Shining

森山 満穂

Shining

 琥珀色の水面に、自分の辛気くさい顔が映っていた。周りにたゆたう泡が小さな生き物のようにみちみちと流動している。


「なに? もう酔ってんの?」

「……違いますよ」


 カラオケボックスの片隅、酔うとやたらと絡んでくる先輩に冷たい視線を向けてあしらいながら、僕は小さくため息をつく。この会社に入ってもう一年ほど経つが、未だにこの二次会のノリには慣れない。対角にある席ではテンションの高い先輩社員たちが「次は自分だ」と言わんばかりにマイクの争奪戦を繰り広げていた。よくもまぁ、あんなクオリティで堂々と歌えるものだ。嫌でも耳に入ってくる乱暴な歌声に息苦しさを覚えて、おもむろにネクタイを緩めた。自然と、眼下の自分の格好が目に入る。堅苦しいスーツに身を包んで、見た目だけは立派な革靴を履いている。絵に描いたようなサラリーマン姿の未来を、昔の自分は想像していただろうか。


 またグラスの中に視線を戻すと、琥珀色の水面が照明に反射してきらきらと輝いていた。がつん、誰かがテーブルを蹴ったのか音がして、急に水面が激しく歪んだ。ゆらゆらと揺り戻ってくる間に、辛気臭い自分の顔が徐々に少年時代の顔に変わっていく。琥珀色の中で、輝くスポットライトの下で釣り合わない大きさのギターを携えて僕は笑顔で歌っていた。



   *  *  *



 子どもの頃、ミュージシャンになるのが夢だった。自己主張が苦手でなかなか友達ができなかった僕に、父親が物置から引っ張り出してきたギターを与えてくれたのが始まり。それから父に教えてもらいながらコードを覚えて、メロディーを奏でて、ついには弾き語れるようにまでなった。どんどんとできることが増えていく喜びに、僕は夢中になった。


 そんなある日、音楽の授業で披露した歌が上手いと周りから持て囃され、僕の周りには人が集まるようになった。歌でなら、僕はみんなに認めてもらえる。歌でなら、自分を表現できる。そう思ってしまったら、あとは進むしかなかった。親に頼み込んでレッスンを受けさせてもらい、時々小さなステージにも上がれるようになった。琥珀色のスポットライトの下で、ギター片手にのびやかに歌声を響かせる。鼓動とともに走る音が上手く重なり合う瞬間が、たまらなく好きだった。だが、そんな夢見心地な気分もあの日を境に打ち消された。


 それは強い雨の日だった。僕は歌のレッスンの先生に勧められて受けた、歌の上手い一般人を集めて競わせるテレビ番組の本戦に進むことになったのだ。そこには僕と同世代の子がたくさん出演していた。僕の順番は最後から三番目。出番を待っている間、他の子の歌を聴くことになる。最初の出番は、小柄な男の子だった。彼が舞台に立ち、歌い始めた瞬間。勝てないと思った。僕はきっと、この子を追い抜くことも、ましてや並ぶこともさえできない。次の子も、その次の子も、みんな上手かった。僕なんてきっと、足元にも及ばない。その後の自分の出番の時のことは覚えていない。ちゃんと歌えていたかも定かではなかった。そして、ちょうど声変わりの時期も重なって、思い悩んだ末に僕はレッスンをやめた。それからも独学で弾き語りは続けていたけれど、心のどこかではあの日の想いがずっとしこりになっていた。



   *  *  *



 グラスの中に映った純粋な瞳の上で、次々に泡が弾ける。あとにはやはり、年だけ取った冴えない自分の顔がくすんだ琥珀色の中で揺れていた。あれからくすぶった想いを抱えながらも、完全に音楽から離れることはしなかった。大学を卒業してからもバイトしながら路上ライブを繰り返す中途半端な毎日。そんなだから、誰も立ち止まってくれる人などいなかった。僕はやっぱり、歌で表現なんてできなかった。そんな自分に失望してなにもかも諦めた末に、今は中途採用でサラリーマンをやっている。


 グラスに手を添えて、軽く揺り動かす。たぷたぷと水面が波打って、寄せては返す間に自分の顔が弄ばれる。けれど、先ほどのように少年時代の希望に満ちた顔には戻らなかった。色のない暗い瞳が、ただ映り込むだけ。もうあの頃の輝きを、取り戻すことはできないのだ。


 対角の席ではまだ先輩たちはマイクの奪い合いを繰り返していた。移り変わる荒い歌声が神経を逆撫でする。がん、またテーブルが蹴られる。そのはずみで、グラスから液体が飛び出した。盛大に零れたそれが、手の甲を濡らす。


「あーあ、やっちゃったなぁ。まだ飲めたのに」


 そう言いながら手を拭いてくれる先輩の言葉が、静かに心のしこりを揺らす。まだ、歌えたのに。まだ、諦めるには早かったのに。後悔が溢れ出して、止まらなくなる。


「ほら、新しいの注いでやったから、元気出せよ」


 先輩が手渡してくれたグラスをひったくるように奪い取って、勢いよくその琥珀色の液体を飲み干す。すると視界がぐわんと揺らいで、きらきらと景色のすべてが明滅し始めた。身体の感覚がふわふわとして熱くなる。胸の奥であの日の想いが、熱とともに蘇る。一度だけ、もう一度だけでいいから、あの頃のように歌いたい。

 ふらふらとした足取りでソファとテーブルの隙間を進み、もみくちゃになりながらマイクを奪い合っている人たちに歩み寄る。その人たちを弾き飛ばして強引にマイクをひったくると、その場で大きく息を吸い込んだ。鼓動が走り出して、かつての相棒だったギターの音が耳の奥に流れる。重なっていく旋律に心が踊る。次の瞬間、弾けるように溢れ出した歌声がカラオケボックス内を揺るがした。

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