ピエタ

蓮乗十互

ピエタ

 われは、海の子。白波の……。


        *


 真っ白な壁が見える。黒い渦がゆらめく。頭がぐらりと溶け落ちそうに思えて、男はそっと目を閉じる。闇の中で、奇妙な色彩が歪む。

 しゅこ、ん、しゅこ、ん、しゅこ。規則的な音がどこか遠くに聴こえる。ぼんやりと耳をかたむけ、ああ、あれは俺の呼吸音だ、と男は思う。

 男は二日前から病状が悪化し、急速に衰弱していた。癌に蝕まれた六十五歳の身体は、もはや生き続けようとする力を失い、燃え尽きる寸前の蝋燭がちらちらと炎をゆらめかせるように、かすかな生理が働いて男の苦しみを長引かせていた。

 胸の辺りが重くて、虚しくて、どこまでも縮んでゆく。縮む?何が。分からない。ただひたすらにつらい。苦しい。嘔吐感にとてもよく似ているが、もっとひそやかなものが男をさいなんでいた。

 いつか、こんなことがあったっけなあ……。

 薄もやのかかった男の意識の中に、ぼんやりとある風景が蘇る。夏。蝉の鳴く声が降り注ぐ。波の音。開け放たれた障子。庭の緑が陽光にまばゆく、それが部屋の暗さを際だたせる。布団に伏せる少年。あれは俺だ。尋常小学校の夏、急の高熱に襲われた記憶。枕元に母が静かに座って、少年を見下ろしている。

 身体のだるさに少年はうめく。つらい。苦しい。身体を振り捨てらられるものならば捨ててしまいたい、けれどもどこまでも、身体からは逃れられない。友人たちは今ごろ、すぐそこの浜辺で夏を楽しんでいるに違いない。どうして俺だけが。苦しい。苦しい。息をする事すらつらい。俺だけが。俺だけが。身体の苦しみは心を追いつめて、思いきり叫んで、誰かを傷つけてしまいたい。

 いういーん、いういーん、蝉がわめく。寒い。頭が歪む。このまま身体が溶けて、畳に染みて、遥か遥か地下深くに潜って、それでもこの苦しみは尽きないように思われた。

 そっ、と額に冷たいものが触れた。

 少年は薄く目を開く。母の顔がある。白くしなやかな指が、少年の額に優しく触れていた。

 ああ、お母さんだ。

 なにかしら身体から力が抜けてくる。母の指の触れる額から、おだやかなものが広がってゆく。肉体の苦しみは続いていたけれど、少年は安心して目を閉じる。まぶたの裏に、自分を見守る優しい顔がゆれて、それが少年に力を与えるから。

 わーれは、うーみのこ、しーらなーみのー。

 母はそっと手を離し、優しく団扇で風を送りながら、かすれるような細い声で口ずさむ。病に負けるな、頑張れ、という確かな母の思いやりだ。少年は母の歌声を聞きながら、安らかな眠りに意識を沈めてゆく。

 それは遠い遠い夏の記憶──。

 男は白濁した意識の中でまぶたを開き、ぼんやりと視線を巡らせる。いつしか老人は少年になり、母親の姿を病室に求めていた。しかし男の母は三十年以上も前に他界し、長年連れ添った妻も一昨年亡くしている。男の視線は、虚しく白い部屋の中をさまよった。

 人の影が蠢く。白い服の男と女。それが医師と看護婦である事が、もう男にはわからない。ただ空間の中で奇妙な染みが脈動している。染みの中には白ではない色も混じっていたけれど、それが息子夫婦だという事ももう男には判断する力がなかった。

 メヲアケタ。

 オヤジ、オヤジ。

 オトウサン。

 音が耳元でうなる。そのたびに、わうーん、と脳が不快に揺らいで、言葉の意味がわからない。それが人の発する言葉だという事すら、分からない。

 オヤジハイシキガマダアルノデスカイヤニョウドクショウデモウノウハヤラレテイマスイシキハナイデショウオヤジオヤジオトウサンオトウサン

 不可思議な音の連なり。

 男は必死になって目の焦点を合わせようとする。母親の姿を目近に見いだそうとする。けれどもどうしても世界は白くぼやけて、男は一人ぼっちになる。

 しゅこ、ん、しゅこ、ん、しゅこ。

 苦しい。苦しい。

 しゅこ、ん、しゅこ。

 男は喘いだ。毒素の回った脳はもう日常的な意味での意識を持つ事はなかったけれど、自分が苦しみの中に取り残されている事の絶望が確かに男にのしかかっていた。

 いういーん、いういーん、蝉がわめく。幻の蝉が男の孤独をさいなむ。

 その時、不意に男の白い視界に鮮やかなカラーが飛び込んだ。

「じいちゃん!」

 それは、四歳になる孫娘だった。急の危篤という事で保育園から呼び出されたのだろう、赤みがかった園児服の幼い顔が、老人の眼前に広がった。

「じいちゃん、しんどいの?」

 言葉が男に伝わる。ぐるぐる渦を巻く男の意識の中に、ほんの一筋、光が差し込む。ああ、しんどいなあ、と応えようとするけれど、言葉を発するのに口をどう動かせばよいのかわからない。もどかしい。

