第9話 逆上 ブラッシュアップ不足バージョン

 太郎がドライアドの里にやってきてから十日が経った。朝と夕方の一日二食、雨風を凌げる安全な寝床、それらを無条件で提供された太郎は何の努力も工夫もないままに生き延びていた。

 「毎日二回シコって、後は散歩してるだけ。地球で引きこもってた頃と大して変わんねえじゃん」

 里の住宅地を無気力な体で歩きながら太郎は言った。全く新しい環境での十日間で、彼の人間としての成長は皆無だった。

 「やっぱフィクションとリアルは違いますわ。だって、異世界みたいなところに来たって俺の人生何にも変わんねえんだもん。チート能力なんて手に入んねえし、美女も寄ってこねえし、誰もちやほやしてくんねえし、何のイベントも起きねえし。唯、退屈なだけ。地球と同じ」

 太郎のそばでは多くの人が労働に汗を流していた。倒壊に至らなかった家屋を修繕する人、倒壊した家屋からまだ利用可能な衣類や家具などを取り出す人、そうして残ったがれきを広場に運ぶ人、倒壊した家屋跡を整地する人、整地した場所にレンガを積んで新しい家屋を作る人、出来たばかりの家屋に家具などを運び入れる人、様々な人が太郎の周りにはいた。若者が働いていて、老人が働いていて、子供が働いていて、怪我人さえもが働いていた。そんな里の人たちに、太郎は目もくれなかった。

 「どういう神経をしてるんだろうね、あの男は。怪我人が目の前で働いているっていうのに、手伝おうともしないなんて」

 太郎を睨みながらデボラが言った。その目に親しみは欠片もなかった。里の人間のほとんどが、デボラと同じような目で太郎を見ていた。里の人間たちの太郎に対する恐怖や警戒心は時間が過ぎていくなかで薄れつつあったが、時間が過ぎていくなかで目にしてきた太郎の態度によって、里の人間の多くが太郎に純粋な嫌悪を抱くようになっていた。太郎が不平不満を言い続けていることくらい、言葉が分からなくても、表情と声の感じだけで里の人間たちは理解できていた。そうして、太郎の里での孤立は深まっていた。それに一切気付いていない太郎は、この日も能天気だった。

 里は少しずつ復興に向かいつつあった。がれきだらけだった住宅地に新しい家屋が幾つも建ち、破壊されていた畑に新しい種や苗が植えられ、無残に切り裂かれていた果樹には切り目や裂け目を布で固定してくっつけるなどの処置が施され、人や家畜の怪我も癒えていき、僅かながら人々に笑顔が見られるようになっていた。

 広場と住宅地の境に張られていたテントはなくなっていた。まだ怪我が治っていない人間は住宅地の新しい建物に移されていた。

 地上に現れていた墓地は地中に戻っていて、その地面は元の平らな砂地に戻っていた。太郎は広場の隅っこに寝っ転がり、遠慮のない大きなくしゃみをした。人が多くいる環境にも人の目にさらされる環境にも慣れて、太郎はどこまでも大胆で図々しい男になっていた。

 広場には土窯が八基設置されていた。その内の三つはレンガを焼き固めるために使用され、残りの五つは夕食のパンを焼くために使用されていた。土窯のそばには数人の女の姿があり、そのなかにはローラの姿もあった。彼女は水と混ぜた小麦粉をこねていた。

 太郎がローラを見やる。

 「ローラの奴、今日は朝から姿を見ないと思ったら、あんな所にいたよ。ずっと俺の見張りをしてたみたいだけど、お役御免になったのかな。俺もようやくこの場所の人見知り連中に信用されたってことか」鈍感な太郎であっても、ローラが自分の見張りであったことには流石にもう気が付いていた。「ローラの奴が付きまとってこなくても寂しくなんかねえよ。見張りがいなければ何処でもシコり放題だし、何の気兼ねもなく散歩もできるから、万々歳だぜ」

 太郎はローラをしばらく見詰めた後、ローラの気を引くために大きく咳き込んでみた。ローラは太郎がわざと出した騒音に気付かず、太郎の存在に気付かないまま作業を続けた。太郎は気分を悪くして、ローラの悪口を呟いた。

 ひき臼でひいて小麦を小麦粉にする。小麦粉を篩にかけてふすまを取り除く。ふすまを取り除いた小麦粉を水と混ぜて、こねて真ん丸に成形する。成形した小麦粉を鉄製のパーラーに載せて、火の入った土窯に入れる。それらがこの里でのパン作りの全工程だった。

 「野外での調理は広々としているし、煤で汚れたりもしないから、いいもんだね」ローラは作業の手を止め、汗を拭いながら言った。「これなら厨房の再建を急ぐ必要なんてないよ」

 「今日中には新しい厨房の内装工事が終わる」ジャックがローラのそばにやってきて言った。「晴天が続く保証なんてねえんだから、厨房の再建はもっと優先して行うべきだった」

 「一々あんたは私と反対の意見を言わなきゃ気が済まないみたいだね」

 「今すぐ使えるレンガはありませんか?」ジャックはローラの声を無視して、土窯のそばに座っている中年の男に声を掛けた。

 「今朝運んだ分はもう使っちまったのか?」中年の男が言った。

 「使い切りました」

 「建築作業に当たってる連中も、ここ三日くらいで随分と仕事が早くなったな。慣れかな?」

 ジャックは首を横に振った。「みんな、少しずつ立ち直ってきているんですよ」

 「そうか・・・・・・そうだな」中年の男はうっすらと微笑んだ。「土窯を増やさないと、今みたいに数が間に合わなくなるな」

 「今焼いているレンガが出来上がるのは明朝ですよね」

 「そうだ。こればかりは早めることが出来ない」

 「ジャックくん。あなた、ちょっと休憩しなさいよ」小麦粉のふすまを取り除いていた中年の女が作業の手を止めて言った。「夜はまた、あのタロウとかいう奴の見張りなんでしょ」

 「今日はもうレンガもないんだ。直に日が暮れるし、休憩と言わず、仕事を切り上げてしまえばいい」中年の男が言った。

 中年の女が相槌を打つ。

 「レンガがないなら別の仕事をするだけです。仕事は腐るほどあるんですから」

 「レイチェルちゃん。あなたも仕事を切り上げて、ジャックくんと一緒に休んじゃいなさい」

 ジャックの声を無視した中年の女は、ひき臼で小麦をひいている少女に声を掛けた。暖かい日に、レイチェルと呼ばれた少女は長袖のチュニックを着ていた。少し強い風が吹いて、レイチェルの右袖が激しくはためいた。

 「でも、私、まだ一時間も仕事を手伝っていません」レイチェルが言った。「仕事も全然遅いし・・・・・・私、何にも役に立ててない」

 「あんたは充分役に立ってくれたよ」ローラが言った。「堂々と休んでいいんだ」

 「ジャックくん。あなた、レイチェルちゃんを日陰まで連れて行って休ませてあげなさいよ」中年の女が言った。

 「なんで俺が」

 「ジャック。それは最低の答えだぞ」中年の男が言った。

 ジャックはレイチェルに目を向けた。そうしてすぐに、レイチェルが汗だくになっていることに気が付いた。

 「お袋。パンを焼いてる土窯は全部お袋が作ったんだよな?」ジャックはローラに素早く尋ねた。

 「そうだよ」

 「お袋の魔法の力じゃ、パンを焼き終えるまで形を保つのが限界だな」

 そう言ってから、ジャックは呪文を唱え、緑色の光を地面に放った。その光は地面に吸い込まれた。すると、砂が更に細かくなり泥となって蠢き出し、盛り上がり、窯の形に変わっていった。窯の形が完全に出来上がると、泥は有機物を含んだかのような変化を起こし、土になり、固まった。その様子を、太郎はずっと見ていた。しかし、驚く素振りは微塵も見せなかった。里での十日間で多種多様な魔法を目にしてきた太郎は、魔法という事象にもう慣れていた。

