第2話 草原 ブラッシュアップ不足バージョン

 曇天の夜空の下、太郎は全裸で立っていた。原子から再構築された太郎の心身は地球にいたころと全く同じ状態だった。

 太郎は両目を開いた。その瞳に、火の明かりと人間の姿が映った。

 「俺たちと同じ、人間の姿をしている。意思の疎通を計れるかもしれない」

 松明を持った金髪の若い男が、太郎に近付きながら言った。男は身長百六十五センチメートルくらいで、亜麻布で作られたシャツとズボンを身に着けており、シャツの上には革のベストも身に付けていて、革のブーツも履いていた。腰にはベルトが巻かれていて、そこには鞘に納まった刃の平たい剣が引っ掛けられていた。

 「近付かない方がいい、カフカ。そいつは強制的に動かせばいいんだ」

 太郎から距離を取って立っている赤い髪の男が言った。赤い髪の男の身長は百八十センチメートルほどあった。彼もまた若く、松明を持っていて、腰元に剣を装備していた。

 「ジャック。それではブロンテ老師の負担が大きすぎるよ」カフカは尚も太郎に近付いた。「こいつを呼び出すだけで、ブロンテ老師は左目を失ったんだ。命令を出せば、また何かを失うことになる」

 「甘いことを言うな! 時間がないんだよ! 犠牲は止むを得ない!」ジャックと呼ばれた赤い髪の男が叫んだ。

 訳も分からぬまま、太郎は自分の体を見下ろし、「うお!?」と叫んで自身の陰部を両手で隠した。強張っていたカフカの表情が少しだけ柔らかくなる。

 「言葉は分かりますか?」

 カフカの問いを太郎は理解できなかった。カフカたちの言語は地球に存在しないものだった。

 「どこっすか、ここ」混乱と恐怖によって太郎の声は震えていた。

 日本語はカフカたちの星には存在しない言語だった。

 カフカはベルトとズボンの間に挟んでいた布切れを取り出し、太郎に向かって差し出した。湯に濡れている体を拭えという意思表示だった。太郎は首を激しく横に振り、布切れを受け取らなかった。

 「もういいだろ、カフカ」地球に生息する馬と同種の生物に跨りながら、ジャックが言った。「馬もチャンプも充分に休ませた。早くユスターシュ・ドージェを追いかけるぞ」

 馬の足元をぐるぐると回っていたブラジリアン・グレイハウンドによく似た犬が唸った。その犬の近くで横になっていたスキンヘッドの老人がゆっくりと起き上がる。スキンヘッドの老人もジャックと同じように乗馬を済ませた。

 「もう少し待ってくれ。彼に服を着せてやりたい」

 「ふざけてんのか、カフカ!」

 ジャックの怒鳴り声を無視してカフカは膝をつき、松明の柄を土に刺してから、地面に倒れている男にそっと手を触れた。

 「すみません、アベルさん。服をお借りします」

 カフカはアベルと呼んだ男の服を脱がせ始めた。アベルの頭が大きく傾いて、その顔が太郎の方を向く。太郎はアベルの顔を見下ろして、悲鳴を上げた。アベルの顔は右半分が引き裂かれ、血にまみれていた。左目は大きく見開かれ、左の口角が絶叫の形のまま固まっていた。

 混乱によって鈍感になっていた太郎の嗅覚が、視覚に作用され正常な働きを取り戻した。死の臭いが太郎の鼻を犯す。猛烈な臭気に太郎は嘔吐した。

 アベルを含めて五人の死体が太郎の近くにあった。アベルが最も損傷の少ない死体だった。馬の死体も五頭ある。大草原の真っただ中で、太郎たちが立っている場所だけが焦げた土を剥き出しにして、凸凹だらけだった。

 カフカはアベルから脱がしたシャツとズボンと靴を太郎の足元に置いた。

 太郎はカフカの意図を理解できた。しかし、死体が身に付けていたものを着用することには激しい抵抗があった。太郎は躊躇し、立ち尽くした。

 「もう待てないぞ!」ジャックが叫んだ。

 カフカがアベルのズボンを拾い上げ、それを太郎の胸に押し付けた。カフカは笑顔を作り、首をゆっくり縦に振った。

 太郎は片手で恐る恐るアベルのズボンをつまんだ。カフカがズボンから手を離す。太郎は唾を飲み込んで、思い切りよくズボンを穿いた。そのズボンは太郎のお腹周りにはきつかった。きついお腹周りの苦しさよりも、ぬっとりとした血が両の太ももに触れた不快によって、太郎の顔は歪んだ。シャツを着る気も靴を履く気も削がれて、太郎は丈の短いズボン一丁の格好に落ち着いた。

