第5話 赤ん坊 ブラッシュアップ不足バージョン

 煙の外に出てきたダルトン目掛けて、真っ赤な液体が降ってきた。ダルトンは慌てて前方に身を投げ、坂を転げ落ち、真っ赤な液体を回避した。

 煙に毒性は無かったが、巨大な生物の姿をも覆い隠してしまうほどに立ち上がった煙は、上空から降ってくる真っ赤な液体を視認し辛くしていた。その為、カイルもジョンも煙の外に出ようと試みたが、視界の悪さに混乱した馬がほとんど動かなくなってしまい、煙の中から出れずにいた。巨大な生物を倒した後の逃走のことを考えれば馬を捨てるという選択は有り得ない。カイルとジョンはいつ降り懸かってくるか分からない真っ赤な液体に恐怖しながら、馬を落ち着かせようと尽力していた。

 体勢を整えたダルトンは呪文を唱え、巨大な生物を魔法で攻撃しようと試みた。しかし、煙の外からでは巨大な生物の姿が見えず、攻撃のしようがなかった。高いところからなら巨大な生物の姿が見えるかもしれない、そう考えたダルトンは坂を上り始めた。

 ダルトンが二十メートルほど坂を上ったところで、ダルトン目掛けて短刀が飛んできた。短刀はダルトンの左腕に後ろから刺さった。ダルトンは短刀が飛んできたほうに目を向け、そうして、二十メートルほど離れた所にいるユゴーを見下ろした。ロビンソンの右足を凍らせたものよりもはるかに大きい青く光る玉が、ユゴーのそばで浮遊していた。

 「我らが神を渡してもらうぞ」ユゴーが言った。

 ユゴーの立ち位置を見てユゴーが港からやってきたことをダルトンは知り得た。港のほうからはロビンソンの魔法の音だけが聞こえてきていた為に、ロビンソンが優勢であるとダルトンは信じて疑わずにいた。しかし、港からやってきたのはロビンソンではなく敵意を露にした男。ダルトンは激しく動揺した。動揺は正常な判断を奪う。ダルトンは明らかな敵に対して戦意を微塵も見せず、唯、ロビンソンの安否を危ぶみ、愚直になった。

 「ロビンソンさんは、どうしたんですか?」

 ほとんど無防備でダルトンは尋ねた。ユゴーはすぐにでもダルトン目掛けて魔法を放つつもりでいた。ダルトンの言動は死に等しい緊張感を欠いたものだった。しかし、幸いにもダルトンは命拾いをする。理由は、動揺を露にしているダルトンに対してユゴーの異常なまでに強い苛虐性が働いたためだった。

 「ロビンソン? あの爆発の魔法を使う男のことだな」ユゴーは魔法を放つのを寸前で止め、言った。「あの男は、無様な命乞いを散々したよ。それが私の勘に障ったのでね、なぶってから殺してやった」

 ダルトンの顔から一気に血の気が引き、その目には涙が浮び、唇は激しく震えた。それはユゴーの望み通りの反応だった。死者を貶め、死者を慕う者の弱った心を踏みにじる。それを快感として、ユゴーの顔は邪悪に歪んだ。

 充分にダルトンの反応を楽しんだユゴーは、ダルトンを指差した。青い光の玉がダルトン目掛けて飛んでいく。ダルトンの死を確信し、ユゴーは笑い声を上げた。それと同時に、ダルトンは叫び、魔法を使った。地面の草花が巨大な盾を形作り、ダルトンの目の前にそびえ立つ。青い光の玉は草花で出来た盾に命中した。草花で出来た盾が一瞬で凍り付く。その盾に遮られ、ダルトンとユゴーは互いに相手の姿を視認できなくなった。

 ダルトンの魔法を一目見ただけで、ユゴーは自身の不利な状況を理解した。辺り一面の草花を自由自在に操れる敵。尚且つ、凍り付いた盾はそのまま敵の遮蔽物として残っている状況。その認識が、ユゴーの顔を強張らせた。ユゴーは素早く呪文を唱えた。

