命題役者の平凡な日常
1926年6月18日 キングズ・ギャンビット
扉の前で立ち止まり、緩く拳を握ったレゾンは、緊張にわななく唇を引き結んだ。
彼はこれから、譲れない意地を賭けた大勝負に出る。
(神様、どうか俺に勇気をお与えください)
己を奮い立たせようと胸の前で十字を切り、レゾンは意を決して父の寝室の戸を叩いた。
______コン、コン、コン、コン。
メトロノームのように均等で耳障りにならない程度に、
「たった数回のノックで、その者の育ちと人柄が分かる」と言うのが、彼の父親の持論だ。
幼いからそう聞かされて育ったレゾンは、それゆえ人一倍以上にノックに気を遣う。
まだまだ試行錯誤の途中ではあるが、それは爪先から物腰の柔らかさが滲む、少し控えめな音だった。
静かにドアノブを回し、扉を半開きにして声を掛ける。
指先を揃えた両手は身体の横に下ろし、会釈程度に腰を折った姿勢のまま不動を保った。
「レゾンです。入ります」
すぐさま、部屋の奥から「入れ」と声がかかる。
レゾンはフッと短く息を吐いて寝室へと踏み入り、持ってきたチェスセットの木箱をベッドサイドのテーブルに置く。
(やっぱり、飲んではいないか……)
ピッチャーの水は半分以上減っているのに、テーブルの隅っこへ追いやられた小皿には、薄紙に包んだ粉薬が手付かずのまま残されている。
レゾンはわざわざ両手が自由になってから扉を閉めに引き返し、ようやくベッド際の椅子に腰掛けたところを見計らって、父・ルートヴィヒは口を開いた。
「チェスか。思えば、ヴァニタス名人が亡くなってからは、触ってすらいなかったな」
突然、言葉の最後にクッと喉を詰まらせルートヴィヒは、タオル生地のハンカチを口元に宛てて激しく咳き込んだ。
レゾンはすぐさま父の背をさすり、片手でグラスにピッチャーの水を注ぎ足す。
湿っぽい咳が続き、ゴポリと何かが溢れだす嫌な音が聞こえた。
軍の勤務服も、そろそろ夏服に変えるよう指示がある時期だ。それなのに、彼の指先はどうしてだか冷たくかじかんでいる。
口元を拭い、包み込むように丸めたハンカチから目を背けて、レゾンはグラスを手渡した。
「ずっと
「いいや、気にするな」
「ですが……「お前にとっても、それが良いはずだろう」」
図星を突く父の鋭い指摘に言葉を飲み込み、レゾンは黙って木箱の蓋を開いた。
チェスセットを拡げ、滑らかに磨かれた石の駒をひとつひとつ並べる手元を目で追いながら、ルートヴィヒは瞼を伏せ眼差しを揺らす。
ルートヴィヒは、毎年11月末に催されるチェスの大会で、歴代優勝者に二度名を挙げた名旗手だ。
そんな彼は、夕食後に黙々とチェスの勉強に励むのが日課だった。
名人同士の公式戦を自分自身で再現し、チェス盤をクルクルと回しながら難しい表情で駒を見つめる真っ直ぐな眼差しを見て、レゾンが父をひとりの男性として憧れを抱いたのは物心ついてまだ間もない頃。
それ故に、毎年のように決勝戦で頂点を奪い合うヴァニタス名人が急逝してしまってから、まるで心の傷を避けるようにチェスから遠のいてしまった父の姿に、確かな失望と悲しみを抱え込んでいた。
エイン・ヴァニタス名人は、公式戦で歴代最高勝率を誇る、正に競技チェスの絶対王者だった。
ルートヴィヒはそんな彼の大胆な手腕に憧れてチェスをはじめ、やがてその男に「貴方がいるから、
一度目の優勝は、激戦の末に彼から奪い取った誉ある勝利。そして、二度目の優勝を手にしたのは、彼が亡くなったその年の大会だった。
人づてにヴァニタス名人の訃報を知り、表彰台の上で祝福と喝采を一心に受ける父の空虚な笑顔を、レゾンはずっと忘れられずにいる。
このチェスセットは、ある時にヴァニタス名人から譲り受けたものだったらしい。
一体どのような事情があって父がそれを受け取ったのかは知らないが、今になって思えば、ふたりはライバルよりももう少しだけ親しい仲だったのかとレゾンは思う。