「しんどいんねえ。いけんねえ」

 コレヤメナサイジイチャンハネテルンダカラジャマシチャダメ

「じいちゃん起きてるよお。お話ししたいんよお」

 そうともさ、じいちゃんは起きてるさ。

 男の朧な脳裏に、遅い初孫の記憶が蘇る。何かと不思議な所の多い娘だった。誰もいない所で誰かと話をするような素振りを見せたり、誕生日の当日まではと手の届かない所に隠していたおもちゃをいつの間にか手にしていたり。時には、ひっそりと心の内に思っていた事を無邪気にいい当てられてどきりとした事もある。子供というのはこんなにも敏感なものであったか、と息子が幼い頃の事を振り返っても、やはりこの娘は特異であるように思えた。

 餅のようにふっくらした小さな手が、しわだらけの男の手を握る。大きくて黒い目をまんまるにして、男の弱々しく開かれた目を見つめる。育ちゆく生命と、亡び去る生命。

「じいちゃん、あんねえ、今日お歌習ったんよ。ききたい?」

 少しの間耳を傾けた後、娘は、にっ、と白い歯をこぼした。そして息を大きく吸い込むと、子供をあやすように手でぽんぽんと男を軽く叩きながら、小さな声で歌いだした。

 わーれは、うーみのこ、しーらなーみのー。

 どくん、と男の心臓が鳴った。

 ナンデスカコンナトキニウタナンカウタッテコッチキテオトナシクナサイ

 空間の染みが娘の肩を乱暴に揺すって男から引き離した。あっ、と男は思わず手を伸ばそうとした。けれども病んだ身体はぴくりとも動かない。遠避けるな。私の大切なものを奪わないでくれ。頼むから。男は何かに祈るような気持ちで、必死に目を見開いた。

 母親の手を振り払って、ぬっ、と再び娘の顔が現れた。白くぼやけた世界の中で、幼い顔が優しく揺れている。

「だいじょうぶよお。お母さんはここにいるからねえ」

 男の意識の中で、その幼い顔は変容し、懐かしい母の顔になっていた。

 お母さん──。

 母が笑う。懐かしい顔が笑う。男の心と体が急速に柔らかくなる。

 オカアサンジャナイデショヤメナサイジイチャンノメイワクダカラマッタクコノコハジブンガビョウキノトキニイワレタコトバヲソノママクリカエスンダカラマアイイデハナイデスカオコサンニジュウブンオジイサントオワカレヲサセテアゲレバコレデサイゴナノダカラ……

 男の目から涙が一筋こぼれ落ちた。懐かしい者に出会えた不可思議が、男に力を与えた。それは生きる力ではなかったけれど、確かな、死にゆく力だった。

 白いもやが渦を巻く。それは次第に暗く、黒くなってゆく。どこかで波の音が聴こえる。潮の香り。優しい母の歌声。ああ、俺はあの海辺の家に帰ってゆくんだ、と最後に男は思った。


        *


「あ、じいちゃんいっちゃった」

 幼い娘は祖父の手を握ったまま、後ろを振り返って母親にいった。母親がたしなめようとする寸前、今度は医師がいった。

「御臨終です」

 両親は、はっ、としてベッドに横たわる老いた男を見た。先程までの苦渋の表情は既になく、柔らかな顔で男は息を引きとっていた。

 泣き伏す母親と、無言で医師に頭を下げる父親の傍らで、娘は窓の外を見た。肉眼では見えない、その方向のずっとずっと遠くに、男の生まれ育った海辺の町がある。

「じいちゃんは、おうちにかえったんねえ。良かったねえ」

 娘は空の向こうを見ながら、祖父が最後に望んだ歌──娘にだけ聞こえる心の声で確かに望んだ歌を小さく口ずさんだ。


        *


 我は海の子 白波の

 騒ぐ磯辺の 松原に

 煙たなびく 苫屋こそ

 我が懐かしき 住み家なれ……


 了


※【著作権に関する注釈】「我は海の子」作詞作曲者不祥

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ピエタ 蓮乗十互 @Renjo_Jugo

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