 ダルトンの叫びが再び轟く。ダルトンは凍り付いた盾を思い切り蹴りつけた。強力な蹴りは凍り付いた草花を粉々に砕いた。遮る物がなくなり、ダルトンとユゴーは睨み合った。

 「てめえはぶち殺す! その薄汚れた口から内臓を絞り出してやる!」恐ろしい形相で、ダルトンが叫んだ。

 「自分から遮蔽物を取り除いてくれるとは。どうして旧約神書派はこうも低能ばかりなのか」ユゴーは余裕を取り戻し、意気揚々として言った。「それでこそ苛めがいがある!」

 ダルトンが呪文を唱える。透かさず、ユゴーは魔法を放とうとした。その時、煙の中から馬に乗ったジョンが飛び出してきた。ジョンとユゴーの距離は三十メートルほどだった。ジョンとユゴーは互いの姿を視認した。ユゴーはまだ呪文を唱えている途中のダルトンから、呪文を唱え終えているかどうか不明なジョンへと攻撃対象を切り替えた。しかし、ジョンの右腕に抱かれた赤ん坊を見た瞬間、ユゴーは信仰の激しい衝動に駆られ、攻撃を取りやめ、体の正面を赤ん坊に向けて新約神書派の祈りの型を作り、嗚咽を漏らし、弛緩し、一時的に戦意を失った。

 「いかれてんのか!? くたばれ、くず野郎!」

 煙に遮られていてジョンの姿が見えていないダルトンが、叫びながら魔法を使った。草花が槍のように尖って伸びていき、ユゴーを串刺しにしようと迫る。ユゴーは間一髪のところで我に返り、後方に身を投げ、側面から迫ってきていた槍のような草花を回避した。受け身が間に合わず背中を強打したユゴーだったが、その顔に苦痛の色は皆無で、唯、歪んだ至福に表情を緩めていた。

 「死ね!」

 ダルトンの大声が轟く。同時に、その大声よりもはるかに大きな悲鳴が響く。悲鳴を上げたのはジョンだった。巨大な生物の尾の部分に当たる醜い顔のほうが煙の中から飛び出し、その湿った両手でジョンの両肩を後ろからつかみ、そのままジョンの首筋に噛みついた為、ジョンは悲鳴を上げたのだった。

 ジョンの悲鳴を聞いて、ダルトンの熱した頭が一気に冷めた。ダルトンは恐ろしい形相が消え去った顔で、「ジョンさん! 大丈夫ですか!?」と叫んだ。

 「大丈夫だ! ダルトン!」そう答えてから、ジョンはにやりと笑みを浮かべた。「おい、蛇みたいな体の化け物。俺の異名を教えてやるよ。毒蛇、って言うんだ」

 ジョンは自分の首筋に噛みついている醜い顔の後頭部を左手で鷲づかみにした。そうして、ジョンの左手が緑色に光る。その緑色の光は醜い顔の後頭部に吸い込まれ、青白かった後頭部を一瞬で緑色に変えた。すると、醜い顔はジョンの首筋から口を放し、耳をつんざく声で叫び出した。醜い顔はジョンから両手も離し、頭も手も振り乱して苦しみを露にした。醜い顔の後頭部から緑色がどんどん広がっていって、醜い顔の胴、蛇のような体、そして、美しい顔の胴から頭頂部までをも緑色一色に染め上げた。煙の中で美しい顔が醜い顔と同じように苦しみ始めた。苦痛にのたうちながら、美しい顔の美貌は崩れ去っていった。美しかった顔は、醜い顔よりも悍ましい顔になって、絶叫した。真っ赤な液体を噴出しなくなった頭頂部が痙攣しながら窄んでいく。巨大な生物は全身を横たえ、やがて動かなくなった。美しかった顔は悍ましいままで硬直していた。その時にはもう、醜い顔のほうも苦痛の表情のまま硬直していた。巨大な生物の蛇のような体の部分に巻き付いていた赤色に発光する鎖が消え去った。

