転生者【吉良上野介】

マキシム

第1話

おほん、ワシは高家肝煎、吉良上野介義央(きらこうずけのすけよしひさ)である。実はワシには秘密がある。そうワシは転生者であり、現代にいたころ、帰り道で通り魔に刺されて死んで、気が付いたら江戸時代にいた。しかも忠臣蔵の悪役である吉良上野介に転生したのだ


「神様の馬鹿野郎!」


「わ、若様!」


「若様、御乱心!」


そんなこんなでワシは名門吉良家の嫡男として吉良流礼法を身に着けた。吉良家は高家旗本の身分であり、石高は4200石、家臣たちの給料も払うだけではなく、格式に応じて豪奢な生活をしなければならず、家計は火の車である。ワシら吉良家の収入源は吉良家礼法による授業料の他に大名などの付け届け(賄賂)で生活していた。まあ、それは置いといて、承応2年(1653年)3月16日、将軍・徳川家綱に拝謁した。明暦3年(1657年)12月27日、従四位下【侍従】兼【上野介】に叙任され、万治元年(1658年)4月、出羽米沢藩主・上杉綱勝の妹・上杉富子と結婚した


「よろしくお願いいたします、旦那様。」


「う、うむ。」


政略結婚であったがワシと富子は不思議と馬が合い、富子との間に三之助(後の上杉綱憲)を筆頭に2男4女に恵まれた。ただし次男の三郎と次女の振姫が死んだのは悲しいが・・・・


寛文2年(1662年)8月には、大内仙洞御所造営の御存問の使者として初めて上洛し、後西天皇に拝謁した。御簾で顔は分からなかったが向こうに天皇がいるだけで緊張した。寛文3年(1663年)1月19日、後西上皇の院政の開始に対する幕府の賀使としての2度目の上洛の際、同年2月3日、22歳にして従四位上に昇進した。寛文4年(1664年)、富子の実兄でありワシの義兄にあたる上杉綱勝が嗣子なきまま急死したために米沢藩が改易の危機に陥ったが、保科肥後守正之公(上杉綱勝の岳父)の斡旋を受け、長男・三之助を上杉家の養子(上杉綱憲)とした結果、上杉家は改易を免れ、30万石から15万石への減知で危機を収束させた。なぜか知らぬが、ワシが義兄を毒殺したという噂が立った。ワシがなんで義兄を毒殺しなければならぬのだ!


「ワシが播磨守(上杉綱勝)殿を毒殺したという噂があるがそれは誠か?」


「いやいやそれはただの流言でございます。」


「噂の出所は、貴藩の藩士から出たのだが?」


「そ、それは福王子八弥の事でしょう、あやつは己の不手際を認めず、そのような悪口雑言を並べたのでしょう。」


「左様か、ワシは義兄の死を悼んで居る、そのような噂を立てられるは不本意至極だ、それだけは申しておく。」


「ははっ!」


上杉家江戸家老である千坂兵部高房(ちさかひょうぶたかふさ)に会い、噂の真偽を確かめた。千坂は突然、ワシが尋ねてきたことに驚きつつも応対し、失脚した米沢藩士の流言飛語だと言い張った。まあ、ワシとしてはこれ以上、上杉家と事を構えたくはないが、一応釘はさしておいた。寛文8年(1668年)5月、父・義冬の死去により家督を相続した。ワシが家督を継いでから、数少ない収入源を増やすべく、殖産興業を推し進めた。前世の記憶を頼りに、特産品の【抹茶】【赤馬】【一刀彫】【切子(ガラス)】【きらら鈴】等を作り、それを江戸や大坂や京で売った。吉良の名もあって特産品は莫大な利益を齎し、吉良家の収入源の一つとなった。特に【切子(ガラス)】は幕府と朝廷の献上品として人気を呼び【吉良切子(きらきりこ)】として名を博した。そのおかげか、家臣・領民からは名君として敬愛された。そのおかげ親類縁者である大名たちから無駄に借りずに済んだ


「ふう、とりあえず何とかなったわい。」


すると浅野の作った赤穂の塩がワシらの領地にあった【饗庭塩(あえばえん)】よりも収益を上げたため、ワシは【饗庭塩】を八丁味噌やたまり醤油の製造に使い、何とか凌いだ。塩の製法を巡って浅野と喧嘩したのが原因だと言われていたしな


「恐るべし、赤穂の塩。」


また礼儀作法の指南役でも教えを乞う大名たちに親切丁寧に分かりやすく教えた結果、評判が高くワシを手本として学ぶ他の高家たちから羨望の眼差しを受けた。ワシは今、勅使饗応役と拝命した浅野内匠頭長矩(あさのたくみのかみながのり)、当時17歳の指南をしていた


