異世界 ブラッシュアップ不足バージョン
はんすけ
第1話 長いお別れ ブラッシュアップ不足バージョン
「ばばあ! アイチューンズカード買ってこい!」
息子の部屋から怒鳴り声が聞こえてきて、母親の小さな体がびくっと震えた。母親はすぐさま近所のコンビニへ走っていき、息子に求められたものを買い、家に戻った。
母親は駆け足で二階へ上り、息子の部屋の前にアイチューンズカードを置いた。そうしてから、閉じられたドアを恐る恐る叩き、「ここに置いておくわね」と言った。
一階へ降りていく母親の弱々しい足音は不条理の旋律だった。
五十七歳になる母親は息切れした体を椅子に預け、額の汗を拭った。呼吸を整えてから、空虚な目をキッチンに向ける。
「太郎が起きたんだから、あの子のごはんを作らなくちゃ」消え入りそうな母親の声だった。
母親が腰を上げたのと同時に天井が大きな音を立てて震えた。
「ばばあ! 五千円分じゃ足りないって何度も言ってんだろうが! 俺がアイチューンズカードを買ってこいって言ったら、一万円分のことだろうがよ! 馬鹿か、お前は!」
母親は再びコンビニへと走った。蝉がけたたましく鳴き続けていた。夕日の瞬きが母親の潤んだ瞳を照らした。
親が稼いだお金が、この日も息子の手によってゲームへの課金に消えた。
夜になって、息子の部屋のドアを父親がノックした。
「太郎、ちょっとだけ、いいかな?」
息子は見ていた動画の音量を上げ、父親の声を無視した。
五十九歳の小男である父親は、フルタイムの仕事を終えて帰宅したばかりのくたびれた体と心に鞭打って、慎重に、穏やかに、遠回しに、今の生活を改めるようにと息子に説いた。一緒に引きこもり支援や就労支援の話を聞きに行ってみよう、と訴えかけた。閉じられたドアに向かって、必死に話し続けた。
「親はいつまでも生きてはいないんだよ。いつまでも太郎の面倒を見てはやれないんだよ」
父親が言い終えて、息子が切れた。
息子はパソコンの前に座りながら何度も何度も床を踏み付けた。騒音と振動が閑静な住宅街の夜に轟いた。
「うるさいんだよ! 死ね! 社畜の負け犬が! こんな糞みたいな世界に勝手に子供を産み落としたお前ら親には責任があるだろうが! 貯金なり生命保険なりで俺の一生分の金を黙って用意すればいいんだよ! お前は!」
息子は悪辣な言葉を叫び続けた。その叫びが轟く間も、床は踏み付けられ続けた。隣家から漏れ出ていた笑い声が、ぴたっと止んでいた。
「太郎、落ち着いてくれ。ご近所さんの迷惑になるから。お父さん、一階に降りるから。もううるさく言わないから。落ち着いて」
父親が一階に駆け降りて、少ししてから、叫びと床の踏み付けが止んだ。
父親はリビングに入った。リビングでは母親がソファに座って項垂れていた。父親は母親の横に座り、「私たちは、どこで間違ったのかな」と呟いた。
母親が泣き出した。父親が鉛のような息を吐いた。そうして息子は、山田太郎は、動画を見ながら笑っていた。
夕方ごろに起床して、精を吐き出す。スマホゲームで遊びながら、母親に部屋まで運ばせた夕食をとる。家庭用ゲーム機でも遊び、片手間にツイッターや掲示板に目を向ける。ニコニコ動画やユーチューブで動画を見る。そうしているうちに朝がきて、母親に部屋まで運ばせた朝食をとる。寝る前にも精を吐き出し、そうして、就寝。そんな毎日を、山田太郎は三年も続けていた。
日光と外気から遮断し続けた部屋はダニと悪臭の楽園であり、怠惰の聖域だった。そんな部屋から太郎が出るのは、トイレで用を足すときと、気が向いて風呂に入るときと、小腹がすいてキッチンやらダイニングやらを漁るときだけだった。
二十八歳の太郎は、麻痺した危機感を抱えて生きていた。両親に罵声を浴びせるのは日常茶飯事だったが、太郎には罪の意識なんてなかった。情にすら黴が生えて、太郎は果てしなく悲しい人間だった。
深夜に太郎は三週間ぶりのシャワーを浴びた。肩甲骨の高さまで伸びた真っ黒な髪、顔を覆い隠す髭、不健康な脂肪を纏った体、それらがお湯を吸い込んで、一層と重苦しくなった。太郎の上機嫌な鼻歌がバスルームに響く。
髪の毛を洗っていると、不意に、鼻歌が消えた。シャワーの音も消えた。太郎は目を開けようとした。しかし、目はなくなっていた。瞬間に、太郎は自分の体が細切れになっている感覚を覚えた。肉も皮も骨も臓器も血も神経も、体の全てが原子の大きさに分解された感覚。痛みはなく、僅かな不快感だけがあった。
やがて、太郎の意識も分解されてなくなった。
太郎を構成する原子は光速を超える速さで宇宙を移動し、とある惑星に飛んだ。
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