第3話 港 ブラッシュアップ不足バージョン
チャンプと馬を体力の限界まで走らせて、ようやく、カフカたちは小さな港を視野に入れた。
港から三百メートルほど離れた、港全体を見下ろせる丘に馬を停め、カフカ、ジャック、ブロンテは素早く馬を降りた。カフカに促され、太郎も馬から降りようと試みた。運動不足な太郎の体は鉛のように重く、ブリキのおもちゃのように不器用だった。三分ほど馬上でもたついてから、地面に激しく尻餅をついて、太郎は下馬を終えた。
「ちくしょう。なんで俺がこんな目にあってるんだ」涙目になりながら太郎が呟いた。
カフカは、丘の真っ平なところで草をむしっているブロンテの方を見やり、それから、丘の傾斜付近に身を伏せながら港を監視しているジャックの方へ視線を移した。
「港の状況、何か分かった?」カフカが尋ねた。
「全く動きがないということくらいしか分からん。望遠鏡なしで、この距離とあの港の暗さじゃ、それ以上なにも分かりっこねえ」ジャックが答えた。
波止場には小型の帆船が一隻だけ泊まっていた。キャラベル船だった。船上にも港にも明かりがなく、星の光だけが船と港の姿を海岸に薄らと浮かび上がらせている。キャラベル船こそ丁寧な作りだったが、港自体はとても乱暴な作りだ。雑な石積みで凸凹だらけな波止場と、舗装のされていないぬかるんだ土の地面と、六つの木造の建物、それが港の全容だった。灯台すらも設置されていない。
「カイルは魔法の使い手として天才だ。だけど、いくらカイルだってアベルさんたち追手の五人を一人で全滅させられるはずがない。カイルには腕の立つ仲間がいると思っていたほうがいい」カフカが言った。
「或いは、ユスターシュ・ドージェはもう本来の力を取り戻しているのかもしれない」ジャックの頬を汗が伝った。
「なんにせよ、船が出港でもしないかぎりは無闇に戦闘を開始しないほうがいい。ロバート様に要請した援軍も直に到着するだろうし、時間が立てば立つほど俺たちが有利だ」
「海に逃げると俺たちに思わせておいて実は陸路を使って逃げている、って落ちじゃなければな」
「ジャック、チャンプの顔を見てみなよ」カフカがチャンプを指差した。「獲物が近くにいるのを感じ取ってる顔をしているだろ。こいつの鼻は簡単にはごまかせない。転生したユスターシュ・ドージェのへその緒のにおいを頼りにチャンプはここまで走ってきたんだ。ユスターシュ・ドージェは必ずあの港のどこかにいる」
チャンプは港を一心不乱に見詰めながら、鼻孔を全開まで広げ、歯茎を露にし、大量の涎を垂らしていた。
「準備ができた」ブロンテが言った。
カフカはブロンテの方へ目を向けた。
ブロンテは、刃が鉄で出来た短刀を左手に持ちながら、草をむしられて露になった土のそばに立っていた。露になった土には直径十センチメートルほどの円が描かれていて、その円の内側には幾何学模様が描かれていた。ブロンテは短刀の切っ先に付いていた土を落とした。それから、ブロンテは呪文を唱え、短刀で自身の右手の甲を軽く切った。ブロンテの血が土に描かれた円の中心に向かって滴り落ちる。そうして、円の中心に付着した血はぶくぶくと泡立った。血を五滴垂らしてから、ブロンテは右手を円の上から引き、泡立っている血から少し離れた。血の泡は徐々に形を作っていく。人間に似た胴体、手、足、頭、それらを持った真っ赤な生物が五匹、出来上がる。しわくちゃな悍ましい顔をしたそれらは、キーキー声で鳴きながら、二足歩行で跳躍した。五匹はどれも体長九センチメートルほどだった。
「黙れ、使い魔ども」
ブロンテに凄まれ、使い魔と呼ばれた真っ赤な生物たちはすぐさま大人しくなり、横一列に整列した。
「お前たち二匹はあの船に乗っている人間を全て見つけて、その数を私に知らせろ。お前たち二匹はあの港にいる人間を全て見つけて、その数を私に知らせろ。お前はあの港にいる馬を全て見つけて、その数を私に知らせろ。誰にも見つからぬようにしてやり遂げるんだ。いいな」