 ジャックは同じ魔法をもう二回使い、土窯をもう二基作った。

 「俺が作った土窯は祖母ちゃんのと同じで三十時間ほど持ちます。これで倍の量のレンガを明日までに仕上げてください」ジャックは中年の男に向かって言った。

 「分かった。しかし、良かったのか、ジャック? 夜の見張りがあるのにこれだけの魔法を三度も使ってしまって」

 「夜までに魔法の力が完全に回復する程度しか魔法の力を使っていませんよ」

 「お前がそこまで優秀な魔法の使い手だったなんて知らなかった」中年の男は驚きを露にして言った。

 「カフカくんとカイルくん、二人の天才の陰にずっと隠れていたものね」

 カイルの名前を聞いた途端、ジャックの表情が険しくなった。中年の女ははっとして、口を両手でふさいだ。

 ジャックは大きく息を吐き、それから、不愛想なだけの表情に戻った。

 「土窯を三基作り終わったことですし、仕事の切りにさせてもらいますよ」そう言ってから、ジャックはレイチェルに近付いた。「少しの間、暇になった。話し相手になってくれよ、レイチェル」

 「でも、私、まだ休むわけにはいかないよ。ちゃんと仕事しなくちゃ」

 「俺の話し相手になるのも立派な仕事だ。毎晩、得体の知れないおっさんの見張りをしている俺の心労を想像してみろよ。愚痴でも聞いてくれる奴がいないと、気が狂っちまう」

 「ジャックに発狂されたら大変だ。これは本当に大事な仕事だぞ、レイチェル」

 「こっちの仕事は私たちだけで済ませられるから、何も心配しなくて大丈夫。ジャックくんのこと、お願いね、レイチェルちゃん」

 レイチェルは自分が使っていたひき臼を見詰め、それから、自分の隣でひき臼を使って小麦粉を作っている若い女を見た。若い女は優しく微笑み、首を縦に振った。レイチェルは俯いて少し思案した後、顔を上げ、「お先に休ませてもらいます」と言った。それから、レイチェルは土窯のそばで作業をしている全員に向かって頭を下げた。

 ジャックは広場の端にある日陰を指差した。レイチェルは首を縦に振り、歩き出した。万全ではない体調と疲労から、レイチェルの足取りは重かった。そんなレイチェルの横にジャックはしっかりと付き、歩調を合わせて歩いた。

 「ローラさん。ジャックくんはいい男になりますよ」作業を再開しながら中年の女が言った。

 「買い被りですよ。あの子なんて、生意気なだけです」ローラは綻びながら言った。

 ローラが作業を再開しようとしたとき、ギデオンがローラに近付いてきて、怒鳴った。

 「何をやっている、ローラ!? あの余所者の悪魔をほったらかしにしおってからに! 正気か!?」

 ローラは穏やかな顔を作って、ギデオンと向き合った。

 「昨晩、ロト長老がみんなに言っただろ。今日から、昼間はタロウに見張りを付けないって。ギデオン爺さんも聞いてたじゃないか」

 「聞いとらん!」ギデオンの口から大量の唾が飛んだ。「それに、タロウとは誰だ!?」

 「それもロト長老が昨晩みんなに教えただろ。ブロンテ老師が呼び出した者の名前だって」

 「知らん!」

 「あの呼び出されし者の危険性は少ないと判断されたんです」中年の男がギデオンのそばに立ち、言った。「放っておいても大丈夫なんですよ」

 「平和ぼけしくさってからに! 後で大変な目に遭っても知らんぞ!」

 ギデオンはふらふらと歩き出した。少し歩いて、振り返り、ローラたちに向かって、「儂の息子を見んかったか!?」と叫んだ。

 「見ていません!」中年の男が答えた。

 ギデオンは悪態をつきながら住宅地のほうへ歩いていった。

 「ギデオンさん、どうしてあんな風になってしまったんだろう。里が攻撃される前はとてもしっかりしていたのに」再び作業の手を止めて中年の女は言った。

 「ハンナちゃんが亡くなってしまった事実に、耐えられなかったんだよ」ローラが悲しそうに言った。

 中年の男は土窯のそばに座り込み、大き目のボウルに粘土と水を入れ、それを素手で練りだした。そうして、「立ち直れる者がいるように、立ち直れない者もいるんだ」と呟いた。

 

 ジャックはレイチェルを広場の端の日陰に座らせてから、住宅地のほうへ走った。家屋に入り、すぐに出てくる。ジャックは椅子一脚とタオルを持ってレイチェルのそばに駆け戻った。

 「椅子に座って、汗でも拭えよ」ジャックはぶっきらぼうに言った。

 レイチェルは礼を言い、椅子に座り、受け取ったタオルで汗を拭った。

 「無理して働くことねえよ。お前は重症の怪我人なんだから」

 「腕が一本、なくなっただけだよ。綺麗に切断されてたから傷口の処置も上手くいって、状態は至って良好。リリスさんのお墨付き」レイチェルは努めて明るく振舞った。「ジャックこそ、体調は良いの? 目の下に隈が出来ているし、それに、とても痩せちゃったみたい」

 「問題ねえよ」

 そう言って、ジャックは地べたに座り、広場を見やり、それから、放牧地を眺めた。牛が草を食み、豚が寝転び、馬が緩やかに駆け、羊が揃って鳴き、牧畜犬が人間に付き従っている。動物たちは人間よりも遥かに切り替え上手で、悲しみや苦しみをすぐに過去にして、平穏な空気を纏っていた。

 ジャックとレイチェルは少しの間、沈黙した。その沈黙に耐えかねて、レイチェルが声を発した。

 「あの髪の毛とお髭がもじゃもじゃな人が、タロウさん?」

 「さん付けで呼ぶことねえよ、あんなの」

 「でも、目上の人でしょ」

 「人かどうかも定かじゃない」

 「人だよ。どう見ても」レイチェルは太郎をまじまじと見詰めた。「何だか、一人ぼっちでかわいそう」

 ジャックも太郎に目を向けた。そうして、すぐにまた放牧地へ視線を戻した。

 「子供の頃のジャックだったら、タロウさんをほっとかないと思う。おっちゃん一緒に遊ぼうぜ、って感じでしつこく声を掛けてると思う」

 「俺はそんな陽気な子供じゃなかっただろ」

 「明るくて元気な子だったよ。覚えてないの?」

 「昔のことなんか忘れちまった」

 レイチェルはジャックの顔を斜め上から見下ろした。レイチェルの青い瞳は寂しげに揺れていた。それでいて、その瞳には淡い桃色が差してもいた。

 二人は再び沈黙した。今度の沈黙は長く続いた。その沈黙を破ったのは、耳障りなキーキー声だった。

 「赤毛の、のっぽ! 女と、逢引き! やらしい!」

 「すけべな、こと、しろ! ずっこん、ばっこん、しろ!」

 ジャックたちのそばにやってきた二匹の使い魔の声であった。丸い顔の使い魔は尻を突き出し、その背後に立った四角い顔の使い魔は卑猥に腰を振っていた。

 「失せろ」

 ジャックの声を無視して、二匹の使い魔は下品な言葉を発し続けた。

 やがて、丸い顔の使い魔がレイチェルに右腕がないことに気が付いた。

 「この、女、腕、一本、しか、ない! おばけ!」

 丸い顔の使い魔が叫ぶと、四角い顔の使い魔も醜い顔を更に醜くして同調した。

 「片腕、おばけ! 変なの! 変なの!」

 「殺すぞ!」

 ジャックは怒りの声を上げ、立ち上がった。そうして、呪文を唱え始めた。

 「止めて! ジャック! 私、全然気にしてないから!」

 レイチェルはタオルを手放し、ジャックの右腕を強くつかんだ。その制止によって、ジャックは呪文を打ち切った。

 「赤毛の、のっぽ、怒った!」

 「怖い、怖い! 逃げろ!」

 二匹の使い魔は笑いながら住宅地のほうへ走っていった。

 二匹の姿が見えなくなっても、レイチェルはジャックの腕をつかんだままだった。

 「私、全然気にしてない」レイチェルの両目から涙がこぼれた。「私より大変な怪我をした人がいる。死んじゃった人だって、たくさんいる。私なんて、運が良いほう」

 ジャックは何も言わず、佇んだ。

 「カフカのおかげで、私は生き残れた。お父さんが教えてくれたの。呼び出されし者に私が腕を切られたとき、すぐにカフカが魔法で止血してくれたから、私は助かったんだって。私は、生かされたんだ。泣き言なんて言ってられない。里のために一生懸命働いて、みんなを助けなきゃ。私は生きているんだから、死んじゃった人たちの分まで頑張らなきゃ」

