第7話 夜 ブラッシュアップ不足バージョン

 ドライアドの里は、蛍の光に包まれ淡い緑色に染まっていた。蛍は小川だけでなく、谷のあらゆるところに群がっていた。里は満遍なく明るかった

 「ジャックもロト長老も、疲れただろう。あんたたちの馬もチャンプも私が畜舎に戻しておくから、休んでな」ローラが言った。

 「俺が畜舎に戻す。お袋こそ休んでろよ」ジャックが馬から降りながら言った。

 「あんた、昨晩からほとんど休めてないだろ。無理をするんじゃないよ」

 「休んでられるほど心中穏やかじゃねえ」ジャックは両手を強く握りしめた。

 ロトはジャックの様子を見て、それから、馬を降りた。ローラはまだ何か言いたげだったが、ロトの目配せを受けて言葉を噛み殺し、馬から降りた。

 ジャックは太郎に向かって馬から降りるよう手振りで指示を出した。太郎はそれに従い、下馬を試みた。一人では手間取り、ローラの補助を受けてなんとか下馬を終える。

 ジャックは右手に二頭分の手綱を持ち、左手に一頭の手綱を持った。それから、「チャンプ、付いてこい」と言った。ジャックは三頭の馬とチャンプを引き連れて小川に架かった橋を渡り、畜舎に向かって放牧地を歩いていった。夕方に放牧されていた家畜は全て畜舎に移されていて、放牧地は広々としていた。

 「我々ドライアドの里の者は、海へ逃げたユスターシュ・ドージェを追跡する部隊への参加を許されなかった。ユスターシュ・ドージェを討つことはおろか追うことさえ許されず、やり場のない怒りを抱えているジャックの気持ち、察してあげなさい」ロトがローラに向かって言った。

 ローラはジャックの後姿を見詰めながら涙を流した。

 「今朝、あの子が生きて帰ってきてくれた時、私は喜びました。今、これからもあの子と一緒にいられるのだと知って、私はまた喜んでしまっている。多くの仲間が死んでしまったというのに。ユスターシュ・ドージェが復活してしまったというのに。あの子のことしか考えられていない自分が恥ずかしくて、みんなに申し訳ない」

 ローラは泣き崩れた。

 ロトはローラの肩にそっと手を置いた。

 「親ならそれが当然だ、ローラ」

 太郎はローラの号泣に居心地の悪さを覚え、ローラたちから離れ、広場のほうへ目を向けた。ちょうどその時、北の丘陵から人影のようなものが飛び出した。物凄い跳躍で宙を舞い、広場に着地したそれは、人間に似た胴と、胴よりも遥かに巨大な太ももを持った生物だった。その巨大な脚は兎の後ろ足に似ている。胴の両側面から人間に似た腕が生えていて、両の肩甲骨あたりからも人間に似た腕が生えている。計四本の腕は全て太く逞しかった。四本腕の生物は、手の形も人間に似ていた。毛の生えていない猿みたいな頭をしていて、全身が真っ赤。体長は百六十センチメートルほどで、足の長さだけで百センチメートル以上はあった。四本腕の生物は伐採された木を一本担いでいた。その木を広場の中央に降ろし、四本の手で木の皮を剥き始める。木の皮は硬質だったが、それを一切苦にしないほど、四本腕の生物は剛力だった。伐採された木が徐々に丸太に仕上がっていく。

 四本腕の生物が剥いて投げ捨てた木の皮が、近くに立っていた赤い髪の老女に向かって勢いよく飛んでいった。赤い髪の老女は腰ひもに下げていた剣を抜き放ち、木の皮を叩き落とした。

 「ロト長老の使い魔は荒っぽくって困る」剣を鞘に戻しながら赤い髪の老女は言った。

 「今、ロト長老の使い魔が丸太にしている分だけで木材は足りますね」赤い髪の老女に近付きながら、中年の男が言った。「サラ老師。今日中に棺を全部作ってしまいますか?」

 サラと呼ばれた赤い髪の老女は、広場で棺を作っている人々に目を向けた。彼女の目に映る全員が、心身ともに疲弊しきっていた。

 「もうみんな限界だろう」サラは言った。「今日はここまでだ! 残りの棺は明日、仕上げる! みんな、仕事を切り上げてくれ!」

 棺を作っていた人々は作業を止め、汗を拭い、地面に座り込み、思い思いの空ろな目で、ある者は夜空を見上げ、またある者は地面を見詰めた。彼等の多くが、目に涙を浮かべていた。

 「厨房も呼び出されし者に破壊されたのだったな」住宅地のほうを見やりながらサラが言った。「これから広場に簡易な調理場を設け、食事の用意をするというのはどうだろうか、ネヘミヤ」

 「こんな状況ですし、食事は保存食や果物だけで済ませばよろしいのではないでしょうか」ネヘミヤと呼ばれた中年の男が言った。

 「こんな状況だからこそ、みんなにはきちんと調理された温かいものを食べさせてやりたい。それに、保存食は昼にみんなに配ってしまって残りの数が少ないし、サクランボやブルーベリーなんかも木が何本も倒されてしまっていて沢山は収穫できない。被害の少なかった野菜を使って食事を用意するのが最善だろう」

 サラの意見を考慮しながら、ネヘミヤは広場にいる全員に目を向けてみた。疲労以上に、悲しみや不安が人々を苦しめていることを、ネヘミヤは見て取った。同時に、手持ち無沙汰の状態が悲しみや不安を強めていることも窺い知れる。

 「サラ老師。調理に割く人手はどうするつもりなのですか?」ネヘミヤが尋ねた。

 「私とロト長老の使い魔だけで出来るだけのものを用意するつもりだ」

 「体力の残っている者には調理を手伝ってもらう、というのはどうでしょうか。仕事で気を紛らわせることも出来るでしょうから」

 「そうだな。皆に声を掛けてみるか」

 サラは広場にいる人々に調理の手伝いを募った。すぐに十人以上が調理の手伝いを買って出た。

 「厨房の残骸から調理器具を取ってこなくてはなりませんね。この仕事はロト長老の使い魔にやらせましょう。包丁などが埋まっている場所を暗がりで探るのは怪我の危険がありますから」ネヘミヤが言った。

