第36話 さよならと、これからと

 時の流れは早いもので、遠くの山々は紅葉で真っ赤に染まり始めていた。


 俺はいま、家庭裁判所の門の前で、森本親子のことを待っている。


「大丈夫かなぁ」


 森本親子はただいま、親権変更争いの最中だ。


 でも、今日でそれも終わり。


 両者互いに譲らず、親権者変更審判にまでもつれたが、響子の「お父さんと一緒に暮らしたい」という意思が反映されて、親権変更が認められることはほぼ確実と言っていい状況だと、二人から聞いていた。


 が、それも確定ではない。


 俺はさっきから無駄に立ったり座ったり門の前をうろうろしたりと、たえず体を動かしつづけていた。


「ほんとに大丈夫、だよな」


 一秒が一分に、一分が一時間に感じられる。


 響子を救ったあの日から、あっという間に過ぎ去った半年がうそのようだ。


 思い返してみれば、本当にいろいろな変化があった。


 その変化は、当然、すべてが前向きなもの。


 響子はスカートを穿くようになった。


 髪は一度伸ばしたものの、面倒くさいといまはミディアムボブに落ち着いている。


 学校でも、もう響子のことをバカにするやつはいなくなった。


 むしろ可愛いランキングなるものの上位にランクインしてするようになり、俺は心中穏やかではなかった。


 ……っと、俺の気持は置いといて、なにより一番の変化は――


「彰! やったよ!」


 嬉々とした声が耳に飛び込んできて、はっと顔を上げる。


「私たちの大勝利」


 満面の笑みを浮かべて、お父さんの手を引っ張って走る響子の姿がそこにはあった。


 ほんと、よく笑うようになったよなぁ。


 腰回りに太めのベルトがついた秋らしいベージュのワンピースがよく似合っている。


 彼女はさらりとなんでも着こなすから不思議だ。


「ちょっと響子、そんなに急がなくても」


 そんなテンション高めの娘に、森本さんは必死でついて行っているという感じで、俺は思わず笑ってしまった。


「響子! お義父さん!」


 俺は全力で手を振って二人の笑顔に答える。


 ああ、ちなみに、いつの間に俺たちが名前で呼び合うようになったのかと言うと。


 あれは響子が森本響子として生きる事を選んで二日後。


 俺は、長らく染みついていた瀬能さん呼びが抜けなくて、いつも「せ、も、森本さん」みたいな呼び方になってしまっていた。


 それが本当に情けなくて、学校からの帰り道にうなだれていると、


「ねぇ。辻星くん」

「なに? せ、も、森本さん」

「ほらまたぁ。もう、いつになったら慣れるの?」


 くすくすと笑う響子に肩を叩かれ、そこから熱が全身に広がっていった。


「なんていうか、ごめん。すぐ慣れるから」

「ほんとお願いね……あ」


 響子は足を止めて、手を背中の後ろで組んで、青空を見上げた。


 ぱち、ぱち、とゆっくり瞬きをしてから、俺を横目で見て。


「やっぱりいいや。慣れなくて」

「え?」

「だって、そんなに瀬能が抜けないってことは、森本に慣れちゃうと、森本が簡単に抜けなくなる未来が見えたから、だから……」


 髪をくねくねと指で弄びながら、頬を徐々に朱色に染めた後。


「だから、……その、ね」


 俺の手をいきなり握った。


 めっちゃ強く握られて少し痛かった。


「私のことは、これからずっと響子って呼んで」

「……え、えええ!」

「私も、彰って、そう呼ぶことに慣れるから」


 そんなことを上目遣いで言われてしまったら、断ることなんてできなかった。


 それから俺たちは、互いの名前を「き、響子」「あ、彰」と呼び合うようになり、いつの間にか、でも確かに同じタイミングで、「響子」「彰」と普通に呼び合えるようになった。


