第8話 埋葬 ブラッシュアップ不足バージョン

 放牧地にある畜舎で雄鶏が鳴き声を上げていた。晴天の澄んだ空気を強く震わせる音量だった。その音によってではなく、テントの入り口から射し込んできた光によって、太郎は目を開いた。そうして、眩しさに堪え兼ねて再び目を閉じた。

 「ばばあ。てめえ、勝手に部屋に入りやがったのか。カーテンが開いてるぞ。ふざけんな」そう呟いてから、太郎は不気味に微笑んだ。「一睡も出来てないのに、全てが夢だった、なんて落ちは有り得ない」

 太郎は上体を起こした。土の上で長い時間寝っ転がっていた為に体中が痛んだ。ゆっくりと目を開き、口を開く。

 「何時間くらい横になってた? 時計がねえから正確な時間は分からねえけど、体感だと、五時間くらい横になったまま目を閉じてたよな。そこまでしても眠れないっていう、安眠効果ゼロのくそテント」

 太郎は立ち上がり、テントを出て、朝の空気を深く吸い込み、顔をしかめた。

 「朝の外気がこんなに清涼なんだってことをすっかり忘れてた。清涼すぎて、肺の隅々まで冷やされる感じがして、気分が悪いよ。昼夜逆転してた引きこもりに、これはきついですわ」

 テントのそばに座っていたジャックが立ち上がり、太郎にテントの中へ戻るよう手振りで指示を出した。太郎は指示に従わず、俯き、立ち尽くした。

 「いくら引きこもりでも、こんなテントの中に缶詰にされるのは耐えられねえよ。気が狂っちまう」太郎は呟いた。

 ジャックが太郎に近付いた。体が接触する寸前のところまで近付き、ジャックは太郎を見下ろした。ジャックの無言の圧力に、太郎の顔が引きつった。

 「何をやってんだい! ジャック!」

 そう言いながら、ローラが太郎たちのそばに駆け寄ってきた。

 「何もやってねえよ」ジャックは太郎から離れながら言った。

 「大事に育ててきた息子が弱い者いじめなんて最低なことをやるなんてさ! 情けないよ、全く!」

 「こいつを弱い者だなんて断言は出来ねえよ」

 「まだそんなことを言ってんのかい! あんたは!」

 ローラはジャックの正面に立ち、ジャックの目を真っすぐに見た。

 「この人が無力な徒の人間だと、あんたは本当は分かっているんだ。分かっていて、あんたはこの人を目の敵にしている。あんたはこの人を、怒りの捌け口にしているだけなんだ。安全だと断言できる確証がない、なんて御大層なことを言って、自分の恥ずべき行為を正当化しようとしているんだよ、あんたは」

 そう指摘されて、ジャックはローラの目から視線を逸らした。

 「こいつが得体の知れない奴だってことは事実だ。用心するに越したことはない」

 「疾しいところがあると人の目を見れなくなる。あんたは小さい頃からそうだった」

 言われて、ジャックはローラの目に視線を戻した。しかし、すぐにまた視線を逸らした。

 「この人が危険な力を有しているという証拠は何一つない、それも事実だ。この人は私たちに危害を加えたことがない、それも事実だ。それなのに、この人を里の隅っこのテントに閉じ込めておくっていうのは、暴力に他ならないよ」

 「こいつが里をうろついていたら里の人間の気が休まらない」

 「これから先、この人がいつまで一緒にいるか分からないんだ。もしかしたら、何年も一緒に生活していくことになるかもしれない。この人に不信感を懐いている人がいるなら、早めにその感情を拭ってしまったほうがいい。この人と接していれば、この人が恐れるべき相手でも憎むべき相手でもないことに誰だってすぐ気が付くさ」

 「ジュダヌスの呼び出されし者が里を攻撃してからまだ二日も経っていないんだ。せめてみんなの心の傷が癒えるまでは、こいつは人目に付かないようにしたほうがいい」

 「みんなの心の傷が癒えるのは、いつだい?」

 ローラの問いにジャックは答えられなかった。

 「心の傷が癒えることはない。どれだけ時間が経っても。親しい人たちを失った悲しみを、私たちはずっと抱えて生きていく」ローラは太郎に目を向けた。「この人をずっと人目に付かないようにしておくことなんて出来やしないだろ」

 「お袋の言ってることは、全て独善だ」

 「何と言われようと、私はこの人を閉じ込めたりはしない」

 太郎はこそこそとした動きで、ジャックとローラから少し離れた。

 南西の丘陵から一羽の赤トビが飛び出して、谷の上空を気持ちよさそうに滑空した。太郎は空を見上げ、その赤トビの姿を目で追った。

 「端から結論が出てるんじゃ、何を言っても時間の無駄だな」

 吐き捨てるように言って、ジャックは住宅地の方へ向かって歩き出した。

 「朝飯はちゃんと食うんだよ!」

 ジャックの後姿に向かってローラが言った。ジャックはそれを無視した。

 ローラは太郎に近付き、食事をする仕草をして、それから、広場を指差した。

 「朝食か。腹は減ってるけど、それよりも今は口の中がぐちゃぐちゃしてて気持ち悪い。昨夜、スープを食った後、歯を磨いてないし、口をゆすいですらないからな」

 少し躊躇しながら、太郎はローラに向かって水を飲む仕草をした。ローラは井戸に向かって歩き出した。太郎はローラから五メートルほど距離を取りながら歩き、彼女に付いて行った。

 井戸のそばに来て、ローラは振り返った。不意にローラと目が合って、太郎は照れた。

 「あんたも一人で井戸の水くらい汲めるようにならなきゃね」

 そう言って、ローラは太郎に近寄り、自身の口を指差した。

 「何!? キスっすか?」

 太郎は慌てふためいた。それから、目を閉じ、唇を突き出した。

 「何をやってんだい、あんたは」

 ローラが太郎の腕を叩いた。

 「いてえ! 何しやがる、この尼!」太郎は目を開き、叫んだ。

 ローラは自身の口を指差したまま、ゆっくりと、「みず、なんて、のみたくない」と言った。それを五回、繰り返して言った。太郎はローラが言葉を教えようとしていることに気が付き、後退り、両手を胸の近くで振った。