だとえばそれを"友情”と仮定するならば、亡き友を思い起こさせる物から離れようとした父の心情は、想像に難くない。
駒を並べ終えたレゾンは、父へと深く頭を下げた。
「父さん、一局だけお相手願います」
神妙な声音から息子の"覚悟”を感じ取ったルートヴィヒは、居住まいを正してその心意気に応じた。
「それが、お前なりのけじめのつけ方か」
「昨夜、互いに譲れない意地をぶつけ合うのは不毛だと分かりました。だから、この一局に全てを賭けて決着をつけましょう」
こめかみにじっとりと汗を浮かべながらも、毅然とした態度と口調で言い放つ。
「俺が勝ったら、治療を再開してください。薬も欠かさず飲んで、職務から身を引くと約束してください」
息子の決意のほどを見定めるように、ルートヴィヒは鋭い眼光を向ける。
分厚い眼鏡のレンズ越しにただ真っ直ぐ相手を見つめ、顎先を細かく震わせる息子に、大きな石にような無言の圧力をのしかけた。
それに負けじと歯を食いしばるレゾンは、敢えてフッと息を吐き、挑発的な笑みを浮かべる。
その笑みにゆっくりと瞬いて緊張感を解いたルートヴィヒは、チェス盤をくるりと回転させて、白の軍勢をレゾンの手元へ向けた。
「その覚悟には、清い白が良く似合う」
先手を得たレゾンは、カラカラに乾いた喉を潤すように唾を飲み込むと、右からよっつめのポーンを直線に二歩指し進めた。
*
父が亡国病と怖れられる肺結核に侵されていることは、レゾンもずっと前から知っていた。
だが、幸いにも発症初期の段階で治療を始めたため、その時はしっかりと薬を飲んで身体を大事にすれば、天寿を全うすることだってできると医師から説明されていた。
診断からすぐに煙草を辞め、仕事も程々に療養に努める父の姿を見て、レゾンは油断しきっていたのだろう。
そんな父がある時から病院にも通わず、自分を騙してまで激務に耽っているなどとは思ってもみなかったのだ。
その事実を図らずとも知ってしまったレゾンは、怒りと失望に任せて父の執務室へと乗り込んだのが、昨夜の事件の始まりだった。
「……信じられない。そんなにも死に急いで、あなたは何がしたいのですか……」
ピンと張り詰めた血管を首筋に浮かせ、靴音高く歩み寄ったレゾンは、平手で鋭く父の頬を打った。
一介の軍人に過ぎないレゾンにでも、父が背負う"総統”の地位は、病気なんかを理由に退けるものではないと
それでも、たったひとりきりの息子として言わせてもらえば、父の所業は"気が触れている”としか言えなかった。
数か月ぶりに見た父の顔は、人相の面影が掴めなくなるまでに痩せやつれていた。石のように固く冷たそうな肌を見れば、誰にだって彼はもう長くはないと分かるだろう。
父は嘘を重ねてまでも自分を遠ざけたかったのだと知り、レゾンはただ悲しかった。
飲み下せなかった深い悲しみは心の底で煮え
「…………信じられないっ!!」
取り押さえようと掴みかかって来た男達を力ずくで投げ倒し、レゾンは珍しく声を荒げて「邪魔をするな!!」と高く叫んだ。
突き飛ばされた男のひとりが大机にぶつかり、山のように積んでいた紙束が雪崩のように滑り落ち、床に散乱する。
慌ただしい背後の様子には目もくれず、父の胸ぐらに掴みかかったレゾンは、額を突き合わせて睨みを利かせた。
「……たったひとりの息子よりも、仕事が大事ですか? そんなにも早く、母さんに会いに行きたいのですか?! 父さんまで
激情に流されるまま右手を離し、立てた人差し指で自分のこめかみをコツコツと叩くジェスチャーをして見せた。
場が一瞬凍り付き、背後から"父親に向かってなんてことをするんだ!”とお叱りの言葉が飛び交う。
どこかの国で"考え事”を示すジェスチャーは、この国では"お前、狂っているな”と相手を侮辱する行為だ。
だけど______憎い、憎い、許せない。
遺される苦しみや悲しみを知っていて、それでもなお自分にも同じ痛みを背負わせようとする父が、正気だとはとても思えなかった。
