もしこの世界が壊れても
秋色
もしこの世界が壊れても
絵莉が持った初めての携帯電話は淡いピンクで、下の方は少し濃いローズカラーのグラデーションになっていた。子ども用の、丸みを帯びた可愛いデザインもお気に入りだった。今はあまり見かけない折りたたみ式のいわゆるガラケー。
それを絵莉が持ったのはまだほんの七歳の時。同級生に携帯電話を持っている子はいなかった。絵莉が携帯電話をこんなに早く買ってもらえたのには
子どもの頃、お父さんの仕事には二年毎に転勤があって、ずっと単身赴任だった。それで毎晩、お父さんの画像と動画、童話を読むお父さんの留守電メッセージを、寝る前に見たり聞いたりするのが習慣になっていたのだ。もちろん初めはお母さんの携帯電話で。でもそれでは物足りなくなって、自分の携帯電話を欲しがった。他のバースデープレゼントもクリスマスプレゼントもお祝いのイチゴのケーキもいらないと宣言して。
普段は大人しく素直な娘の思いがけない頑固さに両親は折れた。でもそのかいがあり、絵莉の国語の上達は他の子達より抜群に早かった。それは、お父さんからのメールを、時には祖父母からのメールを読み、その返事を書くのが日常だったから。そしてそのために漢字の読み書きを頑張ったからだった。寒い日は、メタリックな携帯電話を持つ手が冷たくなるので、手袋をして触った。
こうして眠りにつく前、折りたたみ式の携帯電話をぱかっと開くひとときは、絵莉にとって一日で一番幸せな時間になった。
八歳の冬、ある忘れられない出来事があった。それはもうすぐ春に手が届きそうな、それでいてまだ冷え冷えとする日もあるという時期の事。待っても待ってもお父さんからの動画が届かなくて、絵莉は不安になった。
「絵莉、お父さんは風邪で寝込んでいるだけだって。メールが届いたから、安心して寝なさい」お母さんは言う。
それでも、やっとの事でお父さんの風邪で少しこごもった声を電話口で聞くまで、絵莉は泣き止まなかった。いや、電話口で「大丈夫だよ、絵莉ちゃん」という声を聞いても、涙は頬をつたっていた。でもそれはほんのり温かな涙だった。毛布を掛け、絵莉の手を撫でるお母さんの手も温かかった。
ガラケーからスマートフォンの時代に変わってもこの習慣は変わらなかった。いや、便利な機能によりいっそうメッセージのやり取りは増えていった。そして家族中心だったやり取りは、やがて友達、親戚、塾で知り合った子達との間でも行われるようになり、絵莉の世界は広がった。
***************
絵莉の選んだ進路は、隣の県にある中高一貫校の女子高だった。中高一貫校ではあっても、同じ中学からそのままエスカレーター式に進学する生徒もいれば、絵莉のように他の中学から進学してくる生徒もいる。その春から絵莉は家を出て寮生活をする事になった。これを機にお父さんと一緒に転勤先で暮らすお母さんとも、離れて暮らす事になる。寂しいけど両親の動画は定期的に絵莉に送られてくるので、離れている気はあまりしなかった。
高校に入って二年目。相変わらず、両親からのメッセージは、会話形式メッセージアプリに毎日届く。
「元気? 中間試験はどうだった?」
「地元の美味しいプリンを今度送るよ」
でも今はそれ以外にスマートフォンを手放せない理由があった。
この学校の友達はみんなSNSを何らかしているし、グループで会話するアプリも利用していた。それにすぐ「いいね」をしたり、返事をしないと、友情を大事にしていないと誤解されてしまう。
一度、クラスで同じ仲良しグループに属している友達のメッセージに気付いていながら、すぐに返事できなかった事がある。疲れていて、試験勉強の合間に寝落ちしてしまった時だ。
次の日、その友達には理由を言って心から謝った。でも声をかけても冷ややかな態度をとられるだけ。
「絵莉にとって、私達の友情はその程度のものだったんだ。優しそうに見えるのに冷たいんだね」と。
その冷ややかな態度は同じグループの他の友達にも波及した。そんな状態は一週間程で収まったけど、その時期に味わった、胸が苦しくなるような辛さはトラウマになった。もう二度とあの時の気持ちは味わいたくない。
だから寝る前もしっかりとスマートフォンを握ったまま。床に落としたりすると、スマホが壊れていないかドキドキした。
学校で決められたルームメイトは、今は一人だけ。以前は三人の部屋だったけど、そのうち一人は半年前に通学組に変わり、替わりの子がまだ入っていないからだ。
絵莉のルームメイトの紗奈は横分けショートのクールな三年生。ショートヘアのせいで首がスッキリと長く見え、クールビューティーを印象付ける。同室なので、もちろん番号交換しているし、会話形式メッセージアプリでも「友だち」にはなっている。でも口数が少なく、いつも外国文学を読んでばかりの紗奈とは、同じ部屋にいても会話は少なかった。ましてスマホでのメッセージの交換なんて、余程の緊急事態でない限り、行わなかった。