 「使い魔よ!」サラはロトの使い魔に目を向けて、言った。「倒壊した厨房から、壊れずに残っている調理器具を全て広場まで持ってこい!」

 ロトの使い魔はサラの声を無視し、木の皮を剥き続けた。

 「使い魔! ロト長老の命令を忘れるな! 私の命令は全て聞くようにと言われているだろう!」

 ロトの使い魔は尚もサラの声を無視した。

 「私の命令を聞かせるのはもう限界だな」サラは言った。「ここまで文句一つ言わずに命令を聞いてくれていただけでも、儲けものか」

 サラは腕を組み、思案し、徐に小川のほうを見やった。そうして、ロトの使い魔に見入ったまま呆然と立ち尽くしている太郎の姿を見つけた。

 「ブロンテ老師が呼び出したという者が戻ってきているということは、ローラも戻ってきているな」

 サラは太郎が立っているところから西へ視線を動かし、ローラとロトの姿を見つけた。

 「ネヘミヤ。ロト長老が戻られた。使い魔にはロト長老から命令を出してもらおう」

 そう言ってから、サラはジャックの姿を探し、放牧地にその姿を見つけた。サラは安堵の息を吐いた。

 ロトと泣き止んだローラが広場の中央まで歩いてきた。

 「ロト長老、戻られたばかりのところを申し訳ないのですが、あなたから使い魔に命令を出して下さい。倒壊した厨房から壊れずに残っている調理器具を全て広場へ持ってくるようにと」

 ロトは頷き、サラの望んだ通りにした。ロトの使い魔は木の皮を剥く作業を中断し、住宅地にある倒壊した厨房へ駆けていった。たった一歩で三メートル以上を進む快速だった。

 「広場で調理をするのね。私も手伝うわ、母さん」ローラがサラに向かって言った。

 「ローラ。お前はあの呼び出されし者がまた勝手に里の外へ出ないように見張っていなさい」ロトが言った。「しっかり監視するんだ。あの者に不信な点があったら、どんな細かいことでもすぐに私に報告するように」

 「分かりました」

 そう返事をして、ローラは太郎のそばへ駆け寄った。太郎はびくつき、俯いた。

 ローラを見詰めながら、サラが口を開いた。

 「あの子も一日中、働いていたんです。得体の知れない者を夜通し一人で見張らせる、なんて酷なことは、よもや言いませんよね、ロト長老」

 「見張りを交代制にしますか?」ネヘミヤがロトに尋ねた。

 「不要な揉め事を起こさぬ為にも、あの者の見張りはあの者に少しでも慣れている人間がやるべきだ。皆が眠りに就く頃までは、ローラがあの者を見張り、それから明朝までは、ジャックに見張りを代わってもらう」

 「ジャックの疲労はローラや私たちの比ではない。そんなことくらいあなたもご存じでしょう。皆が起きているうちは皆の目もあるのだから見張りも楽ですが、皆が眠った後となれば見張りの負担も格段に増します。そんな仕事を疲弊しているジャックに任せるべきではありません」サラが語気を強めて言った。

 「ジャックは今夜、決して眠れぬよ。悔しさの余りにな」

 「通常の精神状態ではないということです。そんな人間に見張りが務まるとでも?」

 「サラ。私はジャックこそが今のこの里で最も頼りになる人間だと考えている」

 「十七歳の若者に過剰な期待を寄せるべきではない」更に強めた語気で、サラは言った。

 「ブロンテやアベルといった優れた魔法の使い手たちでさえ生き残れなかった、ユスターシュ・ドージェの追跡で、ジャックは唯一人、生き残ったのだ。それは、幸運だけでは決して不可能なことだ。ジャックには確かな実力がある。そして、我々にはない実戦の経験もある。あの呼び出されし者が害のある存在だった場合、冷静に対応できるのは、今の里にはジャックしかいない」

 サラは黙った。

 「見張りが必要ないと判断できるまでずっと、昼間はローラがあの呼び出されし者を見張り、夜間はジャックが見張りをする。それで、決定だ。サラ。ジャックとローラにはお前からもそう伝えてくれ」

 サラは小さく頷いた。それから、「十七歳の若者が最も信用に値するとはな。ユスターシュ・ドージェの不朽体を管理するという重責を負っていたドライアドの里の民も落ちたものだ」と呟き、空を見上げた。

 満天の星空。その星明かりが、谷の北東部に位置する耕作地へ向かって歩き出す人々の姿を照らした。

 「あんたも水を飲みに行くかい?」ローラは太郎に声を掛け、すぐに、「馬鹿だね、私は。言葉が通じないっていうのに」と続けた。

 ローラは右手にコップを持っている振りをして、そのまま水を飲む仕草をした。太郎はローラの意図に気付き、喉の渇きを自覚した。太郎は首を縦に振った。

 ローラも耕作地へ歩き出す。太郎はローラの後ろに付いて歩いた。

 耕作地には、釣瓶井戸が一基、設置されていた。それは、深さ百メートル以上の深井戸だった。耕作地まで歩いてきた人々の中から金髪の少女が駆け出した。金髪の少女は井戸の側に立ち、「喉が渇いていないから、水なんて飲みたくない」と言った。すると、井戸の滑車がひとりでに動き出し、縄を結びつけてある桶が井戸の底へとすごい速さで下りていった。目一杯、桶に水が汲まれると、滑車はひとりでに反対に回りだし、桶を引き上げていった。地上に上がってきた桶を、少女のそばに立った男が手に取り、井戸の縁に置いた。人々は井戸の脇に置かれているコップを手に取り、桶から水を掬い、飲んだ。

 「あれは、天の邪鬼の釣瓶井戸、っていうんだ。このドライアドの里を開拓した、スコラドア国王マクヘダッドが作ったとされる魔法道具さ。水を飲みたくない、と言えば、勝手に水を汲んでくる捻くれた井戸だよ。手動では滑車が動かないからね、覚えときな」太郎に言葉が通じないことを又もや忘れて、ローラは言った。

 ローラはコップを一個取り、桶から水を汲み、太郎に手渡した。太郎は恐る恐るコップに口を付けた。少量の水を口に含んでみる。生暖かい水を想像していたが、水はとても冷たかった。一口飲み込めば、後はもう警戒も解けて、太郎はコップ一杯分の水を一気に飲み干し、動作でおかわりを要求した。ローラにもう一杯水を汲んでもらい、太郎はそれも一気に飲み干した。太郎はコップをローラに返した。ローラはまたコップに水を汲み、太郎に差し出した。太郎は両手を振って拒否を示した。ローラは太郎の意図を理解して、自分でコップの水を飲み干した。太郎はローラを注視し、彼女の年齢を三十代前半と推測して、どぎまぎしながら、「間接キスじゃん」と子供染みた言葉を呟いた。

 金髪の少女がローラのそばに歩み寄ってきた。少女はローラのコットを片手でぎゅっと掴み、太郎の足下を指差した。

 「それ、お父さんの靴」そう言ってから、金髪の少女は泣き出した。「知らないおじさんが、お父さんの靴、履いてる!」

 それまで太郎を盗み見し続けていた周囲の人々が、金髪の少女が泣き出したことで遠慮なく太郎を注視し始めた。太郎は泣きじゃくる少女に困惑し、同時に、周囲の視線に緊張して縮こまった。

 「泣かないで、シーナちゃん」ローラが金髪の少女をそっと抱きしめて、言った。「あのおじさんはね、靴を持っていなくって、足が痛い足が痛いって、泣いていたの。それを可哀相に思ったシーナちゃんのお父さんの幽霊さんがね、自分の靴をあのおじさんに貸してあげたのよ。優しいシーナちゃんのお父さんらしいでしょ」