 「化け物は死んだ! 次はその細長い野郎だ! ダルトン! 二人で一気にやっちまうぞ!」体勢を整えたユゴーを真っすぐに見据えて、ジョンが叫んだ。

 「この人は俺が足止めします! ジョンさんは赤ちゃんと一緒に逃げてください!」

 迷いのないダルトンの声を聞いて、ジョンはすぐに自らの考えを改め、赤ん坊と一緒に逃げるべく馬を走らせにかかった。馬の横腹に強めの圧力を加える為、ジョンは自身の両脚に力を入れようとする。しかし、その両脚は馬の横腹に微かな刺激を与えるだけで終わった。その程度の刺激では、馬は走るのはおろか歩きさえもしなかった。馬が走らない理由をジョンは理解できなかった。自身の両脚に全く力が入っていないことにすらジョンは気付いていなかったからだ。ジョンは自分の体の異常に気付かぬまま、困惑の表情を浮かべた。それからすぐに、ジョンは白目をむき、言葉にならない声を発し、全身を小刻みに震わせた。巨大な生物の醜い顔のほうに噛まれた首筋がどす黒く腫れ上がっている。そこから体に入った巨大な生物の毒が、ジョンの脳に達していた。ジョンは自分が死に向かっていることに気付かぬまま、混乱しながら全身を震わせた後、馬上で息絶えた。

 赤ん坊を抱いたまま絶命したジョンの体が傾き、そのまま馬上から滑り落ちた。ユゴーの絶叫が響き渡る中、ジョンの体は背中から着地した。赤ん坊はジョンの右腕に抱かれたままだった。

 「我らが神!」ユゴーが涙ながらに叫んだ。

 未だにジョンの姿が見えていないダルトンは、ユゴーの激しく取り乱した理由を理解できず、面食らい、僅かに呪文を唱えるのが遅れた。

 ユゴーは鬼気迫る顔でダルトンのほうを向き、そのままダルトン目掛けて魔法を放った。吹き荒ぶ冷気が、空気や地面を凍てつかせながらダルトンに迫る。吹き荒ぶ冷気の範囲は広く、横っ跳びでは回避できないほどだった。ダルトンは一目でそれを理解し、迫りくる冷気に背を向け、全速力で坂を駆け上った。坂を上り切ると、ダルトンは丘の平らなところへ前のめりに身を投げた。吹き荒ぶ冷気はダルトンの後方を過ぎ去り、激しい勢いそのままに上空へ吹き上がっていった。辛うじてユゴーの魔法を回避したダルトンは、息切れもそのままに、呪文を唱えながら立ち上がり、坂を下ろうと振り返った。

 ダルトンが吹き荒ぶ冷気から逃れようと坂を駆け上がっている間に、ユゴーはジョンの死体に駆け寄っていた。それは、ジョンが死んでいるという事実を知らぬままの行動であり、余りにも不用意だった。赤ん坊の安否だけがユゴーの脳裏にある全てだった。崇拝する偉大な神が死ぬはずがない、そういったユゴーの妄信は目の前の弱々しい赤ん坊の姿によって打ち砕かれていた。

 ユゴーはジョンの右腕に抱かれたままの赤ん坊を見下ろした。すぐに自身の神を見下ろしているという無礼に気付き、ユゴーは地面に這うような姿勢を取った。赤ん坊は、ジョンの体が落下の衝撃を吸収していた為に、怪我一つなかった。ユゴーはジョンの右腕を恭しく動かし、厚い布越しに赤ん坊に触れた。ユゴーが触れたことで、赤ん坊を包む厚い布が場所交換魔法の黄色い光を発した。その黄色い光が赤ん坊を神々しく見せて、ユゴーの信仰心を刺激した。ユゴーは歓喜の声を上げ、赤ん坊を両手に抱き、勢いよく立ち上がった。そのまま赤ん坊を高らかに持ち上げ、ユゴーは叫んだ。

 「我らが神! ああ! 我が神!」

 ユゴーは涙を流し、鼻水も垂らし、失禁までしていた。芽生えたばかりの、父性と母性を混ぜ合わせた感情が、元々持っていた激しい信仰とも混ざり合い、抑制しがたい狂気の慈愛となって、ユゴーを感激の絶頂まで舞い上がらせていた。

 赤ん坊の頭部を包んでいた布がずれ落ちた。赤ん坊の顔が露になる。遠目には、ごく平凡な新生児であった。しかし、開かれた両目に宿る光は濁っていて、真っ新な赤ん坊のものではなかった。その目は、摩耗して傷んだ人間の目だった。

