第6話 ドライアドの里 ブラッシュアップ不足バージョン

 テントの中で、太郎は仰向けに横たわっていた。太郎は半袖のシャツを着ていて半ズボンを穿いていた。テントの入り口から夕日が射し込み、太郎の閉じられた瞼を照らした。太郎の瞼が橙色に染まった。

 太郎は目を開き、夕日の眩しさですぐにまた目を閉じた。

 頭部と背中の鈍い痛み、体全体に広がる疲労感、そして、見知らぬ場所で訳の分からない体験をした記憶。それら全てを有していながらも、太郎は淡い期待を抱きながら、全て夢だったのだと自分に言い聞かせた。そうして、目をつぶりながら、叫んだ。

 「ばばあ! てめえ、勝手に部屋に入りやがったのか!? カーテンが開いてるぞ! ふざけんな!」

 返事がなくて、太郎は一層と声を大きくした。

 「ばばあ! 夕方ならパートから帰ってきてるだろうが! いないふりをして無視すんじゃねえ! 切れるぞ!」

 「ああ、びっくりした! いきなり大きな声を出すんじゃないよ!」

 赤い髪の女がテントの中を覗き込みながら言った。

 太郎は理解できない言語で声を掛けられ、びくっと体を震わせ、両目を勢いよく開いた。亜麻布を生地に使ったドーム型のテント、その天井を見上げて、太郎は自分の居る場所が自室ではないことを思い知り、唖然とした。

 「ほら、頭と背中の怪我を見てあげるから、体を起こしな」

 そう言いながら、赤い髪の女はテントの中に入ってきて、太郎のそばで片膝をつき、ほっそりとした右手を伸ばし、太郎の左肩に触れた。

 「何なんすか!?」

 太郎は叫びながら赤い髪の女の手を振り払った。

 「何すんだい! 怪我を見てやるって言ったでしょうが! 体を起こすのを手伝ってやろうとしたのに!」赤い髪の女はきつい目で太郎を睨み付けた。

 「ローラさん。その人に俺たちの言葉は通じないって、ジャックが言ってたでしょ」

 金髪の少年がテントの中を覗き込みながら、赤い髪の女に向かって言った。

 「ああ、そうだったね」そう言ってから、ローラはきつい目を和らげ、甘ったるい声音を作った。「怒鳴ったりして悪かったね、あんた。ほら、体を起こしましょうね。手伝ってあげますよ。大丈夫。怖くないですよ」

 ローラは太郎の左肩にそっと右手を伸ばした。体に触れられる前に、太郎はその手を振り払った。

 「体を起こしてやるって言ってるんでしょうが!」

 「だから、言葉が通じないんだって」

 「じゃあ、どうしろっていうのさ、フランツ?」

 「寝かせとけばいいじゃん」フランツと呼ばれた金髪の少年は投げ遣りに答えた。

 ローラは腕を組み、大きく息を吐いた。

 「どこなんすか、ここ」太郎が怯え切った声で言った。

 「ちゃんと喋れるみたいだね。何を言ってるのかはさっぱり分からないけど」ローラは立ち上がった。「目も見えてるし、体も動く。昼ごろからは寝息を立ててたくらいだしね。怪我してるって言っても、背中の軽い打撲と後頭部に小さい瘤を作ってるだけだし、まあ、大丈夫だろう」

 「その人、目が覚めたんだし、さすがにもう見張ってたほうがいいよね。俺が見張りをやるよ」

 テントから出てきたローラに向かってフランツが言った。

 「見張る? どうして?」

 「だって、ジャックが言ってたじゃん。この人はブロンテ老師が呼び出した異世界の者だって。そんなやつを放っておくのは危険でしょ」

 「断言しますよ。この人は普通の人間の男です。上着もズボンも取り換えてやって、体中のなにからなにまで見た私が言うんだから、間違いない」

 「普通の人間の姿をしてたって、安全とは言い切れないじゃないか」

 「悪意のない奴だって、ジャックも言ってただろう。過剰に警戒する必要はないさ」ローラはフランツの体を優しく押し、テントから遠ざけた。「私もあんたもやらなきゃならないことがたくさんあるんだ。ロト長老の使い魔がいても全く人手が足りない今の状況で、見張りなんかに人を割く余裕はないよ」

 「何かがあってからじゃ遅いだろ。見張りは必要だよ」

 「フランツ! 棺を作るのをさぼりたいからって見張り見張り言うんじゃないよ!」

 「別に、さぼりたいわけじゃない」フランツはか細い声で言って、それから俯いた。

 「辛いのも悔しいのも悲しいのも、みんな一緒さ、フランツ。みんな、本当なら何もしないで泣いていたいんだ。だけど、生き残った私たちがそんなんじゃ死んでしまった人たちを弔ってやれないだろ。フランツ、あんたも辛いだろうけど、頑張って棺を作って、みんなを安らかに眠らせてあげよう」

 「それじゃあ、兄ちゃんは・・・・・・」フランツが涙を流した。「弔ってやれない兄ちゃんは、安らかに眠れないの?」

 フランツの涙を見て、ローラは自分の発言を後悔した。すぐさま慰めの言葉を発しようとしたが、適切な言葉が見つからなかった。ローラにはフランツを抱きしめることしかできなかった。

 長身のローラに抱きしめられると、身長が百六十センチメートルほどあるフランツのがっしりとした体がとても小さく見えた。そうして、フランツは変声期前の声で泣いた。その泣き声を、太郎はテントの中で聞いていた。

 「何なんだよ、あいつら。いきなり怒鳴りつけてきたり、泣き出したり。感情の起伏がおかしいんじゃねえのか? やべえよ。あいつら見た目も日本人じゃねえし、何なんだよ。まじで恐ろしいわ」太郎は呟いた。「イギリスとかフランスとか、そっち系の人種だよな、あの赤い髪のおばさん。言葉は、英語、じゃねえよな。全然聞いたことない言葉だ。ポルトガル語的な何かか? ていうか、ここ、日本じゃねえのか? いや、有り得ねえだろ。俺は家でシャワーを浴びてただけなんだ。それで海外に来る訳ねえだろ。いや、でも、なんか馬に乗っけられてたよな。めっちゃすげえスピードで長いこと走ってたような。それで海外まで来たんか? いや、あほか、俺は。日本からじゃ陸路で海外になんか行けねえ。やべえ、頭が回んねえ、どうすんだ、これ」