 「英語のレクチャーなら受けてもいいっすけど、こんな訳の分からない世界の言葉なんて覚えても意味ないんで、いらねえっす」

 太郎が言語の習得を拒否していることに気が付いたローラは井戸に近付き、「水なんて飲みたくない」と言った。滑車がひとりでに動き出し、水が目一杯汲まれた桶が地上に運ばれる。ローラはコップで水をすくい、それを太郎に差し出した。太郎はコップを受け取った。そうして、水を口に含み、口をゆすぎ、ゆすぎ終わった水を地面に吐き捨てた。

 「勿体ないことをするんじゃないよ!」ローラが怒鳴った。

 ローラは太郎のコップを取り上げ、残りを飲み干した。それから、コップを井戸の脇に置き、桶の中の水を全て井戸に戻した。

 「なんなんだよ、この女は。訳の分かんねえタイミングで切れまくりやがって。女ってこんなに感情の起伏が激しい生き物だったっけか? 理解できねえ」

 そう呟いている太郎の手をローラが握った。太郎は又もやときめいた。ローラは太郎の手を引いて歩き、小川のそばまでやってきた。

 ローラは小川のそばでしゃがみ、両手で小川の水をすくい、それを口に含み、口をゆすぎ、ゆすぎ終わった水を小川に吐き捨てた。それから、立ち上がり、太郎を見ながら小川を指差した。

 「川の水で口をゆすげ、ってことか。大丈夫なのかよ、川の水なんて。ばい菌とか一杯いそうでめちゃくちゃ怖いんだけど」

 太郎は小川のそばにしゃがみ、小川をまじまじと見詰めた。川底の石の数を正確に数えられるほど小川の水は澄んでいた。太郎は両手をゆっくりと小川に浸した。そうして、両手で水をすくい、その水を恐る恐る口に含んだ。井戸水ほど冷たくはなかったが、それでも充分に冷たい水だった。太郎は口を素早くゆすぎ、勢いよく水を吐き出した。

 太郎の肩をローラが優しく叩いた。太郎はローラを見上げた。ローラは広場を指差した。そうして、ローラは広場に向かって歩き出した。

 「今日も馬鹿みたいに歩くことになりそうだな。やってらんねえよ、本当に」

 太郎は愚痴りながら立ち上がり、ローラを追って歩き出した。

 広場では里の人々が朝食をとり始めていた。サクランボとブルーベリーだけの質素な朝食だった。

 カボチャのスープを作るために昨夜設けられたかまどのそばに、テーブルが一脚置かれていた。そのテーブルには、サクランボとブルーベリーが入った大きなボウルが一個と、二十枚ほどの皿が載せられていた。ローラと太郎がかまどのそばに近付いてくると、周囲の人々はこぞって太郎に目を向けた。それらの目は、怯えた目が大半で、その他は怒りを宿した目だった。注目を浴びていることに感付いて、太郎は俯いた。

 テーブルのそばではフランツが皿を一枚持って立っていた。フランツの皿に、小柄な女がブルーベリーを載せている。その女に、ローラは声を掛けた。

 「朝食を頂いていくよ、デボラ」

 「ちょっと待って、ローラ」

 フランツの皿にサクランボも載せてから、デボラはローラに顔を向けた。

 「ジュダヌスの呼び出されし者に畑を随分と壊されちまったからね。今日も日の出の少し前に収穫したんだけど、多くは採れなかったんだよ。だから、私が一人一人に食べる分を取ってやってるんだ。そうやって数を調整しないと、食べられない人が出てきてしまうからね」デボラが言った。

 「いつも色々なことに気が付いて、進んで面倒を買って出てくれるあんたには、本当に頭が下がるよ」ローラはデボラに向かって皿を差し出した。「それじゃあ、お願いするよ、デボラ」

 デボラは微笑んで、ローラの皿に果物を載せた。

 「この人の分も頼むよ」

 ローラが太郎を指差しながら言った。すると、デボラの微笑みが消えた。

 「言っただろう、ローラ。収穫量が少なかったって。里の人間全員にちゃんとした数を配れるかも分からない状況で、その呼び出されし者に食べ物を与えるっていうのには、賛同できないね」

 デボラが言い、周囲の人々の多くが頷いた。

 「後、朝食を貰ってないのは何人だい?」ローラが尋ねた。

 「十人くらいだね」デボラが答えた。

 ローラは大きなボウルを覗き込んだ。

 「数は充分足りるように見えるけどね」

 「残った分は、昼頃に腹を空かせた人に配ればいいのさ」

 「その分をこの人に少し分けてやるくらい、なんてことないだろ」

 「呼び出されし者が私たちに何をしたのか、もう忘れちまったのかい」デボラは腕を組み、険しい目でローラを睨んだ。

 「私たちを攻撃した奴とこの人は全くの無関係だろ」ローラも腕を組み、デボラを睨み返した。

 喉まで出かかった感情的な言葉を、デボラは飲み込んだ。そうして、無理に微笑んだ。

 「昨夜、その呼び出されし者にスープを食べさせてあげたんでしょう、ローラ。食事を与えて良いなんて命令をロト長老は出していないのに。独断で勝手なことをするのは、どうなのかしらね」

 「この人に食事を与えるな、なんて命令も受けていないんだよ、デボラ。良心と常識で考えれば、腹を空かせている人に食べ物を与えるっていうのは当たり前のことだろう」

 「人じゃなくて、呼び出されし者だろ、そいつは」デボラは太郎を指差した。

 「見ての通り、徒の人間だよ、この人は」ローラは太郎の肩に手を置いた。

 「みんなはどう思う!?」デボラが周囲の人々に問い掛けた。「この呼び出されし者に食べ物を分けてやることに賛成かい!?」

 「雑草一本、食わせてやることはねえ!」かまどのそばに立っていたギデオンが叫んだ。彼の口から食べかけのブルーベリーが飛び出した。「そいつは忌むべき厄介者だ! 人間の姿をした悪魔だ!」

