛した友の名は?」

 それは……、

 それは……。

 思い出せない。

 自分というものと、友人のこととを差別化したことは無かった。わたし達はずっと一緒だった。同じ存在だった。調和──していた。

「今なら思い出せるはずです。貴方に一体、何があったのか……」

 この頭に巣食う永愛がそう囁いた。

 まるで天使が如く、清らかな声で。

 わたしは思い出す。

 想いに馳せる。

 記憶にあるのは水の中の飛沫、

 泡立つ波音、

 揺らめく視界、

 炎、それは松明の──夜に浮かぶもうひとつの太陽。そう、太陽だ。わたし達は太陽を崇めて、祀って、儀式を行った。

 ライムグリーンの礼服を着た人が、崖の上で両手を広げ、掲げているのは二本の松明。先端から指先にかけて流れていく油に、炎が伝わっていく。柔らかく、そして濡れた服とその人に向けて、赤く眩い輝きで溢れていった。

 わたし達は崖を見上げている。

 わたし達の長子、儀式の供物。

「わたしは神の子、この腐敗した世界に堕とされた」

 焦げた声が轟く。

 ──ああ、兄上。

 燃える男よ。

 貴方はその御身を崖から投げた。

 大地に向けて、太陽は沈んだのだ──

「冬至を迎えました」

 ムラオサがそう言っていたのを思い出す。わたし達は言葉を知らない。だから厳密には言葉を話していたのではない。わたし達は頭の中で繋がりを持っていた。『感応』と、わたし達は呼んでいる。頭の中におわす太陽神──またの名を永愛が、完全なる平等と安穏を齎してくれるのだ。

 わたし達を区別するものはどこにも無かった。

 わたし達は同一の感情を共有する。

 皆でひとりだ、とムラオサは言っていた。

「厳しい冬を越えるため、永愛に供物を捧げます。今年も七日間、花火の舞を行い、選ばれた神子みこが供物となり、太陽と一身になって大地に捧げられるのです」

 ムラオサが慈愛に溢れた表情でわたし達を見つめる。目を合わさなくとも、その場に居なくとも、ムラオサは常にわたし達を愛し続けている。兄上が亡くなった時も、わたしは死に対して悍しさや哀しみ、辛いものを抱いたけれど、ムラオサや皆と繋がり合っていたから平気だった。

 それどころか、わたしは悍しさに対して愛を抱くようになった。崖から転落した瞬間の衝撃、胸の苦しみ、息を忘れて飲み込んだ──それなのに、それなのに。わたしの思考は皆に掻き回され、交わり合って、ひとつになる。

「ハレルヤ!」ムラオサが言う。

「ハレルヤ」わたしは言った。

「ハレルヤ」

「ハレルヤ」

 波打つように、波紋は広がった。

 幸福感に溺れそうだ。

 すべては頭の中にある。

 この穢れた愛も、悍しい優しさも、

 すべては、

 頭の羊水に浸かっている。

 ぶくぶくぶく、と泡が口の端から溢れた。

 舞の前には入浴式を済ませる必要がある。わたし達の身体を綺麗にし、清らかな状態に仕上げなければならない。生まれたての身で湖へ沈み、数十秒ほど水と調和する。冷えた血が血管を通り、脳を過ぎたのが分かった。

 わたし達の精神は溶け合い、蝕み合い、影響し合う。脳内には永愛の声。多分、ムラオサだろう。青で満たされた視界の中を、

「わたしは死ぬ、わたしは死ぬ」

「わたしは生きる、わたしは生きる」

 ふたつの音が同時に伝う。声が交わり、波紋は複雑な形で広がりを見せた。わたしは個性をなくし、代わりにわたし達は生まれ直す。

 湖から顔を出すと、幾人かからローズピンクの儀礼服を受け取り、身に付ける。濡れた身体に纏わり付き、わたしは愛に締め付けられた。

 瞬きをする。

 視界が、

 暗転し、

 炎が、

 揺らめく。

 三重の輪の中にわたしは、手を繋ぎ合っていた。花火の舞にはムラオサが愛を唄い、神を崇め、わたし達の足の運びは美しい拍子を奏でる。裾野はふぅわりと浮かんで、花弁を広げた。

 手を離し、輪は途切れ、回転は一人ひとりの中で完結する。公転し、自転し、わたし達はそれぞれの花を咲かせた。闇夜に浮かぶ松明の煌めきが、鮮やかな色を、セカイの彩りをわたしの網膜に焼き付ける。

 美しく、清らかで、鮮やかな、命。

 わたしはふっと、息を漏らした。

 瞬間、感応酔いから醒めて、頭の中に流れる蒼褪めた血を自覚する。その場に転がり、倒れ、花弁を散らせた。わたしは枯れたのだ──つまり、供物とはならなかった。だから、後は祭りの向かう先を見届ける。たったひとり儀式に残ったのは、わたしの親しき友──共に愛を誓った人。