 思考をそのまま独り言にする癖が太郎にはあった。それは、三年間の引きこもり生活で身に付いたものだった。

 「吹っ飛ばされた。そう、吹っ飛ばされたんだ、俺。何で吹っ飛んだんだか知らんけど、吹っ飛んで、空中を舞って、地面に落下して、そっから記憶がねえ。それが、夜だった、よな? それで、今は、夕方か。その間の記憶がねえ。寝てた? 気絶してた? 気絶とかあんのか? まあ、結構な時間意識がなかったのは確かだ。その間に飛行機にでも乗せられて、イギリス辺りに運ばれた? いや、何でイギリス? イギリス人っぽい人間がいたからって、ここがイギリスって考えるのは安直すぎる。ポルトガル語どこいった。じゃあ、ポルトガルか、ここ? いやいや、ポルトガル語を喋ってる奴がいたからって、ここがポルトガルとは限らねえ。そもそも、本当にポルトガル語だったんか、あれ? くそ、まじで訳が分かんねえ。まじで、どこだよ、ここ・・・・・・そうだ、スマホ!」太郎は自身が身に付けているシャツとズボンを手で探った。シャツもズボンもポケットがない作りだった。太郎の手は空しく衣服の生地の表面を擦っただけで終わった。「シャワーを浴びてたんだから、スマホなんか持ってるわけねえか。家にも警察にも連絡できねえってのは、やばすぎだろ。赤い髪のおばさんに借りるか、スマホ。言葉通じねえっぽいけど、スマホ、くらいはさすがに通じるよな・・・・・・いや、ちょっと待て。月。そう、月だ。思い出した。青い月。俺は青い月を見た。青い月って、そんなん月じゃねえよな。ここ、本当に地球か? 地球外? ここ? 地球外でスマホって使えんの? いや、いやいや、そんな、あほな。あほか、俺。地球外? ねえよ。馬鹿を言ってるんじゃないよ、俺。地球だよ、ここは。当たり前じゃん、そんなの。なんか、ヨーロッパとかその辺りからだと月って青く見えるんだろ、たぶん。ブルームーンとか、聞いたことあるし。あるいは、唯の見間違い・・・・・・青い月は見間違いだったとして、あの死体は、見間違いか? 馬に乗せられる前に見た、あの何人もの死体。あれは、見間違いようがねえよな。あれって、何かの事件現場だったのか? あるいは、戦場? 内戦? ここ、中東とか、そっち系? あの死体、殺したのは俺を馬に乗せたあの金髪の野郎どもか? あの赤い髪のおばさんは金髪の野郎どもの仲間か? 分からねえ。分かりっこねえよ、そんなん。まあ、あの死体が何だろうが、金髪の野郎どもが人殺しだろうが何だろうが俺には関係ねえだろ。俺は無関係だし、俺が殺されるとかはねえだろ。唯の日本人だもん、俺。殺される理由がない。実際、今も俺、生きてるし。赤い髪のおばさんも、怒鳴ってたけど、敵意とか殺意みたいのはなかったし。なかったよな、多分」

 強い風が吹いて、テントがばさばさと煽られた。それで太郎は驚き、体を震わせ、こわばった表情でテントの天井を見詰めた。少しして、気持ちが落ち着き、太郎はまた呟き始めた。

 「何で俺はこんなところにいるんだ? 俺、拉致された? 何で、俺が拉致される? 拉致される理由がねえ。そもそも、家の風呂にいたんだ、俺は。日本の一般家庭の風呂にテロリストとかが押し入ってこねえだろ、普通・・・・・・待てよ、そういや親父の奴が引きこもり支援だとか就労支援だとかふざけたことを言ってやがったな・・・・・・引きこもりを強引に収容施設に押し込む腐った業者がいるって、ネットで見たことがあるぞ。まさか、やりやがったのか、あのくそじじいとくそばばあ。一人息子を、引き出し屋の腐った業者に押し付けやがったのか。そうだよ、それなら話の辻褄が合う。くそじじいとくそばばあが、引きこもり支援を謳った拉致監禁当たり前の引き出し屋を家に入れて、そいつらがシャワーを浴びてた俺を薬で眠らすだかなんかして、施設に運びやがったんだ。そうだ、間違いねえ、理にかなってる。あの死体は、作り物だ。馬の死体も、作り物だ。青い月も、作り物だ。馬に乗っけられた時のあのばかでかい手は、機械だ。真っ赤で気色の悪いちびの化け物どもは、ペッパーくんみたいなロボだ。体が思い通りに動かなくなって、望んでもいねえのに女みたいな奴に向かって走っちまって、そのまま体当たりを仕掛けちまったのは、薬か何かの影響だ。その後、俺を吹っ飛ばしたのは、強風を作り出す何らかの装置だ。全部が全部、施設のショック療法か何か、いかれた訳の分からねえプログラムなんだ。外国人で周りを固めるのも、プログラムの一環だ。聞いたこともねえ言葉でがんがん声を掛けてくんのも、プログラムの一環だ。引きこもりに様々な刺激を与えて更生を促す、的な、見当はずれのくそプログラムなんだ、全て。多分、ここは日本。日本の、僻地。僻地のくそ施設。あの外国人どもは全員、施設の職員だ。間違いねえだろ、これ。これしか考えられねえもん。ちくしょう、ふざけやがって。俺をそんなくそみてえな所にぶち込みやがって、くそじじいもくそばばあも施設のくそ野郎どもも、絶対に許さねえ」

 太郎は怒り、顔を醜く歪めた。そうして、勢いよく立ち上がった。

 「いてえ! 頭と、背中! ていうか、体中がいてえよ! くそ、ふざけんなよ!」太郎は後頭部をさすった。大きな瘤に触れて、痛みが走り、太郎は涙目になった。「ふざけやがって。俺をこんな目に合わせやがった奴らは絶対に許さねえ。絶対に訴えてやる。暴行罪とか誘拐罪とかで、訴えてやる。さっきの赤毛の女から無理やりにでもスマホを奪い取って、そんで、警察に電話して、このくそ施設のくそ野郎どもの人生を終わらせてやる」

 太郎はテントを出て、眩しい夕日を正面から浴び、目を瞬いた。

 目が眩しさに慣れてから、太郎は眼前に広がる景色を見た。そこは、北、東、南を丘陵に囲まれた広大な谷だった。丘陵には木々が生い茂っており、その木々は全て色鮮やかな花を咲かせている。そこから色とりどりの花びらが舞い落ちて、風に乗り、谷の真ん中を走る小川まで飛んでいき、清涼な小川の流れをより一層と美しいものに変えていた。東の丘陵には穏やかな滝があった。それが小川の源流であり、小川は西へと流れている。谷の西側は丘陵に遮られておらず、その先には峡谷が伸びていて、小川はその峡谷へ流れ出て、西へ西へと続いていた。谷には幾つもの建物があったが、それらの多くは倒壊していた。建物はどれも煉瓦で作られていた。倒壊している建物も倒壊していない建物も、夕日を浴びて赤茶色に輝いている。建物が集中して建てられている場所は小川を挟んだ北側にあった。そこはこの谷に住む人々の住宅地だった。住宅地のそばには耕された畑があった。その耕作地で、収穫期の小麦が風に揺れていた。小麦畑の他にも、カボチャやキャベツなどの野菜が栽培されている畑があり、サクランボやリンゴなど果物の生る木も植えられていた。食用目的以外に栽培されている植物もある。しかし、それらの農作物の多くは乱雑に切り裂かれたり踏み潰されたりして駄目になっていた。小川を挟んだ北側には広場も設けられていた。そこには八十人ほどの人間の姿があった。広場は草一本生えていない平坦な砂地だった。小川を挟んだ南側は一面が草地で、畑は作られておらず、建物の数も少なく、人の姿もなくて広々としていた。そこは放牧地になっていて、馬、牛、豚、羊が放し飼いになっていた。