「見つけた、人間、いたずら、していい? 指、切り落とす、耳、削ぎ落とす、していい?」使い魔の一匹が不快なほど高い声で言った。
「駄目だ。私が命じたことだけをやれ」
使い魔たちが悪態をついた。
「これが仕事の報酬だ。前払いをしておこう」
ブロンテはズボンの腰ひもにくっつけていた布の巾着から豚の干し肉を取り出し、それを五等分して、使い魔たちに投げて寄越した。使い魔たちは自分の口よりも大きな干し肉をくわえると、三秒も経たないうちに平らげてしまった。
「行け」
ブロンテが命じると使い魔たちは跳躍し、緩やかな傾斜を素早く下って、港の暗がりへと姿を消した。
「彼にも俺たちの言葉が通じればよかったんですけど」不安げにきょろきょろしながら立っている太郎を見やりながら、カフカが言った。「ブロンテ老師。彼にも武器を渡したほうがいいのでは?」
ブロンテは立ち上がり、短刀を持ったまま太郎に近付いた。太郎は後退り、小さな悲鳴を漏らした。ブロンテは短刀の刃を持ち、柄を太郎に向けて差し出した。
「いらないっす、そんなの」震えた声で太郎は言った。
ブロンテは短刀を太郎の足元に置いて、少し離れ、三十秒ほど腕組をして待った。太郎が一向に短刀を拾おうとしないので、ブロンテは諦めて短刀を拾い上げた。
「ユスターシュ・ドージェが港から移動を始めた場合のみ攻撃を行う」ブロンテがカフカとジャックを見やり、言った。「ユスターシュ・ドージェをこの場所に止めることが私たちの最低限の役目だ。よって、攻撃対象の優先順位は船、馬、ユスターシュ・ドージェの順だ。ロバート様に要請した援軍が駆け付ければ、カイルたちの戦力がいか程であっても一網打尽にできる。敵の移動手段を奪うことに全力を注げ」
「ユスターシュ・ドージェを確実に仕留められると判断できる状況であっても、敵の移動手段を奪うことを優先するんですか?」ジャックがブロンテに尋ねた。
「カイルを侮るな。奴がユスターシュ・ドージェを守っている限り、お前の言うような状況はあり得ない」
「里からの援軍要請がロバート様の屋敷に届くまでの時間、ロバート様の屋敷からこの場所までの距離、それらを単純に足し算するなら、援軍が到着するのは四十分後でしょう」カフカが言った。
「援軍の部隊を編成するのに時間が掛かるだろ。四十分じゃ絶対に到着しねえよ。援軍の到着には一時間以上は掛かると考えておいたほうがいい」
「カフカ。ジャックと港の監視を代われ。ジャック。こっちへ来い」ブロンテが言った。
ジャックはブロンテが立っている丘の真っ平なところへ移動し、カフカはジャックが伏せていたところに伏せた。
「この場所にお前の魔法で塹壕を作れ」ブロンテがジャックの足元を指差しながら言った。「交戦になった場合、港からこの場所へ坂を上り切った敵は塹壕で迎え撃つ」
ジャックはしゃがみ、地面に両手の平をつけて呪文を唱えた。地面に緑色の光が広がり、すぐに消えた。
「これで、いつでも一瞬で塹壕を作れます」ジャックが立ち上がりながら言った。
「ジャック、カフカ、引き続き港の監視を頼む。私は、すまないが、使い魔が戻るまで休ませてくれ」
ブロンテは座り込んだ。慣れない片目だけの視野が、年老いた心身を疲弊させていた。
しばしの静寂が訪れた。馬の嘶きと犬の呼吸だけが聞こえる。そうして、五分が立った。その間もずっと、太郎は立ち尽くしていた。青い衛星に魔法や使い魔、それらを目撃していながらも、恐怖と混乱の余り思考停止に近い状態に陥っていた太郎は、自分がいる場所が地球外であるなどとは露とも考えず、現状を何一つ理解しようとしないまま、唯、理解不能な現状に対する文句を呟き続けながら、怯えていた。
暖かい夜だったが、湯冷めしたうえにズボン一丁の格好では少し肌寒く、太郎はくしゃみをした。
ジャックと港の監視を交代したカフカが、革のベストを脱いで、それを太郎に差し出した。