 「お父さんの幽霊さん、里にいるの?」シーナが泣きながら言った。

 「ええ、居ますとも。天国に行った人はね、好きな時に好きなところへ行くことが出来るのよ。シーナちゃんのお父さんはシーナちゃんのことが大好きだから、天国から里に来ていて、今もシーナちゃんのことをこっそり見守っているのよ。もちろん、シーナちゃんのお母さんも一緒にね」

 涙を堪え、ローラの声は震えた。周囲の人々がすすり泣いた。

 シーナはローラに抱かれながら一頻り泣いた。そうして、泣き止んでから、シーナはローラから離れ、太郎に近付き、言った。

 「お父さんの靴、大事に履いてね」

 太郎はシーナの純粋な眼差しに気恥ずかしさを覚え、深く俯いた。それがシーナには首を縦に振ったように見えた。

 シーナは安心したように笑い、広場に向かって駆け出した。

 「シーナちゃん! 危ないから走っちゃ駄目よ!」ローラが言った。

 「平気!」

 そう言ってシーナは走り続けた。水を飲みに来ていた他の人々も広場に向かって歩き出した。ローラだけは広場とは違う方向に歩き出した。太郎は少し迷ってから、ローラの後を追った。

 ローラと太郎がやってきたのは、谷の北東の隅にあるキャベツ畑のそばに張られたテントだった。

 「俺が入ってたテントじゃん、これ」太郎が言った。

 ローラがテントの中に入った。

 「もしかして、俺を誘ってるのか、あの女?」太郎は唾を飲み込んだ。「有り得ない話じゃない。ここは地球じゃないんだし、地球の常識は通用しない。いや、地球にだって、すぐに異性と肉体関係を持つ輩は沢山いるんだ。こんな文明レベルの低そうな世界の人間なら、貞操観念なんて持ち合わせていなくても不思議じゃない。あの女、美人じゃないけど、なんかエロいんだよな。自分より背の高い女は好みじゃないし、年上も本来ならNGだけど、まあ、俺を求めてるっていうんなら、やってやらんこともない」

 太郎が呟いている間に、ローラがテントから出てきた。太郎ははにかみ、もじもじとした。ローラは右手に靴を一足持っていた。それは、太郎に履いてもらおうとテントの中に置いておいた靴だった。ローラは太郎のブーツを指差し、それから、自分が持っている靴を指差した。太郎は緊張の余り目を伏せてしまっていて、ローラの動作に気付かなかった。ローラは大きく息を吐き、太郎に近付き、屈み、太郎のブーツを脱がせに掛かった。

 「いいです! 自分で脱ぎます!」

 そう言って、太郎は後退り、勢いよくズボンを下ろした。ズボンの下には何も穿いていなかったので、ズボンを下ろしただけで、太郎の下半身は露になった。

 「何やってんだい! 馬鹿!」

 激怒したローラは立ち上がり、左手で太郎を突き飛ばした。太郎は仰向けに倒れた。

 「初めてなんです! 乱暴にしないで!」仰向けに倒れたまま、太郎は叫んだ。

 ローラは太郎の足のそばに屈み、太郎の左足のブーツを脱がした。太郎は強く目をつぶった。ローラは持っていた靴を太郎に履かせようとした。しかし、その靴は太郎の足には小さすぎた。

 「思ったよりもでかい足なんだね。ジャックの靴でも小さいよ」

 ローラは太郎に靴を履かせるのを諦め、靴一足を右手に持ち、立ち上がった。

 「シーナちゃんのお父さんの靴、大事に履くんだよ。それから、早くちんこをしまいな」

 ローラは広場に向かって歩き出した。太郎は目を開き、ローラの後姿を見やった。

 「なんで? 終わり?」そう言ってから、太郎は慌てて立ち上がり、ローラに向かって叫んだ。「終わりなんすか!?」

 ローラは太郎の声を無視して歩き続けた。

 「ふざけんなよ、あのおばさん。やる気にさせといてこれかよ」

 太郎は渋々ズボンを上げ、ブーツを履いた。それから、座り込み、肩を落とした。

 「あいつら、本当に訳が分かんねえよ。くそ、まじで、俺、これからどうなるんだ? これからずっと、あんな訳の分かんねえ奴らと一緒なのか? ここでずっと、俺は生きていくのか? 地球には帰れねえのか? そんな惨い話があるかよ、くそ」

 太郎は項垂れた。そのまま、何の益にもならない不満の声を五分ほど漏らし続けた。

 不意に、太郎の腹部から、ぎゅるぎゅる、という音が聞こえてきた。その後すぐに腹痛が襲ってきて、太郎はか細い悲鳴を漏らした。先程、太郎が飲んだ井戸水は硬水だった。軟水慣れしている日本人の太郎は水に当たり、腹を下したのだった。太郎は冷や汗をかきながら、そっと立ち上がった。便意が強まり、太郎は再びか細い悲鳴を漏らした。

 「便所。便所はどこだ?」 

 太郎は便所を求め、周囲を見回した。それは徒労に終わった。

 「野ぐそなんて、ごめんだぞ。ふざけんな。絶対嫌だ。立ちしょんとは訳が違う」

 太郎がそう言ったのと同時に、ローラの声が聞こえた。

 「ああ、よかった。あんたがまだここにいてくれて。てっきり付いてきてるとばかり思って歩いていたら、あんた、付いてきてないんだもの」

 太郎は苦痛に歪んだ眼差しをローラに向けた。

 「なんだい、あんた。冷や汗なんかかいて。どっか、悪いのかい?」

 ローラは太郎に歩み寄り、震える肩に手を置いた。触れられて、太郎は益々便意を増した。

 「トイレ、どこっすか?」

 太郎の問いに、ローラが答えられるはずもなかった。

 「トイレ! 便所! うんこ! おしっこ! ウォシュレット!」

 切羽詰まった太郎は便所に関係する単語を思いつく限り口にした。どれか一つでも言葉がローラに通じるのを願って。それもまた、徒労だった。

 「何言ってんだい。さっぱり分からないよ」ローラが困惑した声で言った。

 太郎は泣きべそをかき、途方に暮れた。ローラは益々困惑した。二人のやり取りが停滞した後、今までとは比べ物にならないほど大きな腹痛が太郎を襲った。太郎は悲鳴を上げ、両手を腹部に当てた。太郎の腹部がまた、ぎゅるぎゅる、と鳴った。

