道の外、彼岸花
葎屋敷
それは人の道に悖るもの
私が立っているのは、一本の道だった。
その道は一見真っ直ぐだが、先を見据えれば枝分かれしていることがわかる。
私は視線を横へとずらす。道は均されたものだが、街中にあるような道ではない。なにせ、道の横には絨毯のように敷かれた彼岸花が咲いている。その世界には人以外、道と花しかなかったのだ。風に吹かれて、華奢な花は綺麗に揺れている。
私はその光景に目を奪われて、ゆっくりと辺りを見渡す。すると、その赤い花を踏んでいる少女を見つけた。
その子は私が通っている高校の制服を着ていた。どこかで見たような覚えがあるが、思い出せない。彼女はくせ毛の髪をなびかせながら、花と踊るようにステップを繰り返した。
その度に、水袋が破裂するみたいな、パンッ、という音が聞こえる。
パキッ、パキッ、と細いものを折るような音も聞こえる。
ぐちょり、ぴちゃりと、水たまりの上を歩くような音だって聞こえる。
私はそれらの音が心地悪くて、同時に不思議だった。
少女が歩く場所にはたくさんの彼岸花。彼女が歩く度に花びらが舞い、房は潰れ、茎は折られる。でも、その音がこんなうるさいわけがないし、水たまりのようなものも見当たらない。どうしてこんなに彼女が歩を進めるたびに、不快な音が鳴り続けるんだろう?
くるくると少女は身体を回転させる。その姿は可憐でいて、妖しかった。
どれくらい時間が経っただろうか。少女は突然、ぴたりと動きを止めた。私の視線に気がついたらしい。こちらをじっと、見てくる。
「……あの」
私は彼女に声をかけようとする。しかし、それ以上言葉はでてこなかった。私の身体は、まるで鉛を背負っているかのように重く、熱でもあるかのようにだるかった。
少女は鈍重な私を馬鹿にするように、口元を歪ませる。そして、足元にあった彼岸花をひとつ、茎の根元から手折って見せた。
パキリと、音がしたような気になる。彼女と私の距離はおよそ五メートル。そんな距離で、茎が折れる音なんて聞こえるわけがないのに。
少女は私に見せつけるように、花を口元まで運んで見せる。私からは彼女の唇と花が重なって見えて、なんだかそれが彼女の化粧のように思えてならない。
視線を細まった彼女の目から、手折られた花へ目線を移す。
その花を見ていると、私はどうしてか、自分だってその花を折ってやりたいという気持ちと、ここから今すぐ逃げ出したいという気持ちが混ざって、涙が出そうになった。
私は自分の足元を見た。今立っているこの道を外れて、いくつもの花を踏めば、彼女が持つ花へ辿り着く。そうすれば、私はいくらでもあの花を折って、すりつぶして、泣かせてやれる。殺してやれる。
血流が心臓を出たり入ったりして、どんどん顔に熱が集まる。私はその熱から意識を背けるように、道の外れにいる彼女を見ていた。
*
目覚ましが鳴った。豪快なベルの音がけたたましい。
「ゆめ……」
不吉で奇妙な夢を見た。その内容を頭の中で反芻しながら、枕元の眼鏡を手に取って掛ける。
布団から這い出て、タンスを開けた。中に入った制服を手に取ると、それが異常に重たく感じてならない。パジャマを脱げば、いくつもの小さな痣が、私の身体を巡るように色をつけていた。
シャツ、スカート、ジャケット。ひとつひとつを身に重ねる度に、息がしにくくなる。まる首を絞められているような感覚だった。
錯覚にすぎないそれを断ち切りたくて、私は机の上に置かれたカッターを手に取る。それを喉元まで持っていったところで、現実、私の身が自由であるはずなことに気がついた。
手が震える度に、小さくカッターの刃が鳴る。
カタカタ、カタカタ。その音はあまりに小さい。窓の外で歌うスズメの声に掻き消されるほどに。
「はぁ、はぁ、……はぁ」
さえずるように醜く呼吸する喉を左手で抑えて、息を整えた。絡まっていた思考が少しほどけ、今の時間を確認する。
――ああ、時間だ。
カッターを机に戻そうとして、迷い、制服のポケットにしまう。そして私は空いたその手で、椅子に置いてある鞄を手に取った。
*