太郎は躊躇した後、頭を少し下げ、革のベストを受け取った。そうして、それを着用した。
「どこなんすか、ここ?」太郎は呟いた。
カフカは困った顔をしてから、自身を指差し、「カフカ」と名乗った。それを三回繰り返した。
「カフカ」太郎は恐る恐る言った。
カフカは笑顔を作り、首を縦に振った。それから、太郎を指差した。
太郎はとても小さい声で、「太郎っす」と言った。
「タロス?」
「太郎っす」少し声を大きくして、太郎は言った。
「タロウス?」
「太郎」
「タロウ」
太郎はちょっとだけ笑って、首を縦に振った。
強い風が吹き、ちぎれて飛んだ草花の切れ端が海上を舞った。
「君が最も邪悪な世界からやってきたなんて信じられないよ」カフカは太郎の目を真っすぐに見た。「タロウ。こんなことに巻き込んでしまって、ごめんね」
真に迫ったカフカに気圧されて、太郎は目を逸らした。ちょうどその時、使い魔のキーキー声が聞こえた。
「馬、四頭、いる。あそこ。一番、大きい、建物、中、全部、いる」
いつの間にか戻ってきていた使い魔が、ブロンテの真ん前で飛び跳ねながら、波止場に隣接する一際大きい建物を指差していた。それは簡易な造船所だった。
ブロンテは立ち上がり、使い魔に礼を言ってから呪文を唱え始めた。ブロンテが呪文を唱え終えると、使い魔の体が真っ赤な泡に変った。泡はどんどん小さくなっていき、やがて消えた。泡が消えた所には小さな血痕だけが残った。
ブロンテはジャックのそばでしゃがみ、カフカを呼んだ。カフカもジャックのそばにしゃがんだ。
「カフカ、ジャック。今の使い魔の報告は聞こえていたか?」
二人は、「聞こえていました」と答えた。
二匹の使い魔が坂を上ってきた。跳躍し、ブロンテのそばに着地する。
「船、人間、いない」二匹の使い魔が口を揃えて言った。
ブロンテは礼を言い、呪文を唱えた。最初に消えた一匹と同じようにして、二匹の使い魔も消えた。
一つの流れ星が夜空に美しい線を引いた。太郎だけがそれを見ていた。
残りの二匹の使い魔もブロンテのそばに戻ってきた。
「港、人間、二十八人、いる。生きてる、人間、五人、いる。死んでる、人間、二十三人、いる」丸い顔の使い魔が、言った。
「赤ん坊はいたか?」
「一人、いる。生きてる、四人と、一緒、あの、一番、大きい、建物、中、いる」四角い顔の使い魔が、造船所を指差した。
ジャックが唾を飲み込んだ。カフカが冷や汗を拭った。
「お前たちにはもう一つ仕事をしてもらう」ブロンテが二匹の使い魔に言った。「あの建物にいる人間を見張り、赤ん坊があの建物の外に出たら急いで私に報告しろ」
「ずるいぞ! なんで、俺たち、だけ、仕事、多い!」丸い顔の使い魔が激しく飛び跳ねた。
「黙れ」
「黙る、しない! 扱き使う、なら、何か、他に、物、寄越せ!」
「チーズならあるぞ」
「それじゃ、駄目! そこの、奇麗、男!」四角い顔の使い魔がカフカを指差した。「そいつの、前歯、一本、ずつ、寄越せ!」
口を開きかけたカフカを制して、ブロンテが素早く、「それは駄目だ」と言った。それから、「代わりに私の歯をやろう。前歯だけと言わず、全ての歯を」と続けた。
使い魔たちは少し迷ってから、「それで、いい」と同時に言った。
「今回は後払いだ。さあ、行け」
使い魔たちは造船所に向かって跳躍し、あっという間に坂を下り切った。
カフカが申し訳なさそうな目でブロンテを見詰めた。
「気にすることはない、カフカ。私の歯は全て義歯だ」
「それで使い魔たちが納得するんですか?」
「奴らに只働き同然で仕事をさせるのはこれが初めてではないよ」ブロンテは微笑んだ。それからすぐに表情を引き締め直した。「使い魔が報告に戻ったら、敵の移動手段に対して攻撃を行う。それまでは港の監視に徹する」
「ブロンテ老師」ジャックが言った。「使い魔が言っていた死んでいる二十三人っていうのは、あの港を利用していたならず者たちのことでしょうか?」