 「あんた、もしかして、うんこかい?」

 ローラの言葉を理解できない太郎は、希望を見出せぬまま、絶望した。

 ローラは太郎の手を取り、歩き出した。

 「ああ! 無理! やめて!」

 そう叫びながらも体を使って抵抗する余裕はなく、太郎はローラに引っ張られるままに歩いた。一歩を踏み出すたびに、太郎は便意による苦痛を味わった。ローラと太郎は耕作地を抜け、住宅地を抜け、広場まで辿り着いた。その頃には、太郎の便意は限界に近付いていた。それでも尚、ローラは太郎の手を引いて歩き、谷の北西の端に作られた二棟の建物のそばまでやってきた。千八百平米ほどの広さの建物と、二百五十平米ほどの広さの建物だった。二棟とも屋根がガラス張りになっている。大きい建物のほうには煙突が数か所設置してある。小さい建物には入り口が二つあった。どちらの入り口にもドアは取り付けられていない。ローラは片方の入り口を指差した。便意が警戒心に勝り、太郎は、ここはきっと便所なんだ、という妄信を抱き、躊躇なく、ローラの指差した入り口から建物の中に入った。

 太郎が入った部屋の中央には低木が植えられた鉢が二鉢、置かれていた。両方とも太郎の身長よりも少し高いくらいの鉢植えだった。片方は大きな葉を沢山付けていて、もう片方は葉を一枚も付けていない。葉を付けていない鉢植えの枝には大量の蛍が集まり、光を放っていた。ガラス張りの屋根から入ってくる星明りも相まって室内はとても明るかった。部屋の壁沿いには石で出来た長椅子が、西と南に、L字型に置かれている。その長椅子の座面には等間隔で幾つも穴が開いていた。太郎は長椅子に近付き、穴を覗き込んでみた。明るい室内であっても、穴の底は深く、真っ暗で見えなかった。しかし、穴の底で水が流れている音を聞くことは出来た。それは、谷の中央を流れる小川から引かれている水だった。

 「やべえよ、これ。便器なんじゃね、これ?」

 穴の空いた長椅子は便器で正しかった。穴の底を流れる水は下水だった。地中に設けられた下水道は谷を出たずっと先まで続いていて、遠く離れた西の海岸まで伸びていた。 

 太郎は迷いながらもズボンを下ろし、便器に座った。困惑している心とは裏腹に、体は躊躇なく生理現象を行う。水のような便を大量に排泄し、ようやく、太郎は腹痛から解放され、下痢の症状も治まった。

 「やばかった。これを漏らしてたらとんでもねえことになってた」太郎は便器に座りながら周囲を見回した。「ここを便所だと思って入ってきたけど、なんか、違うような気がしてきた。だって、なんかここ、談話室みたいじゃん。この長椅子に数人で腰掛けて、なんか色々話をするっていってもおかしくない作りじゃん、ここ。やべえな。俺が今、座ってるこれ、便器じゃなかったらまじでここの連中に切れられそうだ。便器じゃない椅子で特大の下痢糞をしましたっていったら、そりゃ切れられる。まあ、大丈夫か。大丈夫だろ。あのおばさん、俺がうんこ漏れそうだって気付いてくれたんだろ。それで便所に誘導してくれたんだろ。大丈夫。これは、便器だ。椅子に穴も開いてるし。ここは、便所だ・・・・・・そうだ、思い出した。ローマ 女 スカトロ。昔そのキーワードでグーグルで画像検索したら、古代ローマのトイレだっていう画像が出てきた。ここにある穴の開いた長椅子にそっくりな画像だった。これ、便器で間違いないですわ。ここの文明レベルも古代ローマっぽいし、間違いないですわ。古代ローマっぽい文明レベルっていうのをよく分かってねえけど。ていうか、過去の俺、なんてあほなキーワードで検索してんだよ。ローマ 女 スカトロ、って、そんなの検索する精神状態ってどんなのだよ。スカトロの性癖ねえのに。笑っちまうわ」

 太郎は自分の発言で笑った。笑いたいだけ笑い、それから、表情を曇らせた。

 「それで、尻毛とかうんこでびちゃびちゃなんだけど、どうすんだ、これ? 尻、何で拭くんだ、これ?」太郎はもう一度周囲を見回した。「トイレットペーパーどころか、普通の紙すらねえ。ウォシュレット、なんてあるわけないか。ここの連中はうんこした後、尻を奇麗にしないのかよ。有り得ねえ文化だろ、それ。まじで、きついわ、それ。やべえよ、この尻でズボンは履けねえよ。どうするか。さっきのおばさん、まだ近くにいるかな? 呼んでみるか? どうやって? 紙がねえ、って叫んだって、伝わんねえだろ。助けて、も、伝わんねえだろうな、やっぱり。どうするか。大声で騒ぎまくってみるか。そうすりゃ、人がここに寄って来るかもしれねえ。いや、駄目だ。恥ずかしすぎる。こんなあほみたいな便器に座ってる姿を不特定多数の人間に見られるなんて、有り得ねえ。じゃあ、どうするか。ふるちんで外に出て、川の水で尻を奇麗にするか? いや、それは止めといたほうがいいよな。そっちのほうが恥ずかしいわ。さっき、ちんこ出しておばさんに張り倒されたし・・・・・・思い出したらめちゃくちゃ恥ずかしくなってきた。なんでさっき、ちんこ出したんだよ、俺。久し振りに女と一対一になったからって、混乱しすぎだろ、俺。あほか、俺。張り倒されるだけで済んでよかったわ。まじで、いかれてんのか、俺」 

 太郎が呟き続けていると、便所に老人が入ってきた。太郎は顔を上げ、老人と目が合い、驚きの余り、「なんだよ、おい!」と叫んだ。

 「なんだ、おい!」老人も驚きの余りに叫んだ。

 老人は怪訝な眼差しを太郎に向けたまま、太郎から離れたところの便器に近付き、ズボンを下ろし、下半身を露にした。そうして、便器に座る。便器に座っても、老人は太郎から目を放さなかった。太郎は老人がズボンを下ろした時点で老人から目を背けていた。太郎の耳に、老人が便を排泄する音が聞こえた。太郎は苦笑いを浮かべた。

 「おしっこならまだしも、うんこは人前でしたら駄目だろ」太郎は呟いた。

 便を排泄し終えた老人が、「いかん。うんこする前に取り忘れた」と言った。

 老人はズボンを下ろした状態で便所の中央に歩いていった。太郎は老人に目を向けた。老人は、大きな葉をたくさん付けた鉢植えのそばに立ち、葉を一枚むしり取り、その葉で尻を拭いた。それから、便器に近付き、尻を拭いた葉を便器の穴に投げ捨てた。老人はズボンを上げ、便所から出ていった。

 「あの葉っぱで尻を拭くのかよ。まじで文明レベル低すぎだろ」

 太郎はズボンを下ろした状態で、大きな葉をたくさん付けた鉢植えに近付いた。そうして、ぎょっとした。今さっき老人がむしり取った葉の切断面から、新芽がもう芽生えてきていたからだ。新芽はとてつもない速さで成長していく。太郎は呆気に取られながら新芽の成長に見入った。二分ほどで、新芽は老人にむしり取られたのと同じくらいの大きさの葉に育ち、成長を終えた。