私の通う学校には美術部がない。正確に言えば、美術部はなくなった。部員が私と、もう一人だけになり、部員数を理由にサークル扱いになったのだ。それが、およそ三カ月前のこと。
昼休みのチャイムが鳴り、騒めきと共にクラスのみんなが席を立つ。それを真似るように私も立ち上がり、教室の後ろの扉から出た。
駆け足で廊下を抜け、階段を上がる。目的地は三階、その端にある美術室だ。
道すがら、二階にある職員室に寄り、美術室の鍵を借り受ける。
階段を上がれば、吹奏楽が奏でる音色で溢れていた。昼休みはパート練習を行うことが多いらしく、彼らは三階の空き教室に散らばって練習をしている。
様々な楽器の音に興味を引かれながらも、私は早足で美術室に向かっていた。美術室には、創作途中の絵がある。その続きを早く描きたかったのだ。
しかし、私が休み時間、早々に教室を出たのは、それだけが理由ではない。
捕まりたくなかったのだ。疫病神のような、彼女に。
しかし、そんな私の気持ちを嘲笑うかのように、彼女は私に声をかけてきた。
「町田さーんっ」
泥だらけの手で、べたべたと顔を触られたような気分だった。上下左右、勝手に視線が彷徨ってしまう。逃げたい衝動があるのに、身体が上手く動かなかった。
また思考がこんがらがる。きっと自分の後ろに誰がいるのか考えないようにすることで、頭が心を守っているのだろう。
でも、そんなものは無駄なあがきだ。だって、声を聞けば、彼女が誰かなんてすぐわかるのだから。
「なに、無視してんだよ、ウジ虫」
耳元に囁かれた言葉そのものが、暴力のように私の脳を揺らす。肩にかけられた彼女の手の力は強かった。制服越しであるにも関わらず、その爪が肩に食い込んでいるかのような錯覚に襲われる。
恐る恐る振り返れば、そこにいたのは案の定、隣のクラスの林さんだった。
「……林さん、あの」
「なんで無視したのって訊いてんじゃん、ウジ虫」
繰り返される質問。細められた彼女の目には苛立ちが積もっている。
――また、先生に注意でもされたかな。
頭の片隅で体育座りをしている冷静な私が、小さくそう呟いた。
「無視、したんじゃなくて……」
「は?」
短い音、鋭い視線、吊り上がった眉。そのすべてが彼女の怒りを物語っている。私がなにも言えずに口を閉ざしていると、林さんは一瞬だけ周りを見渡す。三階はクラス教室がない。しかも吹奏楽部がほぼ占領しているような状態だ。吹奏楽部以外はほとんど通らないし、その吹奏楽部が廊下に出るのも、昼休みの始まりと終わりだけだ。今、廊下には誰もいない。
そのことを改めて確認したのだろう。彼女はほくそ笑んで、私の首根っこを引っ張った。
「来いよ」
「あ、いや……」
拒否しようとするも、彼女の力は貧弱な私よりもずっと強い。引きずられるようにして、私は彼女の後を付いて行くしかない。噂によると、中学の時は運動部だったと聞く。
でも、そんな彼女は今は運動部ではない。私と同じ、美術部サークルだ。
彼女は当時まだ部であった美術部に入る時、こう言った。
『絵が好きなんですよね』
でも嘘だった。彼女は美術部を友人たちの溜まり場にしたいだけだった。きっと部員が大人しい者ばかりであること、当時顧問であった先生が忙しく、たまにしか部活の様子を見に来ないこと。それらのことに目をつけたのだと思う。
彼女は二人の友人を呼び、美術室の端で騒ぎに騒いだ。ジュースをあおぎ、菓子を貪り、大声でお喋りを続けた。
当然、迷惑だと皆が思った。そこで、最初に部長が注意した。
翌日、部長は学校に来なくなった。
次に注意したのは副部長だった。
最初に林さんたちに注意して三日後、副部長は退部した。
そうやって、徐々に美術部員は減っていった。当時の顧問は林さんにセクハラ疑惑をでっち上げられ、謹慎、後に異動していった。最後に残ったのは、私と、私の友人ひとりだけ。
しかし、その友人も学校を辞めた。
理由は、林さんにいじめられたからだった。今では遠くに引っ越して、連絡も取れない。
「あ、あの……」
連れて来られたのは、屋上へと続く唯一の階段、その踊り場。屋上は封鎖されているから、ここに用がある者はいない。校舎内で人通りの少ない場所のひとつだ。
