1883年12月25日  "後悔"を導く星(後編)

 命が絶えた世界を覆い隠すような雪景色は、死に化粧エンゼルメイクに似ているとロゾールは考える。

 冬は、生者にとっても死者にとっても、孤独の季節だ。その年に天に昇った儚い命を、"この世"から完全に引き離してしまう、重く冷たい死の扉だ。

 "雪化粧"と美しく言い直されたその表現も、その両者が"決別"するその日まで、安らかに施された一時的な処置に過ぎないのだと、ロゾールは思っていた。

 だって、輝かしい実りの季節を過ぎれば、そのにあるのは度重たびかさなるしもや薄雪で緩み、靴跡が残るまでぬかるんだ汚い地面と、朽ち逝くだけの落ち葉や虫の死骸ばかりだ。

 リーズエクラ周辺諸国の冬は厳しく、待ちわびたあたたかな春を迎えられない命は多い。ちょうど10年前、聖誕祭を目前にして息を引き取った、エインの父がそうだったように。


 空の高い場所で瞬く"後悔"を導く星は、昨夜と変わらぬさまで静かに瞬いている。の星と目を合わせたロゾールは、くしゃりと表情を歪めて涙を飲み込んだ。

 そんな死と別れの季節が、美しいはずなんてない。この思いは、そう簡単には変えられないだろう。

 四方をぐるりと取り囲む森を飛び越えて、あちこちから聖誕祭の待つ教会の鐘が鳴り響く。希望の光をいっぱいに詰め込んだような、晴れ晴れしい響きだ。

 唇を噛み締め俯いたロゾールの口元で、短く浅い呼吸が白く染まり、瞬く間に夜闇に消えてゆく。

 かじかんだ手に息を吐きかけ、なけなしの体温を求めて両手を握り合わせる。

 『惹かれたのは、の方でしたか』

 夢に現れたあの女店主の言葉が、耳元に吹きかかるようだった。その声が悪魔の囁きなのか、女神の導きなのかはまだ分からない。



 雪原を宛も無く彷徨い歩いた末に、不自然な雪の割れ目を見つけた。それを手で掘り返して見れば、そこには一株の花が凍えながらに咲いていた。

 きっとこれが、あの女店主が言う"奇跡"をもたらす花で間違いないのだろう。

 花びらの一つひとつが、氷で形作られているかのような、透明感のある美しい花だった。

 ロゾールはひと目で、コレがこの世のものではないと分かった。ほのかに香るのは、生命の温かみを感じられない冬の匂いだったから。


 その姿を誰もがよく知る花にたとえるならば、背丈の低い向日葵ひまわりだろうか。空を仰ぐその様子は同じだが、見上げる先にあるのは、あの導きの星だ。

 「祈り」「憧れ」「過ぎた過去を懐かしむ」。そんな言葉が良く似合う、上品で愛らしい花だと思う。

 しかし、粉砂糖を振りかけたようなザラザラとした肌触りの葉は、重力にとても従順な様子。願い星に手を伸ばそうともせず、黙って"運命"を受け入れようとする臆病な佇まいは、あまり好感の持てる仕草ではない。


