第4話 怪物 ブラッシュアップ不足バージョン

 沖に浮かぶキャラック船の甲板を星明りが照らし出した。

 「波止場で船が燃えているんだから、このままじゃ港に近付けないでしょう。だから、私の魔法で燃えている船を海の底に沈めてあげる、って言ってるのに何が気に入らないの、チャンドラー?」薄布で両胸と陰部のみを隠した格好の若い女が、言った。

 「こちらが派手に動けば、旧約神書派の連中が警戒しかねない。港に近いあの丘で先程まで戦闘が行われていたのだから、尚更だ。それに、アリシア、お前はやりすぎる。お前が魔法を使ってユスターシュ・ドージェに危害が及ばぬとは思えん」ローブを纏った中年の男が言った。

 「崇高なる神様が、信徒である私の魔法でくたばっちゃうなんて、それはそれで笑い話になるじゃない」両胸を隠している薄布の位置を直しながら、アリシアは言った。

 「売女よ、口を慎め」細身で長身の若い男が言った。「我らが絶対の神を辱めることは許さん。お前もだ、チャンドラー。我らが神がこんな女の卑しい魔法ごときで危害など受けぬ」

 「信心深いユゴー」アリシアは艶のある微笑を若い男に向けた。「私を売女と称してくれてありがとう。神書の八章十一節、ユスターシュ・ドージェは売女を許したもうた」

 アリシアの声を聞いてすぐ、ユゴーは狂気じみた怒りを顔に広げた。

 「我らが神を、汚れた旧約神書で語るなどと!」

 その声に続けて、ユゴーは呪文を唱え始めた。それに合わせて、アリシアも呪文を唱え始めた。

 二人に続いて、チャンドラーも呪文を唱え始める。それでも、チャンドラーは二人よりも早く呪文を唱え終えた。チャンドラーの両手にどす黒い光が点る。チャンドラーは両手をそれぞれ二人に向けて、言った。「今、騒ぎを起こすな。殺し合いはユスターシュ・ドージェを安全な場所へお連れした後に好きなだけやればいい」

 ユゴーもアリシアも呪文を打ち切った。そうして、ユゴーは小声で悪態をつき、アリシアは大きなあくびをした。

 二人の様子を見届けてから、チャンドラーは呪文を唱え、両手に点ったどす黒い光を消した。ちょうどその時、港の造船所から馬が四頭外へ出てきた。その内の二頭には人間が跨っていた。一人は腕に赤ん坊を抱いている。赤ん坊は厚い布に包まれていた。

 波止場で燃え上がるキャラベル船から造船所へと火が移っていた。火は更に勢いを増し、水面を赤く染めた。

 馬に跨っている、赤ん坊を抱いていないほうの男が、キャラック船に向かってカンテラを向けた。男が呪文を唱えると、カンテラの火が紫色に変わった。その後も火は様々な色に変わり、時には火が大きくなったり小さくなったりして、やがて元の穏やかな赤い火に戻った。

 「火の色や強弱を利用した信号だ」チャンドラーが港を注視しながら言った。「私たちを味方だと思って交信を求めているのだろう」

 「なんて言ってるか分かる?」アリシアがチャンドラーに尋ねた。

 「暗号化されていて分かりようがない」チャンドラーが答えた。

 「どっかの誰かさんが船の乗員を皆殺しにしなければ、暗号を解読できたのに」

 「神の教えを歪める旧約親書派は、一時の延命も許さずに罰しなければならない。それが、神の御心だ」ユゴーが言った。

 キャラック船の甲板は血にまみれ、人間の死体が十三体も横たわっていた。その内の八体は凍傷によって全身を浅黒く膨らませていた。

 「返信がなければ怪しまれる。それで陸路に逃げられでもすればユスターシュ・ドージェの奪取は困難。さて、どうしたものか」チャンドラーが腕を組んだ。

 「今すぐ港へ乗り込み、旧約新書派の連中を皆殺しにし、神を我らの手に取り戻す。唯、それだけのことだ」ユゴーが船首へ移動しながら言った。「私が行く。正面からな」

 「策を講じる時間はない。止むを得ないか」チャンドラーが言った。「ユゴー。場所交換魔法を掛ける。お前と、私の使い魔に」

 キャラック船の舵と帆を操作していたのはチャンドラーが呼び出した五匹の使い魔だった。どれも体長二メートル以上の筋骨隆々な巨体で、真っ白な肌を持ち、牛と豚を合わせたような顔をしている。使い魔たちが荒い鼻息を吹くたびに、船上の塵が舞い上がっていた。

 チャンドラーが呪文を唱えた。幾らか手持ち無沙汰になっている一匹の使い魔を、チャンドラーは指差した。途端に、使い魔の体が黄色く光る。チャンドラーは使い魔を指した指を水平に動かして、ユゴーに向けた。その指の動きに合わせて、使い魔の体から黄色い光が糸を引くように伸び出した。その黄色い光の糸はユゴーの体に触れ、ユゴーの体をも黄色く光らせた。ユゴーと使い魔の体が黄色い光の糸で繋がれた。