 ジャックの腕をつかむレイチェルの手の力が強まった。ジャックの腕に痛みが走った。それでも、ジャックは微動だにしなかった。

 「私、信じられないよ。みんなが死んじゃったなんて。スザンナが死んじゃったなんて。カフカが死んじゃったなんて。信じられないよ・・・・・・ジャック、全部嘘だって、言って。みんな本当は生きているんだって、言ってよ。私、こんなの、嫌だよ」

 レイチェルは声を上げて泣き出した。

 ジャックはレイチェルの手に優しく左手を添えた。レイチェルが泣き止むまでずっとそうしていた。

 五分ほど泣いてから、レイチェルはジャックの腕を放した。それから、落としていたタオルを拾った。

 「ごめん。痛かったよね」

 「腕なんか痛くない。お前が泣いているほうが痛い」

 「ジャックって、たまに気障なことを言うよね」

 レイチェルは笑った。

 「ねえ、さっきの使い魔なんだけど」

 「しばきに行くか?」

 「そんなことしないよ! かわいそうじゃん」

 「あいつらにそんな気遣いはいらねえと思うけど」

 「名前、知りたかっただけ。使い魔たちの」

 「名前なんてない」

 「それじゃ不便でしょ」レイチェルは少し思案した。「丸い顔のほうはフェザー。四角い顔のほうはミドル。それでどうかな?」

 「訳の分かんねえ名前だな・・・・・・そういや、チャンプの名前もお前が付けたんだよな?」

 「私だったかな? カイルじゃなかったっけ?」

 ジャックの表情が険しくなった。それに臆せず、レイチェルは話を続けた。

 「カイルのこと、ジャックは信じてる?」

 「信じる? 何を?」

 「カイルには何か事情があったんだって、信じてる?」

 ジャックは少し黙った後、口を開いた。

 「どんな事情があったにしろ、あいつのやったことは許されない・・・・・・許さない」

 ジャックの凍て付くような声を聞いて、レイチェルは口を噤んだ。ジャックは再び地べたに座り込んだ。

 日差しが橙色に変わり始めた。日陰からはみ出しているジャックの長い脚から影が伸びた。レイチェルはその影を視線でなぞった。そうして、影の先にシーナを見つけた。レイチェルは立ち上がり、手を大きく振った。少し前からジャックとレイチェルを見詰めていたシーナは満面の笑顔で手を振り返した。

 「レイチェル!」

 大きな声を出して、シーナはレイチェルに駆け寄り、抱き付いた。

 「もう寝てなくても大丈夫なの?」シーナが尋ねた。

 「大丈夫だよ。もう元気一杯」

 シーナはレイチェルのお腹の辺りから顔を放し、レイチェルの右袖を見詰めた。

 「痛くない?」シーナが小さい声で尋ねた。

 「痛くないよ」レイチェルが優しい声で答えた。

 シーナは再びレイチェルのお腹の辺りに顔をくっつけ、はしゃいだ。

 気が済むまで甘えてから、シーナはレイチェルから離れた。そうして、レイチェルの顔を見上げながら無邪気な声を出した。

 「あたしね、レイチェルが起きたら聞きたいと思ってたことがあるの。ねえ、レイチェル。新約神書派って、何?」

 新約神書派と聞いて、レイチェルは肩を小さく震わせた。

 「どうして、新約神書派を知ってるの?」レイチェルは質問に質問を返した。

 「この前、ロト長老が言ってたの」シーナが答えた。

 「里が攻撃された次の夜に、ロト長老が里の人間を全員集めて色々と話したんだ。新約神書派の名前くらいなら、もうシーナ以外の子供もみんな知ってる」

 「レイチェル、教えて。新約神書派って何なの?」シーナが急かした。

 「シーナ。里の人間はね、十歳になったら長老から新約神書についてや里の成り立ちについて教えてもらうっていう決まりがあるの。シーナももう少し大きくなったら教えてもらえるから、それまで我慢してね」

 「後四年も待てないよ」

 「四年なんてあっという間だよ」

 「待てない!」シーナは再びレイチェルに抱き付いた。「教えてくれるまで、ずっと離れない!」

 レイチェルは困り果て、ジャックを見やり、助けを求めた。ジャックは溜息をつき、それから、言葉を発した。

 「新約神書派は、ユスターシュ・ドージェの後期の教えを信じている連中だ」

 「ジャック!」レイチェルは非難の声を上げた。

 「ユスターシュ・ドージェの不朽体ももうないんだ。里の掟なんざ今更守る必要はねえよ」

 レイチェルは納得のいっていない表情を作りつつも、黙った。

 「ユスターシュ・ドージェの教えを信じているのは、旧約神書派だよ、ジャック」シーナが不思議そうに言った。

 「ローハ帝国っていう世界を牛耳ってる奴らに異世界へ追放される前のユスターシュ・ドージェが説いた教えを信じているのが、俺たち旧約神書派だ。異世界から帰還した後のユスターシュ・ドージェが説いた教えを信じているのが、新約神書派だ」

 シーナはぴんとこない様子で、「ふーん」と言った。

 「新約神書派について教えてやったぜ。さあ、レイチェルを放してやりな」

 「あと一つ、聞きたい」シーナは更に強くレイチェルに抱き付いて、言った。「旧約神書派と新約神書派って、何が違うの?」

 ジャックは立ち上がり、伸びをした。

 「もう面倒くせえや。レイチェル、適当に話して聞かせちまってくれ。俺はもう子守は御免だ」

 「子ども扱いしないで! ジャックの意地悪!」シーナが叫んだ。

 「怒らないで、シーナ」

 レイチェルは困惑しながら、シーナをあやすような口調で話し始めた。

 「旧約神書の教えは、シーナ、分かるよね?」

 「神書はまだちゃんと読めないけど、お父さんが教えてくれたから、知ってるよ! みんなで仲良くしよう、みんなで助け合おう、誰にでも優しくしよう。それがユスターシュ・ドージェの教えだよね!」