 だが、この花があの天使の化身であることは、きっと間違いないだろう。

 胎児のように身体を丸め、胸の前で腕を交差させて眠る子が、エインのように気が強いわけがない。


 ロゾールは薄く凍り付いた粗目ざらめゆきの上に跪く。

 膝を着いた衝撃で表面は窪み、既に氷になった断面が、無数の針を敷き詰めたかのように鋭く尖っているのだと、布越しにでも感じ取ることができる。

 十字架を持ち、指を絡め合わせた両手を胸の中央に触れされながら、祈りを紡ぐ。

 体温に溶かされた雪が服を濡らした。そうして濡れた場所から服が凍り付き、シャツを糊付けするように薄く張った刺すような冷たさに、少しずつ体力を削ぎ落とされてゆく。

 あまりの寒さからか、頭を木の枠で締め付けるような激しい痛みがほとばしる。それは段々と我慢できないほど強くなり、意識を直接圧迫されているみたいだった。

 呼吸が弱くなってしまったのか、目の前にかかる白いモヤが薄い。

 目前に迫った死の気配から顔を背け、震える手で懐から取り出したガラス容器の底には、ほんの数滴分だけの血液が揺れている。

 それは昼間に祭服を届けた時、エインを欺いて手に入れた彼の血液だった。

 「俺が力になれる事ならば、何だって言え」

 思いつめた表情を隠しきれないロゾールの肩を引き寄せ、エインは強い眼差しでそう言った。

 これまで幾度となく聞いたその言葉が、今は締め付けるような罪悪感となってロゾールの心を厳しく責め立てる。


 「エイン、ごめんなさい」

 密閉された検査用のガラス容器を開け、それを真っ逆さまにして持ち、血液が滴るのを待った。

 ロゾールの目測通り、たった一滴の雫が花の上に落ちる。

 固まってねっとりと糸を引く血液は、雪の照り返しのせいか不思議と白く見え、ふと、夢の中で飲んだ変な味の液体が頭に浮かんだ。

 しかし、その空想をすぐさま首を振って追い払う。このまま考え続ければ、なんとなくその答えに辿り着いてしまうと分かってしまったから。


 折り重なる花弁は瞬く間にその色を吸い込み、微かな輝きを帯びた。

 ロゾールのが息を呑んで見守る中、やや遅れて花が閉じられ、ふっくらとしたつぼみの中で、何かが右へ左へと転げ回っているように揺れる。

 その姿を現す瞬間を、今か今かと待ちわびるロゾール。しかし、モゾモゾと動くだけで顔を出さない様子に焦れ、急かすように指で固く閉じた花びらをつついた。

 花弁の裏側は、滑らかに磨いた鏡のように景色を反射しており、内側の様子は伺えない。

 やがておずおずと開かれた隙間から、実りの秋を象徴するような金色が覗き、次いで肉付きのよい丸く小さな手が、柔らかい花びらを掻き分ける。親指よりも少し大きい人影がソワソワと落ち着きなく揺れるたび、砂糖を落としたミルクのような、柔らかく甘い香りが広がる。

 よく見ると、顔の半分だけを出してこちらを見ているようだが、痛んで箒の先のようにパサパサになった髪の毛が顔を隠してしまい、表情も何も分からない。

 「おいで。ご挨拶をさせてほしい」

 ロゾールは手招きをして、差し出した自分の手のひらに乗るよう促した。

 しかし、は首を大きく横に振り、サッと身を隠してしまう。

 その仕草は拒絶というよりも、躊躇いや人見知りに近いような気がした。その証拠に、何度も身なりを整え直したり、こちらの様子を伺っては恥ずかしそうに顔を隠すのだ。

 「どうしたんだい? 君の顔が見えなくて寂しいよ」

 イヤイヤと駄々をこねるように首を振る姿に、こちらはどうしたものかと首を傾げる。

 その仕草はとても愛らしいのだが、生憎なことにロゾールはあまり気が長くない。このままでは焦れた挙句、花びらをむしって引きずり出してしまいそうだ。


 鼻先をくすぐる程度だった甘い香りは、クラクラと目眩がしそうなまでに強く、濃く立ちこめている。


 ふと気がつけば、辺りは一面の花畑だった。

 色とりどりの花が咲き乱れる中で、甘い香りに誘われた蝶がふわふわと頼りなく羽ばたいている。どれもこれも半透明で、まるでガラス細工のように繊細で優美な造形だった。

 そこでロゾールは、が出てこない理由に気がついた。

 もしかしたら……。いいや、もしかしなくても、は自分に"色"が無い事を気に病んでいるのだろう。

 キョロキョロと周囲を見回しては、自身の小さな姿と見比べて、あからさまに肩を落として引っ込んでしまうのだ。

 ロゾールは顎に手を添えて考える。どんな言葉を掛ければ、姿を見せてくれるのだろうかと。"色"が何を表しているのかはさっぱり分からないが、おそらく"個性"や"自分らしさ"に近しいものなのだろう。