 「手袋は外しておけ。お前の素肌に触れているものしか一緒に場所を交換することが出来ないからな」チャンドラーが言った。「お前と使い魔の距離が離れすぎると、その黄色い光の糸が切れる。そうなれば、場所交換魔法は解けてしまう。この船を出来る限り港に近付けはするが、それでも、行動範囲は港の近くまでにしておけ」

 ユゴーは手袋を外し、それを甲板に投げ捨てた。ユゴーの手を離れると、手袋の発光が止んだ。

 「我らが神をこの手に抱いた時、合図を送る」ユゴーは夜空を見上げ、幾つか小さな雲があることを確認した。「季節外れの雪が降ったならば、場所交換の魔法を発動しろ」

 「ユスターシュ・ドージェの御身の無事が最優先だぞ、ユゴー。奴らの味方の振りをして近付き、避けられる戦闘は避けろ」チャンドラーが言った。

 「奴らの信号に答えなかった時点で戦闘の回避は困難になっているが、やれるだけはやってみよう」

 ユゴーは船首に立った。陸から吹いてくる強い風をもろに浴び、ユゴーの長い黒髪が激しくなびいた。ユゴーは呪文を唱えた。すると、ユゴーの履いている靴が冷気を帯びて、木製の船首を凍て付かせた。ユゴーが船首から跳ぶ。足から海面に着いたユゴーは海に沈むことなく、一瞬で凍り付いた海面に降り立った。そうして、一歩を踏み出すごとに海面を凍らせながら造船所に向かって走っていく。キャラック船から造船所までの距離は四百メートルほどだった。ユゴーがキャラック船から離れるほどに、ユゴーと使い魔を繋ぐ黄色い光の糸が伸びていく。それは、海を一筋の光が切り裂いていくような光景だった。

 

 「船から誰かが近付いてくる」馬に跨っている男が、燃え盛る造船所から少し距離を取りつつ、言った。

 「何故だ? 追手に船を攻撃される可能性があるから海岸沿いを南下したところにあるもう一つの隠れ港で合流しよう、と信号を送ったのに」馬に跨り、赤ん坊を抱いている男が言った。

 「ジョン。あの船は間違いなく味方の船なんだな?」

 「ああ、間違いないよ、ロビンソン。あれは俺の親父がこの計画のために作った船だ。味方の船で間違いない」

 「確かなんだな?」

 「子供のころから親父の造船の仕事を見てきたんだ。親父の仕事を見間違えたりしない」

 人を乗せていない二頭の馬が、造船所から飛んできた火の粉を恐れ、飛び跳ねた。その二頭の手綱を右手でまとめて持っているロビンソンは、その逞しい右腕の力だけで二頭の動きを制した。

 「味方の船でありながら、俺たちの信号に答えず、何の連絡も無しに人を寄越した。丘のほうでの戦闘に危機感を覚えて、急いで赤ん坊を船に乗せようと動いたのか。あるいは、俺たちの計画が漏れていて、ユスターシュ・ドージェの力を欲する他の勢力に船を乗っ取られたか」

 「どうする? 一度カイルたちのところへ移動するか?」丘の方を見やりながら、ジョンが言った。

 「追手を全員倒したのであれば、カイルたちのほうからこちらへ来るはずだ。来ないということは、まだ全員を仕留め切れていないということだろう。そんなところへ、この子と馬を連れていくべきではない」

 「それなら、どうするんだ?」ジョンの気の小さそうな顔が焦りで歪んだ。

 「近付いてくる奴が敵か味方か、見極める」

 ロビンソンがそう言ったとき、ユゴーは造船所から百メートルほどの距離にまで接近してきていた。

 「止まれ!」ロビンソンがユゴーに向かって大声で言った。

 ユゴーは走るのを止め、歩きながらロビンソンたちに近付いた。

 「止まれと言っている!」ロビンソンが叫んだ。

 「心配するな! 味方だ! あの丘での戦闘が気掛かりになり、我らが神をすぐにでも安全な場所へお連れするために、やってきた!」尚も歩きながら、ユゴーが言った。

 「お前の体から船に伸びている光は、場所交換の魔法か!?」

 「そうだ! 私に我らが神を渡してくれれば、すぐにでも船にお連れすることができる!」

 「なぜ私たちの信号に答えなかった!?」

 「丘での戦闘が私たちを焦らせたんだ! 信号を送り返している時間はないと判断した! 実際、こんな悠長な問答などしている場合ではないだろう! 早く我らが神を安全な船上へ! 私に神を手渡してくれ!」

 「私たちの信号は届いていたんだな! では、私たちの信号が何を伝えていたか、言ってみてくれ!」

 「味方を試すようなことをしている場合じゃないだろう!」ユゴーは少し歩を早めた。

 「三秒以内に答えなければ攻撃する! 三! 二! 一!」

 「すぐそこの浜に船を寄せろと言っていたんだろう!」

 ユゴーが言ってすぐ、ロビンソンは手に持っていたカンテラを落とし、呪文を唱え始めた。

 嘘がばれたことを認識したユゴーは瞬く間に恐ろしい形相を作って、叫んだ。「戻られた神は世界に報復する! 全てに死の裁きを!」

 「戻られた神は世界に報復する・・・・・・新約神書の一章一節だ。あいつ、新約神書派か」そう呟いて、ジョンの顔から血の気が引いた。

 ロビンソンが呪文を唱え終えると、ユゴーの近くの空気が一瞬で圧縮された。同時に、ユゴーは急激に上昇した近くの気温から危険を察知し、真横に大きく跳んだ。それからすぐに、圧縮された空気が一気に解放されて、爆発が起こった。爆発の発生後、気温は空気が圧縮される前の平温に戻った。