 「ブロンテ老師。そのもじゃもじゃのおっさんに走って付いてくるよう命令を出してください」

 馬に乗ったスキンヘッドの老人に松明を向けながらジャックが言った。

 ブロンテの緩く閉じられた左目蓋から覗く眼球のない真っ暗な空洞が松明に照らされた。

 「彼は俺の馬に乗せていくよ」カフカが乗馬しながら言った。「これ以上の犠牲を払うのは、いざとなってからでいい」

 「後ろから噛み付かれても知らねえぞ」ジャックが言った。

 乗馬したカフカが馬上から太郎に向かって手を伸ばした。太郎は両手を激しく振ってカフカの手を拒否した。

 「そんなことまでご丁寧にやってるなよ!」

 怒鳴ったすぐ後に、ジャックは三秒ほど呪文を唱えた。すると、ジャックの右手の人差し指に緑色の光が点った。ジャックはその指で太郎の足元を指した。ジャックの指先から緑色の光が飛び出し、その光は太郎の足元の土に吸い込まれた。すぐに、光を吸い込んだ土が間欠泉のように噴き上がった。瞬く間に大きな土の柱が出来上がり、その最も高いところの土が変形し、巨大な人間の手を形作った。

 太郎は絶叫した。そうして逃げ出そうとしたが、脚が震えて動かなかった。

 巨大な手が太郎の上半身を鷲掴みにした。そうして持ち上げられた太郎は脚をばたばたと動かしながら絶叫し続けた。巨大な土の手は太郎が脚を開いたところを見計らい、カフカの後ろ、馬の尻尾付近に太郎を跨らせた。巨大な土の手は太郎を放すと、ぼろぼろと崩れ落ちた。上半身が自由になった太郎は人生で初めての馬上に慌てふためき、カフカの腰に両腕を回し、必死にしがみついた。

 「チャンプ、行け!」

 チャンプと呼ばれたブラジリアン・グレイハウンドによく似た犬が、大きく吠えて駆け出した。それに続いて、ジャックの馬とブロンテの馬が同時に走り出した。

 「そのまま掴まっていてください! って言っても、言葉が分からないか」

 カフカは両脚で馬の横っ腹に圧力をかけた。そうして、馬は走り出した。

 時速三十キロほどでカフカたちの馬は走った。太郎は恐怖の余り時速百キロ以上で走っている錯覚に陥った。そうして益々強くカフカにしがみついた。

 チャンプと三頭の馬は二十分ほど走り続けた。道はどこまでも草原だった。雲の隙間から月によく似た星が覗いた。美しい真ん丸だった。それは青色をした、クレーターのない衛星だった。強い風が吹き出し、雲がどんどん流され、やがて夜空は澄んだ。無数の星が美しい世界を照らしだす。草原の所々で野生のヒナゲシやシロツメクサなどが咲き誇っている。低い丈の草で身を隠す哺乳類や爬虫類、鳥類や昆虫類はどれも地球上に生息しているものと同じだった。地球上には存在しない生物もいるが、その数は多くなかった。

 馬での移動にも少し慣れてきて、太郎に僅かな余裕が生まれた。そうすると、股の不快がはっきりと感じられるようになった。鞍に座るカフカたちとは違い、馬の体に直に座る太郎は尻や睾丸に絶えず刺激を受けていた。そうして、馬の体が大きく跳ねるたびに、太郎は呻き声を漏らした。僅かな余裕は下半身の苦痛によってすぐに打ち砕かれた。苦痛と恐怖が相まって、太郎は泣き叫んだ。

 「なんなんすか、これ!? あなたたちはなんなんすか!? もう勘弁してくださいよ! 降ろしてください! 家に帰してください!」

 「なんか泣いてるみたいっすよ、あのもじゃもじゃのおっさん」ジャックが自分の馬をブロンテの馬に寄せながら言った。「あんなのが本当に戦力になるんですか、ブロンテ老師?」

