ルルカの点描画
泉由良
ルルカの点描画
ニイチが少々変わっているのではないかということはルルカも当初から知っていたことだった。
それでもルルカは構わなかった。ルルカも自分自身が少なからず曲がってることを知っていたし、ニイチの性癖のようなものが捻れていようとも自分にとって良いことだろうと、ルルカは考え、そして納得していた。なんの恐れも無い。彼は優しい恋人だ。
大抵はニイチがルルカの部屋に泊まった。ルルカは自分のベッドの方が好きだからだ。ときどきニイチはルルカの首をなぞり、
「ルルカは美人だね」
と、子どもの頭を撫で回すように、云う。
「こんな痣、どうしたの?」
ルルカの左肩胛骨に指先でそっと触れて尋ねた。その指はまるで、その痣が出来立ての傷口で、ルルカが痛みを覚えるのを回避しようとするように慎重だった。
え、痣、ある?
あるよ。ちょっと青くてそれでちょっと緑でそれからちょっと黄色い。怪我?
なにそれ、何色なのかわかんないよ。
ルルカはくすくすシーツの上で笑う。
怪我じゃないよ。知らないけど、生まれつきじゃないかなあ。
触っても痛くない?
全然、全然痛くないよ。ていうか何色?
目立つ?
そうかあ、とニイチは云う。そうだねえ、宇宙みたいな色。宇宙とか見たことないでしょ。夜の空の黒くないところの色。なにそれ、何処。星が光っているから、空の黒が少し負けてる、あれ。よくわかんないよ。そう? 全く分かりませんよー。
ニイチはベッドから手を伸ばしてルルカのデスクのペンを取った。
なにそれ何してるの、くすぐったい。気持ちいい? 感じてる? いや、くすぐったいだけだし。 気持ちいい? いや。あ。
あ、なんか書いたでしょ、ねえそれ油性ペンだよ、消えないじゃん。
オリオン座の、あの三つをのせといた。
ニイチは云った。
え?
ルルカは振り向くが自分の背中を自分で見ることは勿論出来ない。
だって星空っぽかったからさ。
ニイチは云う。
ふふ、とルルカは笑って、ベッドの中で転がる。変なのー。でも三ツ星だよ。ペンで描いたの?
そうだよ。だからそれ油性ペンだってば。でももう描いたよ。
ニイチの声は優しい、とルルカはいつも思う。
日中、ルルカはペン画を描く。啄木鳥のように点を打ち付け続ける。点描画を風景画に変え。或は抽象画になりゆき。斑点は嫌い、一次元がいい。点を集める。丹念に描く。注意深く打つ。全てを刺す。その日常の所為か、ニイチがルルカの肩に、デスクから取ったペンで点を打ち始めても、そう違和感は無かった。
くすぐったいよ。何描いてるの。また油性?
油性に決まってるでしょ。ニイチは答える。
消えないじゃん。別に消さなくて良いじゃん。消すじゃなくて消えるって云う話だよ。ルルカはまた笑ってしまう。
やがてニイチがルルカの部屋に泊まればいつも、ルルカの裸に油性ペンが打ち付けられるようになった。ルルカは、またやってる、と思いながら安穏な眠りに落ちてゆく。そして昼過ぎに目覚めると、ニイチはもう部屋を出ていってしまって、鍵が郵便受けに入っているのだった。
それは肩や背中や胸元や腿や蹠で、服を着て外出するときの他人の目に困ることはなかった。だからルルカは気にせず、むしろそのようなことをするニイチの気持ちのことを好ましく感じたり、自分のからだにのせられるペン先に恍惚としたりした。ルルカとニイチしか知らないことがある。あたしの裸の肌にある。ルルカは満足していた。ニイチは丹念で、それには長い時間を惜しみなく使ったし、夜は一滴ずつ一滴ずつ、丁寧に丁寧に更けていった。それは、そのあいだのニイチの動きが全て、ルルカの為に丁寧に丁寧に捧げられたという、まごうこと無き証拠である。
彼の突いたペンの黒点は、何度シャワーを浴びても入浴しても殆ど消えることがなく、薄れもせずに残った。仮令ペンが水性ではないと雖もそれはおかしなことだが、ルルカはそれを何か彼と約束が出来ているように感じてしまう。
ニイチだけが知っている、あたしの肩胛骨のオリオン座。二の腕のシロツメクサ。足の甲に法螺貝。臍の下の蜘蛛。昆虫。微生物。広葉樹の葉脈。そして。ほかにはそれから。次には。今度は。
肌の露出する部分の多い服を買うことも無く、ルルカは長袖の無地のワンピースで過ごす。プリンセスラインにフレアスカートの、品の良いワンピースが自分に似合うことを、ルルカは自分で知っている。ニイチはきっと、顕微鏡を覗いて片目で図にスケッチするやつ、学生のとき得意だったんじゃないかなあ、などと思いながら、夕暮れどきが近付くと彼を待つ心が花のように揺れる。
時計の針のように、彼の面影が窓際を横切る時間が、ルルカには分かる。
油性に決まってるでしょ。
消えないじゃん。
別に消さなくて良いじゃん。
あのね、いつまでも消えないよ。全然消えない。
うん、消えないよ、これは。
え?