 ユゴーは吹き飛ばされながらも体勢は崩さず、凍り付く海上に両足を着いた。ユゴーが身に付けていた長袖の上着、その左肩の部分は爆発によって破れていた。そこから覗く左肩は骨にこそ大きな損傷は無かったが、肉は激しく吹き飛ばされていた。左耳の聴覚は凄まじい爆発音によって機能しなくなっている。それでも平然としているユゴーは、爆発の際に発生した火が点いた自身の左袖を完全に破り捨て、呪文を唱えながら、ロビンソンたちに向かって走り出した。

 「ジョン。カイルたちと合流し、陸路を南東へ逃げろ」ロビンソンがジョンにだけ聞こえる大きさの声で言った。

 「しかし、カイルたちのところには追手の生き残りがいるかもしれないって、さっきあんたが・・・・・・」

 「万が一追手の生き残りがいたとしても、奴よりは危険じゃない!」そう叫んでから、ロビンソンは二頭の馬の手綱をジョンに押し付けるようにして手渡した。

 素早く呪文を唱え終えていたユゴーの右手には短刀が握られていた。魔法で作られたその短刀は刃から柄まで全て氷で出来ていた。ユゴーは、ロビンソンがジョンに手綱を渡した際に出来た隙を見逃さず、ロビンソン目掛けて氷で出来た短刀を投げた。走りながらの投てきだったことで狙いが外れ、短刀はロビンソンが乗っている馬の横っ腹に突き刺さった。ロビンソンは馬に突き刺さった短刀を見下ろすと、すぐさま地面に身を投げた。苦痛と混乱で暴れ狂う馬の体が、短刀の突き刺さったところからどんどん凍り付いていく。あっという間に、馬は氷像のようになって、絶命した。

 「大丈夫か!? ロビンソン!」ジョンが叫んだ。

 「俺に構うな! 早く行け!」そう叫んでから、ロビンソンは呪文を唱え始めた。

 ジョンは迫ってくるユゴーを見やり、肉の吹き飛んだ左肩を意にも介さない姿に恐怖を覚えた。

 ジョンは赤ん坊を右腕でしっかりと抱き直した。右手に持った二頭の馬の手綱もしっかりと持ち直し、そうして、カイルたちがいる丘のほうへ馬を走らせた。


 ロビンソンとユゴーの戦闘が始まる少し前、ダルトンは剣の切っ先を俯せに倒れているカフカに向けながら呪文を唱えていた。ダルトンが呪文を唱え終えると、カフカの周囲の草が伸び上がった。伸び上がった草はカフカの右の肩甲骨あたりに突き刺さっている短刀の柄に絡みつき、それを乱暴に引き抜いた。カフカの体がびくっと震えた。短刀を抜かれた傷口から大量の出血が始まる。伸び上がった草は短刀を地面に落としてから、カフカと地面の間に滑り込んだ。そのままカフカの右半身を押し上げて、カフカを仰向けに寝かせる。そうして、伸び上がった草は見る見ると縮んでいった。

 カフカは両眼を閉じ、浅い呼吸をしていた。

 「生きてやがったな」カフカの顔を見下ろしながらダルトンが言った。「気絶してんのか。てめえ、このまま眠りに落ちるように死ねると思うなよ」

 ダルトンは剣を地面に置き、カフカに馬乗りになり、カフカの両頬を交互に平手打ちした。

 「目を覚ましやがれ! この蛆虫野郎!」ダルトンが叫んだ。

 八発目の平手打ちで、カフカは両目をうっすらと開いた。強く叩かれ続けた両頬が大きく腫れ上がった。

 「意識が戻ったか」ダルトンは怒りで歪んでいた顔を更に恐ろしい形相に変え、立ち上がり、剣を拾い、その切っ先をカフカの首の左側面に当てた。「ゆっくりと切り進めてやる。死の恐怖と苦痛を味わわせてやる」

 ダルトンの剣がカフカの首の皮に切り込んだ。カフカは朦朧とした意識の中にも痛みを感じ、苦痛の声を漏らした。

 「止めろ! ダルトン!」

 ジャックのそばでしゃがんでいたカイルが立ち上がり、叫んだ。叫んでからすぐにカイルは呪文を唱えた。カイルの左手に青い光が点った。

 「何の真似だよ、カイル」自分よりも坂の高いところにいるカイルを見上げながら、ダルトンは言った。

 「無抵抗の相手を殺すなんて許さない」

 「最初の追手の連中や港の連中は殺しておいて、今更そんな奇麗事を言うのか?」

 言われて、カイルの表情が陰った。

 「この金髪やそこの赤い髪だけは殺さない? ふざけんな! 何だって兄貴の敵だけを生かしとかなきゃならねえんだ! やりたくもねえ殺しはやって、どうしてやりてえ殺しはやらねえってんだ!」

