デートディナーIN深夜のオフィス

咲屋安希

第1話  

 


 吉野鈴よしのりん・二十七歳と五ヶ月・独身・彼氏無し。国民的カップ麺『赤いきつね』と『緑のたぬき』と、やっと完成した書類を手に歩きながら、思う。


私は一体、何をやっているんだろう……と。


 年末の夜の空気は冷え込んでいて、思わず吐いた溜息は白くけむり立ち昇る。見える住宅街の明かりはどこも暖かそうで、なおさら先程の自問が身に染みる。


 鈴は地方銀行の職員だ。年末の銀行は、一年で一番の繁忙期といっても過言ではない。


 年内に用事を済まそうと、一般家庭から法人まで、あらゆるジャンルの仕事が怒涛の勢いで持ち込まれる時期なのだ。


 個人預金の満期手続きから法人名義の外国送金まで、手順書の端から端まで網羅もうらするような量の手続きが殺到し、鈴は今日もお昼は食べられなかった。五日連続の新記録である。


 常に番号札表示が二〇番を超えるという、悪夢のような一日がやっと終わって取引書類を点検すると……やはり不備が見つかった。


 幸い書類の主は同じ市内の方で、連絡を取ると快く訪問に応じてくれた。


 営業カバンを引っ掴んで支店を出たのが七時過ぎ。住宅街の中にある、勤務先の支店に帰ってきた時は、もう九時を過ぎていた。


 外からセキュリティを解除して店内に入ると、既に廊下は消灯されていた。時間からして、鈴と同じ窓口担当の社員は皆帰った後だろう。


 通用口のセキュリティを再設定しながら、鈴は先程の自分への問いを胸の内で繰り返した。


(私、何やってるんだろう……)


大学を卒業して五年目。友人達は昇格したり結婚したり転職したりと、それぞれ自分なりの人生を進めている。


 けれど、鈴は五年前と変わらず、年末も自分のミスで残業である。


 何も成長していない、何も進めていないと、自分の現状を情けなく思う。


 そんな思いが顔に出ていたのかもしれない。先程訪問した家の奥様は、夜間一人で来た鈴を心配してくれて、『今夜は寒いから、夜食に食べてね』と、カップ麺まで持たせてくれた。


 奥様の心使いは有り難かったが、自分がまるで頼りない子供の様に扱われたた気がして、なおさら落ち込んでしまった鈴である。


 窓口カウンターのある事務室へ入ろうと廊下を歩くと、突き当りにある上り階段は、二階からの明かりがほのかに差し込んでいた。


 階段を昇ってすぐの場所には、法人営業部のオフィスがある。窓口での取扱金額とは、ゼロの数が最低四つは違う法人取引を担当する部署である。


 法人営業部は、取引先の営業日に合わせて二十八日に仕事納めをするので、二十九日の今日は誰も出勤していないはずだった。


 けれどそういえば、先程ここを出る前に、姿を見かけた法人営業部の社員がいたことを思い出した。


 暗い事務室に入った鈴は、営業カバンを書類ごと施錠棚せじょうだなに格納すると、カップ麺の入ったビニール袋を提げて階段に向かった。




 階段の明源はやはり法人営業部で、扉のガラス部分から中を覗くと、予想通りの男性社員がひとりパソコンに向かっていた。


 それは同期入社の曽根隆そねたかしだった。口数は少ないが切れ者と評判の、メガネ系イケメンである。


 鈴は曽根に、新人の頃助けられたことがあった。説明の行き違いでお客様を怒らせた時、先輩達は誰も来てくれなかったが、隣の席の曽根は何故か一緒になって頭を下げてくれた。


 女性社員に人気がある曽根に、地味な自分など相手にされるとは思っていないが、休暇を返上して頑張ってる姿は、素直に応援したくなるものだった。


 軽くノックをして扉を開ける。少し驚いた顔をして鈴を見やる曽根の目は、充血して重苦しい。パソコン画面を見過ぎるとこんな風になる。


「吉野さん?どうしたの、こんな遅くまで……」


「新規の書類間違えて、訂正もらいに行ってたの」


堂々と正直に残業の理由を話すと、思った通りのリアクションが返ってきた。


 疲れた顔がおかしそうに噴き出すのを見て、鈴はほんのちょっぴりイラっとしながら曽根のデスクに歩いて行く。


「あんな山の様に仕事来たら、間違いの一つや二つあるって。もう年末の来店はいっそ制限かけて欲しい」


「……それ、新人の頃から言ってない?『通帳カードの名義書き換えは発生したらすぐにお願いします。年末は受け付けません』って張り紙したいって」


「言いたくもなる!満期切り替えに名義書き換えに公共料金の引落とし口座変更にカード新規作成を家族全員分ってもう、窓口の限界試しているようにしか思えない!」


とうとう肩を揺らして笑いだした曽根に、鈴は手に提げていたビニール袋を差し出す。


「良かったらこれ食べて。お客様にもらったの」


差し出されたビニール袋に目をやる曽根の顔色は悪い。それもそのはず、法人営業部のオフィスは、暖房が入っていない。

 

 常に経費削減を言われている昨今、広いフロアで一人きりの曽根は、律儀に暖房無しで仕事をしていた。


(曽根君、真面目過ぎるよ……)