階段を上がり、踊り場に足をつけた途端、私は壁へと突き飛ばされた。痛みに歯を食いしばれば、それすら気に食わないといわんばかりに、彼女は私の胸倉を掴んだ。
「町田さんさぁ、なんか勘違いしてるよね? サト子たちがいなくなったからってさぁ」
彼女が言っているのは、彼女と共に美術室にたむろしていた、彼女の友人たちのことだ。
三カ月前、万引きの常習犯だったことがバレ、退学となったのだ。美術部に林さんが連れて来ていた二人である。美術部で騒ぐ人がいなくなってせいせいしたが、林さんだけが万引きの瞬間を監視カメラに盗られていなかったため、シラを切り通し、退学を逃れてしまった。
それ以降、彼女は私の友人をひどく憎み、いじめるようになった。
なぜなら、彼女らの万引きを店員さんに報告したのは、私の友人だったからだ。
「てめぇのダチのせいなんだよ、わかんだろ。オトモダチが責任取ったんだから、お前も取れよ」
「責任って――」
「自主退学。目障りなんだよ、早く消えろ。ウジ虫の顔見てるだけで、イライラする」
彼女は私を“ウジ虫”と呼ぶ。うじうじ悩んでるから、。ウジ虫その名にふさわしく、私はずっと悩んでいた。友達が退学に追い込まれてから、なにも助けになれなかった自分が嫌で、ずっと、やるべきことがなにか考えていた。
「わた、私は、私が」
「は?」
「あ、あああ、あ」
「は? どうしちゃったのぉ? 日本語忘れちゃったのかなぁ?」
震えながら言葉を詰まらせる私を見て、彼女は鼻で笑った。俯いている私を
にやけた顔に上目に見られ、私は息を忘れた。
「う、うぁ、ああああ!」
「はっ!?」
彼女と同じように、私も彼女の胸元のシャツを掴んだ。両手でしっかりと、シャツを裏返さんばかりに掴み、引っ張って声をあげる。獣の雄叫びのような声が、自分の腹から出ている。そのことに、目を見開いて固まる林さん以上に、私自身が驚いていた。
「あああ、あ、あ、あああああああ!」
「な、なんなんだよ、放せよ!」
「あ、あ、あ、ああああ!」
慌てた林さんは私の胸倉から手を離し、今度は私の腕を掴む。自分から私を引き剥がそうと爪を立てて引っ張るが、こちらも必死に手に力を入れた。
今、私の制服のポケットには、カッターがある。それを片手で取り出して、彼女の首筋に一線。それで、彼女の命は止まるはずだ。すぐに決着がつくはずだ。
なんども私の友達を殴り、蹴り、脅し、体も心も傷つけた。そんな下衆に、せめてもの報いがあれば。
首を吊って病院に運ばれるほどに追い詰められた友人に、せめてもの救いがあれば。
私がここで人の道を外れることに、意味があるはずだ。
「あ、ううう、ううぅ!」
なのに、なのに、なのに。
どうして私は、泣き叫んでばかりで、それ以上なにもできないのだろう。
「いい、かげんにしろよ、お前!」
林は私の手をついに引き剥がし、私の右頬を拳で殴りつけた。その衝撃に身体がよろけ、足がもつれる。身体が床に倒れたと同時に、私は彼女の足で顔を踏みつけられた。
「気持ち、悪いんだよ! 死ね、死ね死ね!」
林さんは倒れた私の顔を何度も踏む。その上、無防備な私の腹を蹴とばした。胃液が喉まで一気に駆け上り、とっさに口元を抑える。
「お前のダチも、お前も、ホントに虫けらなんだよ! その羽音が聞こえるだけで鬱陶しい! だから、消した。問題ないよなぁ。なぁ!?」
「ごめんなさいっ、ごめんなさい……!」
同意させるつもりなどないだろう。彼女は私の腰をぐりぐりと踏みつけている。奥歯を噛みながら、私は心の中で、ひたすら友人に謝り続けた。
――ごめんなさい、ごめんなさい、なにもできませんでした。あなたの代わりに復讐をと思ったけれど、結局、カッターを握ることすらできなかった。
自分が情けなくて仕方がなかった。後悔と自己嫌悪で、潰れそうだった。林さんの怒声が耳をすり抜けてくほどに、無力感が胸を埋め尽くす。
なのに、
「ねー、うっさいよ、君たち」
その声だけは、嫌に脳に響いた。
「誰!?」
「……」
その声は私のものでも、林のものでもない。知らない第三者のものだった。