 「そうだね。偉いね、シーナ。お父さんが教えてくれたこと、ちゃんと覚えてるんだね」

 褒められて、シーナは照れくさそうに体をよじった。

 「新約神書はね、旧約神書と正反対の教えが記されているの。みんなで喧嘩して、傷付けあって、気に食わない人間は苛めよう、っていう教えが新約神書には記してあるの」

 「良くない! 新約神書!」

 「愛を賛美する旧約神書の教えを守る旧約神書派と、暴力を賛美する新約神書の教えを守る新約神書派では、根本的な考え方からして全く違うものだ」ジャックが口を挟んだ。

 「質問の答えになったかな? シーナ、放してくれる?」

 シーナは黙ったままレイチェルに抱き付き続けた。レイチェルも黙り、シーナの好きにさせた。ジャックはシーナを見詰めた。

 シーナは声を出さずに泣いていた。肉親が一人もいなくなってしまった少女は、健気であればあるほどに孤独だった。

 少しして、便所の隣に建つ大きな建物の煙突から煙がもくもくと上がり始めた。そうして、女たちが里のあちこちからその建物に向かって歩き出した。

 「風呂だぜ、シーナ」ジャックが言った。

 シーナはレイチェルから離れた。彼女はもう泣いていなかった。

 「一緒にお風呂、行こう、レイチェル」

 そう言われて、レイチェルは自身の右袖を見下ろした。それから、「私は、今日はお風呂は入らないでおくよ」と言った。

 シーナは少し寂しそうな顔をして、「そっか」と言い、煙突のある大きな建物に向かって走り出した。

 「俺はそろそろあのおっさんの近くに行くぜ」いびきをかいて寝ている太郎を顎で指しながら、ジャックは言った。

 「ジャック・・・・・・もう少しだけ、そばにいて。お願い」レイチェルは俯いて、言った。

 ジャックは何も答えず、太郎に目を向けたまま佇んだ。

 「ありがとう」

 その声は、澄んだ空気に淡く滲んで、若い二人の間に漂い続けた。


 便所の隣に建つ大きな建物は浴場だった。上水道を使って川から引いてきた水を、燃料に薪を使ったボイラーで温め、そのまま浴槽に流し込む。ボイラーは地下に設置されていた。ボイラーから発生する煙と熱気は設置された送管によって壁や床下を通り、煙突まで運ばれ排気された。その過程で、浴槽のある部屋の床や壁が熱気によって暖められる。浴場には幾つも部屋があり、そのなかにはサウナもあったが、それを里の人間が使用することはなかった。浴槽のある大きな部屋と脱衣室と地下のボイラー室以外の部屋には里の人間はほとんど近付かなかった。

 太郎が里に来て三日目の夕方から毎日、里の人間たちは入浴していた。最初に女たちが入浴し、次に男たちが入浴し、最後に太郎が一人で入浴した。湯は毎日替えられていた。

 

 ジャックに軽く蹴られ、太郎は目を覚ました。ジャックが浴場を指差すのを、太郎は寝ぼけ眼で見た。ジャックが浴場へ向かって歩き出し、太郎はそれに続いた。

 広場には夕食をとっている人の姿が多くあった。キャベツとニンジンのスープ、鶏の加熱調理した無精卵、パン、それらがこの日の夕食だった。

 「けちけち、するな! もっと、寄越せ!」

 「もっと、くれなきゃ、家畜、食うぞ!」

 夕食を配給しているデボラともう一人の中年の女に向かって、二匹の使い魔フェザーとミドルが喚いていた。

 「あなたたち使い魔はお腹なんて空かないし、飲み食いしなくたって死んだりしないでしょう。そんなに食べ物に執着する必要ないじゃない」デボラが言った。

 怯えている中年の女と違い、デボラには臆するところが微塵もなかった。

 「食うの、好き! 味を、楽し、める!」

 「歯ごたえ、楽し、める!」

 「里の外の世界には食事を娯楽として楽しむ贅沢な人たちがいるらしいですね。中には、食っては吐いて食っては吐いてを繰り返しながら長く食事を楽しむなんていう人たちもいるっていう。でもね、この里ではそういうことは推奨されていないんですよ。ここでは、生きるために食う、それだけです。それが嫌だっていうんなら、どうぞご自由に里から出ていきなさいな」

 「ちびの、おばさん! 嫌い!」

 「けちな、おばさん! 嫌い!」

 「食べなくても何の問題もないあなたたちに毎日食べ物を分けてやっているのは、私の好意なんですよ。食べ物をくれと要求してくるあなたたちを可哀相に思ってそうしてやっていたのに、恩知らずも甚だしい。これではもう明日から食事を分けてやる気にはなれませんね」

 使い魔たちは激しくうろたえた。二匹は短い相談を交わし、それから、二匹揃って恭しくデボラに頭を下げた。

 「もっと、くれ、もう、言わない。だから、明日、も、食い物、くれ」

 「ずっと、食い物、くれ」

 デボラは腕を組み、肉体的にも精神的にも使い魔たちを見下ろしながら、口を開いた。

 「いいでしょう。そういう態度でいるならば、これからも毎日食べ物を分けてあげますよ」

 使い魔たちはしつこくぺこぺこと頭を下げ、それから、住宅地のほうへ走っていった。

 「デボラはやっぱり度胸がある」中年の女が媚びた口調で言った。「流石ね」

 「怠け者の呼び出されし者に比べれば、あの二匹なんて可愛いものよ」

 そう言いながら、デボラば広場を横断していく太郎を憎々しげに見やった。

 谷の北西の端まで、ジャックと太郎は歩いてきた。

 「今日も風呂に入らなかったんだって?」便所から出てきたローラがジャックを見つけて、言った。「ずっと入ってないでしょ、あんた」

 「のんきに風呂なんて入ってられるかよ」ジャックが言った。

 「いつまでぴりぴりしてるつもりなんだい、あんたは」

 「お袋たちの危機感がなさすぎるんだよ。俺は、こいつの昼間の見張りをなしにしたことだって納得してねえんだ」

 ジャックは浴場の入り口まで移動した。それから、早く来るよう太郎を促した。太郎は便所を指差した。ジャックは舌打ちをした。太郎が便所に入ると、ジャックも後に続いた。

 「便所まで見張るのかい!?」

 ローラが驚きの声を出した。ジャックはそれを無視した。

 「この子ったら、本当に極端すぎる」

 そう言って、ローラは首を横に振り、広場のほうへ歩いていった。

 小便を済ませた後、太郎は浴場に入り、脱衣室で全裸になり、浴槽のある部屋に入って湯に浸かった。その間もずっと、ジャックは太郎を監視していた。ジャックは、浴槽のある部屋にも靴を履いたまま入り、壁に背中を預け、鋭い眼差しを太郎に向け続けた。

 「あのヤンキー、まさか、ゲイなんじゃねえだろうな? 毎日毎日、風呂で俺の裸をガン見しやがって。勘弁してくれよ。俺はガチのノン気だぜ・・・・・・ちくしょう。なんで風呂での見張りはローラじゃねえんだよ。あの女が見張りなら、俺の股間のロケットランチャーで誘惑してやんのによ」

 太郎はぶつぶつと文句を言った後、鼻歌を歌い出した。卑猥な替え歌がタイル張りの床と壁に響いた。

 太郎の浸かっている浴槽は、日本の平均的な市民プールよりも広い面積を有していた。

 調子に乗った太郎は浴槽で泳ぎ出した。クロールで泳ぎ、息継ぎが上手に出来ず、湯を飲み、むせる。そうして、悪態をつき、浴槽のど真ん中で胡坐をかいた。

 「水泳なんか、つまんねえよ・・・・・・くそ! 本当にやることが何にもねえよ、この世界。まじで、地球になんて戻れなくてもいいから、ゲームとネットだけでも、くれよ、神様。それで我慢してやるからよ」太郎はお湯で顔を拭った。「神様でも仏様でも何でもいいからよぉ。慈悲をくれよぉ、哀れな俺によぉ。かわいそうだろ、俺。言葉も通じない世界で一人ぼっちなんだぜ、俺。得体の知れない力が存在する世界で一人ぼっちなんだぜ、俺。何も出来ることがないクソゲーみたいな世界で一人ぼっちなんだぜ、俺。誰か、助けてくださいよ、可哀相な俺をさぁ」

 ガラス張りの天井から室内に入り込む日差しが弱まってきた。夜が近い。浴槽のある部屋に照明器具の代わりになる物は存在しなかった。

 太郎は浴槽から上がり、部屋の端に置いてある純金で作られた棚から固形石鹸を取り出した。石鹸はオリーブオイルを主原料としていた。棚の横には鉢に植わった低木があった。それは、便所に置かれているたくさんの葉を付けた植物と同種だった。浴室の湿気と熱によって良く育っているその鉢植えは、便所の物よりももっと大きな葉を付けていた。太郎はその葉を一枚むしり取り、石鹸で泡立てた。石鹸を棚に戻し、泡立った葉で体全体をごしごしと洗う。洗い終わると、手桶で湯をすくい、その湯を頭から被り、体中の泡を落とした。それから、葉を細かくちぎって排水口に捨てた。

 脱衣室に移動した太郎は服を着ながら呟いた。

 「三日前に着替えを貰ったきり、ずっとこれを着てるんですけど。汗臭いんですけど。人が不快な思いをしていることに、どうしてこの場所の人間たちは気付いてくれないんでしょうね? 俺を虐待して楽しんでるんですかね、ここの人たちは? くそが」