「そう仮定するしかない」
「では、生きている五人というのは、ユスターシュ・ドージェとカイルとその仲間、と仮定する?」
「カイルたちの顔を知らない使い魔たちはカイルたちを特定できない。よって、現在の状況、現在持っている情報だけで私たちは判断をするしかない。チャンプの様子、死体だらけの港、静かすぎる港、ならず者の縄張りに似つかわしくない赤ん坊、それらで、生きている五人をユスターシュ・ドージェとカイルとその仲間と仮定するのは無茶ではないだろう」
「ならず者たちを殺したのもカイルたちだと仮定?」ジャックは不満を隠さない口調で言った。
「ジャック。仮定ばかりであることに不満を募らせても何にもならないぞ」ブロンテが語気を強めた。「ユスターシュ・ドージェを移動させるにしてもこの場所に潜伏させるにしても、この港にいた連中は邪魔になる。それだけで、ユスターシュ・ドージェを必要とするような連中なら二十三人もの命を平然と奪う。もちろん、これも仮定だが」
「俺は、生きている五人が何者なのか、正確に知るべきだと思います。その為にも、生きている人間がいるっていうあの建物に今すぐ忍び込むべきです」ジャックも語気を強めた。「俺一人で忍び込んできます。赤ん坊がユスターシュ・ドージェなのか、四人がカイルたちなのか、はっきりさせてきます。俺たちにとって最悪なのは、赤ん坊がユスターシュ・ドージェではなかった場合でしょう。ユスターシュ・ドージェの囮に釘付けにされているうちに、本物が遠くへ逃げてしまうことが最悪の結果でしょう」
「カイルは自身の追跡に使われるであろう物品を全て焼却していた。へその緒のにおいを頼りに追跡されるなど、考えの及ぶことではない。奴らは追手が的確に自分たちを追ってくるとは思っていない。だからこそ、奴らは悠長に、この港に留まっているのだろう。馬を休ませるためか、船を動かすためか、あるいは波止場に泊まっている船とは別の船を待っているのか。なんにせよ、今のこの状況で、ジャック、お前が奴らに見つかったらどうなる。私たちの存在を知ったら、奴らはすぐにでもこの場所を離れるぞ。奴らが時間を浪費してくれているのは私たちにとって好都合なんだ。この状況を変えてしまう可能性がある行動は許可できない」
「何にしたって、奴らの状態は不気味ですよ」カフカが言った。「全員が同じ場所に籠って、馬まで建物の中に入れて、明かりも点けず、音も立てず、動きを全く見せず、付け入る隙がない。追手がこないだろうと考えている人間たちにしては警戒が強すぎます。追手を強く意識しているようにしか俺には思えません。まるで、籠城しているみたいだ」
「籠城なら援軍が来ることが前提だ。そのために時間を稼ぐ」
「あるいは、別動隊を敵の背後に回すために時間を稼ぐ」そう呟いてから、ブロンテの右目が徐々に大きく開かれた。「カフカ。後方を警戒しろ」
ブロンテが言い終わったのと同時に、チャンプが吠えた。ブロンテたちは一斉に振り向いた。鋭利な刃を具現した風が、凄まじい速さで迫ってきている。その風は、ブロンテの首の右側面を切り裂いた。ブロンテは首から鮮血を吹き出し、俯せに倒れた。ブロンテを切り裂いた風はそのまま港の上空を通り過ぎ、海上に出て勢いを失い、やがて消えた。
すぐさまカフカとジャックは立ち上がり、剣を抜いた。そうして、チャンプが吠えている方角を見やった。巨大なつむじ風が草原を切り裂きながらカフカたちに向かってくる。そのつむじ風の後方に、駆けてくる騎馬が一騎、見えた。馬に乗っている男は栗色の長い髪をなびかせていた。
「カイルだ!」
カフカが叫ぶや否や、丘の平らな所が大きな音と共に陥没した。一瞬で塹壕が出来上がる。塹壕の深さは百四十センチメートルほどで、成人男性が十人は無理なく入れる広さと長さがあった。
「飛び込め!」叫んでから、ジャックは塹壕に飛び込んだ。