吹奏楽部の演奏で、私たちの声は掻き消されている。だからこそ、林も邪魔が入らないだろうと油断していた。なのに、ここに来てこの現場を
驚いた林が私の身体を蹴りつけていた足を止め、辺りを見渡すこと三秒。すぐに彼女は頭上に視線を固定させた。
私はその隙に、咳き込みながらも上半身を起こす。なんとか息を吐き、林の目線の先を追って、上を向いた。すると、階段の先、屋上へと続く扉の前から、こちらを見下ろす一人の女子生徒を見つけた。その足元にはお弁当箱が転がっている。どうやら、こんなところでお昼をとっていたらしい。気づかなかった……。
彼女の足元から視線を上にずらし、私はその顔を凝視した。
……見覚えがある、ように思う。
その女子生徒はふたつ隣のクラスの娘で、あまり学校に来ない娘だった。接点はないが、そのくしゃくしゃの
たしか……、そうだ、思い出した。彼女は、花崎さんといったはず。
「なに、あんた。邪魔すんなよ」
「邪魔? 私が?」
「そうだよ! 私、今はこいつに話があんだよ。鬱陶しいから、さっさと失せろ!」
林は自身の憤りを表すように声を荒げ、威嚇するように床を地面で蹴った。その怒りを直接向けられていないはずの私ですら、縮み上がりそうなほどの剣幕だった。
それにも関わらず、花崎さんは顔色ひとつ変えなかった。戸惑う様子もなく、スタスタと軽やかな足取りで階段を降りてくる。私たちのいる階段の踊り場まで到着すると、彼女は腰を曲げ、林さんを下から見た。まるで、先程私を煽った林さんのように。
「人がお昼食べてるところで、勝手に喧嘩おっぱじめたのは君たちでしょ。邪魔、はこっちのセリフ。猿のようにうるさいったら、ありゃしない。ああ、猿ボスが新人躾けてる最中だった?」
「こんのっ、痛い目遭いたいわけ!?」
「ちゃっちい脅し文句。小物、いや、外道の言うことだよ、それ」
とても人間的でないね、と花崎さんは目を細める。一方、林の顔はみるみる顔を赤くした。歪んだ口元からは食いしばられた歯が見える。彼女はプライドが高いと同時に、人を見下す。いや、そもそも人を人として見ていない。彼女にとっては、自分以外の人間が存在しない。
だから、私たちは彼女にとって虫でしかなく、人間である彼女を人間以外のものであるかのように揶揄することは、彼女にとって途轍もない侮辱だろう。
危険だ。林のことだ、今すぐ花崎さんを階段に突き落とすくらいのことはする。
私は林が花崎さんに集中して、こちらに背を向けているのをいいことに、一生懸命に花崎さんに向かって首を振った。それ以上、彼女を怒らせてはいけない、と。
しかし、そのメッセージは伝わらなかったのか。花崎さんは林の背中越しに私を見た途端、吹き出して腹を抱えた。
「あ、あはは、はっははは!」
先程まで静かに嘲笑を浮かべていたとは思えないほど、彼女の笑い方は不安定だった。その声は狂うように音色を跳ねさせ、階段の踊り場に響く。
今も階下から聞こえてくる、楽器の音色とは違い過ぎる。まるで暴力のような奇怪さだった。
「なにがおかしいんだよ!」
「いや、ごめん。私だったら絶対しないことを見たものだから、面白かったんだよ! ついでに今からすることも決まったから、愉快で仕方ないね! 吐き気がするくらい!」
「……へぇ、なら、本当に吐かせてやるよ!」
ついに我慢ならなくなったのか、林は拳を振り上げる。もう、相手の出方を伺う必要ないと思ったのだろう。馬鹿にされていることがわかれば、それ以上に重要な情報は彼女にはないのだから。
私は次の瞬間、花崎さんの顔に拳が食い込む光景を想像した。何度も自分がされたように。
しかし、それは私の妄想に過ぎなかった。花崎さんは、どんくさい私と違ったのだ。彼女は半歩斜めに下がるだけで、襲いかかる林の拳を避けてみせた。
それはたった一秒にも満たない出来事。花弁が空を踊るような優雅さに魅せられ私が無限に感じただけの、一瞬のことだった。
そして――、
「ま、死にはしないでしょ」
そう言って、自分の眼前に迫った林の身体を両手で押した。当然、林は突然横から加えられた力にバランスを崩す。