 浴場を出た太郎は、夕食の配給が行われている広場の一画へ移動した。無言のまま頭も下げず当たり前の顔をして夕食を受け取る太郎を見た里の人間たちは怒りをたぎらせた。

 「何にもしていない奴が毎日毎日、人並みに食べるなんてね」デボラが周りの人間にも聞こえる大きさの声で言った。

 太郎はあっという間に夕食を平らげ、「相変わらず味付けが薄いな」と吐き捨てた。それから、寝っ転がり、黄昏と星雲の混ざり合った空を見上げながら口笛を吹き始めた。やがて、空は夜一色となった。

 夕食を終えた里の人々は、里のあちこちで思い思いの時間を過ごしていた。魔法で作り出した光や蛍の光などを利用して読書をする者、編み物をする者、木を彫って生活用品や子供のおもちゃなどを作る者、竪琴を弾く者、縦笛を吹く者、友人と語らう者、恋人と語らう者、家族と過ごす者、様々な人間がいた。夜が更けてくると、彼らは一人また一人と寝床に入っていった。まだ自宅が完成していない人たちは、自宅がある人のところに泊めてもらったり、住宅地に張ったテントを寝床にしたりしていた。

 太郎は小川のそばに行き、口を濯ぎ、谷の東の端にある自分のテントに向かって歩き出した。聞こえてくるコオロギとカエルの鳴き声は決して大き過ぎず、穏やかな音色だった。

 太郎は振り返り、付いてくるジャックを薄闇の中に見つけ、「毎晩ご苦労なこった」と呟いた。

 自分のテントの中に入ると、太郎はジャックの死角になるテントの端っこに移動し、ズボンを脱ぎ捨て、下半身を露にした。

 「今日はローラの奴をオカズにしてやる」

 太郎はローラを脳内で辱めながら、性の上下運動を行い、虚無の精油を発射した。

 「シコるのが睡眠薬代わりだよ、これじゃあ」

 そう言って、下半身を露出したまま、太郎は事後の倦怠感のなかで眠りに落ちた。

 三十歳に近い男の体臭と精液のにおいが混ざった臭気が、テントの中には満ちていた。それは、太郎が三年間引きこもっていた自室のにおいによく似ていた。


 「タロウの様子はどうだい?」

 太郎が入っているテントのそばで座っているジャックに、サラが声を掛けた。

 「いつものように自慰をして、寝ちまったよ」

 太郎は自分の痴態を隠し通せていると思っていたが、ジャックには全てばれていた。ジャックは太郎の自慰を盗み見したわけではない。テントの中の蛍が放つ光でテントの生地に浮かび上がる太郎の影が全てを物語っていたのだ。

 「自慰なんて男ならやって当たり前のことだろう。そんなに目くじらを立ててやるな」

 「自慰なんてしてる場合じゃねえだろ、あのおっさんは。異なる世界に無理やり連れてこられたら、自分の身の振り方を考えるので精一杯になるだろ、普通。そもそも、他人にばれるような場所で自慰なんか絶対にしねえよ。この状況で平然と自慰をしてるあいつは、いかれてる」

 ジャックは溜息をついた。同時に、サラは腰に下げている鞘から剣を抜き、その切っ先をジャックの首に当てた。ジャックの首から一筋の血が流れた。

 「何しやがる、ばばあ」ジャックはサラを睨んだ。

 「反応が鈍い。これでは満足に見張りなど出来ないな」サラは剣を鞘に戻した。「満足に寝ていない。食事も僅かしか取っていない。それではこの体たらくも止むを得ない」

 ジャックとサラは十秒ほど睨み合った。そうして、ジャックが目を逸らした。

 「体調管理も出来ないような人間が、里の皆のために一体何ができる?」

 サラの問いに答えられず、ジャックは俯いた。

 「カイルのことやユスターシュ・ドージェのことで悔しい思いをしているのは分かる。それでお前が自分の心身に鞭を打っていることも分かっている。やり場のない怒りを自分にぶつけているんだろ。一見、あんたのその姿勢は責任感の強い殊勝なものに見える。でもその実態は、乳臭い子供の駄々でしかない」

 サラはジャックのすぐそばに屈み、ジャックの顔を両手で優しく挟んだ。ジャックはそっと顔を上げ、サラの目を見た。

 「タロウに危険性がないことなんて、もう里の全員が分かっている。分かってはいても、呼び出されし者に対する恐怖は皆の心を蝕み続けている。今、この夜にも、恐怖によって眠れない夜を過ごしている者がいる。悪夢にうなされている者がいる。お前が夜通しタロウを見張るのは、彼らに安心を与えるためだ。彼らに心身を癒す眠りを与えるためだ。いつお前が休んでいるのだろうかと心配している人たちのそばで、お前がその痩せ細った体で、目の下に隈を作ったその仏頂面でいることが、どれだけの不安を皆に与えているのか、考えなさい。昼間、お前のすべきことは、家屋を建てることでも作物の手入れをすることでもない。夜の見張りの為にしっかりと睡眠を取ることがお前のすべきことだ。しっかりと食事を取ることがお前のすべきことだ。そうして、不安を抱えている人やお前を心配してくれている人たちに少しだけでも笑顔を見せてやれ。それが、お前の役目であり、大人になるということだ、ジャック」

 サラは立ち上がり、ジャックのそばから去っていった。一人になったジャックは唇を噛みしめ、それから、大きく息を吐き、夜空を見上げた。

 

 翌朝、太郎は日の出から一時間ほど経ったころに目を覚ました。

 あくびをしながらテントの外に出てきた太郎の姿を見て、ジャックは首を大きく横に振った。太郎は下半身を露出したままだった。寝ぼけた頭が朝日で冴えて、自分が下半身を露出していることに気付いた太郎は、急いでテントの中に戻り、ズボンを履いた。太郎が再びテントの外に出たとき、ジャックはもう住宅地へ向かって歩き出していた。目やにを取りながら、太郎はジャックの後に続いて歩いた。

 この日から、食事の配給は住宅地に新設された厨房で行われるようになった。配給はデボラが変わらず仕切っていた。厨房は、大きな煙突が一つある一戸建ての外観をしていた。広さは四十平方メートルほどだ。室内には、大きな窯があり、種々の調理器具や食器があり、保存食の貯蔵庫があり、川から引いてきた水が出る蛇口があった。窓が多く、換気の良い厨房だった。

 この日の朝食は、ホウレンソウのスープと豚の干し肉だった。里の人間のほとんどが既に朝食を食べ終え、里の復興作業などに取り掛かっていた。デボラは笑顔でジャックに朝食を渡し、太郎には無表情で朝食を渡した。太郎は汚い早食いで食事を終え、小川で食器を洗っている人たちのそばに食事を済ませた食器を置き、便所に向かった。一方のジャックは時間をかけて完食した。ジャックのそばを通りかかった若い女が、「良かった、食欲が戻ったんだ。心配してたんだよ」と言った。ジャックは不器用な笑みを若い女に向け、「心配かけてすみませんでした」と言った。若い女は驚き、少し頬を染めながら笑みを返した。

 便所から出てきた太郎は一時間ほど散歩した。若い女とすれ違う度に嫌らしい目を向け、放牧地に足を運ぶと家畜のにおいに文句を言い、ほじり取った鼻くそを適当に弾き飛ばし、口笛を吹いて歩いた。自分のテントに戻ると、精を吐き出し、少し体を休ませた後、再び散歩を始めた。

 住宅地をぶらぶら歩いていた太郎は、招くように手を振っている少女を見つけた。太郎は周囲を見回し、少女が自分に向かって手を振っていることに気が付いた。少女の誘いに気を良くした太郎は、はにかみながら少女に近付いた。

 太郎に向かって手を振った少女はレイチェルだった。彼女はローラと一緒に家屋を建てるためレンガを積んでいた。その仕事に太郎を参加させようと、彼女は勇気を振り絞って手を振ったのだった。