カフカたちの三頭の馬は散り散りに逃げ出した。チャンプは塹壕に飛び込んだ。太郎は唖然として硬直していた。そんな太郎にカフカが体当たりをぶちかます。太郎は前方に吹っ飛び、塹壕へ転がり落ちた。カフカも続いて塹壕に飛び降りた。
太郎たちの頭上を巨大なつむじ風が通過する。太郎の悲鳴は耳をつんざく鋭い風の音に掻き消された。舞い上がった土や小石が粉々に砕けた。
巨大なつむじ風は港の上空まで進み、そこで大きな音を響かせながら破裂し、消え去った。
ジャックが慎重に立ち上がった。草原を見やる。カイルの騎馬は猛烈な速さで迫ってきていた。塹壕までの距離はもう二百メートルほどしかない。ジャックは呪文を唱えた。そうして、右手の人差し指に点った緑色の光を五十メートルほど先の地面に飛ばした。緑色の光を吸い込んだ地面から噴き上がった土が巨大な蛇の形を作る。土で出来た蛇は、カイルを馬ごと丸呑みにできるほどの大きな口を開いて、向かってくるカイルを待ち構えた。同時に、カフカは塹壕から出て、呪文を唱えながら、ブロンテのそばに走り寄った。ブロンテは俯せに倒れたままだった。先ほどの巨大なつむじ風によって、ブロンテの後頭部や背中には無数の切り傷が出来ていた。カフカが呪文を唱え終えると、カフカの左手に乳白色の淡い光が点った。カフカはその手でブロンテの首の右側面に出来た深い傷に触れた。
「治療はいらない」ブロンテは微動だにせずに、カフカにだけ聞こえる大きさの声で言った。「私は死んでいると敵に思わせろ」
カフカは僅かに躊躇した後、また呪文を唱えた。カフカの左手の光の色が濁った灰色に変わる。そうしてカフカは、死んだふりをしながら小声で呪文を唱え始めたブロンテから少し離れたところにしゃがみ込み、近付いてくるカイルを睨んだ。
ジャックは再び塹壕の中でしゃがんでいた。そうして、地面の土を右手ですくい、その土を握りしめながら呪文を唱えた。握りしめていた土が見る見るうちに槍の形に変わっていく。
「カフカ! ブロンテ老師は無事か!?」ジャックが叫んだ。
「駄目だ! ブロンテ老師は、もう、亡くなっている!」殊更大きな声で、カフカは叫んだ。
土で出来た蛇を目前にして、馬の速度を緩めながら呪文を唱えていたカイルが、一瞬、悲しげな表情を作った。
「実の子供みたいに育ててくれた人をあっさりと殺すのかよ。カイルのくそ野郎!」ジャックは土で出来た槍の柄を強く握りしめた。
土で出来た蛇がカイルを丸呑みにしようと襲い掛かる。カイルは右手を大きく横に振った。ブロンテの首を切り裂いたものよりも大きな、鋭利な刃を具現した風が、土で出来た蛇に向かって飛んでいき、切り裂き、頭と胴体を切り離した。すると、土で出来た蛇の頭も胴体もぼろぼろと崩れだし、地に落ち、徒の土に戻った。
ジャックは立ち上がり、カイルに向かって土で出来た槍を投げた。その槍は低い弧を描き、切っ先が正確にカイルの胸部へ迫った。カイルは馬に跨ったまま上体を大きく横にずらした。土で出来た槍はカイルの右肩を僅かに切り裂いただけで終わった。
カイルはゆっくりと馬を走らせ、ジャックを見下ろせるところで馬を止めた。カイルの透き通るような白い肌を、星の光が鮮やかに照らし出す。カイルの豊かな髪の毛の中から、蛙の形をした生物が顔を出した。
「私の使い魔が教えてくれた。君たちが港へ向かってきている、ってね。この子はアベルさんたちのご遺体のそばに潜ませていたんだよ」蛙の形をした使い魔を細い指先で撫でながら、カイルは言った。「犬の鼻に引っ掛からないよう、馬の足音で悟られないよう、充分に距離を取って君たちの後ろに回り込んだ。港を一望できて尚且つ動きやすい場所はこの丘しかなかったから、距離の取り方を間違わずに動くことができたよ。君たちが私たちを正確に追跡できたことから、援軍を要請しているだろうと推測できた。だから、私たちが港に留まる限り君たちはこの場所に釘付けになるだろう、とも推測できた」