「浅野殿、礼儀作法に関してはこの吉良にお任せあれ。」


「ははっ!よろしくお願いいたしまする。」


緊張する若者にワシはいつも通り、分かりやすく教え、勅使饗応役の役目を無事に務めることができた。浅野からは感謝されたが、ワシとしては歴史の事もあり、警戒した


「浅野は油断できぬ。」


ちなみに伝承に残っている黄金堤は作っていない。なぜかって費用が足りないし、他の領主ともめたくないからである、ただでさえ、嫉妬と妬みは世の常だから、なるべく恨みは買いたくないのが本音である


延宝8年(1680年)8月29日、高家の極官である【左近衛権少将】に転任し、延宝8年(1680年)11月20日に島津綱貴に嫁いでいた鶴姫が離縁され、我が家に戻った。離縁の理由は子供ができなかったというが、性格の不一致もあったのだろうと思い、ワシは娘を温かく迎え入れた


貞享2年(1685年)9月1日に跡取りである次男、三郎が死去し、息子の上杉綱憲と相談し、次男でありワシの孫の春千代(後の吉良左兵衛義周)を後継ぎとして迎えた


「孫のためにも頑張らねば・・・・」


元禄11年(1698年)9月6日、勅額火事により鍛冶橋邸を焼失し、新たに呉服橋にて屋敷を再建した。ちなみに消防の指揮を取っていたのは、播磨国赤穂藩の藩主である浅野内匠頭長矩(あさのたくみのかみながのり)である。浅野との因縁は火事も含まれていたので、ワシは浅野に文句を言わずに我慢した


「ここで浅野と喧嘩したら厄介だからな。」


そして運命のあの日がやってきた。柳沢出羽守保明(後の柳沢吉保)から呼び出しを受け、来年の勅使饗応を浅野内匠頭長矩、院使饗応を伊達左京亮村豊(だてさきょうのすけむらとよ)が拝命された


「出羽守様、浅野は一度、饗応役を受けておりまするが?」


「うむ、浅野家は赤穂の塩の収益で勝手向きがよいと聞くからな。」


「左様にございまするか。」


「何か不満でもあるのか?」


「いいえ、ただ伊達と浅野は予てから不仲にございますが?」


「それはそれ、これはこれだ。御役目を賜ったからには両家の私情を抜きにやってもらわねばならぬ。」


「分かりました。この吉良上野介、御役目謹んで拝命仕ります。」


この時の浅野の台所は火の車であり重税を敷いて領民から不満があったと聞いている。度々の幕府からの御役目もあって費用が湯水の如く流されている。そして此度の饗応役の御役目、浅野の心労も並々ならぬ者だろう。しかも浅野・伊達両家は仲が悪いのは、江戸時代以前に両家の藩祖である浅野長政と伊達政宗の仲違いがきっかけで今日まで続いているから不安である


「今にして思えば幕府は見通しが甘いのう。」


元禄14年(1701年)2月4日、赤穂藩主・浅野長矩と伊予吉田藩主・伊達村豊両名が勅使・院使饗応役を拝命され、ワシは高家肝煎饗応差添役を拝命した。ワシらは両名を呼び出した


「浅野殿、伊達殿、私は御役目により上洛する事と相成った。貴殿らには私が留守の間の礼儀作法や料理や用意する品々等を書いた目録をお渡しいたそう。」


「「ははっ!」」


「では任せましたぞ。」


そしてワシは上洛し、年頭の賀使として御所に参内し、江戸へ帰還したのは2月29日だった。屋敷へ帰ったワシに浅野・伊達双方から付け届けを送られた。まず伊達左京亮村豊から、黄金百枚(小判で1000両)、加賀絹数巻、狩野探幽筆の双幅を送られた。初めての饗応役だからワシに気を使って多めに献上した


「伊達殿の御志、吉良は感じ入ってござる。」


「ははっ!未熟の身にございまするが、よろしくお引き回しのほどをお願い申し上げます!」


「ところで費用の方はいかほど御用立てなされますかな?」


「はい、1200両を用意してございます!」


「おお、それは重畳、頼りにしておりまするぞ。」


次に浅野内匠頭から、黄金一枚(小判で10両)、巻絹一台、背と腹の鰹節一連を送られた。まあ、これが通例ではある。やはり物足りなさがあるが、仕方がない


「浅野殿の御志、吉良は感じ入ってござる。」


「ははっ!よろしくお願いいたします!」


「ところで費用の方はいかほど御用立てなされますかな?」


「はい、700両を用意してございます!」


「700両でござるか。」


「何か問題でも?」


「いや伊達殿は1200両を用立てくだされたのでな。」


「ご不満がおありか?」


「いえいえ、昨今江戸の物価が高くなっておられますからな、700両でやり繰りできるのか少し不安でしたからな。これも老婆心ながら御忠告申し上げただけの事にござる。御不快に思われたのであれば、申し訳ない。」