 レイチェルは自分の隣に座るようにと、動作で太郎に意思を示した。太郎はどきどきしながらレイチェルの隣に座った。

 「俺はロリコンじゃねえから、こんな中学生くらいの子には発情しねえけど、でも、こんな風に誘われたら意識しちゃうじゃないか」太郎は嫌らしく呟いた。

 レイチェルはレンガを一個自分の近くに置き、手に取った刷毛を容器に満ちたモルタルに着け、レンガの胴面と小口面にモルタルを塗った。そうして、そのレンガを既に積んであるレンガにしっかり押し付けて載せた。その工程を、レイチェルは太郎の見本になるようにと何度もゆっくり行った。三分ほどそうしてから、レイチェルは太郎に刷毛を手渡し、太郎のそばにモルタルの満ちた容器とレンガを置いた。太郎はレイチェルの意図を理解して難色を示した。しかし、レイチェルに気に入られたい下心が働いて、結局は求められた作業に取り掛かったのだった。

 周囲の人々が、レンガを積み上げていく太郎をちらちらと盗み見た。やがて、彼らの嫌悪に満ちた目に好意が差す兆しが見え始めた。

 太郎は一時間ほど集中して作業に取り組んだ。

 里の人間は皆、きちんと決まった積み方でレンガを積んでいる。長いレンガと短いレンガ、二種類のレンガを使い、長いレンガの段、短いレンガの段、長いレンガの段、短いレンガの段、といった具合で順番にレンガを積んでいるのだ。一時間の作業のうちに、太郎はその順番を三度、間違った。それらのミスをローラに動作で指摘されるたび、太郎は舌打ちをして怒りの燃料を心に溜め込んだ。

 「ローラさん、ちょっといい?」

 若い女がローラたちのそばにやってきて言った。

 「なんだい?」

 「ジャックくんの姿が見えないのだけれど、彼、どうかしたのかしら?」

 「そこのテントの中で寝ているよ」ローラは住宅地にあるテントを指差した。「やっとまともな睡眠を取ってくれて、一安心だよ」

 若い女はローラの指差したテントを情欲を宿した瞳で見詰めた。その眼差しに気付いて、レイチェルはレンガを少し乱暴に積んだ。

 若い女ははっとして、照れ笑いを浮かべた。それから、ごまかす口調で声を発した。

 「その、タロウって人。ちゃんと仕事が出来ているんですか?」

 「不器用だけど、まじめにやってくれてるよ・・・・・・こら! また同じ間違いをした!」

 ローラは太郎がミスした部分を指差した。太郎のこめかみがひくひくと動いた。

 「全く、要領が悪いね、あんたは」

 そう言って、ローラは悪意なく笑った。つられて、若い女が小さく笑い、レイチェルもくすりと笑った。

 太郎がのっそりと立ち上がった。その顔は憤怒で歪んでいた。太郎は刷毛を思い切り地面に叩き付けた。

 「やってられるかよ、くそが!」

 そう言って、太郎は広場の方へ早足で歩き出した。ローラたちは唖然としたまま太郎の後姿を見詰めた。

 「何、あれ?」若い女が冷ややかな声で言った。

 「不貞腐れちまったみたいだね」ローラが首を横に振った。「あれじゃ大きな子供だよ」

 ローラは止めていた作業の手を再び動かし、若い女も自分の仕事に戻った。何事もなかったような二人とは正反対に、レイチェルは作業の手を動かしながらも太郎に気持ちが向いたままだった。

 太郎が去ってから五分ほどして、レイチェルは立ち上がった。

 「ローラさん。私、タロウさんを連れ戻しに行ってきてもいいですか?」

 「構わないけど、あの男が素直に戻ってくるかね?」

 「笑ったことを謝れば、戻ってきてくれると思います」

 「でも、言葉が通じないよ」

 「頭を下げれば分かってくれるはずです」

 言ってからすぐに、レイチェルは太郎を追いかけて走り出した。

 「本当に優しい子だよ」片腕を一生懸命に振って走るレイチェルを見やりながら、ローラは言った。「あの子がジャックとくっついてくれたら、何の文句もないんだけどね」

 レイチェルが走り出したころ、太郎は広場を歩いていた。まだ早足のままだった。

 「女ってやつは、本当に度し難い。ここの女も地球の女と全く一緒だ。イケメンと金持ちに媚びるしか能のない生き物どもめ。俺みたいな善良な男を嘲笑うくそ女ども。ちくしょう。俺が世界一の権力者だったら、生意気な女どもは全員俺の性奴隷にしてやるのに。ちくしょう、女が憎い・・・・・・あのそばかす娘め、俺に単純作業なんかをさせやがって。中卒と高卒の仕事だろ、単純作業と肉体労働は。大卒だぞ、俺は。ブルーカラーの仕事をするような人間じゃねえんだ、俺は」太郎は自分の手や衣服に付いたモルタルを見つけ、怒り、地面の砂を蹴り上げた。「俺は、ホワイトカラーの仕事をするために生まれてきた人種だ。デスクワーク以外は論外。社畜も論外。安月給で扱き使われる負け犬じゃねえんだ、俺は」

 最低な発言を繰り返しながら太郎は歩き続けた。そんな太郎を見つけ、にやにやした表情を浮かべたのは二匹の使い魔、フェザーとミドルだった。ミドルは住宅地からくすねてきたレンガを一個手に持っていた。使い魔たちは太郎の後を追いかけた。

 「おい! のっぽの、ドワーフ!」

 「お前、だよ! けったい、な、もじゃもじゃ!」

 最初、太郎は二匹の使い魔の声が自分に向けられたものだと気付かず、二分ほどそのまま歩き続けた。しかし、余りにもしつこくキーキー声が付きまとってきたので、到頭足を止めて振り向いた。太郎と目が合うと、フェザーはタロウに尻を向け、そのまま尻を叩いた。ミドルは左手の中指を突き立てた。

 太郎の頭に血が上った。しかし、逆上するまでには至らなかった。幼稚な挑発を受けるのはオンラインゲームやSNSで慣れていた。

 「何言ってるか分かんねえよ、くそチビども。一生やってろ」

 そう言って、太郎は再び歩き始めた。使い魔たちは尚も付きまとい、喚き続けた。

 太郎たちのそばでは、三人の男が斧を使って薪を割っていた。その内の一人が斧を地面に置き、太郎を見やり、眉間にしわを寄せた後、便所に向かった。

 一方のレイチェルは、息を切らしながらも走り続け、太郎に追いつくまで後十メートルほどという距離にまで来ていた。レイチェルは使い魔たちが太郎に罵声を浴びせ掛けていることに気付き、息が苦しいのを押して大きな声を出した。

 「止めなさい! フェザー! ミドル! 止めなさい!」

 太郎に長く無視され続けていた使い魔たちは苛々を募らせていた。苛々が怒りに変わりつつあった興奮状態の彼らの耳にレイチェルの声は届かなかった。レイチェルは使い魔たちを捕まえようと更に早く走った。

 「いい加減、無視、止めろ! もじゃもじゃ!」

 一際大きな奇声を上げ、ミドルは太郎にレンガを投げ付けた。レイチェルが、「危ない!」と叫んだ。レンガは太郎の後頭部にぶつかった。うっそうと茂った毛髪が衝撃を和らげ、太郎が怪我を負うことはなかった。しかし、確かな痛みはあった。その痛みが、怒りを爆発させた。

 「何しやがる! この、びちぐそ!」

 ミドルの奇声に負けないほどの歪な声を上げ、太郎は自分の頭にぶつかって地面に落ちたレンガを拾い、それを使い魔たち目掛けて投げた。そのレンガは全くコントロールされず、使い魔たちの頭上を通り過ぎ、使い魔たちのすぐそばにまで迫っていたレイチェルのおでこにぶつかった。