 「うーん」と唸りながら、視線を右上に逸らしながら、そして腕を組みかえながら考える。


 そして、おもむろに花びらを毟った。


 突然、実力行使に走ったロゾールに怯えたのか、は奥に引き籠って姿を見せなくなってしまった。しかし、そんな様子なんてお構いなしに一枚一枚、丁寧に花びらを引き千切っていく様から、ロゾールの底意地悪さが見え透いているだろう。

 厭味ったらしく最後の一枚までを毟り落としてから、ロゾールはゆっくりとに触れた。

 丸坊主にされた無残な花の上で、は聞くに堪えない声で鳴きながら、ありもしない逃げ場を求めて右往左往している。

 ロゾールはその小さな体を、親指と人差し指で作った輪の中に閉じ込め、両腕も一緒に抱き込むことで身動きを許さなかった。

 すぐに大人しくなったは、よく分からない言語で何かを喋っている。相変わらず、この世の生物の声帯から出て良い音ではない。

 きっと、「助けてー」だとか、「離してよー」と言っているに違いない。もしくは恐怖のあまり、言葉にすらならない悲鳴の可能性だってある。


 立ち上がったロゾールは、青白く輝くの星を目指して、花畑を一直線に進んだ。

 不思議なことに、花々はロゾールを避けるように道を開ける。足の踏み場を探す手間が省けたロゾールは、意思疎通が出来ないことを逆手にとって、上機嫌な声音で自分勝手に喋り続けた。

 「君の名前はどうしようか。とある大天使様を由来とする"ミシェル"という名付けは人気だが、僕が良いなと思っていた"ジェロン"という名は、アルカ人の間で古くから人気のある男の子の名前だよ。確か……災いを遠ざけ、長寿を願う意味だったかな」

 途端にの泣き声が小さくなり、何かを懇願するように、指の腹に頬を擦り寄せている。

 言葉の区切れのような間に合わせて何となく相槌を打ち、よく分からないまま共感を示したロゾールは、もう片方の手でボサボサの髪の毛を整えるように頭を撫でた。

 力加減に気をつけなければ、首が折れてしまいそうだ。

 「どうやら、今年は土地由来の名付けはあまり良くないらしい。……僕はあまり占いを信じない性質たちなんだが、なんだか気になってしまって」

 その時、くすぐる程度の力で触れた指先に、が吸い付いてきた。

 最初は、考える名前が気に食わないのかと思った。しかしもぐもぐ口を動かす姿に、ロゾールはようやく泣いていた理由に気がつく。

 「なるほど、お腹が空いていたのか!」

 初めての会話が嬉しくて、目尻を下げて微笑むロゾールは、愛するの為に帰路を急いだ。


 いつの間にか、ふたりは見渡す限りの白に包まれていた。

 進めど進めど、自分の足音すら聞こえない。

 「おや、道に迷ったかな?」

 全てが白に包まれた空間の中では、自分が前に進んでいるのか、はたまた上に進んでいるのかすら分からない。

 ふと立ち止まったロゾールは、いつの間にか見失ってしまった星を探して顎を持ち上げる。


 『さぁ、あちらですよ』

 背後から、あの女店主の声が聞こえた。

 安堵して振り返ろうとしたその瞬間、ロゾールは全身を地面に引き摺り落とされるような浮遊感に、引き攣った悲鳴をあげた。

 その痛い程に強い力加減が、何となく懐かしい。



 「ロゾール!!」



 ハッと気が付くと、見慣れた天井を背景にして、顔を真っ青にしたエインがいた。白い石造りの建物。紛うことなき、グラウ・エレット教会のだ。

 (……あれは、夢だったのか?)