 「今更、驚かねえぞ。この訳の分かんねえ世界に来てから、こういうむちゃくちゃなのを何度も見てるんだから。びびったりしねえ」

 発言とは裏腹に怯え切っている太郎は、恐る恐る、育ったばかりの葉の表面に触れた。アロエの葉みたいな弾力があり、カシワの葉の表面のようなさらさらとした肌触りだ。太郎は葉の裏面も触ってみた。表面同様さらさらしている。太郎は葉をつまみ、引っ張った。慎重に引っ張ったため弱い力だったが、葉は簡単にむしり取れた。太郎は目を強くつぶり、葉を使って勢いよく尻を拭いた。

 「意外といいな、これ。安物のトイレットペーパーなんかよりよっぽど尻に優しいわ」目を開けて、太郎は言った。

 老人の見様見真似で、太郎は尻を拭いた葉を便器の穴の中に捨てた。それから、ズボンを上げ、便所を出た。

 便所の外にローラの姿はなかった。

 「あのおばさん、いねえのか。あのおばさんなら色々と面倒見てくれそうだったのに。水も飲ませてくれたし、それで下痢になったっぽいけど、まあ、その後、便所にも連れてきてくれたし。やばい。一人がめっちゃ心細い。一人でうろついて、また化け物に襲われたらやばいだろ。くそ、ここの連中には血も涙もねえのかよ。俺みたいなこの世界のことを何も分かってねえ人間を放っておきやがって。弱者に容赦なく自己責任を押し付けてくる上級国民みてえな連中だな、ちくしょう。助け合いの心を持てや、屑」太郎は憤慨しながら広場を見やった。「取り敢えず、人が集まってるところに行くか。人が多くいるところになんか行きたくねえけど、まじで、一人でいるのは、やばい。怖すぎ」

 太郎は広場へ向かって歩き出した。

 「ちくしょう、脚が痛い。歩き過ぎ。今日一日だけで引きこもってた三年間ぶんの歩数の倍以上も歩いてるぞ、多分」

 文句を言いながら歩き続け、太郎は広場の砂を踏んだ。

 広場には、ロトの使い魔が運んできた調理器具が置かれていた。二本の鉄の棒を交差させて作った台が二台あり、一メートルほど離れて置かれている。その二台に橋を架けるようにして鉄の棒が一本、載せてあった。その鉄の棒の中央にはフックが掛けられ、フックには大きな真鍮の深鍋が掛けられている。深鍋の下の地面には何本もの薪が幾つもの大きな石に囲まれて置かれていた。それは急ごしらえのかまどだった。かまどのそばには十人以上が立っていた。その中にはジャックとサラの姿もあった。彼らは十五個の大きなカボチャの皮を鉄製のナイフで剥いていた。皮を剥き終えたカボチャはまな板に載せ、刻んで、潰していた。

 「あんたは! また一人で勝手に動いて!」

 太郎の背中に向かってローラが叫んだ。ローラは太郎に駆け寄った。

 「全く、ギデオン爺さんときたら。便所に入るんだったら私が用を足すまでこの人を見張っといて、って言ったのに」

 太郎はローラをちらりと見た。そうして、彼女と目が合った。太郎は耳を少し赤らめ、ローラから顔を背け、「俺にこんなに付き纏って。この女、やっぱ俺に好意を抱いてんのかな」と呟いた。

 太郎は座り込み、照れ隠しで口笛を吹き、かまどのそばで料理をしている人たちを眺めながら時間を潰した。ローラは立ったまま太郎の見張りを続けた。


 かまどのそばでは調理が進んだ。大きなカボチャは全て潰され、深鍋に入れられた。そこに牛乳と水と塩を加えてから、サラが呪文を唱えた。サラの手から小さな炎が飛び出し、かまどの薪を燃やした。薪は勢いよく燃え上がり、一瞬で真っ黒になった。急速に勢いの弱まった火は熾火となって深鍋を温めた。かまどのそばの人々は交代しながら木製の長いしゃもじを使って深鍋の中身をかき混ぜた。少しずつ、滑らかにかき混ぜられるようになってくる。全体に火が通ったら、そこにレンズ豆を加え、更に二分ほど温め、カボチャのスープが完成した。

 「スープが出来たぞ!」

 サラが叫ぶと、里の人々がかまどのそばに集まってきた。彼らはかまどのそばに置かれていた椀とスプーンを手に取り、順番にカボチャのスープを椀に装っていった。小さい子供の分は大人が装ってあげていた。

 「食事の済んだ食器はここに持ってきな。明日、まとめて洗うから」スープを装う人々に向かって、サラが言った。

 スープの装われた椀を持った人々は広場の方々に散り、思い思いに食事を始めた。

 住宅地と広場の境に張られている幾つものテントの一張りから若い女が出てきた。若い女はかまどのそばまで走ってきて、「食事を取れる怪我人が十四人います。十四人分を装って下さい。それと、彼等の食事を補助するには人手が足りません。後二人、看護に回してください」と言った。

 「分かったよ、リリス」

 そう言ってから、サラは周囲の人間に指示を出した。すぐに十四人分の椀にスープが装われる。それらの椀は二枚の盆に七椀ずつ載せられた。二人の若い男が椀の載った盆を一枚ずつ持ち、住宅地と広場の境に張られたテントへ向かって歩き出した。リリスと呼ばれた女はサラに向かって頭を下げてから、走り出し、盆を持った二人の若い男を追い抜き、住宅地と広場の境に張られたテントへ入った。

 誰一人として笑わない、そんな暗い食事が広場で続いていた。

 「ここに腹を空かした哀れな異邦人がいるんだがね。それを無視して黙々と食事を進めちゃってるよ、あいつら。血も涙もねえのかよ。普通、俺みたいな奴がいたら、食い物の二つや三つ、恵んでくれるもんだろ。それが当たり前の人間の思いやりだろ。それがねえんなら、人間じゃねえよ。まじで有り得ないね、こいつら。ああ、腹が減ったな。腹が減ったよ。察してくれよ。お腹が空いてるのかい? っていう常識的なアクションを俺に向けてくれよ」太郎がぼやいた。

 ローラが太郎の肩を叩いた。太郎はローラを見上げた。ローラは両手を使って食事をしている仕草をした。太郎はローラの意図を理解し、待ってましたと言わんばかりに首を大きく縦に振った。