そもそも紗奈は、三年生のクラスでも孤立しているとか。ハンドメイド部の先輩がそう言っていた。でも本人は大して気にしていないように見える。学年で一番の秀才と言われている人って、そんなものなのかもしれない、と絵莉は思った。また、学年一の秀才だから、そんな立場も許されるのだとも。
そんな紗奈が、一学年下の自分と仲間達との友情を冷ややかな目で見ている事は、絵莉も薄々感づいていた。
――何か苦手だな――
それが絵莉の紗奈に対する第一印象で、二年経った今も、その印象は変わらない。
******************
その夜は、窓の外に白い銀貨のような月が輝いていた。木枯らしの音がヒュウヒュウと聞こえる、秋の終わりを感じさせる夜だった。
その日は朝から風邪気味で喉が痛かったので、スマホのチェックをしたら、早く眠りにつきたかった。いつも通りにSNSやメッセージをチェックしようとした絵莉は、スマホが鞄の中にない事に気が付いた。いっぺんで喉の痛みも忘れた。ドキドキと鳴る胸の鼓動を感じながらも、きっとその辺にあるだろうと気安く考えていた。まずは机周りを必死で探した。それからベッドの近く、次に枕元の小物入れ、そして洗面スペースまで探した所で、胸の辺りが冷たくなった。
一度探した所を二度、三度と探した。そうだ。シャワーを浴びる前に脱衣場に置いたのでは、と思いついて探しては失望し、今日は部活用のサイドバッグも持っていたと思い出し、一瞬希望の光が射して慌ててサイドバッグを隅から隅まで探っては落胆のため息を漏らした。
様々な悪い憶測が頭の中を駆け巡った。もし自分宛ての大切なメッセージが届いていたら? インスタに対し、すぐに「いいね」を押せなかった事を誤解されたら? 友達からのメッセージを無視したら今度は二回目なので、もう許してもらえないかもしれない。
もし学校の中のどこかで落としていて、自分のプライベートが誰かの目に触れたら? 中学生の時憧れの先輩と写してもらった宝物の写真が画像の中にある。絵莉の片想いだったけど、それを見て勘違いされるかもしれない。従姉妹のお姉さんの元ヤンみたいな写真もある。大好きな従姉妹だけど、白い目で見られるかもしれない。
今日、スマートフォンが見つからなければ絶望しかなかった。
「ねえ、紗奈先輩、私のスマートフォン、知りませんか?」
絵莉は一番訊きたくない相手に訊いてみた。
「知るわけないでしょ」
そうだったと情けなく思い出した。先輩が、私の持ち物なんかに興味を持つわけがない事を。でも、もしかしたら、と黒いモヤのかかった疑いが心にかかった。
――もしかしたら、先輩は私に嫌がらせしようとしているのかもしれない……。普段は興味ない振りして、実はうらやましかったかもしれない……――
その美しい横顔に暗い影を見つけた気がした。
「自分がどこかに置き忘れたんじゃない?」と紗奈。
そうだ、もしそうなら認めるわけないと思った。
でもすぐに気が付いた。そんなわけはない事を。紗奈先輩を羨ましがっているのは自分の方であって、逆は決してない事を。紗奈の美しい横顔に曇りはなかった。
絵莉は今度は涙を流して、紗奈に頼み込んだ。
「私に通話して下さい。着信音で探します。お願いです」
絵莉の必死な様子に、「面倒なコ」と紗奈は小声で呟いた。そしてやれやれといった感じで、スマートフォンの通話を押した。
しばらくすると、小さく物悲しい着信のオルゴールのメロディが絵莉のベッドの毛布の下から流れる。
「あんたのスマホ、自分の毛布の下だよ」
その日、授業が終わって部屋に戻った絵莉は疲れて一度、ベッドで休んでいたのを思い出した。
絵莉はミントカラーのスマホを抱えてベッドの隅に倒れ込み、静かに泣いた。苦しみだけの涙は乾き始めていた。紗奈は言う。
「なぜ壊れ物の世界を抱くの?」
「壊れてないから。まだ壊れてなんかないから!」
絵莉は泣きながら、そう訴えた。そしてそばにあるクッションや小物を相手に向かって投げつけようとした。制御できない怪物が自分の中にいる気がした。
紗奈は慌てるでもなく、絵莉の手首を掴んでそれを抑えた。
「偽物の世界なら壊れたっていいんじゃない? じゃ、行くよ」
紗奈はそう言って仕切りの向こうの自分のスペースへと去って行った。
その晩はそれから一度もスマホをタップする事なく、寝落ち、正しくは、ふて寝してしまった。でも何かが吹っ切れたように何も感じなかった。無感情な自分がいた。
ただ暴れる自分の手首を掴んだ紗奈の手が意外と温かかったな、という事位しか。極寒の地の氷より冷たいはずでしょと思いながら、さっきの言葉がリフレインした。
「偽物の世界なら壊れたっていいんじゃない?」
もしこの世界が壊れても 秋色 @autumn-hue
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