「あなたはいつもそうだ、本当に身勝手だ! 母さんは最期まであなたに会いたがっていたのに……。あなたはそれを知っていたはずなのに、仕事だと言って彼女から逃げたんだろう?!」
それまで眉ひとつ動かさずに黙っていた父が、母を引き合いに出した途端に目の色を変えた。
(まただ。あなたの双眸は、俺を
熱を帯びた眼差しと感情を激しく揺さぶられた父の表情に、罪悪の棘がレゾンの柔らかい心を貫いた。
ここが父の最も痛い場所だと知りながらも、畳みかけるような批難の言葉は止められない。
「こんなにも母さんの想いをないがしろにしてきたくせに、どの
刹那、みぞおちに深い衝撃を押し込まれ、鼓動が跳ね上がる。
目の前がチカチカと明暗を繰り返し、視界が晴れた頃にはぐったりと床に倒れ伏していた。
みぞおちからビリビリと拡がる激しい痛みに呼吸すら苦しく、全身の筋肉が強張って意思とは関係なしに指が動く。
一瞬にして頭からつま先までの血の気が引き、堰を切ったように怒りを叫んでいたレゾンは沈黙するより他無かった。
「頭は冷えたか」
床に膝をついてレゾンの頬に触れたルートヴィヒは、右手に握っていた万年筆のような細長い物体を、執務机の上に転がした。
気が動転して忙しなく瞳を揺らすだけの息子を抱き起し、ルートヴィヒは呟く程度の声で淡々と指示を出していく。
「もっと低い電流で調整し直しだ。これでは使用する側までショックを受ける」
ルートヴィヒは右手が痺れて動かしにくいのか、ぎこちなく手を握っては開いて感覚を確かめている。
レゾンはそこでようやく、万年筆を模したそれが、電気攻撃での制圧武器だと気がついた。
電気ショックで家畜を制御する追い立て棒を、人体に適用する装置。人類の知恵を悪用するようなその用途に、レゾンは言い表せぬ不安と恐怖に打ち震えた。
自由の利かない身体では抵抗もままならず、床に跪かされたまま上半身を倒すように、頭の後ろを押さえつけられる。
咄嗟に両手を床につき、手の甲に額を強く押し付ける姿勢のまま、レゾンは横目に父の様子を伺った。
「息子がとんだ無礼とご迷惑をおかけしました。深くお詫び申し上げます」
ルートヴィヒも床に膝をつき、神妙な表情で彼の部下であろう面々に深く頭を下げている。
父に
この
(どうしてこうまでしても、俺を選んでくれないのですか)
親子並んでの陳謝に部下達は大いに驚き、すぐさま顔を上げるように促されても、レゾンは背中を丸めて蹲ったまま声を押し殺して泣いた。
「気が済んだら、片付けを手伝いなさい」
悲しみに暮れる息子へ振り返りもせず、すぐさま立ち上がって言葉少なに言うルートヴィヒの冷たい態度に、部下達はレゾンへ哀れみの目を向ける。
だが「これこそが我が家の教育だ」と語る父の背中を見て、レゾンは意地でも立ち上がり服の乱れを正した。
「失礼いたしました。……もう、ご心配いただくには及びません」
軽く頭を下げて父の隣へと歩み寄り、その後は何事も無かったかのようにテキパキと片づけを済ませて父と共に帰宅した。
こうして、真剣勝負の一局を指し合う現在に至る。
*
「チェック」
ルートヴィヒは白のビショップをつまみ、盤上の外に追い出して布陣に穴を開ける。
その場所を埋めるように黒のルークを指し進めて、的確に
チェックをかけられたレゾンはキングを右斜めに後退させ、両手を膝の上で固く握りしめた。
窓から差し込む橙色の斜陽が、ルートヴィヒの右半分の表情に深く影を落とし、虎視眈々と敵将を狙う冷酷な眼差しを際立たせていた。
窮地を脱したキングと膝を突き合わせるようにポーンを進め、ルートヴィヒはフッと大きく息を吐いた。
呼吸すらも忘れて対局に魅入るレゾンは、引き絞るように痛む胸を浅く忙しない呼吸で慰めながら、すぐさま進められたポーンを討ち取るべくキングに手を掛ける。
「…………!」
しかし、空白が多くなった盤上を広く見渡して、すぐさま右手を引っ込めた。
「驚いたな。勘付かれたか」
ルートヴィヒはベッドから大きく身を乗り出し、ぎらつく眼の奥を輝かせる。