「左様にござりまするか。某もご無礼申し上げました。」


思い出した。費用の事も刃傷沙汰のきっかけだという事も、年を取りたくないものだな、此度はワシが頭を下げることで終息した。浅野が納得するかどうか分からぬがあまり刺激したくはないな。一説では浅野は癇癪持ちで精神疾患を患っていたようで、痞(つかえ)という持病を患っていたと聞く。浅野の母方の叔父である内藤和泉守忠勝(ないとういずみのかみただかつ)もまた癇癪持ちで精神疾患を患っていたらしく、増上寺刃傷事件を起こし、切腹の上、改易処分に処されている。やはり血筋によるものなのかのう。その頃、浅野屋敷に帰着した浅野内匠頭は費用について家老たちと話し合いが行われた


「せ、1200両ですと!」


「ああ、吉良殿がそう申された。」


「ですが御公儀から度々の御役目と江戸の物価によって我が家の勝手向きは火の車にございます!」


「分かっておる!」


「殿、ここは吉良様の仰せの通り、伊達同様、1200両を捻出いたしましょう!」


「それはできん。」


「殿!」


「伊達は伊達、当家は当家じゃ・・・うう、苦しい。」


「と、殿!」


「く、薬、薬じゃ!」


「ははっ!誰か薬を!」


浅野は持病の痞(つかえ)に苦しみつつ、何とか700両でやり通そうとした。不安はあったが、そんなこんなで準備の方は着々と進みつつ、ある問題にぶち当たった。院使饗応の伊達左京亮村豊が畳替えをしたと聞いて浅野が我が屋敷に駆け込んできたのだ


「あれは伊達殿がご自分で御配慮されたのでござる。まあ初めての饗応役なのでしょう、大層張り切ってござる。」


「ですが畳替えの事は一度も・・・・」


「いやだから、あれは伊達殿がご自分でやったことですから。」


「し、しかし。」


「伊達殿は伊達殿、浅野殿は浅野殿でござるぞ。」


「・・・・吉良殿。」


「何か?」


「畳表は如何いたしましょう?」


「念のために聞くが畳は腐っておるのか?」


「いいえ。」


「なら、そのままで宜しい、私はこれより所用がありますので、これにて。」


ワシは屋敷を出て、儀式の準備がどれくらい進んでいるか確認をしにいった。一方、その頃、浅野は勅使が滞在する屋敷にて急ピッチで畳替えを行っていた。武士の意地によるものか、不仲の伊達に負けたくないという負けず嫌いから来るのか、江戸の畳職人たちを集め、畳替えを行った。それを見ていた浅野内匠頭と側近の片岡源五右衛門高房(かたおかげんごえもんたかふさ)がいた


「殿、申し訳ございません。」


「何だ、急に。」


「某が畳替えの事をご報告しなければ、このような事に!」


「過ぎた事を悔やんでも仕方がない。今は畳替えを終わらせるだけの事だ。」


「し、しかし。」


「くどいぞ!源五!」


「ははっ!」


「これはワシの意地じゃ!」


明朝になり、ワシは勅使が滞在される屋敷へ向かうと、浅野が出迎えた。寝ていないのか、目の下に隈ができていた


「浅野殿、御役目ご苦労に存ずる。」


「ははっ!吉良殿、畳替え、無事に完了いたしました。」


「・・・・左様か、ご苦労に存ずる。」


「ははっ!」


え、マジでやったの!おいおい勅使はそこまで来てるんだよ!なんでそんな勝手な事したのよと口から出そうになったが、グッと堪えて我慢した。なんでワシが浅野に気を使わなきゃいけないんだよ・・・・


同年3月11日に、東山天皇の勅使である柳原資廉(やなぎわらすけかど)・高野保春(たかのやすはる)、霊元上皇の院使である清閑寺熈定(せいかんじひろさだ)ら屋敷に到着した。ワシは双方に挨拶を済ませ、儀式の作法を怠りなく務めた


「さて、ここからじゃのう。」


ワシは浅野・伊達双方に予め玄関先での礼儀作法の復習させた後、勅使・院使を迎えた。勅使である柳原資廉(やなぎわらすけかど)・高野保春(たかのやすはる)、院使である清閑寺熈定(せいかんじひろさだ)は将軍、徳川綱吉に拝謁し、新年の賀を述べた。ワシは再び浅野・伊達双方を呼び出すと、浅野の顔色が青ざめていた