 周囲の人々の多くが、ギデオンに賛同する声を上げた。一つの暴言が無数の暴言の呼び水となり、重なり合った暴言はかまどのそばを殺伐とした雰囲気に変えた。

 「何の罪もない、言葉も分からないような人に向かって、そんな罵声を浴びせるのかい、あんたらは! 恥を知りな!」

 ローラの大声は周囲の喧騒にかき消された。

 周囲の余りの騒がしさに恐怖し、震える太郎だったが、自分が非難されている事実には全く気付いていなかった。喧騒の理由が不明なために、太郎の恐怖は余計に強まった。

 「これだけ多くの人がそいつに食べ物を与えることに反対してるんだ! みんなの意見は尊重しなくちゃならない!」デボラの微笑みの冷たさが増した。「私たちだって、そいつを餓死させようだなんて酷いことを言っているわけじゃないんだ。唯、食料が充分に確保できるようになるまでは里のみんなの食べる分を優先しよう、って当たり前のことを言っているだけなんだ」

 「食べ物なら余っているじゃないか!」ローラは大きなボウルを指差した。

 「さっき言っただろう! 残った分は後で食べるんだって! それでも余るようなら、その分は夕食に回せばいい! 里のみんなの食べる分が最も大事なんだ!」デボラが言った。

 不意に、フランツがテーブルの上にある皿を一枚手に取った。それから、フランツは太郎に近付いた。喧騒の真っただ中で、フランツは太郎よりも怯え、震えていた。フランツは太郎に皿を差し出した。太郎は少し躊躇した後、皿を受け取った。フランツはもう片方の手に持っていた自分の分の朝食が盛られた皿から、太郎の皿へ果物を分け与えた。

 「なんで、直接あのボウルから俺の皿に果物を載せないんだよ。なんかの儀式か、これ?」太郎が呟いた。

 「何をしているの!? フランツ!」デボラが叫んだ。

 「僕の食べる分なら、僕の好きにしてもいいかなって思って。ちょっと量が多くて食べきれないかなって思ってたし」

 「育ち盛りのあなたがたくさん食べなくてどうするの!」

 フランツはデボラの声を無視して自分の朝食の半分ほどを太郎に分け与えた。フランツの行為を目の当たりにして周囲の人々は押し黙った。

 フランツは太郎の手を引いて歩き出し、かまどのそばから離れた。その後をローラが追った。三人は広場の端に移動した。そこは丘陵のすぐそばで、周囲に人がいなかった。フランツは太郎の手を離し、座り込んだ。丘陵に生い茂る木々が日陰を作り、フランツの姿を暗くした。

 「食べよう、ローラさん」

 フランツはこっそりと涙を拭った。

 フランツが食事を始めたのを見て、太郎もブルーベリーを一粒口に入れてみた。慎重に噛んでみる。すると、強い酸味が口中に広がった。その酸っぱさの余りに、太郎は口をすぼめ、鼻孔を広げ、目をつぶり、眉根を寄せて、珍妙な顔を作った。それを見て、フランツは笑った。

 ローラはフランツの隣に座り、自分の分の朝食を半分ほどフランツに分け与えた。

 「いらないよ。ローラさんの食べる分がなくなっちゃう」

 「私の食べる分なら、私の好きにしてもいいだろ?」そう言って、ローラは微笑んだ。「ありがとう、フランツ」

 フランツは頭を振った。「カフカならきっとこの人に食べ物を分けてあげる。そう思って、僕はカフカの真似をしただけ」

 「カフカは関係ないよ。全部、あんた自身の優しさと勇気だ」

 ローラはフランツの肩を抱いた。フランツははにかんだ。

 広場の中央では、朝食を終えた人々が棺を作る作業に取り掛かっていた。それを見やり、フランツはブルーベリーを大量に口に含んだ。

 「そんなに急いで食べることはないよ」ローラが言った。

 フランツはそしゃくの充分ではないブルーベリーを飲み込み、サクランボも素早く食べ終え、立ち上がった。

 「里のみんなの力になりたいんだ。だから、誰よりも多く働かなきゃ」

 フランツはかまどのそばへ走っていき、そこに置かれていた筒状の容器に食べ終えたサクランボの種と果柄を入れ、空になった皿をテーブルの脇に置き、それから、広場の中央へ行って棺を作る作業を手伝い始めた。

 フランツを見詰めながら、ローラも素早く食事を終えた。

 「食い終わったサクランボの種と、この、種にくっついてる茎? みたいなやつ、どうすんだ? その辺に適当に捨てればいいのか?」

 そう呟いて、太郎はサクランボの果柄をつまんだまま、ローラの皿を見やった。そこにはサクランボの種と果柄が幾つも載っていた。太郎の様子に気付いて、ローラは太郎の皿を指差した。

 「サクランボの種と果柄は肥料にするから、捨てないで皿に載せときな」

 太郎は視覚で得た情報に則り、サクランボの種と果柄を自分の皿に載せた。

 太郎はのんびりと朝食を取った。太郎が朝食を終えたころには、里の人々のほとんどが棺を作る作業に没頭していた。

 「こんな少量じゃ腹が膨れねえよ。もっとないのか?」

 太郎はものを食べる振りをして、お代わりを要求した。ローラは太郎の要求を察したうえで、首を横に振った。

 「今はこれだけで我慢しな。夕食はもっとたくさん食べられるようにしてやるから」そう言ってから、ローラは太郎の顔をまじまじと見詰めた。「あんたにも名前があるのかね?」

