真っ赤な雪

吾妻志記

炎の匂い

 必死に逃げる。

 母も姉も妹も皆を見捨てて逃げた。

「こんな…こんなのってねえよ。」

「酷えや…酷えよ…。」

 その他数多くの恨みの言葉を吐くが、ただ彼は孤独である。呟いたところで、母も姉も妹も現れるわけではない。

 駆け出した時の速度も、今や歩くよりも遅いほどに落ちている。

 母礼は一度立ち止まった。村からは大分離れてしまったようだ。もう人の叫びは聞こえてこない。

 さっきまで母礼を取り囲んでいた真っ赤な炎は、光を吸収してしまいそうな闇に変わっていた。

 夏の夜風が闇の中の木々を吹き抜ける。それに乗って僅かに火の匂いがした。人肉の焼ける、腐ったような臭気だ。先刻見た地獄絵図が脳裏に鮮やかに蘇る。

 母礼は吐いた。母や姉妹とともに食った熊肉や山菜も全てが口から流れ出る。

 母の顔を思い出す。姉の笑い声や妹の踊る姿など、家族の思い出が巡った。

 父は母礼の物心の付く前に熊狩で死んだ。そして今日、残りの家族全員が炎の中で焼け死んだ。

 不意打ちで成されるがままだったので村の多くは焼けているだろう。夜中のことだったために村の多くは焼けているだろう。情報を持つものは生き残っていない。しかし、母礼には確信があった。

「あいつらだ。朝廷人たちが村を…。」

西の方角から来た朝廷人は蝦夷のことをまるで人間と思っていない。虫けら同然と見なし、度々村を焼き討ちにしたり、女子供を含む蝦夷を虐殺してきた。今回も彼らがやったことだろう。

怒りに身が震えた。母礼は誓った。

「蝦夷の国は俺が守る。」

母礼は今は一人だ。深い山の中で自分がどこにいるのかもわからない。それでも出来ると思った。やるのだ。

一歩足を進める。何かが足に絡み付いた。

「あっ、」

それが縄であるとわかった時にはもう遅かった。強い力で引っ張られ、母礼は斜面を引き摺られる。逃げる時に焼かれた両足の火傷が剥けた。その剥き出しになった肉を岩の角が切り付ける。

あまりの激痛に、母礼は気を失った。

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真っ赤な雪 吾妻志記 @adumashiki

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