 太郎が入っていたテントは、谷の北東の隅にあるキャベツ畑のそばに張られていた。そこは谷を一望できる高所に位置している。夕日に染まる谷を呆然と眺めながら、太郎は冷や汗をかいた。

 「日本に、こんな風景あるんだっけ? 日本っぽくないよな、これ。スケールでかすぎる感じが日本ぽくねえもん、これ。どう見ても、海外だよな、これ。なんか建物とかぶっ壊れてるし、畑とかめちゃくちゃになってるし、爆撃でもされたのか、これ? やっぱ、ここって中東? 平和なところではないよな、どう見ても・・・・・・いや、待て。これも、あれだ、引きこもりに刺激を与えるプログラムの一環だ。わざと建物とか畑とかをめちゃくちゃにしといて、それを見た引きこもりの危機感を煽って、自立心とか何かそういうのを芽生えさせようとかいう見当違いのくそプログラムなんだ。そうとしか考えようがねえ。だって、俺が戦地とかに居る訳ねえもん」太郎は唇を舐めた。「引きこもり支援か何かの施設にしてはスケールがでかすぎるけど、まあ、引きこもりとか社会問題だし、国とかが支援金でも出してて羽振りがよくなってるんだろ、きっと。それで、なんか、東南アジアとかそういう土地が安そうな所にでかい施設を構えたのかもしれねえ。まあ、海外だとしても、大丈夫だろ。スマホがあれば、大使館に連絡を取るとか、国際電話を掛けるとかで、何とかなるだろ、多分。いや、そもそも海外と決めつけるのが変だろ。海外っぽい風景の日本かもしれねえ。横浜中華街、的な。日本にもこういう風景はあるんだろう、北海道とかに。まあ、日本だよ、大丈夫。引き出し屋に海外まで連れ出された、なんて話は聞いたことねえし、常識的に考えて、日本だろ、ここ。絶対、大丈夫、日本だ」

 太郎が必死になって自分を安心させようとしている間に、フランツが泣き止んだ。ローラは抱きしめていたフランツを放してから振り返り、太郎を見やった。

 「あんた! 寝てなきゃ駄目でしょうが! テントに入ってなさい!」

 「言葉が通じないんだって」フランツは無理に笑顔を作って、言った。「ローラさん、わざとやってるでしょ」

 ローラはフランツの方へ視線を戻し、そこにある健気な笑顔に胸を痛めながらも、「さあ、一緒に戻りましょう」という声を振り絞り、フランツの背中を優しく押し、人が多く集まっている広場に向かって歩いていくよう促した。

 太郎はローラに声を掛けようとしたものの、急に緊張してしまい、もじもじしながら声を詰まらせた。ローラとフランツが歩き出す。二人と太郎の距離が少しずつ離れていく。太郎は慌てふためき、裏返った声を上げた。

 「スマホ! プリーズ! スマホ! オア! テレフォン! プリーズ!」

 太郎の声を聞くや否や、ローラとフランツは素早く振り返り、呪文を唱え始めた。呪文を唱え終えると、二人の手に光が点った。光の点った手を二人は揃って太郎へ向けた。

 「何!? 何なんすか!?」太郎は叫んだ。

 ローラとフランツはうろたえる太郎に向かって手を向けたまま、太郎とその周囲の様子を注意深く観察した。五秒ほどそうしてから、ローラは大きな息を吐いた。

 「呪文を唱えたわけじゃなかったみたいだね。どこにも魔法を使った形跡がない。全く、紛らわしい」

 ローラが呪文を唱えた。ローラの手に点った光が消えた。続いて、フランツも呪文を唱え、手に点った光を消した。

 「あんた、テントの中に寝かせてあげようか?」

 ローラが太郎に近付いた。太郎は後退りした。

 ローラは首を横に振った。それから、ローラは再びフランツと一緒に広場へ向かって歩き出した。

 二人との距離が遠く離れてからようやく、太郎は緊張から解放され、調子の戻った声を発した。

 「スマホ、プリーズ、ってはっきり言っただろうがよ! スマホ貸してけよ、けちんぼ! スマホは世界共通語だろ! 英語のプリーズくらいどこでだって通用するだろ! 普通伝わるだろ、俺の意図! スマホもプリーズも伝わんねえっつたら、お前、それ、原始人だろうがよ! ふざけんなよ! ふざけんな!」

 太郎は地団太を踏んだ。

 「いてえ!」

 太郎は素足で小石を踏みつけて悲鳴を上げた。太郎はうずくまり、痛みと怒りで全身を震わせた。

 「最低の引きこもり支援施設だ。こんなん支援じぇねえよ。虐待だよ、これじゃあ。これじゃあスマホなんか貸せねえよな。すぐに外部に助けを求められちまうもんな。人権もくそもねえくそ施設。ちくしょう、絶対に逃げ出してやる」太郎は立ち上がった。「電話だ。電話かパソコンを見つけるんだ。それで外部に連絡する。スマホを手に入れるよりもハードル低いだろ、そっちのほうが。こういう施設なら固定電話とパソコンぐらい設置してるだろ。それを見つけちまえばこっちのもんだ。すぐに警察を呼んで、こんな所とはおさらばだ」

 太郎が入っていたテントの中には靴が一足置かれていた。それは太郎の為に用意されていた物だったが、太郎はその存在を見落とし、素足のまま、小石を踏まないよう足下に注意しながら、建物の多い住宅地に向かって歩き出した。

 百メートルほど歩くと、太郎は疲弊した。足が重くなり呼吸が激しくなる。それは、後頭部と背中の怪我とは関係ない、単純な体力不足だった。夕日の眩しさが目だけでなく体全体に染みる。三年ぶりにまともに浴びた日光は太郎の体力を更に奪っていた。太郎は悪態をつきながら弱々しい足取りで歩き続け、耕作地を抜け、住宅地に辿り着いた。そこは耕作地よりもずっと地面の土が固かった。太郎の足の裏が余計に痛んだ。

 建物はどれも平屋だった。倒壊していない建物の前で太郎は足を止めた。その建物には出入り口が一か所だけ設けられていた。身長百七十センチメートルで肥満体型の太郎でもすんなり通れるほどの高さと幅のある出入り口だった。出入り口には錠前のない木製のドアが取り付けられている。ドアは閉まっていた。太郎はドアをノックした。乾いた音が出て、手の甲が痛んだ。