 赤ん坊は泣く素振りすら見せず、じっとユゴーを見詰めていた。ユゴーはそれを自分への信頼であると都合よく解釈した。自分がこの最愛の神を守らねばならない! その断固たる意志がユゴーを突き動かす。ユゴーは赤ん坊を右腕で丁寧に抱き、歓喜に震える右手の中指の先で赤ん坊の頬にそっと触れた。厚い布だけでなく、赤ん坊の体も黄色く光る。ユゴーは至福の笑みを浮かべながら呪文を唱えた。赤ん坊とともにキャラック船へと移動する為、ユゴーは場所交換魔法をチャンドラーに発動させる合図を送ろうとしたのだ。呪文を唱え終えると、ユゴーの左手の人差し指と中指が同時に青く光った。雲と、その雲の真下の空、計二か所に向かって魔法の冷気を放ち、その二か所を冷やすことによって雪を降らせる。その為に、海岸付近にある大きな雲とその真下の空を目掛けてユゴーが魔法を放とうとした、正にその時、煙の中から馬に跨ったカイルが飛び出してきた。カイルとユゴーの距離は十メートルもなかった。カイルは地面に倒れているジョンを見て、それから、赤ん坊を抱いたユゴーを見た。場所交換魔法の黄色い光の糸がユゴーの体からキャラック船まで伸びているのがカイルの位置からは一目で見下ろせて、カイルは瞬時に場所交換魔法を看破し、すぐさま魔法を放った。鋭い風がユゴー目掛けて草花を切り裂きながら地を這うようにして飛んでいく。それは、赤ん坊が傷付くことを恐れたカイルに出来る最大限の攻撃だった。ユゴーが振り向き、カイルの姿を視認したときにはもう、刃のような風はユゴーの足下まで迫っていた。ユゴーは合図のために使おうとしていた魔法をカイルに向けた。しかし、それを放つ時間はもうなかった。最早ユゴーの両足首が切断されるのは必然、そう思われた瞬間、限りなく零秒に近い時間の中で、ユゴーと赤ん坊の姿が消え去り、二人のいた場所にチャンドラーの使い魔が一匹現れた。刃のような風は使い魔の丸太のように太い両足首を切断した。使い魔は牛と豚の鳴き声を合わせたような悲鳴を上げ、倒れた。五秒ほどのたうった後、使い魔は突如として緑色の炎に包まれた。使い魔はあっという間に焼き尽くされ、そのまま炎の中に消え去った。その炎もすぐに消え去り、跡には真っ白な粉だけが残った。強い風が吹いて、海に向かって吹き飛んでいく真っ白な粉の後を雪が追いかけた。キャラック船を呆然と見詰めるカイルの後頭部が雪に濡れた。

 丘の上では雪が降っていた。ユゴーが先刻放った魔法、ダルトンを仕留めそこなった吹き荒ぶ冷気が、丘の上の空と雲を猛烈に冷やし、雪を降らせていた。キャラック船の甲板からでも、丘の上に降った雪は見えていた。丘の上に降った雪を合図だと判断したチャンドラーが場所交換魔法を発動したことで、ユゴーと赤ん坊は、キャラック船の甲板にいたチャンドラーの使い魔と場所を交換したのだった。

 キャラック船の帆が風を受けるように調整され、船体が動いた。船首の向きが遠海へと向けられていく。

 「ジョンさん!」

 ダルトンが叫びながらジョンの死体に走り寄った。ダルトンはジョンが死んでいることを確認すると泣きべそをかいて悲しんだものの、すぐに表情を引き締め直し、ジョンの死体の近くでうろうろしていたジョンが乗っていた馬の手綱をつかまえ、素早く乗馬を済ませた。それから、呆然と立ち尽くしているカイルを見やり、叫んだ。

 「カイルさん! まだ終わっていません! 僕の魔法で船までの道を作ります! 一緒に船に乗り込んで、息子さんを、我らが希望を取り戻しましょう!」

 ダルトンの声を受けて、カイルは活力を振り絞り、切れかけた気持ちの糸を辛うじてつなぎ止めた。呪文を唱えながら海に向かって馬を走らせたダルトンに続いて、カイルも馬を走らせる。ダルトンが呪文を唱え終えると、浜に最も近いところの草地の草花が絡まり合いながら伸びていき、キャラック船を追いかけるようにしながら、海上に草花で出来た道を作り始めた。道幅は三メートルくらいあり、草花も強固になっている為、その上を馬が走るのは充分に可能だった。