 「私は間違いなく、最も邪悪な世界に住まう者を呼び出した」ブロンテが言った。

 「どう見たって唯の人間ですよ、あのおっさん」

 「ジャック、お前も里で見たはずだ。カイルの腕に抱かれた、転生したユスターシュ・ドージェの姿を。あれの見た目は普通の赤ん坊だった。姿形と内に秘めたものは必ずしも比例しない。私が呼び寄せたあの男もまた、転生したユスターシュ・ドージェと同じく平凡な姿の内に強い力を秘めているのだろう」

 ジャックは上体を反らし、困り切っているカフカと泣き叫び続ける太郎を見やった。それから、「そう都合のいい話ならいいんだが」と呟いた。

 馬は更に十分ほど走り続けた。そうして、チャンプと馬の疲れが目立ち始めたころ、潮のにおいが漂いだした。地平線が水平線に変わった。その頃にはもう太郎は泣き止んでいた。叫ぶのも止めていたが、その代わりにぶつぶつと小声で悪態を吐いていた。

 「カイルの野郎は海に逃げるつもりなんでしょうか?」ジャックがブロンテに向かって言った。

 「このまま真っすぐに進めば小さな港に辿り着く」ジャックとブロンテの馬に追いつきながらカフカが言った。「カイルは海に逃げると断定していい」

 「村すら見当たらないこんな辺鄙な所に港なんかあるのか?」

 「小さな波止場の周りにならず者たちが簡易な住まいを連ねた場所がある。非合法の薬物や魔法道具なんかを密輸入するために使われている」

 「カフカ、なぜお前がそんなことを知っている?」ブロンテが尋ねた。

 「二年ほど前に、俺は里を抜け出し、カムラッカの城塞都市へ行きました。その時、城塞都市で出会った行商人からこの辺りの隠れ港や酒場についての話を聞いたんです。それらの隠れ港などの場所が記された地図をその行商人から譲ってもらって、里へ帰ってからもしょっちゅう隠れて眺めていたから覚えていたんです」カフカは懺悔するような様子で言った。

 「今回のような非常事態でない限り、里を出ることは禁忌とされている」ブロンテが言った。「その沙汰は、生きて里に帰ってからたっぷりと。覚悟しておけ、カフカ」

 ブロンテは眼光の鋭い右目でカフカを睨んだ。その目の奥には優しい光が宿っていて、それを見たカフカは小さく頭を下げた。

 「カフカの言う港で戦闘になる可能性は高い」ブロンテは馬の進む前方に目を向けた。「確認しておくぞ、カフカ、ジャック。カイルは取り逃がしても構わん。だが、ユスターシュ・ドージェだけは絶対に息の根を止めろ」

 ジャックとカフカは躊躇を見せた後、覚悟を決めたように頷いた。

 「二人とも、松明の火を私に向けろ」

 ブロンテに向かってジャックとカフカが松明の火を向けた。その火にブロンテが右の手の平を向ける。ブロンテが二秒ほど呪文を唱えると、松明の火がブロンテの右の手の平に吸い込まれ始めた。あっという間に、松明の火は全てブロンテの右の手の平の中に消え去った。星の光以外にブロンテたちを照らすものはなくなった。

 ブロンテが右手を握りしめると、その拳から火の粉が飛び散った。草原を舞った火の粉がかき消えるのと同時に、ブロンテはカフカとジャックを鼓舞しようと声を発した。その声をかき消すように、太郎が善がった声を上げた。それで格好がつかなくなり、ブロンテは軽く咳払いをした。ジャックは溜息をつき、カフカは表情を和らげた。

 太郎が善がった声を出した理由は、太郎のズボンの中でもぞもぞと動き出した物があり、それが股間を刺激したためであった。ズボンの中をもぞもぞと動く物はどんどん上に移動していって、太郎のぶよぶよの腹とズボンの間から顔を出した。それは蛙の形をした、紙のようにぺらぺらな体の、真っ赤な生物だった。カフカに上半身を密着してしがみついている太郎は、下半身のむずがゆさを認識しつつも腹部に目を向けられず、蛙の形をした生物の存在に気が付かなかった。カフカ、ジャック、ブロンテもまた、その存在に気が付かなかった。蛙の形をした生物は太郎のズボンから抜け出し、馬上から飛び降り、風に煽られるなかをむささびのように滑空してから着地した。体長五センチメートルほどしかない蛙の形をした生物は草原に姿を隠し、カフカたちが目指す港へ向かって、馬の何倍もの速さで走り出した。

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