 「なんでノックなんかしてんだよ、俺。馬鹿かよ。施設の職員に見つからないように通信手段を手に入れなきゃいけないんだから、忍び込むんだろうがよ」

 太郎は恐る恐る金属製のノブを握り、ドアを開いた。そうして、建物の中へ入った。

 室内は一部屋のみの作りで、その広さは八坪ほどだった。採光のために東西に設けられた窓、その西側の窓がしっかりと夕日を取り入れていて室内は明るかった。窓にはガラス戸が設置されている。室内の床は土間で、家具の下にのみ羊毛で作られた絨毯が敷かれていた。室内の西側には木製の机が一脚置かれていた。その机を囲むようにして三脚の椅子が置かれている。食器棚があり、そこにはフォークやスプーン、椀や皿などが仕舞われていた。室内の東側には、藁を布で包んで作ったベッドが二床置かれていた。二床とも掛布団があり、枕はなかった。衣装棚があり、そのそばには靴が四足置かれている。衣装棚の上には兎や狐などを模したぬいぐるみが置かれていた。室内に置かれているめぼしい物はそれらで全てだった。

 「なんだよ、これ。貧乏くさいとか、そんなレベルじゃねえよ、これ」室内を見回しながら太郎は言った。「電化製品が一つもねえ・・・・・・これは、ベッドか? 不細工なベッドだな。こんなあほみたいなベッドをわざわざ作るより、ニトリとかで安いベッドを買っちまったほうがいいだろ。馬鹿かよ、この施設を運営してる奴らは・・・・・・恐らく、この部屋は施設にぶち込まれた引きこもり連中が使う部屋だな。しかし、酷い部屋だ。牢屋だよ、これじゃあ。引きこもりを犯罪者扱いかよ。まじで、くそ施設」

 太郎は衣装棚のそばに置かれている四足の靴に目を留めた。子供が履く大きさの靴が二足、男性が履く大きさの靴が二足あった。太郎は四足の靴に近付き、そのうちの一足を手に取った。それは革のブーツだった。

 「サイズ、俺と同じくらいか」太郎は革のブーツを持ったまま思案し、それからまた口を開いた。「ちょっと借りても、罰は当たらねえよな。裸足で外を歩くとか、酷すぎるし。もうめちゃくちゃ足の裏が痛いし。ちょっと借りるくらい、許されんだろ」

 太郎は革のブーツを履いた。革が固くて履き心地は悪かったが、ほんの少しだけ靴のサイズが大きかったため足が痛んだりはしなかった。

 太郎はもう一度室内を見回してから外へ出た。太郎は倒壊していない別の建物にも入ってみた。建物の作りも室内に置かれている物も、最初に入った建物と大差なかった。その後にも二軒、建物に入ってみたが、電化製品とは無縁の質素な室内を見るだけで終わった。

 「この辺にある建物全部、ぶち込まれた引きこもり用みたいだな。施設の職員が使う事務所なんかは、離れたところに作ってんのか?」

 太郎は小川の南側を見やった。そこには倒壊している建物が二軒、倒壊していない建物が一軒あった。倒壊していない建物は大きな畜舎だった。

 「あれって、畜舎だよな。さすがに畜舎に事務所とか設けねえよな。でも、他にめぼしい建物なんかねえ。この谷の中には事務所とか置いてねえのか? それなら、まずは谷から出ねえとだな」

 太郎は谷の全体を見回した。そうして、谷の外へ流れ出ている小川に沿って歩いていけば容易に谷の外へ出られるだろうと考えた。

 「そろそろ暗くなっちまうかもしれねえけど、小川に沿って歩いてれば遭難したりはしねえだろ。いや、そもそも、引きこもり連中のいる場所から遠いところに事務所とか職員の休憩場所とか作んねえだろうから遭難もくそもねえか。谷を出たらすぐに、電話とかがある場所が見つかるだろ。それは大丈夫として、問題は、ここから小川沿いに谷の外まで歩いていこうとすると、人がいっぱい居る広場みたいなところを通過しないといけねえことだよな。広場にいる連中が施設の職員だとしたら、谷の外へ出るのを阻止されるかもしれねえ。ていうか、そもそも、あんなに人がいっぱい居るところに近付きたくねえ」

 太郎はもう一度小川の南側を見やった。それから、小川に架かっている三本の橋を見やった。橋は谷の東と西と中央に一本ずつ架けられている。どの橋も煉瓦を使って作られていた。

 「小川に橋が架かってるし、それを渡って向こう側から広場の連中に見つからないように谷の外を目指すか。ああ、でも、橋まで結構歩くっぽいし、遠回りになるし、向こう側は牛とか馬とかがいておっかねえし、牛とか馬とかのうんことか落ちてそうで嫌だし、正直、あっち側から谷の外を目指すのも辛いな」

 迷った末に、太郎は小川の南側に渡ることを諦め、砂地の広場を通って谷の外を目指すことに決めた。

 小川に沿ってしばらく歩き、広場に近付くと、過剰な自意識によって太郎は俯いた。そのまま地面を見ながら歩き続ける。疲労も、慣れない靴の不快感も、後頭部と背中の痛みも全てを忘れるほどに、太郎は人の目を恐れた。広場にいる人々の話し声が聞こえてくる。言葉は分からずとも、幾つもの声の響きを聞くだけで太郎は一層と委縮した。

 住宅地と広場の境には、テントが幾つも張られていた。テントの大きさは大小様々で、継ぎ接ぎだらけの古いテントもあれば傷一つない真新しいテントもあった。太郎はそれらのテントの脇を素通りした。

 地面が黒っぽい土から白っぽい砂に変わったのを見て、太郎は呟いた。

 「判断を間違った。遠回りでもなんでも、牛とかがいるほうから谷の外を目指すべきだった。まじで、人が多くいる場所は辛い。ここにいる奴らは近所の連中でもねえし昔の知り合いでもねえけど、見られんのは、めっちゃ恥ずかしい」

 人の声が近くなるほどに太郎は早足になった。尚も深く俯いて、首だけでなく腰までも曲げた。前方は全く見えていなかった。そうして、太郎は人にぶつかった。

 「すみません!」

 太郎は反射で叫んだ。それから、ぶつかった相手に目を向けた。太郎がぶつかった相手は、身長二メートル以上の筋肉質な男だった。筋肉質な男は頭部全体に包帯を巻いていた。

 「ブロンテ老師が呼び出したっていう、役立たずか」筋肉質な男が陰気な目で太郎を見下ろし、呟いた。

 太郎の顔から血の気が引いていった。太郎は筋肉質な男からそっと目を逸らし、がたがたと震えながら、「すんませんした」と囁いた。

 筋肉質な男は太郎を見下ろしたままこぶしを強く握りしめた。そのこぶしをわなわなと震わせながら、筋肉質な男は、「どうして、カフカではなくお前みたいな奴がここにいるんだ」と憎しみを込めて吐き捨てた。