 キャラック船の船首はもう完全に遠海を向いていた。キャラック船は追い風を受けながら真っすぐに進み、陸から一キロメートルほど離れた所まで移動していた。その船尾で、アリシアは、どんどん迫ってくる草花で出来た道を見下ろしていた。

 「良い魔法だね。やるじゃん」

 そう言ってから、アリシアは呪文を唱え始めた。歌うように発せられた呪文が夜の海風の清音と調和して美しく響き渡った。

 アリシアが呪文を唱え終えると、キャラック船の後方の穏やかだった近海が一瞬のうちにうねり猛った。海底から海面までの全ての海水が上下し、波長の極端に短い波を大量に作り出す。それらの波がカイルたちのいる浜へ一気に押し寄せた。草花で出来た道が波に飲まれたところから破壊されていく。アリシアは狂ったように大笑いしながら、どんどん遠ざかっていく波を見送った。

 草花で出来た道の上を走り始めていた、ダルトンを乗せた馬が、迫りくる波を見て恐怖の余り足を止めた。海上の、浜から百メートルほど離れたところまでダルトンを乗せた馬は進んできていた。ダルトンはキャラック船へ乗り込む考えをすぐには諦めきれず、僅かな時間、行動を停滞させた。その間にも、波は高さを増しながら迫ってくる。ダルトンは唇を噛み締め、無念を露にした。ダルトンが手綱を引き、馬が踵を返す。そうして、ダルトンを乗せた馬は浜に向かって全速力で走り出した。

 カイルを乗せた馬は草花で出来た道に前足を乗せたまま停止していた。ダルトンが引き返してくるのを見て、カイルもまた唇を噛み締め、手綱を引き、馬の前足を草花で出来た道から降ろさせた。

 浜や低地には逃げ場がないほど、迫りくる波は巨大だった。カイルたちの逃げ場は丘の上しかなかった。カイルもダルトンも丘の上を目指して馬を走らせた。坂を上りながら、カイルはカフカとジャックを見やった。倒れたままのカフカと拘束されたままのジャックは、間違いなく波に飲み込まれる場所にいた。カイルは苦悶の表情を浮かべ、叫んだ。

 「ダルトン! あの赤い髪の男の拘束を解いてくれ!」

 ダルトンは我が耳を疑い、すぐにはカイルの声に答えられなかった。

 「ダルトン! 彼の拘束を解いて! お願い!」カイルがもう一度、叫んだ。

 「そんなことをしたら、あの人は僕たちを攻撃してきますよ!」ダルトンも叫んだ。「それだけは聞き入れられません!」

 「彼は私たちを攻撃したり追跡したりすることよりも、金髪の男を助けることを優先する! 断言できる! 私は彼を誰よりもよく知っているから! 私たちが逃げる障害に、彼はもうならない!」  

 「カイルさんの言うことが信じられる話だったとしても、僕は、兄さんを殺した人たちを、見逃してやることはしても、助けてやるようなことだけはしたくない!」速度の落ちていたカイルの馬を追い抜きながらダルトンが言った。

 カイルは俯き、すぐに顔を上げ、馬の速度を早めた。それから、ダルトンに聞こえない声の大きさで呪文を唱えた。

 坂を上り切り、ダルトンを乗せた馬が丘の上に立った。すぐ後にカイルを乗せた馬も丘の上に到着した。丘の上に到着してすぐ、カイルは青い光の点った左手をダルトンに向けた。