 「ああ! すみません!」太郎は思わず叫んだ。

 レイチェルはレンガがぶつかった部分を抑え、蹲った。使い魔たちは腹を抱えて笑った。

 「何をした! お前!」

 放牧地にいたデニスの怒声が轟いた。デニスが目にして得ていた情報は、太郎がレンガを投げた瞬間からのものだった。

 デニスの声を聞いて、太郎は全身をぶるっと震わせた。そうして、放牧地のほうを見やり、悲鳴を上げた。デニスが革のブーツが濡れるのも構わずに小川を突っ切って走って来る。太郎は逃げようとしたが、恐怖で固まった足は一歩も動かなかった。デニスの正確な身長は二百三センチメートルであり、体重は百五キログラムである。そんな男が鬼の形相で走って距離を詰めてくる。しかも、結構な俊足だ。太郎が蛇に睨まれた蛙になるのも止むを得ない。

 「デニスさん! 違うの!」レイチェルが立ち上がり、叫んだ。彼女の小さなおでこには瘤が出来ていた。「その人は使い魔たちを狙ってレンガを投げたの! それが誤って私に当たってしまっただけ! 彼に悪気はないの!」

 レイチェルの声を聞くとすぐに、使い魔たちは住宅地のほうへ逃げていった。

 デニスはレイチェルの声に耳を傾けず、走り続けた。そうして、太郎と体が接触するぎりぎりの距離で足を止めた。

 「何をしたと聞いている」デニスが怒りを滲ませた声で言った。

 太郎は顔面蒼白で、俯き、押し黙った。

 「何をしたと聞いている!」

 「デニスさん! その人は言葉が分からないの!」

 「お前は黙っていろ!」

 デニスに一喝され、レイチェルは口を噤んだ。

 デニスが太郎のシャツの胸倉をつかんだ。太郎はがくがくと震えた。

 「カフカが、あんな良い子が死んでしまって、お前みたいな訳の分からない奴が生きている・・・・・・こんなのは、狂っている」

 太郎は恐怖の余り涙目になった。

 「何とか言ったらどうだ!」

 デニスは太郎の胸倉を放し、そのまま太郎の胸を強く押した。太郎は仰向けに倒れた。レイチェルはタロウに駆け寄ろうとしたが、足がすくんで動けなかった。彼女もまた、今のデニスに恐怖を抱いていた。

 太郎とデニスの揉め事に気付いた人々が太郎たちのそばに集まってきた。太郎たちに好奇の目を向ける者はほとんどおらず、大半の者が不安な目を向けていた。

 胸と後頭部と背中と尻に痛みを感じて、心の奥底に封じ込めていた不満と不安が沸き上がってくる。ドライアドの里に来てからの抑圧された生活への不満。未知の世界での今後への不安。目を逸らし、気を逸らし、思考を殺し、いくら現実逃避をしようとも、不満と不安は太郎の中に常にあったのだった。やがて、火山が噴火するように不満と不安が噴き出し、そこへ怒りも混ざって大きな激情となり、太郎は逆上した。

 太郎は喉を引き裂かんばかりの勢いで叫び、立ち上がり、少し走り、薪割りに使われていた斧を拾い、もう一度、叫んだ。そばにいた二人の男が、「うお!」と声を上げ、後方へ飛び退いた。

 「なんで俺ばっかりこんな目に遭わなきゃならねえんだよ! 俺が何をしたっていうんだよ! ふざけんじゃねえ!」太郎は斧の刃をデニスに向けた。血走った目で、鼻水と唾をまき散らしながら。「殺してやる! ぶっ殺してやる! 皆殺しにしてやるぅ!」

 「刃物を向けやがったな・・・・・・上等だ」

 デニスは微塵も臆することなく、太郎に向かって歩き出した。八メートル、七メートル、六メートル、五メートル、四メートルとどんどん二人の距離が縮まっていく。デニスの濡れたブーツが砂に大きな足跡を幾つも作った。その足取りは断頭台に向かう死刑囚のものに似ていた。

 「いかれてんのか!? 刃物持ってんだぞ! 近寄るんじゃないよ、馬鹿!」激しく動揺した太郎が叫んだ。

 デニスは太郎の一メートル以内まで近付いた。そうして、歩を止めてから、冷え切った声で言った。

 「やってみろ。俺を殺してみろ」

 「なんなんだよぉ・・・・・・このプロレスラーみたいなおっさんはよぉ」

 太郎は再び涙目になった。

 「タロウさん! デニスさん! やめて!」レイチェルが勇気を振り絞って叫んだ。

 デニスは更に太郎に近付いた。太郎が持つ斧の刃がデニスの腹部に軽く触れた。太郎は一ミリメートルも斧を動かしていなかった。

 「俺を、殺してみろ・・・・・・俺を、殺せ」

 デニスの目は死んだ魚のようだった。

 太郎は刃物を人に向けるほど人間が壊れていた。しかし、刃物で人を切り裂くほどには人間が壊れていなかった。斧を持つ太郎の手が力を失い、斧は太郎とデニスの間に落ちた。

 「この、腰抜けが!」 

 出し抜けに叫んで、デニスは太郎の頬を殴った。太郎は真横に吹っ飛び、倒れた。

 太郎は倒れたまま体を少し動かし、俯せになった。そうして、声を上げて泣き出した。

 デニスは斧を拾った。それから、太郎を見下ろした。その目は狂気に染まっていた。

 「何やってんだい! デニス!」

 広場にやってきたローラの叫び声だった。ローラはデニスに駆け寄ろうとした。

 「邪魔するな! ローラ!」

 太郎とデニスの揉め事を早い段階から見ていたギデオンが叫んだ。そうして、ギデオンはローラを指差しながら呪文を唱えた。ギデオンの指先から緑色の光が飛び出す。緑色の光は素早く飛び、ローラに命中した。すると、ローラは前のめりに倒れた。そのまま、ローラは全身を痙攣させながらのたうった。魔法によって全身の神経の機能を阻害されたローラは体の自由が全く利かなくなり、呼吸をするのもやっとの有様で、呪文を唱えることさえ叶わなくなった。

 「ローラさん!」レイチェルがローラに駆け寄った。「ギデオンさん! 麻痺の魔法を解いて!」

 「断る!」そう叫んでから、ギデオンはデニスにぎらぎらした眼差しを向けた。「やっちめえ、デニス! その余所者の疫病神をやっちめえ!」

 「カフカ・・・・・・どうして・・・・・・カフカ・・・・・・」

 そう囁き続けながら、デニスは斧を振り上げた。それを見た多くの人が悲鳴を上げた。

 「暴力はいけませんよ!」

 緊迫した雰囲気に似つかわしくない素っ頓狂な声が里に響き渡った。その声は僅かな間を作り、人々の興奮を冷ました。デニスに目を向けていた全員が、素っ頓狂な声が聞こえてきた西のほうに目を向けた。デニスははっとした顔をして、皆と同じほうを見やった。

 素っ頓狂な声が聞こえてきた所には、騎馬の姿が六騎あった。素っ頓狂な声の主は、先頭の馬に跨ったロバートだった。

 「血で血を洗った紀元前の時代じゃないんですから、話し合いで解決しましょうよ! 暴力、反対! 討論、万歳!」

 そう叫んでから、ロバートはデニスのそばまで馬を走らせた。

 デニスのそばで馬を降りたロバートは、デニスに向かって右手を差し出した。

 「さあ、その斧を私に渡してください。そんな物は話し合いには不要です。あなたたちが言葉によって争いを収めようとするならば、私が立ち会います。どうぞ、話してください。あなたたち二人の間に何があったのです? 痴情のもつれですか? 思想の不一致ですか? 何であれ、話し合いで解決しましょう。武器は必要ありません」

 笑顔とは裏腹に、ロバートの脚はがたがたと震えていた。その震えに気付いて、デニスは斧をロバートにそっと手渡し、頭を下げ、放牧地へ向かって歩き出した。

 ロバートは斧を地面に置き、冷や汗を拭った。

 「金玉が縮み上がるとはこのことなのですね。こんなのは二十八年間生きてきて初めての体験でしたよ。いやあ、貴重な体験をさせて頂きました。ありがとう」そう言ってから、ロバートはギデオンを見やった。「ご老人。そのご婦人にかけた魔法を解いてあげなさい」