 「デニス! あんた、まだ寝てなきゃ駄目でしょうが!」

 広場に居たローラが大声を出した。ローラは太郎たちのそばに駆け寄った。

 「家畜を畜舎に入れなきゃならん」デニスと呼ばれた筋肉質な男が言った。

 「他の人間にやらせればいいだろ。怪我人は寝てな」ローラが言った。

 「俺以外に動物従順魔法を使える奴は残っていない」

 「魔法なんかなくったって、家畜を畜舎に入れるくらいできるだろ」

 「魔法なしでやってたら夜になっても終わらんよ」

 「父さん」ローラに続いて走ってきたフランツがデニスに向かって言った。「俺が家畜を畜舎に入れるよ。動物従順魔法なら兄ちゃんに教わって少しだけ使えるんだ」

 「カフカのように上手く出来ないだろ、お前は」デニスが言った。「雑な仕事をされて家畜が苛立ってしまっては面倒が増えるだけだ。お前は棺を作る仕事を手伝ってろ」

 フランツは俯き、小さく震えた。

 「そんな言い方ないだろ、デニス!」

 ローラの怒声を無視してデニスは小川に架かる橋に向かって歩き出した。フランツは顔を上げ、デニスの後姿に寂しそうな目を向けた。

 デニスが離れたことで恐怖から解放された太郎は弛緩し、「なんなんだよ、あのプロレスラーみたいなおっさんは」と呟いた。

 ローラは大きく息を吐いた。それから太郎に向かって、「あんた、こんなところでうろちょろしてないでテントで休んでな・・・・・・なんて言っても、言葉が通じないんだったね」と言った。

 フランツが広場の中央に向かってとぼとぼと歩き出した。ローラはフランツを哀れむように見詰めて、また大きく息を吐き、フランツの後に続いて歩き出した。

 太郎はローラの歩いていく先を見やった。広場の中央で行われている作業が目に入る。その作業に太郎は見入った。

 広場の中央には丸太が一本、立てて置かれていた。直径は一メートル以上で、長さは二メートル以上の丸太だ。丸太の近くには赤い髪の老女が立っている。老女は鉄で出来た剣を片手に持っていた。老女は呪文を唱え、剣を地面に投げた。剣は着地すると高音を響かせながらどんどん体積を増していった。剣はあっという間に巨大な鉄の塊に変わった。鉄の塊は更に変化を続ける。尖ったり窪んだり丸まったりを繰り返しながら、鉄の塊は人間の姿を形作っていく。そうして、体長三メートル以上の巨人が出来上がった。巨人の鉄の体が夕日を浴びて暗い朱色に染まる。巨人の右手部分は鋭利な刃になっていた。その刃を巨人は振り上げ、立てて置かれている丸太へと振り下ろした。恐ろしい力の一太刀が丸太を両断する。巨人は再び刃を振り上げ、丸太へと振り下ろす。それを何度も繰り返し、丸太はどんどん切り分けられていった。丸太を全て板として使いやすい厚みの木材に加工すると、巨人は見る見る小さくなっていき、やがて元の剣に戻った。

 「どういうことなんだよ、あれ。なんで、巨人みたいなのが出てきて、丸太を生ハムみたいにスライスしてんだよ。しかも、巨人みたいなの、消えちまった。俺の目の錯覚? そんなわけねえ。ホログラム映像? そうかもしれねえ。なんかそんな感じの、トリックだ、さっきのは。仕組みはさっぱり分からん。でも、トリックだ。トリックのはずだ。それ以外は有り得ないんだから。あんなの、トリックでなきゃ嘘だ。あんなの、引きこもりに刺激を与えるためのトリックだ。金の掛かったプログラムだ。あんなこと、現実に有り得ない。トリックだ」

 額を湿らす汗を手の甲で乱暴に拭いながら、太郎は自分に言い聞かせるようにして呟き続けた。その間にも、広場では作業が続いていた。巨人が切り分けた木材を、広場に居る男たちが拾い集めている。そうして集めた木材を、男たちは鋸を使って寸法を調整した板に仕上げていく。鑢や鉋も使い、滑らかな板が出来上がる。その板にダボ穴を掘るのは広場に居る女たちの仕事だ。鑿と鎚を使って器用に仕事を進めていく。他の仕事に従事している女たちも居た。板の切れ端を使ってダボを作る仕事だ。鑿と鎚を上手に使い、板の切れ端からダボを掘り出し、その掘り出した物を整形するために鑿で彫っていく。ダボとダボ穴の空いた板を使って棺を組み立てるのは老人たちの仕事だった。長い板、短い板を組み合わせ、棺を形作っていく。子供たちはそれぞれ大人たちの仕事を手伝っていた。

 棺は既に十基以上も出来上がっていた。

 「棺桶作りが引きこもりの就労体験かよ。いかれてる。ていうか、引きこもりっぽい奴らがいねえ」太郎は広場の中央を見詰めたまま呟いた。「引きこもりっぽい奴らって、もっと心身が不健康そうな、自信のなさそうな連中だよな、普通。まあ、偏見で言ってるだけで実際どうなのかは知らねえけど、イメージはそんなんだよな。あの棺桶を作ってる連中は、余裕で社会に適応できますオーラを醸し出してるし、めちゃくちゃ一般人っぽいじゃん。長い間ぶち込まれて更生した引きこもり連中なのか? あるいは、全員が施設の職員なのか? 子供と年寄りが多いけど、あいつらは職員の家族か? あるいは、子供の引きこもりや年寄りの引きこもりも面倒を見るような場所なのか、ここは? そもそも、ここって本当に引きこもり支援の施設か?」

 強引に思い込んでいた考えが揺らいできて、太郎は大きな不安に押し潰されそうになった。その不安から逃れるように、夕日へ向き直り、早足で歩き始める。運動不足の体が悲鳴を上げる中、一心不乱に歩き続ける。

 「ここがどういう場所だろうが、関係ねえ。この谷を出れば、電話なり何なりがあるだろ。とにかく、警察に連絡できれば勝ちなんだ。そうすれば、家に帰れるんだ」

 丘陵から吹いてきた強い風が太郎の背中を押し、太郎を追い越し、西の峡谷へ流れ出た。その風を追うように、太郎は谷の外へ踏み出した。


 小川沿いを十分ほど歩いた。岩や小石でごつごつしている地面は歩きづらく、緩やかな傾斜を下る道が延々と続き、唯でさえ体力のない太郎はいつ倒れてもおかしくないほどに消耗していた。太郎は丸みのある岩を見つけ、その上に座り込んだ。そうして、周囲を見回す。葉を茂らせた木々と穏やかな流れの小川、それ以外には何も見当たらない。

 「谷の外に引きこもり支援施設の事務所があるなんて、誰が言ったんだよ・・・・・・俺か。笑っちまうよ。何もねえじゃん。これじゃあ固定電話もくそもねえわな。超ピンチじゃん」太郎は笑った。しばらく笑い、それから、急に怒り狂った。「くそが! ふざけんな! 俺を家に帰せ! ここまで歩いてきた俺の努力を返せ! 電話をよこせ! まじで切れるぞ! なんなんだ、この意味不明な状況!」