 ダルトンは更にカフカの首に剣を切り込ませた。カフカが悲鳴を上げた。

 カイルはダルトンに左手を向けた。「今、この二人を殺すことは必要に迫られていることじゃない。君個人の感情による殺人を、やはり私は黙認できない」

 「力ずくで俺を止めようってか。お前がその気なら、俺も力ずくで自分の考えを通すぜ」

 ダルトンは剣から手を離し、呪文を唱えながら坂を走って上り、カイルへの接近を試みた。カイルは魔法を放つことを躊躇し、後退した。ちょうどその時、ユゴーに向けたロビンソンの爆発の魔法が放たれた。大きな爆発音はカイルたちにもはっきりと聞こえた。ダルトンは呪文を唱えるのを止め、足も止め、燃え盛る造船所の方を見やった。

 「ロビンソン・・・・・・ロビンソンさんの魔法の音だ」ダルトンの恐ろしい顔が見る見るうちに気の優しそうな顔に変わっていった。「カイルさん! ロビンソンさんたちのところで何かあったのかもしれません!」

 ダルトンの極端な変わりように面食らいながらも、カイルはすぐに気持ちを切り替え、波止場の方へ走り出した。

 「ダルトン! 一緒に来い! ロビンソンさんたちと合流するぞ!」

 すぐにでもダルトンをカフカたちから引き離したい、そんな思いもあって、カイルの言動は迅速かつ力強かった。

 カイルの思惑に反し、ダルトンは素早くカフカに近付いた。カフカのそばに置いた自分の剣を拾うためだ。ダルトンは剣を拾い、その動作の過程で意図せずカフカを見下ろし、再び込み上げてきた怒りに顔を歪めた。

 カフカは右の肩甲骨のあたりの傷からだけではなく首の傷からも大量に出血していた。その為、辛うじて意識を保っている状態だった。哀れを誘うカフカの姿を見て、ダルトンは逆上する限界のところで理性を保った。

 「切れると見境がつかなくなる・・・・・・それが僕の悪いところだって、いつも兄さんは言っていた」そう呟いてから、ダルトンは深呼吸をした。「止血すれば、君は生き残ってしまうかもしれない。だけど、止めは刺さないでおくよ。兄さんのことは悔しいけれども」

 ダルトンはカイルを追って走り出した。坂を駆け降りるカイルの後姿と馬を駆って坂を上ってくるジョンの姿がダルトンの瞳に映る。

 「新約神書派とロビンソンが交戦している! 船は新約神書派に乗っ取られた! 早く馬に乗れ! 陸路で逃げるぞ!」

 ジョンが叫び終えたのと同時に、キャラック船の近くの海水が耳をつんざく大きな音を響かせながら空高く噴き上がった。カイル、ダルトン、ジョンの三人は揃ってキャラック船のほうを見やった。噴き上がった海水と共に空へ舞い上がった巨大な生物を、三人は目にする。巨大な生物は空中でその蛇のように細い体をくねらせた。

 キャラック船の甲板から赤色に発光する鎖が伸び出て、巨大な生物の体に巻き付いた。巨大な生物は、噴き上がった海水が滝のように海面へ落ちていくのと一緒に落ちていき、そのまま海へ潜った。そうして、巨大な生物はカイルたちのいる場所を目指して水しぶきを上げながら海中をとてつもない速さで移動した。赤色に発光する鎖は巨大な生物がキャラック船から離れていくのに合わせてどこまでも長く伸びた。

 「早く馬に乗れ!」ジョンはカイルのそばに寄り、誰も乗っていない馬二頭のうち一頭の手綱を手渡しつつ、言った。

 カイルは少し手間取りながらも乗馬を済ませた。それから、ダルトンがカイルたちのそばに駆け寄ってきた。ジョンがもう一頭の馬の手綱をダルトンに手渡そうとしたその時、巨大な生物が海中から飛び出し、カイルたちから百メートルほど離れたところの浜に着地した。着地するや否や、巨大な生物は頭部から真っ赤な液体を噴き出した。それは高い弧を描きながらカイルたち目掛けて飛んでいった。

 「避けろ!」叫びながら、カイルは馬を走らせた。

 ダルトンは素早く横っ飛びした。ジョンも急いで馬を走らせた。その際に、ジョンはダルトンに手渡そうとしていた手綱を放した。その手綱の馬は降り懸かってくる真っ赤な液体に気付かず、佇み、真っ赤な液体を浴びた。馬の苦痛に満ちた嘶きが響き渡る。真っ赤な液体を浴びた馬の体が煙を上げながら瞬く間に溶けていく。強烈な臭気が辺りを包んだ。馬はすぐに絶命し、横に倒れた。肉も臓器も全て溶けて無くなり、馬の骨格だけが残った。