 ローラは、広場の端っこで一人ぼんやりと立っているデニスに向かって、「あんたもまだ食べてないだろ! 一緒に食事を取りに行こう!」と言った。

 「俺はいらん!」デニスが言った。

 ローラは首を横に振り、それから、かまどのそばに向かって歩き出した。太郎はローラに続いて歩いた。 

 太郎とローラがかまどのそばに来たとき、スープの残りは四分の一ほどになっていた。

 「そいつも食うのか?」ジャックが太郎を見ながら言った。

 「ジャック。意地悪なことを言うんじゃないよ」ローラが言った。

 ジャックは首を横に振り、かまどのそばから離れようとした。

 「ジャック、あんた、まだ食べてないだろ。自分の分を持ってきな」ローラは椀とスプーンを手に持ち、それをジャックに差し出しながら言った。

 「俺はいらねえ。残ってるもんは全部食っちまって構わねえよ」

 ローラの呼び止める声を無視して、ジャックはかまどのそばから離れていった。

 ローラは溜息を吐き、それから、椀にスープを装い、スプーンと一緒に太郎へ差し出した。太郎はそれを受け取り、スープを少量口に含み、ゆっくりと飲み込んだ。

 「味付けが薄いな。不味い」そう言ってから、太郎は不機嫌な態度で食事を進めた。

 ローラは少し迷った後、二個の椀にスープを装った。そのうちの一個の椀には手を付けず、もう一個の椀に装ったスープだけを食した。

 食事が始まってから二十分ほど経って、サラが周囲に指示を出した。

 「怪我人を看護している人間に食事を持って行ってくれ」

 すぐに八個の椀にスープが装われた。深鍋の残りが僅かになった。八個の椀は一枚の盆に乗せられた。中年の男が椀の載った盆を持ち、住宅地と広場の境に張られたテントへ向かって歩き出した。

 「お代わりをする人はいるかい!?」サラが言った。

 数人がかまどのそばに来て、スープを装い、深鍋を空にした。

 「火を消すから、離れな」

 サラが言って、かまどのそばにいた人たちはその声に従った。

 かまどのそばには水がたっぷり入った大きな桶が置かれていた。その桶を軽々と持ち上げた大柄な男が、熾火に水を掛けた。水蒸気が噴き上がる。そうして、火は完全に消えた。火が消えると、炭がひとりでに蠢き始めた。それを見て、太郎はぎょっとした。しばらく蠢くと、炭はぴたりと動きを止めた。太郎はかまどのそばに近付き、炭を見詰めた。唐突に、炭の表面にひびが入り、太郎は驚きの声を上げた。炭の表面がぼろぼろと崩れ落ち、その崩れ落ちたところからは、焼け焦げた跡など微塵もない木肌が覗いた。尚も炭の焼け焦げた表面は崩れ落ちていく。三分ほど掛けて、全ての炭が、火を点けられる前の薪とほとんど同じ状態に戻った。

 太郎は立ち上がり、「もう、次こそは、こういう非現実的な現象が起こっても驚かねえぞ」と言った。

 里の人々の多くが食事を終えたころ、広場の中央にいるネヘミヤが大きな声を出した。

 「みんな集まってくれ! 今回の件についてロト長老からお話がある!」

 広場にいた人々がロトとネヘミヤのそばに集まった。ローラだけは太郎のそばにいる為に、少し離れたところからロトを見詰めた。

 ロトは周囲に幾つも置いてある真新しい棺を順々に見て、それから、里の人々の顔を順々に見た。

 「多くの者が、何が起きたのかを理解できていないだろう。それを説明させてもらう。皆、疲れているだろうが、聞いてくれ」ロトは言った。「昨夜、ジュダヌスが転生魔法を用いてユスターシュ・ドージェを復活させた」

 里の人々が騒めいた。

 「転生したユスターシュ・ドージェは新約神書派の手に落ち、今も逃亡を続けている。その追跡には、スコラドア最後の国王マクヘダッドに忠誠を誓うスコラドア純貴族会の私兵で組織された部隊が当たっている」

 「その部隊に里の人間が組み込まれていないのはなぜです? 我々の魔法の力は里の外の人間に劣らないはずですし、ユスターシュ・ドージェの復活を阻止できなかった責任を取るという意味でも、我々が追跡部隊に参加するのは筋でしょう」サラが言った。

 「我々が部隊に参加しないことは、スコラドア純貴族会の総意だ。それは絶対に覆らない」

 「ロト長老。私は我々が部隊に参加できない理由を聞いているんです」

 「理由などない。スコラドア純貴族会が我々を部隊に加えないと判断した、それだけのことだ」

 「馬鹿な」サラが吐き捨てるように言った。

 「ユスターシュ・ドージェの不朽体は転生魔法に用いられた為に跡形もなく消え去った」ロトは話題を変えた。「三百十五年間、我々の一族が守ってきたものは失われたのだ。しかし、スコラドア純貴族会は今後も我々がこのドライアドの里で暮らしていけるよう便宜をはかってくれることを約束して下さった。我々は、これからも今までと変わらずに、この場所で生きていく」

 「ぼけちまったのかよ、ロト長老」デニスが荒んだ口調で言った。「四十四人・・・・・・四十三人も、死んだんだ。今まで通りには、生きてはいけない」

 広場にいる全員が沈黙した。多くの人が声を殺して泣いていた。

 しばらくして、サラが口を開いた。

 「昨夜里を攻撃した化け物は、ジュダヌスが呼び出したのですか?」

 「状況証拠から、そうなる」ロトが言った。

 「ジュダヌス! 昔からいけ好かない奴だった! 魔法の腕が立つのを鼻にかけた気取り屋め!」

 老人が叫んだ。彼は太郎が便所で出会ったギデオンという名の老人だった。

 「今朝、私とジャックがスコラドア純貴族会の緊急会議に出席する為ロバート様のお屋敷へ行った際、ジュダヌスの遺体をスコラドア純貴族会に引き渡してきた。解剖するなどして、ユスターシュ・ドージェを復活させた者たちに関する情報を得るためだ」ロトが言った。

 「ジュダヌスの遺体は里に帰ってくるのですか?」サラが尋ねた。

 ロトが答えようとするのを遮って、ギデオンが叫んだ。

 「そんなことを聞いてどうする!? サラ!?」

 「奴の埋葬をどうするのか、知っておきたいだけだ」

 「埋葬だと!? ふざけるな! 奴の死体なんざ、切り刻んで、豚の餌にでもしてやれ! あんな裏切り者に墓なんぞ必要ない!」

 「ギデオン。子供たちも聞いている。言葉を選べ」ロトが言った。

 「裏切り者であろうが罪人であろうが、里の人間は皆、里の地下墓地で眠るのだ。それが仕来りだ」

 「仕来りなんぞ、くそくらえだ!」

 「ギデオン! 少し黙っていろ」ロトが言った。「ジュダヌスの遺体が返還されるかどうかは未定だ。だから今、ジュダヌスの遺体の処置について話すことに意味はない」

 フランツが恐る恐る手を挙げた。

 「何だ? フランツ」ロトが言った。

 「カイルは、どうなったんですか?」

 「カイルは逃亡中だ」

 「カイルは、ジュダヌス老師の仲間だったんですか?」

 「そうだ。これも、状況証拠でしかないがな」

 フランツは顔を真っ青にして、押し黙った。

 「カイルもジュダヌスも新約神書派と通じていた、ということでいいんでしょうか?」サラが尋ねた。

 「それに関しては、ジャック、お前に説明してもらいたい」

 そうロトに言われ、ジャックが口を開いた。

 「カイルの仲間と思われる男が、新約神書派に攻撃された旨を叫んでいた。そうして、カイルたちと戦闘を始めた新約神書派と思われる男がカイルたちからユスターシュ・ドージェを奪った。それが俺がこの耳で聞いて、この目で見たことだ」