 気が済むまで喚いてから、落ち着く。太郎は溜息をついてから再び小川に沿って西へ歩き出した。黙々と、不機嫌を滲ませながら歩く。峡谷を出さえすれば現状を打破できるだろうという何の確証もない希望を頼りに、歩き続ける。一時間ほど歩き続け、体力の限界を迎えたころ、周囲の木々が数を減らし、道が開けてきて、降り注ぐ夕日の明かりも強まった。

 「この峡谷を抜ければ、まともな道路とか建物とかがあるだろ、普通。あるだろ、どんな辺境の地でもさ。二十一世紀だぜ。あるさ。まともな道路に出たら、そこで電話を手に入れる。公衆電話でもなんでも構わねえ。それで、警察に連絡だ・・・・・・くそ、何回同じことを言ってんだ、俺は。ちくしょう。早く家に帰りてえ」

 太郎は疲弊した体に鞭を打ち、歩を速め、とうとう峡谷から抜け出した。そうして、目の前に広がった光景に絶句した。道路などない、建物などない、唯、地平線まで続く小川と草原。それが、太郎の視界に入った全てだった。夕日を浴びて黄金に輝きながらそよ風に揺れている草花の美しさなど、絶望した太郎にとっては何の慰めにもならなかった。太郎は座り込んだ。そのまま時間を浪費し、夕日の沈みゆくさまを眺める。夜が近付いてくる。草原の遠くのほうから獣の遠吠えが聞こえてきた。太郎は恐怖を覚え、身震いした。しかし、もう一歩も動く力の残っていなかった太郎は、諦めたように微笑み、大の字で横になった。

 そうして夜になる。空には雲一つなく、星々が地上を照らし出している。

 体力が回復した太郎は、谷から続いている小川に沿って草原を西へ歩いてみた。五分ほど歩いたが、その程度では周囲の景色は何も変わらなかった。太郎は座り込み、再び体を休ませた。涼しい風が吹き、汗だくの体を冷やす。太郎は夜空を見上げた。青い衛星にじっと見入る。そうして、衛星にクレーターがないことに気が付いた。

 「外国から見ると、月ってクレーターがないんだな・・・・・・いや、そんなわけねえ。クレーターのない月、そんなん、あるわけねえ。ヨーロッパからだろうが、中東からだろうが、東南アジアからだろうが、そんなん見えるわけねえ。何がブルームーンだよ、俺。あほか、俺。そもそも青い月が有り得ねえんだ。あれは、月じゃねえ。月みたいだけど、月じゃねえ。それで、俺の知ってる月はこの夜空のどこにもねえ」

 太郎は大声で笑い、それから、神妙な顔を作った。

 「ここは、地球じゃない」

 太郎の弱々しい囁きは、突如として起こった地鳴りに掻き消された。草原の、太郎から十メートルほど離れたところの地面が盛り上がる。どんどん盛り上がっていく地面を見やり、太郎は悲鳴を上げながら立ち上がった。同時に、狼に似た巨大な頭が、盛り上がった地面を突き破り地上に現れた。その巨大な頭は青い衛星に向かって吠え、それから太郎を見やり、真っ赤な長い舌を出した。太郎は尻餅をついた。すぐに立ち上がろうとしたが腰が抜けてしまい立てなかった。狼に似た頭の生物は、まだ地中にある体を激しく動かし、土を方々に払い飛ばしながら少しづつ地上に這い出てきた。三十秒ほどかけて、全身が地上に現れる。その姿は、モグラの体に狼の頭をくっつけたようなものだった。体長は五メートル以上あり、牙も爪も巨大で鋭かった。その巨大な生物は地面を素早く這いながら太郎との距離を詰め、襲い掛かった。太郎は叫ぶことしか出来なかった。

 巨大な生物の前足の鋭い爪が太郎の上半身を貫こうとした瞬間、地面の土が槍のようになって突き出し、巨大な生物の右の顎に斜め下から突き刺さった。土で出来た槍は顎では止まらず、左のこめかみまで貫き通し、頭を串刺しにした。繰り出されていた巨大な生物の鋭い爪は横にずれ、太郎の右肘を少し切り裂いただけに終わった。ほんのかすり傷だったが、太郎は断末魔の叫びのような悲鳴を上げた。

 頭を串刺しにされた巨大な生物は白目をむき、舌を突き上げ、笛の音に似た息を漏らし、やがて絶命した。その絶命と同時に、土で出来た槍はぼろぼろと崩れ落ちた。

 草原に騎馬の姿が五騎あった。彼等は太郎から五十メートルほど離れたところに居た。一人が馬から降りた。真っ白な髪の初老の男だった。初老の男は片膝をつき、上体を前に倒し、右耳を地面に当てた。

 「近くにまだ二匹いるな。一匹はこっちに迫ってきている」初老の男が言った。「私が奴らを地中から引きずり出す。エル、止めはお前が刺せ」

 エルと呼ばれた馬上の若い女が呪文を唱え始めた。呪文を唱え終えると、エルの右手から、現れてはすぐに消える小さな稲光が無数に発せられた。それは火花放電のような現象だった。

 「いつでもやれます、ブライアンさん」

 稲光を発し続ける右手を掲げながらエルは言った。ショートボブに整えられていたエルの髪が逆立った。稲光は、じりじり、という嫌な音を響かせ続けた。

 ブライアンは右耳を地面に当てたまま呪文を唱えた。すると、ブライアンたちから二十メートルほど離れたところの地面が激しく噴き上がった。地下十メートルほどの深さから噴出した大量の土は、地上十メートルほどの高さまで舞い上がった。太郎に襲い掛かったのと同じ種類の生物が、噴出する土に押し出され地上に全身を現した。その巨大な生物に向かってエルが右手の平を向けた。雷と同様の電撃がエルの右手の平から発せられる。電撃は凄まじい速さで巨大な生物に迫り、直撃した。一瞬で、巨大な生物のほとんどの体細胞が壊死する。そうして、巨大な生物は即死した。感電し、地面の上で激しく痙攣し続ける巨大な生物は死後も全身を破壊され続けた。全身が焼けただれ、黒ずむ。激しい損傷の果てに死体が朽ち果て、ようやく、巨大な生物の体中で暴れまわっていた電流が全て地面に流れ出て、巨大な生物の痙攣も止んだ。