このペンは、油性じゃないから。永遠に消えないよ。
え、
永遠に消えないよ。
ルルカは目を見開いて、ニイチを見上げた。
「そうなの?ニイチ」
「死ぬまで消えないよ」
「そうなの?」
「うん。でももうすぐ死ぬから大丈夫」
「え、」
ルルカを慰めるかのように、ニイチは彼女を優しく抱き寄せてしっかりと腕のなかに彼女の痩せ
たからだを包んだ。
「このインクはね、肌に沈んでいってね、ルルカは死ぬよ」
ルルカは幼女のように動いてニイチにしがみついた。ニイチにもっと近付きたい。肩に這う蛇。脚の付け根の蜥蜴。左薬指の蛾。性器の周りに生い繁った蔓草。
「あたし死ぬ?」
「ルルカは死ぬよ」
「そうなんだ……」
「ゆっくり効くけど劇薬だからね」
「全部そのインクで描いたの?」
「そうだよ、始めからね」
「そっか……」
ルルカはニイチに頬を寄せた。
あたしのからだのなかにある、あたしの肌に彼が植え付けていったものたち。細かな点描画。ニイチとあたししか知らないスケッチ。涙があふれそうになってニイチにくちづける。
……ずっと描いてくれて、いたの。うん。あたしに?
ルルカだけにだよ。そうなんだ……。
ルルカ、想像してみて。インクが肌の下に沈んで血管を抜け
て……ルルカの血液に混ざってね、心臓に入り込んでゆくんだ。うん。肺胞も冒してゆくでしょ。うん、うん。神経がそうして、黙ってしまってね。うん、あたし……。ルルカ、考えてみて、脳内に廻ってゆくでしょう。ニイチが。ううん、インクが。ああ、そうだ、インクの話だよね、うん、でもね。
でも?
でも、それはあなただと思う。
本当に?
そう思っちゃいそう。思っちゃっても良いよ。
考えているの、停止の方向へ、
それがね、なんかあたし、最近だんだん、苦しくて。息をしても、出来ないみたいな。溺れるって、こういうことかなとか、ぼうっと考えたりしていて……。
そろそろもう、だいぶ効いているのかな。
ニイチも幼い子どもをあやすかのようにルルカをあやす。ルルカは身を攀じり縋り付くが、自分が何に縋っているのか、はっきりとはもう分からない。ただ、ニイチが好きだからくっついているのか、と思った。もっともっと、抱き締められたい。ニイチの肌の下にあたしが浸透してしまうくらいに。だって、好きだから。なんて優しい恋人なんだろう。いつまでも優しい恋人だ。きっと永久に優しいのだろう。
全身にタトゥを入れた女が孤独死した事件は少しのあいだセンセーショナルで、死因は薬物であった可能性もあり、と、下卑たTV番組や週刊誌は、若者たちのあいだに氾濫するタトゥと薬物、彼らには今、何々……などといったタイトルを打ち込むことでなんとか体裁を保った。
司法解剖の結果が明確にならなかったことは、そう大きくは報道されなかった。
ねえ、ニイチ。元気ですか?
ちょっと、なんか、逢いたいなあ。
警察のひとがちょっとだけあなたのことを探しているみたいだけれど、きっと捕まったり怖いことになったりはしないだろうなと思います。司法解剖のひとたちは実際のところ死因はよく分からなかったみたい。ニイチ葬儀に来なくて良かった。ああいうの、嫌いでしょ。あたしも嫌い。まあ、お葬式のときにはあたしはそこには居なかったわけだけれどね。ニイチが居たら、やだったと思う。なんかお葬式ってさ、生きているひとの為のことだよね。
ねえ、ニイチ。
愛してるっていう言葉を、あたし勿論ちゃんと知っていたけれどでもやっぱり知らなくって、だからいっぺんもあなたに云いませんでした。すごいすごい好きだったけれど、愛しているとは云わなかった。愛について本当にはちゃんと分からなかったし、そういうのもあるから、だから云うの、怖かった。
でももしかしたら、ニイチがあたしにしてくれたことってさ、全部、ああいうことは愛情だったのかなあって、今になって思ったりします。普通はしないでしょあんなの。あたしのことを特別にしてくれていたんだなあって思うと、それは、愛だったのかも知れないと思います。は、愛だったのかも知れないと思います。
でも、あの、ごめん。
あたしは今でも「愛している」って云うのは、怖い。死んだって怖いものは治らないらしいですね。馬鹿みたいだよね。分かっているのに。愛されていたんだなあって心から思います。そのことを考えると、涙が出そう。
でもやっぱり、あたしからは云えなくて、怖くて。
うん、でもね。今でも好きだよ。なのになんでああいう風なのは云えないんだろう。泣きそうだよ。
もう、なかなか逢えないね。
でもね、好きです。
それから、
ありがとう。
ルルカの点描画 泉由良 @yuraly
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