曽根は優秀な社員だ。だから入社三年目で花形部署である法人営業部に抜擢された。


 けれどそんな風に目立つと、当然起こって来るのが、周囲からの嫉妬、やっかみである。


 ある時、給湯コーナーの奥に居た鈴は、曽根と中堅社員がすれ違う所にかち合った事がある。


『ちょっと頭がいいと思っていい気になるなよ』


すれ違いざま、それなりの年齢の社員が言い捨てていくのを目撃してしまい、鈴は愕然がくぜんとしたものだ。


 今日の休日出勤も、恐らく先輩辺りに押し付けられた残務だろう。その辺りの人間関係を上手くいなしていくのも業務の内だが、生真面目な曽根は、その分野は少し苦手の様だ。


 優秀と言われている曽根ですら、年末休暇中に出勤するほど苦労している。並みの出来の自分が苦労しない訳がないと、鈴は思った。


 頑張らなきゃね――曽根の姿に励まされた気がして、そのお礼も込めて『赤いきつね』と『緑のたぬき』が入った袋を渡す。半ば、押し付ける。


「今夜は寒いからさ、これ食べたらもう切り上げて帰った方が良いよ。顔色あんまり良くないから。暖房も入れちゃっていいよ。仕事してるんだから暖房入れるの当然の権利だよ」


無理しないようにねと言い残して、鈴は踵を返して暗いオフィスを横切っていく。


ドアノブに手を掛けたところで、背後から声がした。


「どっちがいい?」


は?と、振り返った鈴の、何故か背後一メートルに居た曽根は『赤いきつね』と『緑のたぬき』を両手にひとつずつ持って、問う。


「吉野さん好きな方選んで」


「え?」


「どっちでもいいなら俺選ぶけど」


じゃあこっちね、と、『赤いきつね』をそれこそ押し付けられ、鈴は思わず受け取ってしまう。


 曽根は窓際に置かれている電気ケトルに冷蔵庫から取り出したミネラルウォーターを注ぎ、スイッチを入れる。


「お湯湧く前にカップ麺準備して」


「え?」


「このケトルすぐ沸くから。俺のデスクで準備して」


「あ、は、はい」


てきぱきと指示を飛ばす曽根に流されるまま、鈴は曽根のデスクに戻り『赤いきつね』の包装ビニールを破ってふたを半分だけ開け、中の粉末スープをあける。


 そうしている間にケトルは沸騰しスイッチが切れる。右手にケトルを左手に『緑のたぬき』を持った曽根は、鈴の『赤いきつね』にお湯を注ぎ、そして自分の『緑のたぬき』にもお湯を入れた。


 部屋が冷え切っていたので、盛大な湯気が上がり、それと同時にふくいくとした、豊かなお出汁の香りがオフィスに漂う。


 その香りをかいだ途端、鈴はめまいがしそうなほどの空腹を感じる。そういえば今日は昼食を取り損ね、夕食もまだ食べていないことを思い出した。


 五分後、出来上がった『赤いきつね』と『緑のたぬき』を、曽根のデスクで二人並んですする。


 よく考えれば、何だかおかしな流れだったが、鈴は空腹過ぎてその辺りまで頭が回らなかった。


「おいしい……!」


ため息のように呟く鈴の顔は満面の笑顔だ。隣で天ぷらをかじっている曽根は、そんな鈴を見て笑う。普段は見ない、柔らかい笑顔だった。


「吉野さん、どうして二つ、カップ麺持ってきたの?」



さりげなく、さらりと尋ねる曽根に、お揚げの甘さを堪能していた鈴は素直に答える。


「書類訂正のお客様が持たせてくれたの。男の人なら二つくらい食べないと足りないかなって思って、全部曽根君にあげようと思って持ってきたの」


まさか一緒に食べるとは思わなかったと笑う、鈴の無邪気な答えに、曽根は「……ふぅん」と呟いた。


 食べ終わった頃、曽根の顔色は随分良くなっていた。そんな曽根を見て「良かった」と微笑む鈴に、曽根もまた微笑みを返す。


「吉野さんも、あまり顔色が良くなかった。だからお客様はこれ持たせたんじゃないの?」


二人で後片付けをしながら、洗った容器を軽く掲げて見せる。


「忙しいかもしれないけど、何とかローテ組んで、少しでも昼食取った方が良いよ」


けれど翌日の最終営業日は、番号札表示がとうとう三〇番を超える混み具合だった。


 結局この日も昼食を取れなかった鈴は、ようやく書類を片付け終わった午後八時過ぎ、また休日出勤をしていた曽根に法人営業部に連行され『赤いきつね』を食することになる。


 年明けも、年度末も、銀行窓口は込み合う。残業の続く鈴は、何故かたびたび人気ひとけの無い法人営業部で、『緑のたぬき』をすする曽根と並んで『赤いきつね』を食べていた。



 ――そしてそのうち、『赤いきつね』と『緑のたぬき』を食べる場所は、法人営業部のオフィスから互いの自宅へと変わり。


 二人で初めて『赤いきつね』と『緑のたぬき』を食べてから三回目の年末は、入籍後に引越した新居で、天ぷらとお揚げを半分ずつ交換して味わっていた。 

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