 巨大な生物は地を這いながら、カイルたち目指して坂を上った。

 「ジョンさん! 赤ちゃんと早く逃げて!」ダルトンが叫んだ。

 「駄目だ! あいつは馬よりも早い! さっきの液体もある! 逃げるのは却って危険だ!」カイルが叫んだ。「あいつを三人で倒すしかない!」

 五秒も立たずに、巨大な生物はカイルたちへの接近を果たし、その細長い体を縦に真っすぐ伸ばして、カイルたちを見下ろした。

 巨大な生物は体全体が青白く、体長は十メートルほどで、頭頂部が口のように裂けている以外は人間とよく似た頭部を持っていて、人間によく似た胴も持っていた。女性のような美しい顔をしていて、右の胸にのみ乳房がある。肩から先に腕はなく、鰭のみが生えていた。腰から下は蛇のような体をしていて、その丸太のように太い体がしなやかに蠢いている。赤色に発光する鎖が巻き付いているのはこの蛇のような体の部分だった。蛇のような体の先細った尾に当たる部分にも人間によく似た胴と頭がくっついている。それは、左の胸にのみ乳房があり、肩から先にきちんと腕と手があり、頭の先が裂けてはいないものの恐ろしく醜い顔をしていた。美しい顔のほうは頭部も胴も成人女性の五倍ほどの大きさをしていたが、醜い顔のほうは頭部も胴も成人女性と大差ない大きさだった。尻尾として振られるたびに、醜い顔のほうは更に顔を歪め、爛れた口から悲鳴を漏らした。その悲鳴を聞くたびに、高いところにある美しい顔のほうは笑みを浮かべた。

 カイルは青い光が点った左手を胸の前で右に払い、それからすぐにその手を左に払った。すると、巨大な生物の両側面に突風が吹き付けた。左右からの強い風に圧迫され、巨大な生物は体をひしゃげながら悶えた。続いて、ダルトンも呪文を唱えた。地面の草花が伸び上がり、その先端が鋭く尖り、巨大な生物の蛇のような体の部分に突き刺さる。巨大な生物の美しい顔のほうが苦痛に顔を歪め、絶叫し、頭頂部を大きく開き、真っ赤な液体が幾つも噴き出した。真っ赤な液体は空高く噴き上がった後、周囲に降り注いだ。カイルたちは必死になって真っ赤な液体を回避した。真っ赤な液体は草花を溶かした。草花が溶ける際に発生した小さな煙が幾つも合わさって、カイルたちの周囲は煙に覆われ始めた。その中で、カイル、ダルトン、ジョンの呪文を唱える声が響き渡り、巨大な生物は真っ赤な液体を吹き出し続けた。

 カイルたちが戦闘状態にあるうちに、キャラック船は向かい風の中をジグザグに進み、造船所付近へと近付いてきていた。


 キャラック船の甲板で、チャンドラーが、キャラック船を海上で停止させるよう使い魔たちに命令を出していた。チャンドラーの細かい指示に使い魔たちは完璧に応え、正確な舵と帆の操作を見せた。そうして、キャラック船は陸から吹いてくる強い風に対して船首を真っすぐに向け、帆もほとんど風を受けないように調整され、海上で停止した。

 「錨を下ろしちゃえば、そんなに面倒なことをしなくて済むのに」アリシアがチャンドラーに向かって言った。

 チャンドラーはキャラック船の停止を維持するために尚も使い魔へ指示を出し続けていた。チャンドラーは指示の合間に、夜空に輝く真ん丸な青い衛星を指差して、「今日は大潮だ。夜明けも遠くない。水深がどんどん深くなってきている。唯でさえ陸から距離があるんだ。錨など使わん」と言った。

 「何を言ってるのか、全然分からない」アリシアが退屈そうな顔で言った。「ねえ、もっと港に船を近付けてよ。あなたが呼び出した気味の悪い化け物と旧約神書派が殺し合いをしているはずなのに、この距離じゃ煙くらいしか見えないの」

 「あの煙では近付いたって何も見えはしないだろう」

 「ユゴーのほうの戦いならよく見えるかもしれない。あいつはねちねちした戦いをしそうだから、あんまり見たくないけれど」アリシアは燃え盛る造船所のほうを指差した。

 ユゴーは既に陸に上がっていた。造船所の近くで続くユゴーとロビンソンの戦闘はロビンソンが放つ魔法によって幾つもの爆発音を轟かせていた。

 「この距離ならユゴーが港のどこにいても場所入れ替え魔法の範囲内だ。風に乗って舞ってくる火の粉も届かず、陸の敵に船を攻撃された際にも充分に対応できる距離でもある。ここに船を停止させるのが最善だ」

 チャンドラーの話を上の空で聞きながら、アリシアはキャラック船の甲板を歩き回り、やがて船首の近くで胡坐をかき、自身の長い金色の髪をいじり始めた。すぐにそれにも飽きて、アリシアはまたチャンドラーに声を掛けた。

 「死体、まだ三つも残ってるのね。どうして全部使っちゃわなかったの?」

 「予備のためだ」溜息を吐くようにしてチャンドラーは答えた。

 甲板にあった十三体の死体はアリシアの言う通り三体だけになっていた。飛び散っていた肉片や骨や臓器と共に、十体の死体は消え去っていた。血痕だけが、十体の死体が存在していたことを物語っていた。