「べらべらと種明かしをしやがって。調子に乗るなよ、カイル」ジャックがカイルを見上げながら言った。ジャックの目は血走り、こめかみの血管が浮かび上がっていた。
「調子になんて乗ってないよ、ジャック。子供のころからずっと一緒だった君たちと、これで永遠にお別れなんだと思ったら、急におしゃべりがしたくなっただけ」カイルはジャックの近くで四つん這いになっている太郎を一べつした。「彼、里の人間じゃないよね。誰なの?」
「さあな。知らねえよ」ジャックが言った。
太郎は塹壕に転がり落ちた時に背中を痛めていた。軽い打撲だった。太郎は涙目になりながら喘いでいた。少しでも体を動かそうとすると背中に痛みが走るので、すぐそばで唸っているチャンプに恐怖を覚えながらも、四つん這いの状態から動けず、下ばかりを見ていた。
「時間を稼がれてるぞ! ジャック!」カフカが港の方を見やりながら叫んだ。「このままじゃ挟み撃ちだ!」
カフカたちのいる丘に向かって、二人の男が坂を上ってきていた。大柄な男と小柄な男だった。二人とも真っ黒なローブを纏っている。大柄な男は刃渡りが極端に長い剣を手に持ち、小柄な男は短刀を手に持っていた。カフカたちまでの距離は百メートルほどだった。
すぐさまジャックとカイルが呪文を唱え始めた。それと同時に、ブロンテが素早く立ち上がり、カイルの馬に向かって短刀を投げた。短刀は馬の頭部に深々と突き刺さった。馬の体が大きく倒れる。カイルは馬が倒れきる前に馬から飛び降りた。着地の際に体を強く打ちながらも、カイルは素早く体勢を整え、ブロンテを睨みながら呪文を唱えた。馬は大きな音を立てながら塹壕に滑り落ちた。ジャックは横に飛びのき、馬の下敷きになるのを避けた。馬は太郎のすぐ隣に落ちた。太郎は恐る恐る目線を横に動かした。絶命寸前の馬の見開かれた目と、目が合う。太郎は絶叫した。そうして、背中の痛みも忘れて立ち上がった。
カイルの馬に向かって短刀を投げた後すぐに、ブロンテは港の方を向き、波止場に泊まっている船に向かって右腕を大きく振った。ブロンテの右手から巨大な火の玉が飛び出して、キャラベル船に向かって凄まじい速さで真っすぐに飛んでいく。ブロンテは放った火の玉の行方を目で追わず、呪文を唱えながらカイルのほうへ向き直り、塹壕を挟んでカイルと睨み合った。そうしている間に、ブロンテの放った火の玉はキャラベル船の甲板に命中し、弾けた。火が激しく飛び散り、キャラベル船はあっという間に燃え上がった。
「ジャック! カフカ!」燃え上がったキャラベル船を背景に、ブロンテが叫んだ。「私たちの最低限の役目を果たせ!」
ジャックは素早く塹壕から出て、呪文を唱えながら、造船所に向かって走り出した。四頭の馬を殺すために。あわよくば、赤ん坊を殺すために。
カフカはブロンテのそばに駆け寄った。ブロンテの首の深い傷を手当てするために。
「カフカ! 私のことはいい! ジャックを援護しろ!」
ブロンテに怒鳴られても、カフカがブロンテの治療を諦めるのには少しの時間を要した。そうして、カフカは目に涙を浮かべながら造船所へ向かって走り出した。ジャックはもう坂を下り始めており、坂を上ってきている二人の男と戦闘を開始していた。
カフカが造船所へ向かって走り出すのと同時に、太郎が塹壕から這い出てきた。太郎は叫びながら、港とは反対の方向へ走り出した。涙を流しながら、失禁しながら、太郎は走った。
カイルは自分の脇を走り抜ける太郎を無視して、ブロンテを注視し続けた。
ブロンテが、走り去る太郎の背中に向かって左手を伸ばした。その指先の何もないところから赤色に発光する鎖が現れる。赤色に発行する鎖は太郎の背中に向かって猛烈な速さで伸びていき、すぐに太郎の腰に巻き付いた。混乱している太郎は腰に鎖が巻き付いたことに気が付かなかった。
「呼び出されし者よ! 奴を殺せ!」