 エルは再び呪文を唱えた。エルの右手に再び稲光が走る。

 「次もどうぞ」エルが言った。

 「その必要はなさそうだ」ブライアンが言った。「もう一匹はどんどん離れていっている」

 ブライアンは右耳を地面につけたまま十秒ほど黙った。それから、上体を起こし、立ち上がった。

 「もうこの近くにはいない」

 ブライアンの声を聞いてからエルは呪文を唱えた。エルの右手から発せられていた稲光が消え去った。

 「逃げの早い、臆病な化け物ですね」左手で髪形を直しながらエルは言った。

 「土狼は狼よりも知能が高い」巨大な生物の朽ち果てた死体を見やりながらブライアンは言った。「賢い者ほど臆病なものだ」

 騎馬が一騎、並足で太郎に近付いた。

 「なんで、あんたが里の外にいるんだよ」

 太郎を見下ろしながら、馬上のジャックが言った。

 太郎はジャックを見上げ、「助けてください」と涙声で訴えた。

 騎馬が三騎、ジャックに近付いてきた。遅れて、乗馬を済ませたブライアンの騎馬もやってきた。

 「どうです? 彼、怪我はありませんか?」

 騎馬の男が言った。金色の長髪と髭を奇麗に整えた若々しい男だった。

 「かすり傷を負った程度みたいですね」ジャックは言った。

 「それは不幸中の幸いだ」

 そう言いながら、若々しい男は馬を降りた。そうして、太郎に近付き、太郎に向かって右手を差し出した。

 「私、ローハ帝国法に則りスコラドア自治領領主メアリ・スチュアムドからカムラッカ地区の土地所有権を預からせて頂いております、ロバート・ウォレスと申します。あなたが今、腰を下ろしている地面は私の預かる土地であり、詰まる所、あなたは私が庇護すべき人間である、という訳です」

 知らない言語でまくし立てられ、太郎は恐怖を募らせながら恐る恐るロバートを見上げた。

 ロバートは、太郎がこの星に来てから見てきた人間たちの中で最も裕福な格好の人間だった。上着は上等な絹を贅沢に使って作られたプールポワンで、胸元には切り込みがあり、そこから真っ白な肌着を覗かせている。立て襟は控えめで、身丈の長いプールポワンだった。下半身にはショースを履き、その上に膝下までの丈があるズボンを穿いている。ズボンは腿の辺りに膨らみのある作りだった。コードバンを使って作られた靴はつま先が非常に尖っていて、労働を意識して作られていないことが一目で知れた。

 「私の名前にぴんとこないということは、あなた、余所の土地の方ですね。それでも構いませんよ。遠慮なく私を頼りなさい。肌が白くなくても、私に税を納めていなくても、私の預かる土地に居る以上、あなたは私の庇護すべき人間です。さあ、私の手を取って。畏まる必要はありません。土地所有権を預かっているとはいっても、所詮私なんて落ち目の諸侯なのです。大した人間じゃないんです。だから、ね。この手を取って。立ち上がるのを手伝ってあげますから」

 太郎は首を大きく横に振り、ロバートの手を拒んだ。

 「遠慮深い方だ」ロバートは微笑んだ。

 「私たちの慈悲深いご主人様は人の心が分からないみたいですね」髪形を直し終えたエルが言った。「遠慮してるんじゃなくって、恐怖してるんですよ、その人は」

 「恐怖している? 何故です? 土狼はもういないし、私がこんなにも優しく声を掛けてあげているというのに、一体、どうして恐怖するというのです?」太郎に差し出していた手を引っ込めながらロバートは言った。

 「そいつは言葉が通じないんです」ジャックが言った。

 「なるほど、それで怯えていたんだね」

 「ロバート様はそいつと会うのは初めてではありませんよ」

 「何ですって? そんなはずはありません。彼とは初対面ですよ」

 「今朝、気絶していたそいつをご自身の馬に乗せてこの付近まで運んでくれたじゃありませんか」困惑しながら、ジャックは言った。

 ロバートは太郎を見詰め、「ああ、思い出した」と声を発した。「馬に乗せるのも一苦労だった、あの重たいおじさんか。隠れ港があったところからこの辺りまで彼を乗せて走った私の愛馬が足を痛めてしまうほどに重たかった、あのおじさん」

 「人の心が分からないだけでなく、人のことを覚えもしない、ロバート・ウォレス公爵」

 冷ややかな声が聞こえて、ロバートは恐る恐るエルを見上げた。

 「エル、ひょっとして、五日前のことをまだ怒ってるんですか?」

 「怒っていませんよ。私を薪売りの少年と見間違えたことなんて」エルは無表情のまま言った。

 「あれは、朝靄が酷かったからですよ。それで見間違えてしまったのです」

 「三日前には、目に砂が入ってよく見えなかったから見間違ったのだと仰いましたよ」エルは尚も無表情で言った。

 ロバートは力なく笑った。それから、ジャックに声を掛けた。

 「そういえば、君は今朝このおじさんのことを里の人間だと言っていたけれど、それならどうして彼は言葉が分からないのですか? 彼、耳が聞こえないわけじゃないでしょう。私の声、内容は分からないまでも、音には反応しているように見えたし」

 ジャックは少し迷った後、口を開いた。「そいつはブロンテ老師が生前に呼び出し魔法で呼び出した者です」

 「呼び出されし者だって!?」

 ロバートは驚きの声を上げ、それから、太郎をまじまじと観察した。太郎は益々怯えた。

 「どこからどう見ても普通の人間だ。人間の姿をした者が呼び出し魔法で呼び出されたという事例は過去にもあるけど、その数は極めて少ない」ロバートはジャックに目を向けた。「会議の場で彼の正体について話さなかったのは正解だったよ、ジャックくん。呼び出し魔法を研究している人間たちにとってみたら、彼は格好の研究材料になるだろうからね。会議に出席していたメンティス公爵なんかは非人道的な研究を行っている魔法の使い手を配下に多く持っいて、その中には呼び出し魔法を専門にしている人間も居るから、メンティス公爵に彼のことを知られていたら色々と面倒なことになっていたと思うよ」

 「ロバート様。軽率な発言はお控えください」

 「そうだね。どこで誰が聞き耳を立てているとも限らないんだ。注意をありがとう、ブライアン。以後、気を付けるよ」ロバートは笑顔で言った。「さて、異世界から呼び出された彼の処遇についてだけど、どうだろう、私の屋敷に奉公人として招き入れるというのは。このまま彼を捨て置くわけにもいかないしね」

 「そのような得体の知れない者を屋敷に招き入れるのは反対です」ブライアンが言った。

 「得体の知れない者だからこそ、きちんと監視しておかなくてはいけないだろう。それは、この土地の平和と安全に尽力すべき私のような人間が負うべき責任だと思うのだがね」

 「ロバート様」騎馬の老人が静かな声を発した。「その者は里の人間が呼び出し、この世界に残していったのです。ですから、その者に関する責任は里の人間が負うべきものです。私は、その者を里で保護し、問題が起こらぬようしっかりと監視していきたいと考えております。もちろん、ロバート様のお許しを頂けるならばですが」

 「しっかり監視する、って言っても説得力がない。現に彼は一人で里の外に出ている」

 「エル。そんな言い方をしてはいけないよ・・・・・・申し訳ありません、ロト長老。彼女、口調がきつくって」騎馬の老人に頭を下げてから、ロバートはもう一度まじまじと太郎を観察した。「ブロンテ老師は彼に戦うよう命令を出したのかい、ジャック君?」