 照れた太郎はローラから目を逸らした。

 ローラは少し思案した後、太郎の目線の先に移動し、自身を指差しながら、「ローラ。ローラ。ローラ」と言った。それから、太郎を指差した。

 太郎はローラの意図を理解して、「太郎っす」と、ボソボソ声で答えた。

 「タロッス?」ローラが言った。

 太郎は溜息を吐き、それから、「太郎!」と怒鳴った。

 「タロウ。面白い名前だね」

 ローラは笑いながら立ち上がり、タロウ、と言いながら、付いてくるよう手振りで太郎に指示を出し、かまどのそばに向かって歩き出した。太郎はローラの指示に従った。

 かまどのそばに人はもうほとんどいなかった。ローラと太郎はサクランボの種と果柄を筒状の容器に入れ、空になった皿をテーブルの脇に置いた。そうして、二人は手持ち無沙汰になった。里の様子を眺めること以外に二人にはやることがなかった。見張りの役目があるために棺を作る作業を手伝えないことが、ローラを居たたまれなくした。太郎は太郎で、すぐに里の風景に飽き飽きして、退屈の余りに小声で悪態をつき始めた。

 太郎は脚に鈍い痛みを感じていた。前日に多く歩いたことによる筋肉痛だった。その痛みを、退屈という名の苦痛が上回った。太郎はゆっくりとした足取りで散歩を始めた。それをローラは咎めなかった。ローラは太郎に付いて歩いた。

 太郎は里の北西の端まで歩いた。かまどのそばからは直線で七百メートルほどの距離だった。太郎は汗だくになりながら、肩で息をして、痛む脚をさすった。休憩がてら、便所で用を足し、それから、かまどのそばまで歩いて戻った。

 かまどのそばのテーブルには大きなボウルが載せっぱなしになっていた。ボウルの中にはサクランボとブルーベリーがそれぞれ二十個ほど残っている。太郎はボウルに手を伸ばし、ブルーベリーを二個手に取った。その手首を、ローラがつかんだ。ローラは首を大きく横に振った。太郎は渋々ブルーベリーを二個ともボウルに戻した。

 太郎は地面に座り込み、胡坐をかいた。五分ほどそうしてから、大胆になって、寝そべった。青空を見上げ、ゆっくりと漂う白い雲を目で追いかける。意図せず、上の目蓋が閉じてきて、やがて眠りに落ちた。太郎は大きないびきをかいた。

 太郎のいびきを聞いてから、ローラは棺を作っている人々に大声で呼びかけた。

 「私のところに板の切れ端と鑿と鎚を持ってきてくれないかい!? ダボを作りたいんだ!」

 若い男がローラのところまで板の切れ端と鑿と鎚を持ってきた。ローラは礼を言ってから、ダボを作り始めた。

 里に響き渡る工具と木材が奏でる音は、どこまでも悲しい音色をしていた。

 一時間ほど寝て、太郎は目を覚ました。上体を起こし、ぼさぼさの髪をいじる。中途半端な睡眠からの目覚めは気分の良いものではなかった。ぼうっとした頭のまま立ち上がり、伸びをする。後ろ手で背中や尻などをはたき砂を落とす。それから、周囲を見やり、悪態をつき、暇つぶしのために再び散歩を始めた。ローラは作ったダボと穴だらけにした板の切れ端と工具をかまどのそばに残して太郎を追いかけた。

 太郎は里の東側に向かって歩いた。そうして、広場と住宅地の境に張られているテントから出てきたリリスを見つけ、足を止めた。そのまま、太郎はリリスの容姿に見入った。

 「こんな世界にもあんな美人がいるんだな。白人だけど、どことなく新垣結衣に似ているな・・・・・・まあ、よく見れば新垣結衣ほど美人ではないか。それでも、充分に美人だ。惚れるぜ」

 リリスは太郎の嫌らしい視線に気付き、太郎を見やった。太郎はさっと目を伏せた。リリスは一目で太郎への興味を失い、太郎の後ろから歩いてくるローラに視線を移した。

 「ほんの三十時間くらいで随分と老け込んだわね、ローラ」リリスは笑みを浮かべた。「あんた、丸っきりおばさんじゃないの」

 「老け込んで歳相応になったのよ」ローラも笑みを浮かべた。「働き詰めのあんたを心配していたけれど、そんな減らず口がたたけるなら杞憂だったわね」

 ローラは太郎の隣で足を止めた。

 「怪我をしたみんなは、大丈夫かい?」ローラが尋ねた。

 「重傷者はみんな、山を越えたわ。これ以上、もう死人は増えない」

 安堵して、ローラは大粒の涙をこぼした。

 「もう泣くのはうんざりだっていうのに、また泣いちまったよ」

 「今は泣けるだけ泣けばいいじゃない。涙だけが唯一の慰めなんだから」

 「あんたは泣かずにがんばり通しじゃないか」

 「いい女は人前で泣いたりしない」

 「いい女じゃなくて悪かったわね」ローラは泣きながら笑った。

 リリスは大きく伸びをした。染みだらけになっているチュニックに隠れた両の乳が強調される。染みは血の赤色だった。ポニーテールにしている金髪が陽光に照らされて輝いた。

 ローラとリリスは会話を続けた。厳しい現実から一時だけでも逃避するための会話だった。二人は無理にでも笑うために冗談を言い合った。

 「俺みたいな不幸な境遇の人間を目の前にして、よくもまあ笑えるな、この女ども。自分は幸せです、自分は人生を楽しんでます、自分は友達が沢山います、みたいな情報をネットにあげて孤独で不幸な人間相手にマウントを取るくそごみ人間どもと同類だぜ、こいつら」蚊帳の外の太郎は気を悪くして小声で言った。

 太郎は広場と住宅地の境に張られている幾つものテントを見やった。テントの数は二十を超えている。太郎は最も近いところにあるテントに近付き、その中を入り口から覗いてみた。頭の向きを同じにして絨毯の上で横になっている三人の女が目に入る。真ん中で横になっている女は両の手首と前腕に布と木の棒で作った副木をあてていた。肋骨も骨折している為、胸部に布を何重にも巻いて胸部固定帯としている。その女の左側で横になっている女は全身を包帯で巻かれていた。胸のふくらみだけが彼女が女であることを表している。もう一人の女は十代半ばの少女だった。少女は金髪で、そばかすのある愛らしい顔をしていた。少女の右の上腕には包帯が巻かれていた。右肘も、右の前腕も、右手首も、右手も、少女にはなかった。三人とも目をつぶり、か細い呼吸をしている。