ブロンテが命じると、太郎はカイルの方へ向き直り、そのまま走り出した。自分の意思とは無関係に体が動き、太郎は恐怖と混乱の頂点に達した。踵を返そうという意思を持って体を動かそうとしたが、体が全く言うことを聞かず、太郎は絶叫しながらカイルに向かって走り続けた。
ブロンテの右耳が赤色の煙に包まれた。すぐに消えた煙と一緒に、ブロンテの右耳も消えていた。出血はなかったが痛みはあった。激痛だった。それでも、ブロンテは顔色一つ変えなかった。
カイルはもう呪文を唱え終えており、いつでも魔法を使える状態になっていた。カイルは隙だらけになったブロンテに攻撃を仕掛けようとしたが、思い直し、太郎の方へ向き直った。そんなカイルに対して太郎は泣きながら体当たりを仕掛けた。二人の距離はもう三メートルもなかった。カイルが大きく息を吐いた。すると、カイルの口から突風が吹き出した。太郎は突風を浴び、後方に大きく吹き飛んだ。空中でバランスを崩し、後頭部を地面に強打して、太郎は気絶した。太郎の気絶と同時に、赤色に発光する鎖が消え去った。
ブロンテは左手を下ろし、自分の体が冷たくなっていくのを感じながら、失望と絶望を押し殺し、「すまない。異世界の者よ」と呟いた。それから、気力を振り絞り、カイルを睨んだ。
カイルはもうすでにブロンテの方へ向き直っていた。
「あなたほどの人でも、あんな失敗作を呼び出してしまうんですね。魔法とは本当にままならない」カイルが悲しげに言った。「もう、その出血では長くありませんね」
首からの出血で、ブロンテの足下は真っ赤に染まっていた。
「カイル」ブロンテが微笑んだ。「死が目前にあるのは私にとって好都合だ。次の魔法に、迷わず全ての力を注ぎこめるのだから」
ブロンテが呪文を唱えた。カイルも呪文を唱えた。
ブロンテの両手が激しく燃え上がった。その両手をカイルに向けると、両手の平から激しい火炎が噴き出した。
カイルは両手を高く振り上げた。カイルの体を中心として、巨大なつむじ風が巻き起こる。つむじ風はカイルに迫っていた火炎を防ぎ、その火炎を夜空に高く舞い上がらせた。
螺旋を描きながら昇っていく火が、夜空を儚い暖色に変えた。
十秒ほど、ブロンテの両手の平からは火炎が噴き出し続けた。
火炎が止み、だらんと両手を下ろし、ブロンテはそのまま俯せに倒れた。それから、巨大なつむじ風も消えた。
「あの人の生死を確認してきて」
カイルに命じられると、蛙の形をした使い魔はカイルの髪の毛の中から飛び出し、ブロンテに近付いていった。使い魔はブロンテの首の左側面に体をくっつけて脈を計った。十秒ほどそうしてから、使い魔はカイルのそばに戻り、肩へ飛び乗って、「死んでる」と擦れた声で言った。
カイルは両目から涙をこぼした。そうして、「ごめんなさい。お父さん」と呟いた。
涙を拭っているカイルに、塹壕から這い出してきたチャンプが飛び掛かった。カイルは咄嗟に右の前腕で防御した。その腕にチャンプは思い切り噛み付いた。カイルは苦痛の声を漏らしながら、腰に巻いたベルトに差していた短刀を抜き、その切っ先でチャンプの頭を刺し貫くべく短刀を振り上げた。しかし、カイルが短刀を振り下ろすことはなかった。チャンプを見詰めながら、カイルは短刀を地面に落とした。そうして、呪文を唱え、チャンプの頭に左手をそっと掲げた。穏やかな光がカイルの左手に点ると、チャンプの瞼が徐々に閉じられていった。同時に、カイルに噛み付いている口も力を失っていった。二十秒ほどで、チャンプはカイルの腕から口を放し、ばたりと地面に横たわった。チャンプは寝息を立てていた。
チャンプに噛まれたカイルの右の前腕は紫色に腫れ上がっていた。骨折はしていなかったが、筋を大きく損傷していた。右腕は動かすたびに激痛が走り、円滑な動きは望めなくなっていた。
カイルは短刀を拾い上げ、塹壕を跳び越え、港に向かって走った。そうして、丘と港の間で戦闘を繰り広げている四人を見下ろした。ちょうど、ジャックが魔法を使うところだった。