ぐらついた足はたたらを踏む。一歩、体の動きを止められない。次にもう一歩。踏ん張るどころか、彼女の体はさらに傾いた。
だって、彼女が踏み出した先は、すでに踊り場とは言えない。
そこはまさしく階段だ。段差のある、ただの転げ坂だ。
「は――」
林の息を呑む音が耳に届く。彼女の足は踏み板すら捉えきれず、その体は空を切った。
落ちる。ガラクタがゴミ箱に放り込まれるように、あっさりと。
ぶつかる。雪玉のように転げ落ちて。
そして曲がった。発砲スチロールでも割ったかのように、パキリと軽快に。
「きゃああああああ!」
真っ先に叫んでいたのは私だった。林が階段を落ちたということ以上に、外に直角に曲がっている彼女の足を見て、声が抑えきれなかったのだ。
他方、林は声をあげない。動きもしない。おそらく、気絶しているのだろうか、それとも死んでしまったのだろうか。
私は彼女を階下へと突き落とした張本人を見た。
「花崎さん……」
「うーん、スッキリしたぁ!」
彼女は動揺した様子もなく、両手の指を互いに絡ませた状態で上へ体を伸ばしている。
人を故意に落とした。下手したら殺したかもしれない。いや、実際に殺してしまったかもしれない。だと言うのに、彼女は林を気にかけることもなければ、保身のために逃げようとすることもない。
――なに、この人。なんなの、この人。
「ね、私さ、今、君を助けたよね」
「いや、あの」
「君がそこの女にいじめられていて、私は見てられずに、君を救おうと彼女を押した。そういうことでいいよね?」
「え」
確かに、助けられた。花崎さんがいなければ、私の身体にはもっと怪我だらけだったろう。最悪の場合、階段を落ちることになったのは、林ではなく、私だったかもしれない。
「いやぁ、助かったよ。あの女、入学式の日から嫌いだったんだよねぇ。あの女、通りすがりに私に肩ぶつけといて、謝りもしなかったんだよ! ムカつくし、どっかのタイミングで懲らしめてやろうと思ってんたんだけど、まさかこんなに早く機会がくるなんて……。やっぱり学校ってたまには来るもんだね!」
花崎さんは笑窪を見せながら、私の肩に手を置いた。その指には力がこもっていて、掴まれた肩は少しだけ痛かった。痛覚が記憶を呼び覚まし、私を呼び止めたときの林の姿が、目の前いる花崎さんと重なった。
「助かったよ、ほんと。だからさ、ちゃんと口裏合わせてね?」
「口裏って……」
「『花崎さんは、いじめられてる私を助けるために、あの女を突き飛ばしたんですぅ』って言ってってこと。じゃないと――」
彼女は言葉を一度止め、その指先で私の唇に触れる。笑壺に入る彼女を見て、私は生唾を呑んだ。
「――じゃないと、君も手折るから」
昼休みが終わりに近づき、がらりと三階の至るところで扉の開く音がする。次の瞬間、悲鳴の合唱が私の耳を
*
次に私が花崎さんと会ったのは、それから五カ月後のことだった。彼女が久しぶりに登校したという噂を聞いて、昼休み、私は階段を駆け上がった。
「花崎さんっ」
あの日と同じように、彼女は屋上前の扉の前で、ひとり、お弁当を食べていた。息を切らす私を見て、彼女は不思議そうに首を傾げる。
「だれ?」
「あの、林から助けてもらった、町田です」
「ん-? ごめん、林って誰だっけ?」
「あの、あなたが五カ月前に階段に落として入院した人です」
私は現場である後ろの階段を指差すが、花崎さんは首を傾げたままだった。
「お、覚えてないんですか? 入学式にぶつかられたことは、しつこく覚えてたのに」
「あー、あの女! そういえば、そんなこともあったね」
花崎さんはようやく首を縦に戻し、パンッと両手の掌を合わせた。
どうやら、彼女は自分がしたことよりも、自分がされたことの方が記憶に残るらしい。いや、すでに復讐した相手には興味が消えるだけなのか。
「あの、あの時、お礼できなかったから」
「お礼? 私なんかした?」
「あの日、あなたの言う通りに先生に話したら、林のやつ、退院する前に退学になったの。私、前の生活に戻れたの。あなたも聞いてると思うけど」
「へー、興味にないから知らなかった」