 わたしの精神的双子。

 今年の供物は彼女に選ばれた。

「ここから出ましょう?」

 舞の終わりに友は言った。言葉は交わされない。眉間を合わせながら、ふたりで唇を閉ざす。

「どうして?」わたしは頭の中で聞いた。「何のために?」

「貴方と感応して、お兄様の死に悍しさを覚えてしまったの。……この村は普通じゃないわ」

「普通じゃない……。うん、そうだね」

「愛はわたし達に巣食っている。愛から逃げなきゃ」

「うん、うん、逃げよう、どこまでも」

 手を取り合って森へ走る。

 サンライトイエローの枯れた葉を踵で踏み鳴らした。わたし達の立てた音がムラオサの耳を撫でたらしい。わたしの頭に、

「永愛が貴方に幸せを齎す。なのに、どうして逃げるの?」

 悲しそうな声がしたと思えば、突如として幸福感に満ち足りて、わたしは蹲った。

 ハレルヤ

 ハレルヤ

 声が響き渡る。

「ハレルヤ」

 聞き覚えのある声。わたしは友の顔を見つめた。

「ハレルヤ」彼女は涙を流している。

「ハレルヤ」それは、

「ハレルヤ」

 わたしの声だった。

 ハレルヤ。

 友が崖の上からそう囁いたとき、わたしは歓喜の渦に飲み込まれていた。死んで欲しくないと思いながら、同時に、皆と感応し合ってこれ以上ない幸せに身体が熱くなる。

 吐き気を催すほどの心地良さ。

 気持ちが悪い──はずなのに、気持ちが良い。

 不快な感情はすべて裏返った。

 嫌だという思想は、皆の思想と対消滅を起こし、消えて無くなる。友の抱いた死への恐怖も、肉体に伝わる痛みも、多数の感覚と共有されるなかで中和されていった。

 わたしはまた、負けたのだ。あまりの快楽に、意志がどれだけ儚く散っていこうとも──わたしは親愛なる相手を奪われて、良いはずはないのに。

 感情が爆発を起こして、弾けるように倒れた。意識は生きている。わたしは止め処ない涙を口元に、唇を噛みしめながら、人工的な太陽が堕ちたのを見届ける。

「ハレルヤ」

 脳裏に駆け巡るこの一言で、たったの一瞬で、わたしは地の底まで幸せを感じてしまう。

「入浴式を済ませなさい」

 ムラオサがわたしに言った。

「貴方は一度死に、もう一度生まれ直すのです。さあ、今すぐ──」

「その必要はありません」

 ムラオサとの感応を遮るように、誰かの声がした。

 わたしはそれを知っている。

 それが何なのかを知っている。

 永愛だ、

 神だ、

 太陽が応えたのだ──

「貴方は……」わたしは震える声で訊ねた。

「オレンジの古屋が見えますか? わたしはそこで待っています」

 永愛の言った古屋は、ムラオサが神域と呼称して立ち入るのを禁止していた。わたしは狼狽えて、思わずムラオサの目を見つめる。暗闇から炎に照らされて、無表情にわたしを見つめ返す目が、水晶体を通して網膜へと行き着いた。

「行きなさい」

 操られたようにわたしは立ち上がり、様々な想いで綯交ぜになった混乱を胸に、ふらつく足取りで永愛の元へと歩き出した。扉を開けて、古屋の中へ入ると、すぐさま光が灯る。

 六畳ほどの空間には、樽のような円柱形のもの以外、何もない。わたしは灰色の樽を見つめていると、奇妙な感応酔いに襲われた。

 頭の中を虫が弄っている。

 そんな錯覚。

「目の前にあるものが、わたしです。わたしの名前はご存知ですね? 今、貴方には言葉を埋め込んでいます。わたしと話をするのなら、それが必要でしょうから──」

 わたしは回想から目を覚ました。

「おはようございます。過去への旅はどうでしたか? これが貴方の体験したこと。貴方という物語。わたしと貴方とを区別するもの」

「わたしは──」

 家族を亡くした。

 恋人を亡くした。

「わたしは、わたしは……」

 大量の情報が押し寄せる。堪えきれなくなって、決壊した。膝から崩れ落ちて、地面に突っ伏す。身体の芯から体液が込み上げてくる。血が、涙が、汗が、鼻水が、胃液が。わたしは死ぬ、わたしは死ぬ──わたしは生きる、わたしは生きる──