 太郎は恐怖し、後退った。そうして、テントの入り口から目を背けた。

 「見なかったことにしよう。俺には関係ない」

 三人の女が横たわっていたテントから少し離れると、太郎の耳にすすり泣く声が聞こえてきた。怖いもの見たさの下卑た興味が恐怖を上回り、太郎はすすり泣く声が漏れ出てくるテントの入り口の前に立ち、中を覗いた。四人の男が頭の向きを同じにして絨毯の上に横になっている。四人は全く異なる服装をしていた。フード付きのローブを纏っている男、身軽なチュニックと半ズボンを身に付けている男、凝った刺しゅうの施された衣服に身を包んだ男、暖かい日には似つかわしくないコートを羽織った男。四人の服装に共通しているのは、全て染み一つない綺麗な衣服であることだけだった。四人とも目をつぶり、呼吸をしていなかった。

 四人の男の外傷を見つけるのは難しかった。傷口が縫われていたり髪や服で隠されたりしているからだ。その為、太郎は彼らが死んでいることにすぐには気付かなかった。

 フード付きのローブを纏っている男の傍らで、二匹の真っ赤な生物がすすり泣いていた。ブロンテの遺体と、ブロンテの二匹の使い魔だった。

 「歯、もう、いらない。だから、起きろ、ブロンテ」丸い顔の使い魔が言った。

 「ブロンテ、起きないと、俺、寂しい。悲しい」四角い顔の使い魔が言った。

 使い魔たちがすすり泣く様子を見詰め、ようやく、太郎は横たわる四人の男が死んでいることに気付き、小さい悲鳴を漏らし、尻餅をついた。

 丸い顔の使い魔が太郎を見やり、「なんだ、お前! 見るな!」と叫んだ。その剣幕に気圧されて、太郎は立ち上がり、走り出し、テントから離れた。恐怖から混乱状態に陥った太郎は、全速力で広場のほうへと走り、足がもつれ、盛大に転んだ。その転び方は、野球のヘッドスライディングに似ていた。そうして俯せに倒れたまま、太郎はしばらく起き上がらなかった。

 ローラが太郎に駆け寄って、「大丈夫かい、タロウ?」と声を掛けた。

 太郎はむっくりと起き上がった。前髪と髭と衣服が砂まみれになっていて、擦りむいた両ひざからは軽く出血していた。太郎は踵を返し、東に向かって歩き出した。早歩きだった。ローラはそれを追いかけた。

 歩きながら、太郎は呟いた。

 「俺には関係ねえ。どこで誰が怪我してようが、死んでようが、関係ねえ。戦争だろうが、災害だろうが、疫病だろうが、関係ねえ。俺がびびる必要はねえ。俺が心を痛める必要はねえ。関係ねえから。イラク戦争だって、東北大震災だって、コロナだって、何だって、俺にとっては、まるで遠い世界の出来事みたいだった。地球上の人間が苦しんでたって、同じ国の人間が苦しんでたって、すぐそばの人間が苦しんでたって、俺には関係なかった。誰が傷付いていたって、自分に火の粉が飛んでこない限りは見て見ぬ振りをして生きていく、それが普通の人間のあり方だ。地球人ですらない奴らの為に、俺が心を乱す必要はねえ。関係ねえんだ、他人の死とか苦しみとか悲しみなんて。他人の痛みに鈍感なのが、地球人スタイルだ。そうやって、俺は、生まれた時からずっと、生きてきたんだ。関係ねえ。関係ねえ」

 歩き続け、住宅地を抜け、耕作地に出た。そうして、疲労から足の運びが遅くなった。その頃にはもう気持ちが落ち着いて、太郎は呟くのを止めていた。太郎の顔には、口角を上げつつも無表情といった矛盾したものが張り付いていた。それは、不気味で寂しい顔だった。

 太郎はサクランボの木の根元に腰を下ろし、両足を投げ出した。鈍痛に悲鳴を上げる腿をさする。激痛が走る足首もさすろうと思ったが、体が硬くて足首まで手が届かなかった。体育座りを試みるも、腿が痛くてかなわなかった。胡坐をかこうとするも、同様にかなわなかった。太郎は汚い言葉を吐き捨てて、そのまま五分ほど休憩した。

 接ぎ木で伸びたサクランボの枝に生い茂る美しい緑の葉がそよ風に揺れた。木漏れ日が太郎の上目蓋を照らした。太郎は上方に目を向けた。葉に隠れたサクランボの実が一つ、視界に入る。太郎は立ち上がり、無意識のうちにサクランボの実をむしり取り、それを食した。食べ終えたサクランボの種と果柄を地面に放り投げ、それからようやく、太郎は自分の行動を自覚し、初犯の万引き犯のような挙動不審に陥った。周囲を見やり、ローラと目が合う。ローラは太郎がサクランボの実をむしり取ったところからちゃんと見ていた。ローラの目には小さな怒りと大きな悲しみが宿っていた。非難の声を出しかけて、ローラは口をつぐんだ。黙って太郎を見詰め続けることだけで、ローラは太郎への非難を示した。それは太郎の罪悪感を刺激した。居たたまれなくなって、太郎は逃げるように歩き出した。ローラはゆっくりとその後を追った。

 キャベツの葉に止まっていたテントウムシが太郎の大きな足音にびっくりして飛び立った。テントウムシはすぐそばのテントの天辺付近に降り立った。太郎はそのテントに入り、仰向けに寝っ転がった。そのまま十分が経過した。