 「普通、あんな化け物を呼び出して命令まで与えたら、代償に自分自身の目玉やら耳やら内臓やら何かしらを失ってしまうでしょ。それを他人の死体だけで代償を済ませられちゃうなんてさ。あなたの呼び出し魔法は特別だって噂は聞いていたけど、この目で見るまでは信じられなかった。本当に、凄いのね、チャンドラー」

 カイルたちと戦闘状態にある巨大な生物の体に巻き付いている赤色に発光する鎖は、チャンドラーの右手の指先から伸びていた。

 「私の呼び出し魔法にも、難点は多々ある」チャンドラーが言った。

 アリシアは立ち上がり、巨大な生物たちを包む煙のほうを見やった。

 「すごい、どんどん大きくなる、煙。あの化け物、張り切ってるね。これじゃあ赤ちゃんも巻き込まれて死んじゃうかも。チャンドラー、あなたの命令が乱暴だったんじゃない? 港の近くにいる人間を赤ちゃん以外は全員殺せ、なんてさ」

 「ユスターシュ・ドージェがそう簡単に死んだりはしない」

 「それはユゴーみたいな狂信者に聞かせるべき建前でしょ」アリシアはチャンドラーのほうを向き、蠱惑な瞳でチャンドラーを見詰めた。「赤ちゃんが本来の力を発揮できるのであれば、旧約神書派に大人しく連れまわされたりしていない。そんなことに気付かないのはユゴーみたいなお馬鹿さんだけ。赤ちゃんになっちゃって力が使えないのか、転生魔法そのものが失敗だったのか、何にしたって、あの赤ちゃんは今、普通の人間の赤ちゃんと同じくらいの力しか持っていない。充分にそう推測できるでしょ。それでも、あなたはあんな化け物に乱暴な命令を出した。まるであの赤ちゃんなんか死んじゃっても構わないみたいに」

 チャンドラーは冷たく暗い瞳でアリシアを睨み付けた。アリシアは目を逸らさず、余裕を持って微笑んだ。しばらく視線を交わらせた後、チャンドラーのほうが目を逸らした。

 「化け物への命令は考えが足りなかった。私の失敗だ」

 「私、男の嘘って世界で一番大嫌い。だって、男ってみんな嘘が下手なくせに自信満々で嘘をつくでしょ。それが浅ましくって愚かしくって、可愛いを通り越して殺したくなっちゃう。ねえ、本当のことを聞かせてくれないなら、私にも考えがあるよ、チャンドラー」

 「その考えとやらを聞かせてくれ」

 「二人で船上の舞踊としゃれこむの。どちらかが力尽きるまで続く死の舞踏会なんて、素敵でしょ?」

 沈黙が二人の間に重く横たわった。甲板を這う船虫をアリシアは素足で踏み潰した。アリシアの青い瞳が怪しく輝いた。

 チャンドラーは大きく息を吐いた。

 「ユスターシュ・ドージェの力の有無、転生魔法の成否、それらに拘らず、ユスターシュ・ドージェは殺す。初めからそのつもりだった」

 「それ、ユゴーに聞かせてあげたら面白いことになるわよ。あいつ、きっとすっごい怒って、そのまま発狂しちゃうかも。あるいは、あなたと殺し合いを始めちゃったりして」アリシアが子供のように笑った。「あの赤ちゃんを殺すっていうその考え、あなたのお兄さんのもの?」

 「知っていて聞いているのだろう、アリシア。夜の床で、兄から聞き知っているのだろう」

 「ベッドの中でもじょもじょしてあげると、何でも喋ってくれるから、好きよ、あなたのお兄さん」アリシアは淫らな舌の動きで自身の唇を舐めた。「お兄さんから赤ちゃんを殺せって言われてたにしては、化け物への命令が中途半端だね。だって、赤ちゃん以外は全員殺せ、なんて命令じゃ赤ちゃんが生き残ってしまう可能性があるもの。私がそばにいたからそういう命令しか出せなかった? 違うわね。お兄さんがやれと言ったことはどんなことでもやり遂げてきたあなたなら、私を殺してでも、赤ちゃんを殺せっていう命令を化け物に出したはずだもの」

 「何が言いたい?」

 「いけないことを考えているのに踏ん切りがつかないで悶々としているあなたって可愛い、って言ってるのよ、鈍感な小父様」アリシアは大きく伸びをして、それから甲板に寝転んだ。

 「新約神書派内のあらゆる派閥の有力者どもに分け隔てなく股を開いているお前が私の二心を疑って何になる? 我が兄に心酔したわけでもあるまい。何が望みだ? アリシア」

 「刺激と絶頂。私が望んでいるのはいつだってそれだけ」アリシアは爪先をチャンドラーに向け、その足の指を淫らに動かした。「聞かせて、あなたが本当にしたいこと。私の趣味に合う話だったなら、一枚かんであげるから」

 造船所のほうで一際大きな爆発音が轟いた。チャンドラーは造船所のほうを見やり、それから、口を開いた。


 ロビンソンの魔法によって造船所の近くで幾つも発生していた爆発、そのどれよりも大きくて強力な爆発をロビンソンは放った。それさえも、ユゴーは易々と回避した。ユゴーは、海上での最初の爆発で負傷した以降はかすり傷一つ負っていなかった。