 「それならカイルとジュダヌスは誰と通じてたって言うんだ!」ギデオンが言った。

 ジャックは少し思案した後、「俺が知るかよ」とぶっきらぼうに言った。

 「ジュダヌスとカイルが何者と通じていたのか、その真実を知るためには調査をするしかないのだが・・・・・・」サラがロトを睨んだ。「その調査も全てスコラドア純貴族会にお任せってわけかい?」

 「そうだ」ロトが強い語気で言った。

 サラは顔をしかめた。

 「事後の処理は全てスコラドア純貴族会が行ってくれる。我々は少しでも早く以前の生活を取り戻せるよう里の復興に力を注ぐだけだ」ロトが言った。

 「復興? 死んだ人間は戻らないっていうのに? ふざけたこと言ってんじゃねえ!」

 そう叫んで、デニスは歩き出し、広場の中央から離れていった。広場の人々は騒然としながらデニスの後姿を見やった。デニスの憤怒に満ちた大声にびっくりした小さい子供が一人、泣き出した。フランツはその子に、「ごめんね」と優しく声を掛けてから、走り出し、デニスを追いかけた。

 「今回の件についての説明は以上だ」騒然としたままの人々に向かって、ロトが言った。「皆、今日はもう休みなさい。残っているベッドは子供や老人に優先して使わせるように」

 「ロト長老。今、どうしてもはっきりと説明してもらいたいことがある」サラが言った。「ユスターシュ・ドージェの魂の器になったのは、カイルとスザンナの子供なのですね?」

 ロトは一瞬言いよどんだ後、はっきりとした声を発した。「その通りだ」

 その声を聞いた人々は、絶句した。

 ジャックが俯きながら歩き出し、広場の中央から離れていった。彼の両の拳は強く握りしめられていた。

 太郎のそばでロトの声を聞いていたローラが膝から崩れ落ちた。そうして、両膝を地面に着けたまま、顔を両手で覆い、泣いた。

 「また泣き出したよ、この女」太郎が言った。「何か、家族が死んだりとか、したのかな、この女? 棺とか一杯あるし、建物ぶっ壊れまくってるし、戦争とか、災害とか、何か、あったんかな、ここ?」

 「転生したユスターシュ・ドージェは自身に危険が迫る状況でも魔法を使うことはなかったと、ジャックが証言している」ロトは言った。「それは、赤ん坊の肉体に転生したユスターシュ・ドージェは本来の力を発揮できていない、ということを意味している。そうであるならば、ユスターシュ・ドージェが世界に災厄をもたらす前に、スコラドア純貴族会が組織した部隊がユスターシュ・ドージェを処理することは充分に可能だ」

 「処理というのは、カイルとスザンナの子供を殺す、ということですか」サラが言った。

 「カイルとスザンナの子供は、ユスターシュ・ドージェの魂の器になった時点で、既に死んでいる。肉体の元々の持ち主の魂を抜き取り、死後の世界に送り、その代価を以て、死後の世界にある別の魂を呼び寄せ、魂を抜いてある肉体に押し込み、定着させる。それが、魂入れ換え魔法とも呼ばれる、世界で最も悍ましい魔法、転生魔法だ。そんなことはお前も知っているはずだ、サラ」ロトが言った。

 「それを分かってはいても、簡単に割り切れるものではない。ユスターシュ・ドージェの魂を宿していようとも、その肉体は罪のない赤ん坊のものなのだから。カイルとスザンナの、二人の子供のものなのだから」サラが言った。

 再び、人々は沈黙した。

 小川の側では一匹の腹を空かした蛙が蛍の群れを見詰めていた。蛍には毒があることを蛙は本能で知っている。しかし、蛙は蛍の群れに飛び込み、蛍を一匹、捕食した。自分が数時間後に蛍の毒で死ぬことになると本能で分かっていながらも。その自殺行為もまた、本能だった。

 「これからスコラドア純貴族会の部隊がユスターシュ・ドージェを処理することに我々が罪悪感を抱く必要は、ない。全ては我々の力の及ばないところで処理される問題なのだ。納得がいかない者もいるだろう。その者たちの気持ちは理解できる。しかし、それでも私は、里の復興にだけ気持ちを向けてくれと皆にお願いする。我々にはどうすることも出来ない問題に目を向けるのではなく、生き残った仲間たち、生き残った子供たちに目を向けてくれとお願いする。私が言えることは、それだけだ」そう言ってから、ロトは地面に座り込んだ。「皆、今日はもう休みなさい。まだ私に何か言いたいことがあるのなら、明日以降ならいつでも話を聞くと約束する」

 ロトの話が終わっても、人々は広場の中央に立ち尽くしたままだった。

 やがて、小さな子供がぐずりだした。そうして大人たちは動き出し、一人また一人と広場の中央から離れていった。

 子供や老人は、住宅地に無傷で残っている家屋に入り、室内に置かれているベッドに身を横たえた。いつ倒壊するか分からないような損傷のある家屋には若い男たちが入り、室内からベッドを外へ持ち出し、それを無傷の家屋に移した。それらのベッドも子供や老人が使用した。使用可能なベッドは全部で二十二床しか残っておらず、全ての子供と老人にベッドを割り当てることは出来なかった。ベッドを使えなかった人々は、住宅地と広場の境に張られたテントを寝床とした。テントの中は風を凌げるものの、地面に何も敷かれていない為、決して寝心地の良い場所ではなかった。そのテントの数も足りない為に、里の人間の半分ほどは星空の下で眠ることになった。

 ロトとネヘミヤも住宅地に移動していた。ネヘミヤはロトに向かって、「あなたもベッドでお休みになってください」と言った。

 「私は外で構わない。ベッドもテントも他の者に使ってもらいなさい」

 ロトは地面に座り込み、そのままゆっくりと目を閉じた。

 「ネヘミヤ。夜通し私のそばに居る必要はない。今夜はレイチェルのそばに居てやりなさい」目をつぶったまま、ロトは言った。

 「何かがあった時、あなたを守る人間が必要です。私はロト長老のおそばに居ます」

 「何かがあった時は、レイチェルを守りなさい。私ではなく、子供や若者を守りなさい。私に護衛をつける必要はない」

 ネヘミヤは思案した後、「分かりました」と言った。そうして、住宅地と広場の境に張られたテントに向かって歩き出した。

 「ネヘミヤ」ロトが言った。「私は、里の皆を守るためなら何でもするぞ」

 「私も同じ気持ちです」ネヘミヤは歩を止めずに言った。

 暖かい夜だった。丘陵から吹いてくる風は徐々に穏やかになっていった。

 