 「偉そうに! なんでお前に命令されなきゃならんのだ! 誰だ、お前は!?」

 「なんて失礼なことを言うの、ギデオンさん! このお方はロバート様でしょ!」レイチェルが叫んだ。

 「そんな奴、知らんわい!」

 ギデオンの声を聞いて、ロバートは声を出して笑った。

 「私を知らない! それは困りました。いえね、私ったら、ロバート・ウォレスの名前の威光にすがる以外能がないものでしてね。私を存じておられないような方を前にしてしまえば、本当に、手詰まりになってしまうんですよ、私。そのご婦人を早く助けて差し上げたいのに、いやあ、困ったなあ」

 「色男のロバート様。手詰まりではございませんよ」

 そう言いながら、リリスがローラのそばに歩み寄った。そうして、呪文を唱える。リリスの手に乳白色の光が点った。その手でローラの体に触れると、リリスの手からローラの体に乳白色の光が移った。ローラの全身が乳白色に発光する。すると、ローラの痙攣が治まり始めた。全身の光が薄れていくのと同時に体を動かせるようになっていき、呼吸も楽になっていく。

 「助かったよ、リリス」全身の光が完全に消えて、自由に動かせるようになった体で立ち上がりながら、ローラは言った。

 「素晴らしい治癒の魔法です。感服しました、美しいお嬢さん・・・・・・美しい、ご婦人?」

 「お嬢さん、でよろしいんですよ、ロバート様」顔を引きつらせながらリリスは言った。

 「これは、失敬、失敬」

 ロバートは無礼の上塗りになる笑い声を上げながら、太郎に目を向けた。太郎は俯せに倒れたまま声を上げて泣き続けていた。

 「大の大人がそんな風に泣くもんじゃありませんよ。ほら、手を貸してあげますから、お立ちなさい」

 ロバートは太郎に手を差し出した。

 「家に帰りたい・・・・・・もうこんな生活は嫌だ・・・・・・家に帰りたい・・・・・・」俯せのままの、太郎の涙声だった。

 「何を言ってるのか、さっぱり分かりませんね・・・・・・ほら、立ちなさいってば」

 「ロバート様。その人は言葉が分からないんですよ」ローラが言った。

 「言葉が分からない?」ロバートは太郎に差し出していた手を自身の口元に動かし、口髭を撫でながら、太郎をじっと見詰めた。それから、「ああ! このおじさんはブロンテ老師が呼び出し魔法で呼び出した、異世界の者か! 思い出しました!」と声を出した。

 「あの、ロバート様」レイチェルがロバートのそばに怖ず怖ずと歩み寄りながら言った。

 「なんです? 可愛いお嬢さん」

 「タロウさんのこと、気の済むまで泣かせてあげてください。彼、知らない世界に一人ぼっちで、怖い思いも痛い思いもして、きっと、心細くて寂しくて、とても辛いのだと思いますから」

 「彼、タロウっていうんですね」ロバートは微笑んだ。「分かりました。タロウさんのことはそっとしておいてあげましょう。あなたのような素敵なお嬢さんに頼まれたなら、従わざるを得ませんから」

 「そうはいきません!」デボラが進み出てきて、叫んだ。「その呼び出されし者は里の人間に刃物を向けたんですよ! 私たちに危害を加えようとした! 放っておくことなんて出来やしない! 厳しく処罰すべきです!」

 「止めて、お母さん!」レイチェルがデボラと向き合い、叫んだ。「この人はデニスさんに突き飛ばされて、それで、かっとなって斧を拾っただけなの!」

 「あなた! そのおでこの瘤はどうしたの!?」デボラが悲鳴のような声を上げた。「ねえ! どうしたの!?」

 レイチェルは言い淀んだ。

 「そのもじゃもじゃにレンガをぶつけられたんですよ」薪割りのための斧を持った坊主頭の男が言った。「俺はこの目でちゃんと見ました」

 「なんてこと!」デボラの声はもう完全な悲鳴だった。「なんてことなの!」

 「違うの! タロウさんは私を狙ったんじゃない! 使い魔たちを狙って投げたレンガがたまたま私にぶつかってしまっただけなの!」

 「もう、我慢できない! みんな、これからロト長老のところへ直談判に行きましょう! この呼び出されし者を里から追い出してくれって、みんなで直談判に行きましょう! 怠け者ぐらいなら目をつぶりますけれど、私たちに危害を加えるのであれば、もう一秒だってこの里には置いておけない!」

 デボラの声を聞いた人間の多くが、その声に賛同を示した。人々は次第に興奮していった。

 「お母さん! みんなを焚き付けないで! 冷静になって、私の話を聞いて!」

 「デボラ! レイチェルの話をちゃんと聞いてやりな! みんなも一旦落ち着きな!」ローラが大声で言った。

 「黙れ! ローラ!」ギデオンが叫んだ。「事あるごとにその呼び出されし者の肩を持ちおってからに! 亭主からその男に乗り換えたんか!? 亭主が死んでまだ一年も経っとらんというのに! この阿婆擦れめ!」

 ローラは言い返すために声を出そうとした。その声が出るよりも早く、リリスがギデオンに駆け寄り、彼の胸倉をつかんだ。

 「ぼけちまったからって、言って良いことと悪いことがある・・・・・・脳天かち割るぞ、じじい」どすのきいた顔と声でリリスは言った。

 ギデオンはリリスの手を振り払い、鼻を鳴らし、住宅地のほうへ歩いていった。

 太郎に対する罵声とデボラへの支持が声高に叫ばれるなかで、レイチェルとローラの訴えはかき消されていた。やがて、太郎を追い出そうという機運が熟し、デボラが先頭に立つ二十人ほどの集団が、ロトのいる住宅地へと行進を始めた。デボラの考えに否定的な人々は、佇み、デボラたちの後姿を不安げな眼差しで見詰めた。

 「これは大変なことになりましたね」ロバートが言った。

 「私、お母さんを止めなくちゃ」

 駆け出そうとしたレイチェルの手をロバートがつかんだ。

 「あなたはここにいなさい。興奮した集団というものは想像以上に危険なものですから、追いかけて行ったら怪我をしちゃうかもしれませんよ」

 「でも、放っておけません」

 「どうしてです?」

 「どうしてって・・・・・・」

 「彼らの言い分は理に適っているように聞こえましたよ。もちろん、これは事情を全て知っているわけではない私の意見ですが」

 「誤解で人を追い出そうとすることのどこが理に適っているのですか!」

 「タロウさんが里の人間に刃物を向けたという話をあなたは否定しませんでしたよね。レンガをぶつけられたこともあなたは否定していない。そこに誤解はないんでしょう。それでしたら、多くの方がタロウさんを里から追い出したいと訴えるのは当然ですよ」

 「事情があったんです! 彼に悪意はなかった! それをもう一度みんなに説明して、考えを変えてもらわなければなりません!」

 「事情が加味されるのは裁判の判決のみです。個人の感情には事情など何も作用しません。あなたの訴えは、彼らには届かない」

 レイチェルは言葉を詰まらせた。

 「お母さんや里の方々との関係に角が立つ前に、引きなさい、可愛いお嬢さん。大丈夫。私が全て丸く収めてきますから」

 そう言って、ロバートは乗馬し、住宅地に向かって馬を歩かせた。ロバートのそばまで来ていた五騎の騎馬がロバートの後に続いた。

 喧騒が遠ざかっていくなか、太郎はもう泣き止んでいた。しかし、彼は立ち上がろうとはせず、這いつくばり続けた。

 「本当に、終わったんだ。俺の人生は」

 本心からの諦めの声を吐露し、太郎は砂を握り締め、涙もないまま、激しく震えた。

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異世界 ブラッシュアップ不足バージョン はんすけ @hansuke26

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