弾けるような満面の笑みを片手で覆い隠し、期待に喉仏を上下させた。
白のキングと睨み合うポーンの背後には、隙を縫ってイレギュラーなチェックを仕掛けて来たルークが控えている。
自身を抱きしめるように引っ込めたレゾンの右手は、傍から見て分かる程に震えていた。
もしも、レゾンが父の仕掛けた毒に気付かぬまま駒を進めていたら、キングと向かい合うように移動したルークの一手でチェックメイトだ。
ゲームの序盤でクイーンとナイトの片割れを奪い、攻め込まれる恐怖で
取り返しのつかないミステイクを誘い、相手を破滅に陥れるルートヴィヒの
ならば息子であるレゾンにだって、まだ未熟であれど鋭い牙と猛毒が隠し備わっているに違いない。
それを知らしめるように、そして父の無防備な喉元に咬みつくように、レゾンはナイトを差し向ける。
「チェック」
人生で初めて、父に「あなたを狙っている」と宣言できた瞬間だった。
震える声で告げたその短いひと言で、これまでの努力や苦悩が全て報われるような心地だった。
ルートヴィヒは少し首を仰け反らせて息を飲み、舌なめずりをしながら自身のキングを逃がす。
「強くなったな、レゾン」
間を開けず駒を動かしたレゾンは、珍しく名前を呼んだ父を上目遣いに見据える。
ルートヴィヒも迷いなく鋭い一手を下し、とろけるような息子の視線を真っ直ぐに捉えた。
「父さん。俺は幼い頃からずっと、貪欲に勝利へ手を伸ばすあなたに憧れていました。その眼の奥の輝きは獰猛で恐ろしかったけれど、ありふれた名人の座に甘んじないその野心は、かの偉大なる帝王の面影を伺えました」
レゾンは、たったひとつになったポーンを前進させる。
「だから……好敵手を喪い、あっけなくチェスから離れたあなたの背中に失望しました。寝る間も惜しんだその情熱やプライドは、所詮"そんなものか”と侮っていたのです」
ルートヴィヒは生意気にも咬みついてきたナイトを
「……だけど、今になってようやく分かりました。俺もかつてのあなたと同じように、憧れの背中を追いかけ続けたのですから」
震える指先でもう一歩、ポーンを押し進める。
しかし、盤面との摩擦で躓いたポーンは、誰にも支えられることなく転んだ。
激戦の中で力尽きた駒を助け起こしはせず、レゾンはただ淡く微笑んで父のひと声を待った。
「チェックメイト」
慈悲も容赦も無く、最後のコールでルートヴィヒは息子の想いを蹴散らす。
覚悟はしていたものの、そのひと言で胸を深く抉られたレゾンは、はらはらと涙を散らしながら顔を伏せた。
あまりにも冷たい声音は、"二度と立ち上がって来るな”と完膚なきまでに心を叩き潰し、荒々しい業火のような実力差で自我を焼き尽くされるかのようだった。
「参りました」
レゾンは再び、父へと深く頭を下げる。
葡萄色の短い襟足がサラリとうなじを撫で、己の首を差し出すようにゆっくりと瞼を伏せた。
「俺をひとりの"男”として見てくださり、感謝します。ほんのひとかけらの後悔もありません」
その言葉に嘘は無かった。厳しい父から認められたいと願い続けた心は、"父と対等に扱われた”という事実だけで、カラカラの渇望を潤す恵みの雨となって降り注ぐ。
願いはこんなにも満たされているはずなのに、今度は心のコップから溢れた感情に溺れ、声も出せぬ苦しみに身悶えた。
「父さん……」
おもむろに椅子から立ち上がり、ベッド脇にへたりと力無く崩れ落ちたレゾンは、それ以上何も言えず父に縋りついて泣いた。
衣擦れの音がしてフッと頭上に感じた気配は、暫く思い悩むようにその場に留まっていた。
やがて躊躇いがちに気配は引っ込められ、こちらに向けられていた父の視線が大きく逸らされる。
ルートヴィヒは最期まで、息子に甘い顔を見せなかった。
決して揺らがない父の厳しさこそが、レゾンにとって唯一の救いだった。
プシュケの運命ごっこ あまつむり🐌 @amatumuri
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