 「退屈だ」太郎が言った。「何もやることがねえ」

 更に五分が経過した。

 「ゲームもねえ、ネットもねえ、これじゃ何にもやることねえ」吉幾三の、俺ら東京さ行ぐだ、の節に合わせて太郎は言った。

 更に三分が経過して、太郎は切れた。

 「ふざけんな! なんで俺がこんなくそみたいな目に合わなきゃならねえんだ! 退屈だ! 退屈で死んじまう! 退屈に殺される! ゲームを寄越せ! ネットを寄越せ! 漫画でもテレビでも何でもいい、娯楽を寄越せ! 気が狂う! 気が狂う! 気が狂う! 退屈すぎて、気が狂う!」

 ローラがテントの中を覗き込んだ。それで太郎は冷静さを取り戻し、恥ずかしさを覚え、目をつぶり、寝たふりをした。二分ほどそうしてから目を開ける。ローラはもうテントの中を覗いていなかった。

 太郎は上体を起こし、地面に指で絵を描き始めた。

 「ログインボーナスももらってねえ。イベントも走れてねえ」太郎は地球で遊んでいたゲームについて口にした。「ログインボーナスなんてサービス開始から一度も取りこぼさなかったのに。イベントだって、いつもランキング上位だったのに。期間限定のガチャ、まだ回してねえ。終わった、俺の完璧なゲーマーライフ。ルーチンが崩壊して、もう何もやる気ねえわ。死にてえ」

 地面に描いた絵が完成した。全裸の女性の絵だった。画力は皆無だ。その絵を見詰めながら、太郎は呟いた。

 「シコるか」

 太郎はテントの入り口から外を見てみた。ローラ以外に人の姿は見えない。そのローラもテントから少し離れた場所に座っている。入り口を閉じられない種類のテントである為、太郎はローラの死角になる場所を求め、テントの右端へ移動し、そこに仰向けで寝た。太郎は寝たままズボンを脱いだ。そうして、露になった雄のパトスを孤独な右手で慰める。

 「パソコンがなくても無問題だ。俺の脳内HDに保存されている無数のAVの記憶が、俺の心身を温めてくれる」

 太郎の発言は強がりではなく、真実だった。その証拠に、雄のパトスは健康な膨張を示した。更に、他人にいつ目撃されるか分からない状態にあるというスリルが、性的興奮に拍車をかける。やがて、痴情の潤滑油が漏れ出た。太郎は気分を更に盛り上げる為に、喘ぎ声を発してみた。その声に重なるようにして、テントの外からネヘミヤの声が聞こえてきた。

 「ローラ! 少し話をしたいんだ!」

 太郎は性の上下運動を止め、ズボンを履き、恐る恐るテントの入り口に近付き、外を見た。住宅地の方からネヘミヤがローラに駆け寄ってくる。ローラは立ち上がり、片手を挙げ、「何だい!? ネヘミヤ!」と言った。

 「座っていてくれて構わない」ローラのそばにやってきたネヘミヤが言った。

 「お言葉に甘えて」ローラは腰を下ろした。「あんたも座ったらどうだい?」

 ネヘミヤは額の汗を拭いながら、「すぐに終わるから、立ったままで大丈夫だ」と言った。それから、ばつが悪そうな笑みを浮かべた。

 「その顔、デボラの話だね」ローラが笑いながら言った。

 後腐れからくる陰湿さなど微塵もないローラの笑顔を見て、ネヘミヤの笑みも柔らかくなった。

 「デボラの・・・・・・妻の不愉快な言動を、彼女に代わって謝るよ。すまなかった、ローラ」

 「さっきの朝食でのことかい? 謝ってもらうことなんて何にもないよ」ローラは両手を振った。

 「妻の今朝の言動は人道に反する恥ずべき行為だった。妻にはきちんと注意をしておいたよ」

 「あんたは今朝のあの場にいなかったのに、どうして事情を知ってるんだい?」

 「さっき妻がロト長老のところに直談判にきたんだよ。食糧事情が改善するまでブロンテ老師が呼び出した者に食事を与えないようにと里の人間全員に命令を出してほしい、とね」

 「ロト長老はそれを聞き入れたりしてないでしょうね?」険しい表情を作り、ローラは言った。

 「聞き入れたりしないさ。妻も粘ったんだがね。里の人間の半数以上が私の訴えに賛同してくれている、なんてことまで言い出してね。結局、それが逆効果になった。今、広場でロト長老が里のみんなに、ブロンテ老師が呼び出した者を里の人間と平等に扱うように、と命令を出している。これで、今朝のようなことはもう起きないだろう」ネヘミヤは広場の方へ体の正面を向けた。「話はこれで終わりだ。私はロト長老のおそばへ戻る」

 「わざわざ伝えにきてくれて、ありがとう、ネヘミヤ」ローラが言った。

 ネヘミヤは歩き出した。少し歩いて、立ち止まり、振り返る。

 「ジュダヌスが呼び出した者に、うちの娘も・・・・・・レイチェルもむごい目に合わされたんだ。だから、妻のことを悪く思わないでほしい」

 「これっぽっちもデボラのことを悪く思っていないよ」真剣な顔でローラは答えた。

 ネヘミヤはローラに向かって頭を下げ、それから、広場に向かって走り出した。

 太郎はネヘミヤが遠ざかったのを確認してから、再びテントの右端で仰向けに寝た。ズボンを下ろす。雄のパトスは萎えていた。

 「男の声なんか聞いたから萎えちまった。自己主張の強いマゾ男優くらいうざいよ、あのおっさん」

 太郎はもう一度、雄のパトスを慰めた。先程よりも早く、虚無の精油を発射する準備が整う。

 「太郎はレベルが上がった。エロポイントが三アップした。妄想のコツをつかんだ」痴情の潤滑油で右手を汚しながら、太郎は言った。「やばい、もういきそう・・・・・・待てよ、このままじゃ真上に飛んだ液が降ってくるよな。着替えがあるかどうかも分からないのに、衣服をイカ臭くするのはやばいよな」

