千羽鶴論

木沢 真流

千羽鶴なんて意味ないよね

 日本各地には守り神と言われる像が存在する。神社に行けば狛犬こまいぬがいるし、浅草寺には阿形像あぎょうぞう吽形像うんぎょうぞうが恐ろしい目つきで見張りをしている。子どもの頃、悪い事をしているとあれが動き出すんだよ、と言われ怖い思いをしたことを今でも覚えている。

 あれから数年経ち、医療に携わる身となり色々な事を勉強していくうちに、今やそれらに全く科学的根拠はないことが分かった。賽銭泥棒が通っても像たちは止めてはくれないし、神主が私腹を肥やしていたとしても狛犬たちがそれをたしなめることはない。昔からかある数多くの迷信というものは、科学という剣によって今やきれいにそのベールを剥がれて久しい。

 入院患者に対し、千羽鶴を病室に飾る風習があるが、これもその一種で千羽の彼らが何か病気を治す手助けをしてくれることは一切ない。それは万羽でも同じである。

 しかしここまで言っておきながら、今回はお話はなんとこの千羽鶴が実はすごい力を持っているのかもしれない、という内容だ。今回はそれを実感した時の私のお話にちょっとだけ耳を傾けてほしい。

 小児が長期入院すると、原則として保護者が付きそうことになっている。通常は母親がその役割と担うが、母親がスタッフにきつく当たることはそこまで多くはない。だが、治療がうまくいっていない時などや、入院が長期になるとナーバスになる。入院している子の食事は支給されるが、お母さんへのご飯は支給されない。皆、売店で弁当を買ったり、「赤いきつね」のようなカップ麺をすすっては毎日を凌いでいるのである。病室から漂うその香りに、よく腹の虫を鳴かせていたものだ。ある日、この常に付き添っているはずの「保護者」が全くいないという珍しい経験をした。簡単に言うと付きそう保護者がいなかったのだ。

 その子は生まれてすぐ首に大きな腫瘤ができていて、そのままだと死ぬ、手術をしても死ぬかもしれない、というかなり厳しい状態だった。その話を聞いて、母親は大きなショックを受けてしまい、育てる自信をなくしてしまった、言い換えると逃げてしまったのだ。残されたまだ数ヶ月の乳児を病院は治療兼保護を続けることにした。

 私もわずかだがその子と携わることがあったが、その子の病室の異様な光景は今でも脳裏に焼き付いている。常に子ども向けの明るい音楽がリピートで無機質に流れているが、そこに付き添う保護者の姿はなく、子どももただ一点を見つめて横たわらされているだけ。なんとも不思議な光景だった。

 奇妙な経験をしたのはその子の処置をしている時だった。処置が終わって部屋を出ようとした時、私ははっとした。いつもなら、毛布やシーツ、ベッドの柵などをきれいに直してから出ていくのだが、その子に対してはすっかりその細やかなケアを忘れてしまっていたのだ。

 いつもはなぜするのか。それは近くに母親がいるからだ。一人の人間の目が見張っているからこそ、失礼があってはいけない、何か足りないことはないか、と人は考える。もしそれが一切なくなると、それらに無頓着になる。そんな自分に気づいたのだ。

 もちろん医療従事者が付き添いの無い子を邪険に扱うことはない。しかし、細やかなちょっとしたケアはそれぞれの意思に任される。その意思はどこからくるのか? もちろん本人のプライドやプロ意識もあるだろうが、やはり最後は「それをしなくてはならない」という社会の目ではないだろうか。

 とここまで来てやっと千羽鶴の話に戻る。

 千羽鶴はもちろん、病気を直す手助けはしてくれないが、医療行為は原則人間の手で行われる。治療方針の大筋は一緒でも、ちょっとした気遣い、表に現れない小さなケアたちは様々な理由によって左右される。

 身寄りのない、みすぼらしい患者にも医療従事者は精一杯医療を施すが、もしそこにその患者を全力で看病する家族が横にいたら、もしそこにその患者が元気になる姿を待ち望む人たちの写真が置いてあったら、もしそこに千羽の鶴が飾ってあったら——この患者さんはたくさんの人に支えられて、たくさんの人に囲まれて生きていると知ったら、我々はもう一踏ん張り頑張れるのである。そう考えると、千羽鶴は患者を応援するとともに、我々医療従事者に形のない何らかの力を与えているようなのである。やはり千羽鶴は偉大だったのだ。

 さらに突き詰めると、狛犬、阿形像、吽形像も実は何もしていないようで、ひょっとしたら目に見えない何らかの力を与えてくれているのかもしれない。

 私はこれからも神社の狛犬の横を通り過ぎるたびに思うだろう。何かやましいことはないか、非難されるようなことはないか、その問いにイエスと答えられるよう彼らはそこにいてくれるのかもしれない。

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