 「何の考えもなしに同じ手を繰り返す。浅ましい希望にでも縋っているのか? 私がお前の魔法を躱し続けているのは偶然だと、本気で思っているのか? だとしたら、お前は大馬鹿者だ」ユゴーが無表情で言った。

 ユゴーとロビンソンは十メートルほど離れていて、互いに体の正面を向けて睨み合っていた。ロビンソンが放った幾つもの爆発で、港にある造船所以外の建物は全て破壊されていて、その残骸は燃え上がっていた。炎に包まれた港で、ロビンソンの血色の良い赤みがかった肌とユゴーの青白い肌が対照的に照らし出されている。ロビンソンは無傷だった。

 ユゴーは呪文を唱え終えており、いつでも魔法を使える状態だったが、魔法を使おうとはせず、陰湿な声音で喋り続けた。

 「呪文を唱えるだけで任意の場所を爆発させる、その魔法自体は強力だが、悲しいかな、使い手の理解がまるで足りない。どのようにして自分の魔法は爆発を発生させているのか、考えたことが有るか? 無いだろう。無いからこそ、お前は私が爆発を躱し続けられる理由を考えることすら出来ないでいるのだ」ユゴーは自身の細い顎を右手で撫でた。「空気を圧縮し、その圧縮した空気を一気に解放することで爆発を発生させる、それがお前の魔法だ。お前の魔法が放たれた瞬間、急激な気温の上昇を感知できた。その後、爆発が発生し、爆発が終われば気温は平温に戻った。ここが密閉された空間であるならば、空気の膨張による爆発であるという可能性を除外できなかったが、この野外にあっては、そんな考えは愚の骨頂だ。そうであるならば、気温の変化と爆発の因果関係から導き出される結論は一つ。そう、先程言った空気の圧縮と解放による爆発だ。圧縮された空気は熱くなる。爆発後、圧縮された空気はなくなっているのだから、熱が消えて気温は平温に戻る・・・・・・私の氷の魔法は気温による影響を受けやすいのでね、気温の変化は常に敏感に感じ取るよう心掛けているのだよ。そんな私にはお前の魔法が手に取るように理解できた」

 「何を言っているのか、さっぱり分らんね」ロビンソンが吐き捨てた。

 「お前が何を聞かされても理解できないと分かっているうえで、講義をしてやったのだよ。それは、知恵を持つ者から知恵を持たぬ者への、嫌味だ」ユゴーは嫌らしい笑みを浮かべた。「私たちが立っているこの星は太陽の周りを回っているのだと証明した人間が処刑され、その説と共に闇に葬られる。そんな世界に隷属してきた人間たちには理解できない英知が存在するのだよ。魔法の英知とは別の英知がな。魔法を使うだけの浅薄なお前が、科学の英知と共にある私に勝てる道理など無い」

 「充分と喋ったな。もう満足だろ、頭でっかち」そう言ってから、ロビンソンは呪文を唱えた。呪文を唱え終えてから、言葉を続ける。「俺の魔法を見切ってるっていうのなら、構わんよ。見切っていても回避できないように、お前の四方八方、広範囲を同時に複数か所爆発させればいいだけのことだからな。それなら、逃げ場がないだろう」

 その言葉をわざとユゴーに聞かせてから、ロビンソンはしばらく待った。先に魔法を使わせてユゴーを次の呪文が唱え終わるまで魔法を使えない状態にしてから、渾身の魔法を放とうとした為だ。次の魔法でユゴーを仕留める自信が、ロビンソンにはあった。しかしその自信以上に、ユゴーにはどんな魔法も回避されるのではないか? という疑心が強かった。後出しを望んだロビンソンの言動は、慎重さによるものではなく、恐怖の現れだった。そんなロビンソンの心理を見透かして、ユゴーは魔法を使わないまま悠々と歩き出し、ロビンソンとの距離を詰めにかかった。ロビンソンは、ユゴーに先に魔法を使わせることを断念し、後方に素早く跳んでユゴーとの距離を更に離し、それから、渾身の魔法を放った。その魔法に合わせて、ユゴーは魔法を使った。

 ユゴーの半径十メートル以内の複数か所で同時に爆発が起こった。発生した爆発の数は九十を超えている。同時発生した複数の爆発による熱、火、風、音がユゴーの周辺を包み込む。それは、ロビンソンの言葉通り、逃げ場のない魔法だった。

 ロビンソンは自分の魔法の爆風で後方に吹き飛ばされたが、受け身を取り、負傷することはなかった。すぐに体勢を整えて、爆発の跡地を見やる。そうして、ロビンソンの顔が青ざめた。

 「その顔が見たかったぞ、旧約神書派よ」ユゴーの声だった。

 ユゴーは笑みを浮かべながら立っていた。先程の爆発の魔法による負傷は皆無だった。ユゴーの半径三メートルから十メートルの間は塵すらも吹き飛んで澄んでいた。しかし、ユゴーの半径三メートル以内は塵すらも凍り付いていて、全てが青みがかっていた。地中のミミズさえもが完全に凍り付いている場にあって、空気だけは細かな液体となって薄霞を作り、ユゴーの姿をぼやけさせていた。