 そんな落胆と同時に、世界がぐるぐると大回転を始めた。右へ回ったと思ったら、いつの間にか左に視界を転がされている。

 チラリと視界の片隅に見える数本の管は、全て赤色だった。

 全身の感覚は無い。それなのに、これだけ意識がはっきりしているという事は……。

 (あぁ、きっとあの薬だろう? ええっと……あれ? いつもならすんなり出てくるあの名前が……、ほら、アレだよ。アレ)

 声も出ない。唇を開いているのかさえ、確かめる術は無い。

 それでも分かるのは、バタバタと重なり合う足音と、エインに呼ばれる自分の名前だけだった。



 ロゾールがエインとまともな会話ができたのは、年が明け、1月も終わりに差し掛かった日の夕暮れだった。

 話によると、聖誕祭の朝、異様な胸騒ぎで飛び起きたエインはその違和感を見過ごせず、任命式を終えた足でロゾールの仮住まいを訪ねたのだそう。

 しかし、どれだけ声を掛けても返事は無い。玄関の鍵は開いていたが中には誰もおらず、一晩薪を焚べなかった暖炉の灰は寒さで凍りついていた。

 ふもとの町から人手を掻き集めて、寒空の下を捜しまわること数時間、家から随分と離れた樹海の手前で、半身を雪に沈めたロゾールを見つけたのだという。

 聖誕祭の前夜は、ここ数年で一番の冷え込みだったらしい。この寒さに耐えられず、夜を明かせなかった人も多かった。

 そんな中、およそ半日以上も野ざらしにされていたロゾールの息があったのは、正に奇跡としか言いようがない。


 ロゾールには、長く見積って全治6ヶ月の診断が下された。

 どのような状況かは全く想像がつかないが、長い階段からの転落か、はたまた馬車にでもかれない限り、こんな大怪我にはならないと言う。

 発見時には酷い貧血の症状が見られたが、周囲には身体から失われた血液は見当たらなかった。この出血は腹部の皮膚が裂けた傷からだろうと見られ、何針か縫った今でも、度々出血してしまう。

 肌は荒れ、髪の毛は抜け落ち、正に満身創痍と言った状況だ。早く体力を戻したいところだが、寝つきが悪く、食事もすぐに吐き戻してしまう為、中々思うように回復しない。

 絶対安静を厳しく言いつけられたロゾールは、勝手にベッドから起き上がっただけで、"医師ともあろう者が、養生を蔑ろにするとは何たることか"と、こんこんとお叱りを受ける日々が続いた。


 エインはあの日以降、震える声で"お前まで、俺を置いて逝くのか"と繰り返した。


 それからだ。エインの様子が変わってしまったのは。


 やがて6カ月が過ぎ、教会を出て仮住まいに戻ると言った時には、強い口調で引き留められた。学会に顔を出す事すら許してもらえず、しまいには自分の目が届かないことすら嫌がった。

 しかし、ロゾールは彼の変化の根底にある感情を、なんとなく察していた。

 だからこそ、息苦しい愛情の束縛に文句は言えなかった。

 エインが負った心の傷は、兄弟で時間をかけてゆっくり癒していくものだと。そう、思っていた。


 「ロゾール。話がある」


 しかし、ふたりにそんな猶予が残されていないと知る日は、あまり遠くなかった。 


 「この子がなのか、噓偽りなく説明してくれ」


 季節は巡り、輝かしい実りの季節が訪れたある日、エインはひとりの赤子を抱いてロゾールの前に現れた。

 豊穣の麦畑のような鮮やかな金髪に、少し青白いがふっくらとした頬。

 世にも珍しい、左右で瞳の色が違うその子の右目は、ロゾールのと同じシグナルレッドの眼差しだった。


 「……コイツが、お前の命を危険に晒したのか?」


 狼のように低くうなり、突き付けるように憎悪を唱えるエインの姿に、ロゾールは本能的な恐怖を感じて言葉を失う。

 激情けぎじょうと殺意でまされたれたとことが、そろりと赤子の首筋を撫でたような気がして、ロゾールは思わずその子をエインの腕から奪い取った。


 そこでようやく、ロゾールは己の"罪"に気がついた。

 "報い"は、何も知らない息子カイムラルに向けられている。


 (……命を懸けるのは、これからだったのか)


 その日から、ロゾールは自分を"僕"と呼ばなくなった。

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