 「彼の拘束を解け、ダルトン」

 「またこの状況ですか」ダルトンはカイルの無表情な顔を真っすぐに見詰め、言った。

 「さっきとは状況が違うよ、ダルトン。今度は躊躇しない。君を殺してでも、私は自分の考えを通す」

 カイルの暗く冷たい瞳に、ダルトンは明確な殺意を見た。

 「あなたの言う通り、さっきとは状況が違うみたいだ。今度はあなたが切れていて、僕が冷静だ」言葉通りの冷静な声でダルトンは言った。

 「最後だ。彼の拘束を解いて」

 「拘束を解かれたあの人が僕たちを攻撃してきたら、僕は迷わずあの人を殺しますよ」

 「彼は拘束を解かれたらすぐに仲間を助けに走り出す。絶対だ」

 ダルトンは目をつぶり、俯いた。それからすぐに、ジャックのほうを見やり、込み上げてくる憎しみを必死に抑えながら、魔法の拘束を解くべく呪文を唱えた。ジャックの猿轡になっていた草と両手首を拘束していた草が鉄のような硬さを失う。すると、ジャックはすぐに猿轡と手首の拘束を力任せに引きちぎり、立ち上がり、カイルとダルトンを睨み、呪文を唱え始めた。

 「言わんこっちゃない!」

 そう叫んでから、ダルトンは呪文を唱えようとした。

 「ジャック! 君はカフカを見殺しにするような男じゃないだろう! 波がもうそこまで迫ってきているぞ!」カイルが叫んだ。

 拘束されている間にも、ジャックは周囲の状況を目と耳で可能な限り追い続けていた。カイルたちが赤ん坊を奪われたことも、巨大な波が迫ってきていることも、ジャックは拘束されている間に知り得ていた。

 ジャックは呪文を唱えるのを止め、「くそ!」と叫び、カフカのそばへ駆け寄るべく坂を下り始めた。

 「さよなら、ジャック・・・・・・私の初恋の人」ジャックの後ろ姿を見下ろしながら、カイルは呟いた。

 「カイルさん。僕は、僕たち旧約神書派は、あなたを仲間だと思っていいんでしょうか?」カイルの呟きに重なった、ダルトンの声だった。「あなたを信用していいんでしょうか?」

 カイルは深く俯き、目をつぶり、自身の胸に左手の平を当てた。それから、痛む右腕を押して、右手の平を左手の甲に当てた。それは、旧約神書派の祈りの型だった。

 「私は、慈悲深い我らの神と、虐げられる旧約神書派の人々に、全てを捧げた。愛しい人たちとの暮らし、愛しい人たちの命、愛しい我が子さえも、捧げた。あとは、この命を捧げるのみ」

 ダルトンは少しの間カイルを見詰めた。それから、口を開いた。

 「ここから南東へ行ったところにある、キールダウオータの森に、旧約神書派の隠された祠があります。そこで可能な限り仲間を募り、赤ちゃんを奪還するための部隊を編成しましょう」ダルトンは両脚で馬の横っ腹に圧力を加えた。「案内します。付いてきてください」

 ダルトンを乗せた馬が草原を南東へと走り出した。

 ダルトンに付いていく為、カイルも馬を走らせる。新約神書派に奪われた赤ん坊の無事を祈りながら、ジャックとカフカの無事を祈りながら、カイルは横殴りの強い風のなかをひた走った。その風すらも、波の轟音をカイルの耳から遠ざけてはくれなかった。

 波はもう、浜を飲み込み始めていた。ジャックは、迫りくる波に向かって走る恐怖を振り払うように全力で腕と脚を振った。そうしてジャックは、坂を転げ落ちる寸前の走りでカフカのそばに辿り着いた。

 カフカは左手の平を首の左側面に押し当てながら倒れていた。右手は胸の上に置かれている。首からの出血も、右の肩甲骨あたりからの出血も、完全に止まっていた。ジャックは、ぴくりとも動かないカフカのそばに片膝をついた。ジャックはカフカの首の右側面に手を当てた。脈が止まっている。ジャックは諦めきれず、カフカの胸の上の右手をどかし、胸に耳を当てた。心臓も動いていない。

 ジャックはふらりと立ち上がり、そうして、「カフカ!」と声の限りに叫んだ。

 巨大な波が港を飲み込み、造船所の残骸などを押し流した。波の勢いは収まることなく、坂を上ってくる。ジャックはカフカを担いで丘の上に逃げようと考えた。しかし、それでは到底逃げ切れないことが分かってもいた。ジャックは苦しみ悩んだ末、呟いた。