 ……と、そんな過去の話は、いまはどうでもいいか。


「よかった。待ってるこっちがドキドキして死にそうだったよ」


 目の前で足を止めた二人に、優しく笑いかける。


「なんでよ。大丈夫だって言ったじゃん」

「それでも、緊張するだろ」

「へんなの。でも、私たちのために緊張してくれてありがと」


 にっと笑う響子を見て、胸がそわそわする。


 やっぱ可愛いなぁ。


「本当にすまないね。少し長引いてしまって」


 森本さんは眉尻を下げてから、思い出したように、


「……ああ、そうだった。君にお義父さんと呼ばれる筋合いはない」

「じゃあなんて呼べばいいんですか?」

「お義父さん、かな?」

「やっぱりいいんじゃないですか!」


 ここまでがワンセットだ。


 このやりとりは、森本さんの「君にお義父さんと呼ばれる筋合いはないって言うのが父親としての夢のひとつだったんだよ」という謎の一言から生まれた謎のノリである。


 森本さんは意外とこういうしょうもないことが好きなのだ。


 でも、森本さんのことをお義父さんと呼べるこのノリを、俺は案外気に入っている。


 俺は、お父さんが消えたあの日からずっと、『おとうさん』という言葉を呪い、忌み嫌い、封印してきたが、本当はお父さんという存在に飢えていた。


 使いたくて使いたくてたまらなかったのだ。


「二人とも好きよねー。男子のノリはほんとわかんない」


 響子がやれやれと手のひらを空に向け、すぐに笑いだす。


 本当に、楽しい。


 世界はこんなにも華やかだったんだと、俺は、俺をここまで連れてきてくれたすべてに感謝する。


「そうだ。響子、彰くん。今日は記念になにかおいしいものを食べに行こう」

「え? いいの?」


 父親の言葉に反応した響子が、途端に目をキラキラさせる。


「もちろんだ。今日は記念日だから」

「私、お寿司がいい!」


 こうして遠慮なく自己主張をするようになったのも、響子の大事な変化のひとつだ。


「できれば回らないやつで」


 ちょっとわがままが過ぎる気がするけどね。


「そうだなぁ。今日は奮発するか」


 娘が娘なら父親も父親である。


 ちょっと甘すぎやしませんか?


 今日は、じゃなくて今日も、でしょ?


 まあ、俺も回らない寿司を食べてみたいので反対はしないけど。


「じゃあ店を探すから、ちょっと待っててくれ」

「あ、私もー」


 森本さんに続いて響子もスマホを取り出す。


 そのスマホケースには、あの日ごみ箱に捨てられていたコアライグマのキーホルダーがつけられている。


 実はあの日、俺はそれを持って帰っていたのだ。


 そして、森本親子が二人で遊園地に行く日に、森本さんにもう一度プレゼントするよう渡したのだ。


「ここはお父さん。食べナビ、結構高いよ!」

「待って!」


 響子がお父さんにスマホの画面を見せようとした時、後ろから声が聞こえた。


「私の、響子」


 俺たちはいっせいに振り返る。


 そこにはやつれきった響子の母親が立っていた。


「あの人はもう警察に突き出したし、私も反省してる。これからあなたのためになんでもするから、だから私の元に戻ってきて。お願い」


 涙を流して懇願する響子の母親。


 髪はぼさぼさで、頬は痩せこけていて、その姿を直視すると、正直いたたまれない気持ちが込み上がってくる。


「ねぇ、お母さん」


 そんなひどい姿の母親に向けて、響子が一歩だけ足を踏み出す。


 彼女の後姿には、突き放すような冷たさがあった。


「私にはね、私の人生があるの。お母さんにはお母さんの人生があるように」

「わかってるわ。だからお母さん、これからは」

「だから!」


 響子は声を荒らげて、しかしその後は落ち着いた声音でつづけた。


「私があなたのことをお母さんって呼ぶの、これで最後にする」

「……え」

「いままで育ててくれてありがとうございました」


 響子は深々と頭を下げた後、「じゃあね、さよなら」と母親に背を向ける。


 俺と森本さんの手を握って、俺たちを引っ張るようにして歩きはじめる。


「さよなら……って、ふざけないでよ! あんたなんかこっちから願い下げだわ! この恩知らず! 私がどれだけ苦労してあなたを育ててきたか!」


 そんな言葉が後ろから飛んできたが、響子は表情を一ミリも動かさない。


 感情を測りかねた俺は、元母親の姿が見えなくなったところで声をかける。


「響子……大丈夫か?」

「なにが?」


 素知らぬ顔で、首をきょとんと傾げる響子。


「なにがって、だって……」

「別に、もう気にしてないから。大丈夫だよ」


 鼻根をくしゃりとさせるその笑い方は、無邪気な子供のようだ。


「だって私には、私が自分で選んだ大切に思いたい人がいる。その人への思いで心が満たされているから、他の言葉が入る隙間なんてない」


 響子は俺の右腕と、お父さんの左腕を自身の体に抱きよせた。


「きっと私は男性恐怖症だったんじゃなくて、母親の言葉に呪われていたんだよ」


 力強く言い切った響子は、もうしっかりと前を向いている。


 母親と決別することで、彼女はまた一歩、自分自身の未来へ向けて足を踏み出した。


 本当の意味で強くなったのだと、俺はそんな響子を見て思った。


「ほら。そんなことより早く行こ! お寿司だお寿司!」


 大切な人の手を離さないように生きる。


 彼女のそばに寄り添いつづける。


 俺の夢はまだ途中だけど、これから一生かけて叶えなければいけない長い旅路だけど、それは苦痛なんかじゃなくて。


 叶えて終わりの夢じゃなくて、響子と一緒に叶えつづけていく夢は、最高の幸せなんだと思う。


 回らないお寿司は、ほっぺたが落ちそうになるほどおいしかった。



~完~

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女に憧れた俺は、男になりたい君のそばでずっと 田中ケケ @hanabiyama

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