「浅野殿、如何成された?」


「いいえ。」


「もし、お体が悪いのであれば、他の者に任せて、休まれるがよい。」


「心配ご無用にござる!」


「左様か。」


本当に大丈夫なのかよと不安に思いつつ、次の手順を教え、変更が合った際は、茶坊主を寄越して連絡した。そして運命の3月14日、ワシは迷っていた。松の廊下を通るべきか、遠回りすべきか、考えた末、急がば回れの諺に従い、遠回りすることにした


「浅野は松の廊下にいるし、会わずに済むな。」


その頃、松の廊下では浅野内匠頭は儀式の諸々を思い出していた


「(これで正しいのだろうか、後で吉良殿に伺おう。)」


「内匠頭殿、御役目御苦労に存ずる。」


「これは梶川殿。」


そこへ梶川与惣兵衛頼照(かじかわよそべえよりてる)が尋ねてきた


「内匠頭殿、首尾の方は如何にござるか。」


「万事抜かりなく。」


「左様か。」


「梶川殿、吉良殿は何処におわすのか?」


「吉良殿?いやお見掛けしなかったが。」


「左様か。」


「吉良殿に何か御用でも?」


「いや、何でも・・・・・うっ!」


「内匠頭殿、如何なされた!」


「く、苦しい!」


「誰か医師を呼べ!」


ワシは柳沢出羽守に会って今後の日程について話し合っていると、そこへ一人の幕臣が入ってきた


「申し上げます。」


「何事だ?」


「ははっ!浅野内匠頭殿、殿中にてお倒れになられました!」


「何と!」


話を聞くと、浅野は胸を抑え苦しみ出し、そのまま倒れたのである。そこへ梶川与惣兵衛頼照(かじかわよそべえよりてる)が駆け付け、浅野は別室にて医師の治療を受けていた。急遽、浅野の代わりに戸田能登守忠真(とだのとのかみただざね)が受けることになった


「とりあえず助かったのか。」


アクシデントは起きたが、無事に儀式は終了した。病に倒れた浅野に徳川綱吉は大事な儀式の途中で倒れた事を怒り、処分を下そうとしたがワシは待ったをかけた


「上様、浅野殿の御処分、何卒、寛大なご処置を!」


「上野介・・・・」


「上様、儀式は無事に終わりました。これ以上、問題を悪化させるのは得策ではございませぬ。」


「出羽・・・・分かった。浅野内匠頭は隠居処分のみとする。」


「「ははっ!有り難き幸せ!」」


そこへ柳沢出羽守も助け舟を出し、徳川綱吉は浅野を許した。その代わり、浅野は隠居として実弟の浅野大学長広(あさのだいがくながひろ)が藩主に就任した


「まあ、改易されるよりはマシか。」


その後、ワシは屋敷へ戻り、松の廊下刃傷沙汰を避けることができたのである


「(ワシは助かったのだな。)」


「殿、如何なされましたか?」


「平八郎か、何でもない。」


その後、浅野内匠頭から謝罪と御家存続の御礼の手紙が届いた。まぁ、赤穂藩も残ってくれたからワシも怨みを買わずに済んだ。ワシは屋敷にてゆっくりしていると、浅野大学が尋ねてきた。赤穂藩相続の御礼を言いにである


「此度、御家相続に御口添えいただき、御礼申し上げ奉る!」


「お気になされずとも良い。」


「いいえ、吉良殿の御口添えのおかげにて赤穂藩は存続できました!吉良殿は赤穂藩にとって大恩人にございます!」


「まぁ、御世辞でも嬉しゅうござる。ところで内匠頭殿は御息災か?」


「はい、隠居されてからは、嘘のように落ち着いておられまする。」


「左様か、それは良かった。」


その後、ワシは孫である吉良左兵衛義周(きらさひょうえよしちか)に家督を譲って隠居し、領地の経営に専念した。その後、元禄18年(1705年)に江戸屋敷にて64年の生涯を閉じたのである




一方、赤穂では筆頭家老が屋敷にて昼寝をしていた


「ふああ!」


「御前様、起きられましたか。」


「りくか、ワシは夢を見た。」


「どのような夢を?」


「うむ、ワシがとある屋敷に討ち入りをする夢だ。」


「まぁ、恐ろしい。」


「まぁ、夢は夢だな。」


「夢であればよろしいです。只でさえ昼行灯なんて呼ばれているのですから。」


「違いないわ、アハハハ(ワシの存在意義が無くなったような気がする)。」






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転生者【吉良上野介】 マキシム @maxim2020

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