蝉の死骸を踏む女
葎屋敷
その願いは叶わない
ある夏の終わりの日。高校三年生の俺は、受験勉強のために図書館へ向かっていた。太陽の熱に急かされるように足早に、図書館に向かう最中だった。
熱い日差しの下で、執拗に蝉を踏みつける女に出会った。
「…………」
見なかった振りをして通り過ぎればいいのに、俺は思わず立ち止まってしまった。
潰れた蝉が砕けた羽を散らし、地面と同化するように平たくなっているにも関わらず、女はずっとその死体に無言で足を下ろし続けている。死体蹴りならぬ、死骸踏みか。
「……趣味が悪い」
心の内に秘めておくことができず、俺は嫌悪を口にする。
すると、女は俺に気がついたようで、蝉の死骸を踏みつけたまま、こちらに身体を向けた。
「なんだ、君か」
女は俺を見ると、まるで知り合いかのような物言いをする。
しかし、俺に彼女の記憶などない。
「……どこかで会いましたか?」
「いや、今世では初対面だ。君とは前世で恋人だった関係にすぎない」
「なるほど本格的にヤバい人ですね。話しかけてすみませんでした、さようなら」
話す前からわかってはいたが、どうも彼女は知り合えば害である存在だったらしい。俺は彼女から逃げるようにその場を立ち去った。彼女の傍を横切るとき、視線を感じたものの、呼び止められるようなことはなかった。
*
そんな奇妙で出来事の翌日。いつものように図書館に来た俺の前に、あの女が現れた。
「あー、また君かぁ」
女は俺のお気に入りだった、日の当たらない席を占領していた。机にあるのは、何語かも分からないような洋書がひとつだけ。彼女はそれを手に取ると、席を立った。
「どうぞ? 勉強がしたいんだろ?」
彼女はそう言って、俺の持っている本を指差した。大学入試の参考書だ。俺がここになにをしに来たのか、彼女はそれを見て判断したのだろう。
「……いいんですか?」
「『げ、昨日の蝉死骸踏み妄想女がいる』という顔をされてはね? 退散せざるを得まい?」
「う……」
感情が外に漏れ出てしまっていたらしい。肯定も否定もできずに黙る俺を見て、女は口元を手で隠しながら笑った。
「ははは。君が私をヤバい人だと思っていることはわかっているから、隠さなくてもいいのに」
「……いや、そりゃ思うでしょ。前世の恋人だなんて言われたら」
「事実なんだけどね。君も、昨日の死骸だった蝉も。どんな生き物の前世も私にはよく見える。君はたまたま私の前世の恋人だった。それだけだ」
あっけらかんとそう言い放つ彼女に、俺はなんと言って良いかわからない。まるで新聞紙に書いてあるニュースを読み上げるように淡々とした様子で、とても信じられないことを彼女は言うのだ。
「そうだな……。私は君を好ましく思うから、一応昨日の行動については言い訳させてもらうかな。君、昨日の蝉の前世はなんだったと思う?」
「は? え、は? いや、蝉、じゃないですか?」
なんのこっちゃ。さらりと好意を伝えられたことが気のせいなのではないかと思うくらい、わけのわからない問いかけである。
「いや、あの蝉は人間だった。私の両親を殺した罪人だった」
「……え」
「罪は積み重なるもの。あの悪人は、ついに今回の転生で人に生まれ変わることが許されなくなったわけだ。そんな彼女の死骸を見て、少々複雑でね。見ていられなくなって、気がついたら粉々になるまで踏みつけていたのさ」
……それが、本当なら、俺は簡単に彼女を責めることはできない。家族の仇が道端に転がっているなんて経験、俺にはないからだ。ないけれど、それが苦しいことであることは想像ができた。
ただ、それはあくまで、本当ならの話だ。彼女の言っていることなんて、妄想だろう。なにが転生だ、蝉だ、罪人だ。虫の死骸で遊んでいたと、白状すればいいだけなのに。そうすれば、大人のわりに趣味が悪ガキじみた、ただの変な人で終わるのに。彼女は俺に言い訳とやらを語る。
一笑に伏すのは容易なはずだった。なのに、その瞳が真っ直ぐに俺を見つめて来るので、少々動揺してしまう。こちらから目を逸らしてしまったのは、敗北のように感じられてならなかった。
「今回は退散するよ。君の将来の邪魔はしたくない」
「……」
「あ、ところで、これは確信だけどね? 君はずっといい人のまま、天寿を全うするよ。人は前世と同じ道を辿るからね。だから、あまり私みたいな奴を心配しすぎてはいけないよ。気になって、つい目で追って、救ってやりたいなんて思わないように」
「だ、誰が思うか」
「それは結構。今回は君を悲しませずに済みそうだ」
女は至極満足そうに笑みを浮かべる。愛おしそうに読んでいた本を撫で、それを両手で丁寧に持った。
「最期に、出会えて嬉しかったよ。悲しませたくないなんて願うくせにね。……矛盾もいいところだ」
最後にそう言って、女はこの場を立ち去った。
*
それ以降、俺は彼女に会うことはなかった。
ただ、俺は一度だけ、彼女の顔を一方的に見た。彼女と出会った一か月後、一家惨殺の被害者としてニュースで紹介された、彼女の顔を。
「……次こそは、救ってやる」
彼女はただの他人のはずなのに。自己紹介すらし合わなかった関係なのに。
まるで知らない誰かに乗り移られたように、俺は気づけばそう呟いていた。
蝉の死骸を踏む女 葎屋敷 @Muguraya
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