 ようやく泣き止んだローラが立ち上がった。

 「今日一日だけで涙が涸れちまいそうだよ」そう言ってから、ローラは太郎に目を向けた。「あんた、食事が済んだんならいつまでも食器を持ったままでいないで、食器をそこに置きな」

 ローラは、かまどのそばに置かれている食事に使われた幾つもの食器を指差した。

 太郎はローラが指差したところにスプーンと空になった椀を置いた。

 「お袋」ジャックがローラのそばにやってきて、言った。「明朝までは俺がそいつを見張っておくから、お袋は休んでろ」

 「見張りは私が任された仕事だ。私がやるよ」ローラは言った。「あんた、昨夜から少しも休めてないだろ。無理しないで、休んでな」

 「さっきスープを作ってたときに、夜間は俺がそいつを見張るようにと、婆ちゃんに言われた。そいつに見張りが必要ないと判断できるまで、これからずっとな」

 「母さんったら。疲れてるこの子になんだってそんな命令を出すんだい」

 「長老からの命令だそうだ。そいつは朝まで俺が見張る」

 ジャックは太郎に向かって手招きをした。太郎はジャックの仕草を見て、ジャックから顔を背け、助けを求めるような眼差しをローラに向けた。ローラは太郎の背中を軽く押して、ジャックのそばへ行くよう促した。

 太郎はジャックのそばへ行くのを拒み、立ち尽くした。

 ジャックが呪文を唱えた。ジャックの右手の人差し指が緑色に光る。ジャックはその指を太郎の足下に向けた。

 「止めて! 言う通りにしますから! またでかい手を出さないで!」太郎は両手を上げ、叫んだ。

 太郎は恐る恐るジャックに近付いた。

 ジャックは北東を指差し、それから歩き出した。太郎は渋々ジャックの後に続いた。

 「ジャック。わざわざ移動なんてしないで、その人はここで休ませてやればいいじゃないか。その人は害のない徒の人間だって、あんたももう分かってるだろ。異世界にも人間と同じ種族が存在しているのさ。ブロンテ老師の呼び出し魔法は失敗で、それでこんな徒の人を呼び出しちまったんだよ、きっと」

 ジャックは立ち止まった。そうして、太郎も立ち止まった。

 「そうだとしても、こいつをこんな人目に付くところに置いておく訳にはいかない。里を攻撃したのが呼び出されし者だったという事実を、皆は知ったばかりなんだ。こいつが呼び出されし者だっていう話が里に広まっちまってるなかで、こいつの姿がこんな目立つところにあったら、皆、落ち着いて休めないだろ」

 「里を攻撃した呼び出されし者とその人は無関係だろ」

 「今の里の皆にとっては、呼び出されし者ってだけで恐怖と憎悪の対象になる。だから、こいつは人目に付き辛いキャベツ畑のそばのテントの中に閉じ込めておく。今夜だけではなく、これから数日の間な。それが、こいつにとっても、里の皆にとっても最良だ」

 「その考えは長老のものかい?」

 「俺の独断だ」

 「あんたがそいつの見張りを任されたのは夜間だけなんだろ。明朝からは誰がその人を見張るんだい?」

 「昼間はお袋がこいつを見張れっていうのが、命令だ」

 「明朝からは、その人をテントに閉じ込めておくかどうかも含めて、私の判断でやらせてもらう。ジャック、夜の間だけはあんたの好きにしな」

 「こいつが害のない存在だという確証はないんだぜ、お袋。里の隅にあるテントにこいつを閉じ込めておけば、何か問題が起きた時に対処し易いんだよ」

 「何の問題が起きるっていうんだい」

 「こいつが昨夜の呼び出されし者と同じように里を攻撃する、とかな」

 「有り得ないだろ、そんなこと」

 「どうしてそう言い切れる?」ジャックは険しい目でローラを睨んだ。「里の老師が里の人間を殺しまくって、ユスターシュ・ドージェを復活させたんだ。カイルが、泣き虫で臆病だったあのカイルが、俺たちを裏切ったんだ。仲間だと、友達だと思ってた奴らでさえ裏切るっていうのに、こんな得体の知れない奴のことをどうして安全だと信じられるんだ」

 ローラは反論できず、黙った。

 「ユスターシュ・ドージェの不朽体を管理するという使命感が薄れたまま、暖気に生きてきた挙句、この様だ。俺たちには、危機感が足りなかった」

 ジャックは再び歩き出した。太郎も続いて歩き出した。

 「ちょっと待ちな、ジャック」ローラは足下に置いておいたカボチャのスープが装ってある椀を手に持ち、それをジャックのほうへ差し出しながら、言った。「あんたの分、取っておいたんだよ。もう冷めちまってるけど、栄養に変わりはないからね。その人を見張りながらでも食事は取れるだろう。持ってきな」

 「いらねえ」振り向きもせず、歩き続けたままでジャックは言った。

 「何も食べなかったら体を壊しちまうよ!」

 「ユスターシュ・ドージェも追えない。カイルをぶん殴ることも出来ない。そんな体なら壊れたって構わない」

 「そんな投げ遣りなことを言うんじゃないよ!」

 「お袋。今は、放っておいてくれ」

 ローラは再び、黙った。そうして、スープの入った椀を持ったまま、ジャックの姿が見えなくなるまで立ち尽くした。

 ジャックと太郎は広場を出て、住宅地を歩き、耕作地に入り、更に歩き、キャベツ畑のそばに張られたテントの前に立った。ジャックは太郎にテントの中へ入るよう手振りで指示を出した。太郎はその指示に従い、テントの中に入った。

 テントの中には蛍が五匹紛れ込んでいた。明滅する緑色の光が太郎の視界を照らした。

 「ベッドも布団も何にもねえ。まさか、こんな所で夜を過ごせ、って訳じゃねえよな」太郎は言った。

 太郎は中腰でテントの中を行ったり来たりした後、テントを出た。そうして、テントのそばに座り込んでいたジャックと目が合った。ジャックは太郎にテントの中へ戻るよう指示を出した。太郎はその指示に難色を示した。ジャックはどすの利いた目で太郎を睨み付けた。太郎は渋々テントの中に戻った。

 「怖すぎんだろ、あの赤頭。丸っきりヤンキーじゃん」

 そう呟いてから、太郎は座り込み、しばらくして、寝っ転がった。

 「土の上で寝るなんて最悪の気分だ。蟻とか寄ってきそうで落ち着かねえよ。ああ、嫌だ、嫌だ。布団で眠りてえ。家に帰りてえ」

 太郎は疲弊していた。しかし、不慣れな環境のために眠ることが出来ず、悶々としたまま夜を過ごした。

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