 「ブロンテ老師がカイルと・・・・・・敵と交戦しているとき、俺は別の敵と交戦中だったので確かなことは分かりませんが、こいつが気絶していたことから推測するに、こいつは敵に攻撃するようブロンテ老師に命じられ、返り討ちにあったのだと思います」

 「ブロンテ老師と対していた敵は一人だったんだよね?」

 「はい」ジャックは手綱を強く握りしめながら答えた。「こいつを勘定に入れるなら二対一の状況でした。こいつに僅かでも戦闘能力があったならブロンテ老師が負けることはなかったはずです」

 ロバートはしばらく腕組をした。

 「ロト長老の仰ることは呼び出し魔法における道理です。ローハ帝国法にはこうあります。呼び出されし者の所有権はそれを呼び出した張本人にあり、呼び出した張本人が亡くなった場合、呼び出されし者の所有権は呼び出した張本人の血縁者に相続される。呼び出した張本人に血縁者がいない場合、呼び出されし者の所有権は呼び出した張本人が属する生活共同体に相続される。使い魔の扱いと全く同じ決まりですね。ですので、彼のことはあなたたちにお任せします。ただし、彼が手に余るようであったなら、すぐに私を頼ってくださいね。呼び出されし者の所有権は贈与が可能ですから」

 「ありがとうございます」

 礼を言いながらロトは深く頭を下げた。ロトの真っ白な長い髭が風に揺れた。

 「法的に存在を証明するものが一切ないドライアドの里の人々相手に法を持ち出しても無意味でしょう」

 「エル、それは間違いだ。ローハ帝国法はこの世界に存在する全てに適用される。法的に存在が認知されていない者であっても例外ではない」ブライアンが言った。

 「そういうことです」

 ロバートがそう言った直後、ローラの大きな声が草原に響き渡った。

 「ジャック! ロト長老! 戻ったんだね!」

 ローラは馬を駆っていた。ローラの馬と併走している犬がいる。それはチャンプだった。ローラは、太郎が里から出たことに気付き、太郎のにおいを覚えさせたチャンプを伴って太郎を探しに来ていたのであった。ローラとチャンプはジャックたちのそばに駆け寄った。

 「お袋。どうしてこいつが里の外に出てるんだよ。ちゃんと見張っとけよ。こいつは異世界の者だって言っただろ」ジャックがローラに向かって言った。

 「わざわざ見張る必要なんてないと思ったんだよ。あんたもこの人のことを悪意がない奴だって言ってたし」

 「だからって、ほったらかしにしとくとか有り得ないだろ!」

 「怒鳴るんじゃないよ! こっちだって忙しくって、その人にずっと構ってるわけにはいかなかったんだよ!」

 「二人とも。ロバート様の前で親子喧嘩など無礼だぞ」ロトが言った。

 「ジャック君のお母さん」ロバートが言った。「今回の件で犠牲になった方々の埋葬をいつ執り行うのか、目処はつきましたか?」

 「明日の夕方ごろに、亡くなってしまったみんなを埋葬するつもりです」沈んだ声でローラは言った。「ロバート様。よろしければ埋葬に立ち会って頂けませんか? ロバート様が来てくださればみんなも喜ぶと思います」

 ローラの声を聞いて、ロバートは俯いた。そうして、ロバートの表情は暗く沈んだ。

 「ローラ。ロバート様は多忙を極めるお方だ。そのように気安くお誘いの声を掛けてはいかん」ロトが言った。

 ロバートが顔を上げた。その顔には明るさと人懐っこさが戻っていた。

 「三百年以上の長きに渡って、あなた方ドライアドの里の民はユスターシュ・ドージェの不朽体を隠し、守ってきました。外の世界から隔離された里で、何世代にも渡って務めを果たしてきたあなた方のために、私は身を粉にして働かなければならない。私には生き残ったあなた方のために果たさなければならない仕事がある。埋葬に立ち会いたいのは山々ですが、お悔やみはここで済まさせて頂きます」ロバートは表情を引き締め、東の丘陵地帯へ顔を向けた。「あなた方の尊い命が失われたことを悲しく思います。どうか、あなた方の魂が天国で安らげますように」

 そう言ってから、ロバートは黙とうを捧げた。

 ローラは涙を流した。ジャックは天を仰ぎ、ロトは深く目を閉じた。

 大気が澄み切っている世界で、夜空は宝石をちりばめたように輝き、風は草花の香りを帯び、コオロギの鳴き声はどこまでも遠くへ響いた。

 太郎はゆっくりと立ち上がり、不安な眼差しでジャックを見詰め、それから、ローラを見詰めた。

 「我々はこれで帰ります」ロバートが口を開いた。「何か困りごとなどがあれば、いつでも私にお知らせください。出来る限りの援助をさせて頂きます」

 「ロバート様」ロトが言った。「我々が今後もドライアドの里で暮らしていけるよう、ご助力のほどお願い致します」

 「もちろんです」ロバートが言った。「それでは、またお会いしましょう」

 ロバートは馬を走らせた。続いて、ブライアンとエルも馬を走らせる。三人の騎馬は北へ走り去った。

 「私たちも帰りましょう。ドライアドの里へ」涙をぬぐいながらローラは言った。

 ジャックが自身の後方を指差した。それは、太郎に向けられた、自分の後ろに乗れ、という命令の手ぶりだった。太郎はジャックの意図を理解した。太郎は嫌々ながらも乗馬を試みて鐙に左足を乗せようとした。しかし、太郎の股関節は硬く、足が少ししか上がらなかった。左足のつま先を鐙の十センチメートルほど下でふらふらさせた後、太郎は左足を地面に下ろし、肩で息をした。ジャックは苛立ちながら、馬から少し離れるようにと太郎に手振りで指示を出した。太郎はそれに従った。ジャックが呪文を唱えた。ジャックの指先から放たれた緑色の光が地面に吸い込まれ、土で出来た巨大な手が出来上がる。土で出来た手は太郎を鷲づかみにした。

 「またこれかよ」太郎は呟いた。

 土で出来た手は太郎を持ち上げ、ジャックの後ろに跨らせ、太郎を放し、ぼろぼろと崩れ落ちた。

 「そんな乱暴な乗せ方をするんじゃないよ、ジャック。その人が可哀相じゃないか」ローラが言った。

 ジャックはローラを無視して、小川沿いを東へと、馬を歩かせた。ロトとローラとチャンプがそれに続いた。

 足場の悪さを嫌いながらも、馬は峡谷の緩い傾斜を登った。周囲の木々に実った色付く木の実の存在を、太郎は星明りと小川で群れる蛍の光によって見知った。虫の鳴き声と鳥の鳴き声が小川のせせらぎや馬の足音をも掻き消す、賑やかな道程。夜は、峡谷の自然の息吹を強めていた。

 小川沿いを東に進み続け、峡谷が広がってきて、ようやく、太郎たちは広大な谷にあるドライアドの里へ到着した。

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