ジャックの魔法によって地面から大量の土が噴き出す。噴き出した無数の土は、空中で鋭い礫に変わり、二人の男へ降り懸かった。
大柄な男は素早く呪文を唱えた。すると、大柄な男の足下に生えている草や花が急激に伸び上がって、絡まり合い、大柄な男の体を完全に隠すほどの巨大な盾を形作った。その盾は、降り懸かる礫を全て防いだ。
小柄な男は身軽な動作で横っ飛びして、礫を回避した。着地した小柄な男目掛けて、カフカが剣を投げる。小柄な男は頭を反らして剣を避けようとしたが、完璧には避けきれず、剣の切っ先でこめかみを少し切った。間髪を容れず、カフカは濁った灰色の光を灯している左手を小柄な男目掛けて振った。放たれた濁った灰色の光が、小柄な男に向かって飛んでいく。濁った灰色の光は小柄な男のこめかみの切り傷に命中した。途端に、小柄な男は絶叫する。こめかみの傷がどんどん広がっていく。傷が顔の半分を引き裂き、小柄な男は仰向けに倒れのたうった。傷はあっという間に顔全体を引き裂いて、小柄な男は動かなくなった。
大柄な男が怒声を上げた。同時に、カイルがカフカの背中に向かって短刀を投げた。短刀はカフカの右の肩甲骨のあたりに深々と突き刺さった。カフカは前のめりに倒れ、坂を転がり落ちていった。
「カフカ!」ジャックが叫んだ。
大柄な男が呪文を唱える。ジャックの足下に生えている草が伸び上がった。その草はジャックの首に巻き付き、強く絞まった。
「窒息じゃ生温い! 首をへし折ってやる!」大柄な男が叫んだ。
ジャックの首がみしみしと音を立てる。ジャックは自分の首に巻き付いた草を剣で切ろうと試みたが、草が鉄のように固くなっていて切ることが出来なかった。
「彼を殺す必要はないよ、ダルトン」カイルが大柄な男に向かって言った。「見なよ。味方の船が来た。もう確実に逃げ切れる。これ以上、人を殺すことはない」
カイルは海を指差した。海上に浮かぶ大型の帆船が一隻、うっすらと見えた。それはキャラック船だった。
ダルトンと呼ばれた大柄な男が海の方を見やった。それから彼は、近くで息絶えている小柄な男を見詰め、涙を流しながら叫んだ。「兄貴を殺した奴らを、生かしちゃおけねえ!」
ジャックは意識が朦朧としてきて、剣を地面に落とした。
「お願いだよ、ダルトン。魔法を解いてくれ」カイルが懇願した。
ダルトンはこぶしを強く握り締め、全身を激しく震わせた。それから、深いため息を吐き、呪文を唱えた。ジャックの首に巻き付いていた草が解ける。ジャックの首に巻き付いていた草は地面に吸い込まれるように小さくなっていき、徒の草に戻った。
ジャックは仰向けに倒れ、喘いだ。少し呼吸が整ってから、ジャックは呪文を唱えようとした。それよりも早く、ダルトンが呪文を唱える。ジャックの顔の真横に生えている草が伸びてジャックの口元に巻き付き、猿轡となって口を塞いだ。両手首も口と同じ方法で拘束され、ジャックは完全に無力となった。
「あの金髪だけは、殺す。これだけは止めても無駄だぞ、カイル」そう言いながら、ダルトンは坂を下っていき、俯せに倒れているカフカに近付いた。
「ぴくりとも動かない。もう、死んでいるよ」カイルが言った。
「死んだふりかもしれねえ」尚もカフカに近付きながら、ダルトンは言った。
カイルは諦めたように俯いた。
ジャックは下半身をばたつかせながら拘束を解こうともがいた。手首からも口からも出血するほどに激しくもがく。しかし、鉄のように硬くなった草の拘束はびくともしなかった。
カイルはジャックに近付き、しゃがみ込み、ジャックの赤い髪を優しく撫でた。ジャックは怒り、激しい憎悪を宿した瞳でカイルを睨み付けた。カイルはその瞳から目を逸らし、姿がはっきりと見えてきたキャラック船を悲しげな瞳で見やった。
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