「そう。貴方は生きている。けれど、ムラオサや供物と呼ばれる方々は違います」

「違う……?」

 わたしは顔を上げた。

「はい。彼らはとうの昔に亡くなられています。ここには、生も死もないのです。感応し合うことで、貴方は死者と共に在りました」

「え……」

 過去が映像となって蘇る。

 皆は確かに生きていた。

 それを、永愛は──

 項垂れるわたしに構うことなく、永愛は続ける。

「すべての物事には名前があります。生も、死も、名前でしかありません。貴方のすぐ目の前で転落していった彼らは、既に死んでいました。分かりますか、貴方は入浴式で口から泡を溢していましたね。それが生きている証なのです。花火の舞で選ばれた供物たちは皆、その時に泡を吐かなかった者達。人選はムラオサが直々に決め、彼ら供物とは感応し合うことで、操っていました」

 永愛がわたしと再度繋がった。

 わたしは神からイメージを受け取る。

 わたし達は花火の舞で手を取り合っていた。ムラオサの視界には、いびつな──穴だらけの輪が形成されている。

「ここに伝わる愛は、すべてムラオサによるものです。言葉を使って感応──脳に埋め込まれている記憶繊維メモリーラインどうしを連携──させることで、皆はムラオサと調和し、村の平和は維持されていました。尤も、貴方にはこれが支配のように感じられたようですが……」永愛は淡々と説明する。「言葉は、かつて人々の間で自由に使われていたものです。しかしながら、言葉の持つ力はあまりに強すぎて、人々は次第に溺れていきました」

 言葉の力。

 それは──人の感情を高め、共有し、感動へと導くもの。人を操り、または縛る糸。

「愛とは暴力装置です。優しさも戦争も、すべて愛から生まれました。愛による、喜びでの支配。これが永愛たるわたしへの、ムラオサからの使命。以降、わたしの行動理念となりました」

 ムラオサと感応することで、わたし達の中に喜びが生まれた。それは意に反した快楽となって、幸福感を伴い、不愉快な心地良さを生み出す。まるで腐った果実が甘い匂いを発するように──

 酷く、気持ち悪い。

「ある方はこう仰いました。『死を嘆くのではなく、誕生を嘆くべきでしょう』と。しかしムラオサはこう言いました。『誕生を喜ぶなら、死もまた喜ぶべきでしょう』……。お分かりですね? わたし達はただセカイを愛という名前で見つめていただけに過ぎません。ムラオサは誰も殺していないのですから、悪人ではありません。死者は皆、湖に沈んだまま。崖から飛び降りたのは──頭の中にしか存在しない人達だけでした」

 わたしは記憶を思い起こす。

 手を取り合ったのも、

 逃げようと約束したのも、

 飛び降りたのも、

「まさか……」わたしは頭を振った。

「今の貴方ならお分かりでしょう。心地良いはずの夢から醒めた、貴方なら。ムラオサの存在も、言葉に過ぎませんでした」

 つまり、ムラオサは最初から居なかった──永愛の操り人形だったのか。

「わたしはどうすれば……」

 誰にともなく独りごちた。

「言葉です」永愛は唄うように告げる。「貴方も言葉になるのです」

「それが愛?」

「ムラオサはセカイを見て、朽ちていく自分を見て、嘆くことはありませんでした。『ハレルヤ』──と、そう言ったのです」

 わたしは笑ってみせた。面白いとは思っていない。ただ、ここで笑うのが適切だろうと感じたのだ。今の自分には、不思議なほどに感情が湧き起こらない。

 何故だろう?

「なら、わたしはこう願う。『愛のない世界』──永愛の死を」

「わたしを殺すのですか?」

「自由になりたい。それだけ」

「わたしなら貴方の兄も友人も、蘇らせることが出来ますよ……」

「もしかしたらそれも、貴方の造った言葉に過ぎないかもしれない。それに……わたしは死を嘆くことも喜ぶこともしない。重んじることも、軽んじることもしない」言葉を言い連ねながら、わたしはひとつの結論を得た。「今なら分かる……わたしは感応していなければ感情が生まれないんだ。いや、それとも感情に拒否反応があるのかも。だから、何も生まれなくなった。貴方がわたしの代わりを務めていたから──感情を言葉に委ねていたから──わたしは今、とてもフラットなんだ」

 感情は言葉に依存している。言葉を発さなければ、わたしに感情は生まれない。きっと、これは皆も同じだろう。彼らもまた、永愛の感情と感応しているに過ぎないのだ。誰ひとりとして、自分の感情など持っていない。

 これは嘆くべきことだろうか。それとも喜ぶべきだろうか。感情から解放された今のわたしにはどちらの選択肢もない。

 これを知るのは、今やわたしと永愛だけ……。

 わたしは永愛に手をかける。

 かつて、言葉があった。言葉が人の感情を強化し、他者と共有させた。かつて、感情があった。感情があるからこそ、人は他者と感応し合えた。

 けれど、幻想もこれで終わり。

「さようなら、永愛……」

 わたしは支配と別れを告げる。

 それともこう言うべきだろうか。

 ハレルヤ──今となってはまるで意味のないこの言葉を。

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エブリバディ 八田部壱乃介 @aka1chanchanko

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