あっけらかんと彼女は言い放ち、彼女はお弁当箱を片付け始めた。お昼休みは始まったばかりだと言うのに、もう食べ終わってしまったのだろうか。テキパキとその場を片した彼女は、すっと立ち上がった。
「話、もう終わり? なら私はもう帰るから」
「え、まだお昼なのに?」
「うーん、今日は飽きた。帰る」
学校とは、飽きる飽きないで帰ることを決められるような、融通の利く場所ではなかったように思う。しかし、彼女は当たり前のように階段を降りようとしていた。
「ま、待って!」
「……うん? なにかな?」
呼び止める私の声に、林さんは振り返る。私は制服の胸のあたりをぎゅっと掴む。
あの時のことを思い出すと、自然と唇が震えた。それに釣られるように声も不安定に揺れる。
「あのね、私、あの日……。あなたが林を階段から落としたあの日、予知夢を見たの」
「予知夢? へぇ、どんな?」
「道を外れたあなたが、花を手折る夢」
そう、あの日の夢。その中で私がいたのはただの道。周りは一面の彼岸花。そんな光景の中で、花を掻きまわすように踏み荒らし、摘まみ上げては折っていた、あの少女。それが誰だったのかを思い出したのは、林さんの事件があってからしばらく後のことだった。
「ふーん、面白い夢を見たね。それは確かに予知夢だ」
「……あなたはあの日みたく、いつも人を花みたいに――」
「おっとぉ! 人聞きが悪いことは言わないでほしいなぁ。この前は足だけだっただろー」
否定しない彼女に寒気を覚えつつも、私は自分では口を止めることができなかった。むしろ、止めたくれたのは花崎さんの方だ。彼女は私の言葉に被せるように、大きな声を出した。
よかった、止めてくれて。
いつも人を花みたいに、殺しているの、なんて。訊いてしまわなくて良かった。
訊いてしまえば、きっと戻れなかった。
「……私も、本当はあなたのようにしたかった。林に、あの悪魔みたいな人に、敵討ちくらいしてよかったはずなのに。なのに、私、寸前でビビッてできなかった!」
お礼をいうはずだったのに、いつの間にか懺悔のような後悔を口にしていた。あなたの行動は私がするべきはずのものだったと、そう嘆いた。
そんな私を面白く思ったのか。彼女は一歩だけ、私の方へと近づいた。
「まぁ、君みたいなのはできなくて正解。感情を理性で抑え込めるのは……、ああ、とても人間的だから」
「人間的?」
「そうだ。人には普遍的に進むべきとされている道があるんだよ。それを外れる者は、どちらかと言えば自然的だ。文明社会から外れた、まさに外道なのさ」
「……友達のためなら、自然的だろうが、文明的であろうが別に――」
「止めた方がいい。自分も花になって、手折られるのがオチだよ。いつか、ね」
それは、因果応報ということだろうか。
人の道を外れ、非道を尽くす者。その行いがいつか自分にも返ってくる、と。
「それは、あなたも?」
「さぁ? 未来のことなんて知らないよ。私、夢は見ないんだ。どんな夢も」
今度こそ私にすら飽きたのか、彼女は話すことを止め、階段を降りていく。こちらを振り向かずに、ひらひらと手だけ振る姿は、まるで風に揺られる花のようだった。
私は黙ってその後ろ姿を見つめることしかできなかった。その姿を目に焼き付けるように。
結局、お礼は言い損なってしまった。
*
あれから結局、花崎さんとは会えていない。
彼女とは関わらない方がいいのはわかってはいた。ただ、お礼を言えずじまいなのが、やはり心残りだった。会えなくても、礼は尽くしたい。
そこで、私は謝礼の言葉を添えた、一枚の絵ハガキを用意した。
早朝、誰もいない教室に入る。そこは私のクラスではなく、花崎さんのクラスだ。
私は座席表を確認して、花崎さんの机へと向かう。そして鞄の中からポストカードを取り出した。
私はそのカードが折れないように、そっと、彼女の机の中に入れた。
そこに描いたのは、一本の彼岸花。
此岸の道の外れに咲く、外道の花である。
道の外、彼岸花 葎屋敷 @Muguraya
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