 太郎は膝立ちになった。

 「この端っこの地面に向かって出せばいいよな・・・・・・ああ、上を向いちまって、地面のほうに向かねえ。かちこちで下に向けらんねえよ・・・・・・まあ、いいやな。文明レベル皆無の小汚いテントだもんな。ちょっと汚したって、問題ないよな」

 理性をかなぐり捨てて、太郎は虚無の精油を発射した。勢いよく噴出した液がテントの生地に複数の染みを作った。

 事後の虚しさが、太郎の顔から表情を奪った。能面のような顔で自分が作った染みを見詰める。それから、ズボンを履き、寝っ転がった。

 「やることがまたなくなっちまった」虚しさを紛らわす為に、太郎は口を開く。「十代の頃なら五回くらい連続でシコっても平気だったけど、さすがに今はもう一日二回が限界だ。それも、一回目と二回目の間に長めのブレイクタイムが必要だし。歳はとりたくねえよ、本当に」

 気温が上がってくるなかで、ひんやりとした地面が太郎の体を快適な体温に保った。

 「こんなところじゃ、何にもできねえよ。終わったな、俺の人生・・・・・・きついな。だって、俺のせがれは俺の手のぬくもりしか知らないんだぜ・・・・・・二十八歳で、童貞で、人生が終わったんだぜ、俺。可哀相すぎんだろ、俺。言葉も何にも分かんねえ世界で、孤独に朽ちていくんだ、俺は。ハードすぎんだろ、世界。シビアすぎんだろ、リアル」

 虚無の精油を発射したことによって、太郎は体力を多く消費していた。歩き回った疲労感も相まって、再び眠気を覚える。目蓋が閉じられ、眠りに落ちる。先程のよりもずっと深い眠りだった。


 広場と住宅地の境に張られている幾つものテントから広場の中央へ運び出された四十三人の遺体が、橙色に変わりつつある日差しに照らされた。遺体の肌が暖かい色に染まり、眠っているだけのように見えた。

 遺体は全て、衣服を着たまま、靴を履いたまま、棺に入れられた。女の遺体の多くは綺麗なドレスを身に纏っていた。まだ三歳ほどの少女の遺体が身に纏っているドレスは、作られたばかりの真新しい物だった。その少女が入れられた棺のそばで、ギデオンが大声を出していた。

 「知らん! こんな子は知らん!」

 「知らないわけないでしょう、ギデオンさん。この子はあなたの孫のハンナでしょう」ギデオンのそばに立つデボラが困惑した表情で言った。

 「儂に孫などおらん!」ギデオンは周囲を見回し始めた。「息子はどこだ!? あいつめ、また仕事をさぼってほっつき歩いておるな!」

 「息子さんは三年前に亡くなったでしょ!」

 デボラの声を無視して、ギデオンは文句を言いながら住宅地のほうへ歩いていった。里の人間のほぼ全員が広場の中央に集まっていながらも、デボラとギデオンのやり取りに注意を払う人間は誰もいなかった。誰もが、自分と関係の深い故人から目を放さなかった。泣いている人間はいなかった。彼等の涙はもう枯れていた。

 革のエプロンをかけた男の遺体が入った棺のそばにはシーナがいた。

 「お父さん、寂しそう」

 そう囁いて、シーナは住宅地へ向かって走り出した。自宅に入り、兎のぬいぐるみを手に持って出てきて、父親が入った棺のそばに戻る。そうして、父親の顔の横に兎のぬいぐるみをそっと置いた。

 「わたしの一番大好きなぬいぐるみがずっと一緒だよ。お父さん、これで寂しくないよね?」

 若い女が讃美歌のような歌を口ずさんでいた。そよ風が花の香りを広場に運んだ。むく鳥の群れが夕日に向かって飛んでいった。棺に上蓋が載せられた。上蓋には故人の名前が彫られていた。

 故人の姿が見えなくなって、別れが現実味を帯びた。

 あらかじめ棺の下に通してあった帯状のレースを上蓋の表面で結び、棺の封とする。そうして、後は埋葬するだけだった。

 「ブロンテ、閉じ込める、するな!」

 「ブロンテ、かわいそう、だろ!」

 二匹の使い魔が喚いた。丸い顔の使い魔は、ブロンテの棺に上蓋を載せた男を蹴りつけた。四角い顔の使い魔は、ブロンテの棺の上蓋の表面でレースを結んでいる女の髪を引っ張った。

 ブロンテの棺のそばにいたジャックが四角い顔の使い魔の首根っこをつかんだ。それから、もう片方の手で丸い顔の使い魔の首根っこもつかんだ。

 「放せ、赤毛の、のっぽ!」

 「目ん玉、えぐる、ぞ!」

 二匹の使い魔は短い両手足を激しく振って、ジャックの手から逃れようとした。三分ほど暴れてから無駄な抵抗であると覚り、二匹は大人しくなった。それでも、ジャックは二匹の首根っこを放さなかった。

 「もう、うるさく、しない。だから、放せ、赤毛の、のっぽ」丸い顔の使い魔が言った。

 「信用できない。埋葬が終わるまでお前らはこのままだ」

 二匹の使い魔は再び暴れ出したが、すぐにまた大人しくなり、めそめそと泣き始めた。そんな二匹には微塵も注意を払わず、ジャックは四十三人分の柩を見詰めた。それから、上蓋にスザンナと彫られた柩のそばに歩いていき、その柩を見下ろしながら囁いた。

 「子供のころからずっと、スザンナ、お前のことが好きだったよ」

 使い魔たちの耳にも届かないくらい、儚い声だった。

 ロトが広場の中央から東寄りの場所に立ち、刀身の幅が広い刃渡り五十センチメートルほどの剣を地面に突き立てた。刃先から十センチメートルくらいまでが砂に埋まる。すると、剣の刃に真っ赤な模様が浮かび上がった。それから、剣はどんどん地面に埋まっていった。ロトはとっくに柄から手を離している。ひとりでに埋まっていった剣は、鍔まで埋まったところで停止した。そうして、地面が大きく揺れた。