 「私の魔法なら空気を液体に変わるまで冷やすことが出来る。液体は圧縮し辛い。圧縮できなければ熱も力も生まれない。因って、私の魔法の効果範囲内だけは爆発が発生しなかった」

 ユゴーの半径三メートル以内の気温はマイナス二百度近くまで下がっていた。その冷気はユゴーの半径三メートルより外には何の影響も及ぼしていなかった。

 場所交換魔法の光と一緒に、ユゴーはもう一つ橙色の光を纏っていた。その光は周囲の冷気を完全に防ぎ、ユゴーの肉体や衣服を常温に保っていた。

 「逃げたほうがいいぞ。私に近付かれたら、死ぬ」

 ユゴーは凍り付いた地面を強く踏み付けながらゆっくりと歩き、ロビンソンとの距離を縮め始めた。ユゴーの半径三メートル以内の気温は依然としてマイナス二百度近くまで下がっていて、ユゴーが歩を進めるたびにユゴーの前方はどんどん凍り付いていった。

 自分の魔法がユゴーの近くでは発動しないことを理解したロビンソンは、ユゴーの撃破ではなく足止めに目的を切り替え、後退りしながら呪文を唱え始めた。ユゴーの前方五メートルほどの位置に爆発を発生させ、ユゴーの歩みを少しでも遅らせようとしたためだ。二秒ほどで、ロビンソンは呪文を唱え終えた。しかし、魔法は発動しなかった。

 「魔法は無限ではなく、有限。さっきの複数の爆発でお前は魔法の力を使い果たした」ユゴーは満面の笑みを浮かべた。「打つ手なしだぞ。小細工なしで逃げる他に手はない。ほら、逃げろ。無様に逃げろ。運が良ければ逃げおおせるかもしれないぞ」

 ロビンソンは腰のベルトに差していた鉄で出来た剣を抜き、それをユゴーに向かって投げた。ユゴーの半径三メートル以内に入ったところで、剣の柄は凍り付き、刃は無数にひび割れた。低温になったために脆くなった刃はユゴーの右肩に当たり、砕け散った。それでユゴーが傷を負うことはなかった。

 ロビンソンはユゴーに背を向け、カイルたちがいる方向とは逆の方向へ走り出した。僅かでもユゴーをカイルたちから引き離すために、僅かでも時間を稼ぐために。それはロビンソンの最後のあがきだった。

 ロビンソンの背中を見ながら、ユゴーは高らかに笑った。狂気を含んだ笑い声が崩壊した港に響き渡る。笑いながら、ユゴーは呪文を唱えた。ユゴーが呪文を唱え終えるとすぐ、ユゴーの体の近くに小さな青い光の玉が発生した。空中をふわふわと浮遊するその光の玉はユゴーがロビンソンの足を指差すと同時にロビンソンの足へ向かって真っすぐに飛んでいった。ちょうど地面を踏んだロビンソンの右足に、光の玉が命中する。すると、ロビンソンは上体を崩し、四つん這いになった。ロビンソンは自身の右足を見やった。地面に着いたまま凍り付き、上げられなくなった右足が目に映る。ロビンソンは立ち上がり、足を動かそうとしたが、凍り付いた右足はびくとも動かなかった。

 「命乞いをしろ」ロビンソンに近付きながらユゴーが言った。「私の心に訴えるものがあったなら、見逃してやってもいい」

 ロビンソンは冷や汗を流しながらも、微笑み、「くたばれ。もやし野郎」と言い放った。

 ユゴーは真顔になり、尚もロビンソンに近付いた。ユゴーの半径三メートル以内にロビンソンの体が入った。そうして、ロビンソンの命は、急激に冷やされた体中の細胞が死滅することで、絶たれた。真っ赤に腫れ上がったロビンソンの体が尻餅をつき、そのまま仰向けに倒れた。

 ユゴーは天を仰ぎ、目をつぶり、自身の喉に右手の平を当て、その右手の甲に左手の平を当てた。それは、新約神書派の祈りの型だった。

 「神の御心のままに、務めは果たされました。死した罪人の卑しい魂は無限の闇に落ち、より一層、信仰の煌めきを引き立てることでしょう」

 そう言ってから、ユゴーは十秒ほど黙した。その間に、ユゴーの半径三メートル以内の冷気が消え去って、周囲の気温が平温に戻った。その後、ユゴーが纏っていた橙色の光も消えた。

 ユゴーはロビンソンの亡骸を見下ろし、嘲笑い、それから、丘のほうを見やった。カイルたちを包む煙はカイルたちの姿は疎か巨大な生物の姿さえも覆い隠すほどに広がっていた。キャラック船から伸びてきている赤色に発光する鎖が煙の中に入り込んでいるのを見て、ユゴーは顔をしかめた。

 「我らが神のおそばに汚れた呼び出されし者なんぞを仕向けおって。不埒者どもめが」そう言ってから、ユゴーはころっと表情を変えた。「今、お迎えに上がります。我らが神」

 曇天に変わりつつある夜空の下、恍惚とした表情で呪文を唱えながら、ユゴーはカイルたちを包む煙に向かって走り出した。

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