 「すまねえ、フランツ、デニスさん。カフカは連れて帰ってやれない。カフカ、すまねえ」

 ジャックは一人、坂を駆け上った。波が恐ろしい速さで追いかけてくる。波の飛沫がジャックの足下を濡らした。ジャックは一心不乱に全速力で走った。

 ジャックは坂を上り切り、それからもう三十メートルほど走り、振り返った。波は丘の上まではやってこなかった。それを確認したジャックは、息を切らしたまま、カイルとダルトンの姿を探した。南東へ走り去っていく騎馬が二騎、草原の遠いところに見つけられた。そこまで届く魔法をジャックは有していない。カイルたちを追いかけようとして、ジャックは自分が乗る馬を探した。しかし、それは見つからなかった。ジャックたちが乗ってきた三頭の馬はもう草原のはるか彼方にまで逃げてしまっていて、ジャックには姿さえ見つけられなかった。

 ジャックは肩を落とし、覇気の失われた目を海に向けた。キャラック船が小さく見える。やがてそれが見えなくなると、ジャックはゆっくりと丘の斜面に近付いた。眼下に広がったのは、恐ろしい勢いで引き始めた海水だった。木材が幾つも浮かんでいる。人間の死体も幾つか浮かんでいた。ジャックはそれらの死体を注意深く見た。そうして、どれもカフカではないことを確認した。

 木材も、死体も、何もかもが沖に流されていく。ジャックは両膝をつき、項垂れ、声を揚げて泣いた。

 少しずつ夜の暗がりが薄れてきた。夜明けが近かった。

 涙が枯れて、ようやく、ジャックは立ち上がった。ジャックはふらふらとした足取りでブロンテの死体に近付き、そうして、ブロンテの死体にちょっかいを出している二匹の使い魔の姿を見下ろした。

 「ブロンテ、起きろ。まだ、歯、もらって、ない。起きろ」

 「赤ん坊、とっくに、建物、出た。仕事、終わり。歯、よこせ。よこす、しないと、勝手に、引っこ抜く、ぞ」

 丸い顔の使い魔はブロンテの背中の上で飛び跳ねていた。四角い顔の使い魔はブロンテの右の頬を両手でぺちぺちと叩いていた。

 「ブロンテ老師は、もう死んでる」ジャックがかすれた声で言った。

 使い魔たちはジャックを睨み付け、喚いた。

 「なんだ、お前! なんで、そんな、嘘、吐く!?」

 「嘘吐き! 舌、引っこ抜く、ぞ!」

 「嘘なら、どれだけいいか」

 ジャックの嘆きを聞いて、使い魔たちは喚くのを止めた。それから、使い魔たちはめそめそと泣き出した。

 ジャックはブロンテの死体に向かって深く頭を下げ、それから、近くで横たわっているチャンプに目を向けた。チャンプは寝息を立てるたびに体を小さく動かしていた。ジャックは安堵して、大きく息を吐いた。

 ジャックは遠くで倒れている太郎を見やった。ジャックは太郎に近付いた。太郎はまだ気絶していた。太郎が呼吸しているのを確認して、ジャックは安堵と困惑が入り混じった息を吐いた。ジャックは太郎のそばに座り、東の地平線から昇りだした太陽そっくりな恒星を眩しそうに見やった。

 「あんたには悪いことをしちまった。謝るよ」ジャックは太郎に向かって頭を下げた。「ブロンテ老師が死んでしまった以上、あんたはもう、ユスターシュ・ドージェが死ぬまで元の世界には戻れない」

 ジャックは地面の震えを感じ、立ち上がった。北東の方角を見やると、数匹の大型犬に先導された二十騎以上の騎馬が海岸に向かって駆けてくるのが分かった。騎馬隊を指揮していたのは金色の長髪と髭を奇麗に整えた若々しい男だった。

 騎馬隊が接近してきて地面の震えがどんどん大きくなってくるなかで、ジャックは呟いた。

 「援軍が来た。遅すぎた援軍が」

 震える草花の上に横たわる太郎の体が陽の光に照らされた。不健康だが、まだ若い体だった。その若さだけが、地球外の世界に放り出されるという絶望ばかりの状況のなかで、唯一の希望だった。

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