 「なんだよ!? 地震!?」

 地面の揺れで目を覚まし、太郎は叫んだ。

 地面の揺れは特別に大きなものではなかった。震度で表すならば、震度三くらいの揺れだった。しかし、理解の及ばない状況に置かれて過度なストレス状態に陥っている太郎にとっては、世界の終わりを連想してしまうほどの大きな揺れに感じられた。

 太郎は慌ただしく立ち上がり、急いでテントの外へ逃げ出した。夕日の眩しさで一瞬だけ視界を失う。視界が戻り、広場の光景が目に入る。そうして、太郎は地面の揺れを失念し、口をあんぐりとあけた。広場の中央から東寄りの場所に、巨大な建造物が現れつつあったからだ。地中から地面の砂を押し上げて地上に現れてくるその建造物に、太郎は見入った。

 建造物の丸屋根から滝のように流れ落ちている砂が尽きると、複雑な彫刻が施された壁面が露になる。ローマンコンクリートに似た建築材料で造られた円形の建造物は薄い灰色一色だった。夕日に染まってさえ、その灰色が際立っていた。地面が揺れ始めてから五分ほどで、建物の全体が地上に出現した。地面の揺れが止み、完全に停止した建物は、まるで最初からその場所に建っていたかのような佇まいだった。建造物の大きさは、百メートルほど離れたところにある広場と住宅地の境に張られたテントを全て日陰にするほど巨大だった。

 小さな声が聞こえてきて、太郎は自分の近くに視線を動かした。ローラが旧約神書派の祈りの型を作り、広場の方に向かって、「安らかに眠ってください」と繰り返し口にしているのが目に入る。

 一心不乱なローラに気圧されて、太郎はローラから目を逸らし、テントの中に戻り、寝っ転がり、再び眠ろうと試みた。しかし、もう目は冴えてしまっていた。それで、もう一度テントの外に出て、座り込み、黙って広場を見詰めた。


 広場に現れた巨大な建造物には扉や窓が一つもなく、中に入るための場所はどこにも見当たらなかった。

 ロトが建造物に近付いた。壁面に、両開きの巨大な扉の彫刻が施されている場所があり、その前に立つ。そうして、ロトは口を開いた。

 「スコラドア王国に栄光あれ」

 その言葉に反応して、建造物の壁面に変化が現れる。両開きの巨大な扉の彫刻が見る見るうちに本物の扉に変わっていく。十秒ほどで、彫刻は完全に本物の扉に変わった。その扉を、若い男が六人がかりで押し、開いた。

 ロトが建造物の中に入った。屋内は真っ暗だった。ロトは呪文を唱え、床を指差した。ロトの指先から小さな光の玉が放たれる。光の玉は床に触れると回転を始めた。そうして、光の玉から光の筋が無数に伸びていった。大木の根が広がるように、光の筋は床一面に広がっていった。光の筋は屋内の端まで来ると壁を伝って上っていき、天井にまで広がった。屋内は全て明るく照らされた。

 建造物に階層はない。その為、天井はとても高かった。屋内には、段になった木製の棚が幾つも置かれている。柩を安置する為の棚だ。地上に現れた巨大な建造物は墓地だったのだ。

 柩を安置する為の棚は二段の物から九段の物まであった。棺と棚は同じ木材で作られていた。三百年以上前に作られた棺と棚でさえ、作り立ての物みたいに全く傷んでいなかった。棺は遺体の臭気を完全に封じ込めていた。墓地の内部は無臭だった。

 男たちが二人一組になって広場の柩を墓地の中に運んだ。四十三人分の柩を運ぶのは大変な作業だったが、夕日が沈む前には全てを運び終えた。

 棚には柩が落ちないように柵が設けられていた。その柵を外し、棚に柩を置く。高いところの段には脚立を使って柩を置く。そうして、全ての柩が棚に安置された。

 三段の棚の真ん中の段に置かれた父親の柩を、シーナは見詰めていた。父親の柩は、佇むシーナの目線の高さにあった。人の死は子供の幼さを奪う。大人びたシーナの目は果てしなく寂しいものだった。

 シーナから離れたところでは、デニスが佇んでいた。四段の棚の一番低い段に置かれた柩をデニスは見詰めていた。棺の上蓋には、ナオミ、と彫られていた。

 「ナオミ。俺は、あの子が、カフカが死んだなんて、今も信じられないでいるんだ」デニスが囁いた。「信じられないでいる、っていうのは、少し違うか・・・・・・うん、違う。信じないでいる。それが、正しい」

 フランツがデニスを見詰めていた。デニスから少し離れたところから。

 「ジャックは優秀な子だ。あの子が親友の生死を見誤る訳がない。そうだ、カフカは、死んだんだ・・・・・・俺たちの息子は、死んだんだ。あの子がずっと求めていた自由な外の世界の空の下、海を漂って、あの子は、一人ぼっちで」デニスは膝から崩れ落ちた。「すまない、ナオミ。あの子を守ってやれなくて。あの子をお前のそばで眠らせてやれなくて。すまない、すまない」

 フランツは父親から目を逸らし、深く俯いた。

 「皆は立ち直れるでしょうか?」墓地に居る人々の様子を見詰めながら、ネヘミヤはロトに問い掛けた。

 「酷なようだが、立ち直ることが出来なくても、前を向いてもらう。明日以降、皆には里の復興に全力を注いでもらう」ロトが言った。

 「本当に、酷ですね。特に、今回のことで家族を亡くした者たちにとっては」

 「生きている者は歩みを止められない」ロトは歩きだし、墓地の外に出た。もう夜だった。「どんなに苦しくとも、我々は元の生活を取り戻さなければならない」

 時が経ち、思い思いの別れがあって、墓地の中から少しずつ人が外に出始めた。

 夜も深まった頃には墓地の中にいる人の数も少なくなっていた。その彼等も、死者に寄り添うことに疲れ果て、悲しみに打ちひしがれた足取りで墓地から出ていった。夜明けの直前に最後の一人が墓地を後にした。そうして、墓地には死者だけが残った。

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