1883年12月24日  "後悔"を導く星(前編)

 「______ぁつ!!」

 左手の人差し指に走った痛みに驚き、ガタンッと大袈裟な音を立てて刺繡枠を取り落としてしまった。

 思ったよりも深く刺繍針を突き立ててしまったようだ。徐々に大きくなってゆく血の粒が滴り落ちる前に指を咥え、仕立て糸が付いたままの大きな上着を慌てて拾い上げる。

 大切な服なのだ。汚れてしまった場所が無いかを念入りに確認しながら、暖炉の照り返しにかざして見る。

 薄く黄色がかった白の布地は、街で"鳥の子色"と呼ばれているらしい。冬の低い太陽がもたらす、恵みの陽だまりのような暖かい色に相応しい、愛らしい呼び方だと思う。

 

 先日、老衰で亡くなったとある時計職人から譲り受けたゼンマイ仕掛じかけの柱時計が、規則的きそくてきに時間を刻む音が耳についた。

 時計の短針は"11"の文字から僅か先にずれている。記憶が正しければ、先ほど顔を上げた時に、それは"8"に重なったばかりだったはずだ。

 「なんとか、間に合いそうかな」

  再び手元に視線を落としたロゾールは、安堵に満ちた優しい微笑みで柔らかい布に頬を埋めた。


  二日後に控えた"聖誕祭"の朝、正式に"聖なる教会の枢機卿カーディナル"に任命されるエインの為に、ロゾールは彼の新しい祭服に刺繍を施す役目に志願したのだ。

 表向きには"異端"を背負うロゾールは、エインが任命を受ける祭儀に立ち会うことはできない。だからこれはロゾールにとって、せめてもの祝福の気持ちの表れだったのだ。

 リーズエクラを含めた周辺諸国で広く信仰されている"ルグレ教"の原典を説くグラウ・エレット教会は、"安息の地の鍵"を授けられた"教皇"に次いで、宗教的主導を担う立ち位置にある。かく言う現教皇聖下も、元はグラウ・エレット教会に仕えたひとりの司祭だったらしいので、今回のエインの任命に何らかの意図があるのではとの噂もちらほら聞こえていたが、ロゾールには関係のない話だった。


 (たとえ誰がなんと言おうとも、僕はエインの努力の証と才能を理解している)

 とても分かりやすい言葉で言えば、エインは天才だった。それこそ正に、天から授かった類稀たぐいまれな器量の持ち主なのだ。

 しかし、その"才能"に満足することなく、持ち前の我慢強さと貪欲な知的欲求を発揮した結果が、今回の枢機卿カーディナルの任命に至ったのだと、ロゾールは信じている。

 (天井まで積み上がった本に、びっしりと敷き詰めた書き込み。それを見ても、まだエインにそんな事を言えるのだろうか。綴り糸が切れるまで繰り返し聖典を読んだ人は、これまでに何人いたのだろう)

 そんな優秀で忍耐強い兄を誇らしく思う反面、ロゾールは自身の平凡さに泥のような劣等感を抱えていたのも真実だ。

 しかし、エインがこれ程までに熱量を持って前進を続けられる理由も、その先には彼の悲願である"アルカ人の安寧"に続いていると確信しているからなのだろう。


 「エインは僕の大切な兄。たったふたりきりの兄弟。僕はエインに無償の愛を向けているし、それはきっとエインだってそうだ。それでいいじゃないか。これ以上なんて、何も……」

 パンッと両手の手のひらで頬を挟み込み、心に言い聞かせながら気持ちを吐き出したロゾールは、そこで言葉を区切る。

 (僕が、心から望むこと……)

 座り心地の良い安楽椅子は、心地よすぎて作業には不向きだった。肌寒い窓際で壁に背をもたれかけながらせっせと針仕事にいそしんでいたロゾールは、暗幕を垂らしたような空からしんしんと降り注ぐ、冷たい白を茫然ぼうぜんと眺める。

 「……子供が、欲しい」

 口から零れ出た声にならない心の叫びクライシス・コールを、降り積もる雪が覆い隠してくれるようだった。



 "ロゾール・ヴァニタス"という名前は、この世に生を授かった時に与えられた名前ではない。彼が両親から贈られたのは"ベリル・クローシェ"という名前と、貴族崩れの商家の"跡取り"という椅子だった。

 崩壊した家庭で、常に暴力や悪意にされされて育った"ベリル"の生涯を、胸の奥底に鍵をかけて仕舞い込んだ"ロゾール"は、"子供が欲しい"と願う自身に困惑を隠せなかった。


 父と母が自分に与えた苦痛を、我が子にも向けてしまうのではないだろうか。自分も所詮は両親の子だって、その事実を突きつけられるのが怖い。

 そんな亡き両親の影に怯えた心が、祈りと光に満ちた"信仰"へ踏み入れることを後押ししたのだ。

 世間から隔絶された環境教会に身を浸し、自身の感情も欲望も全て見て見ぬふりをして、ただ"祈り"という行為に縋っていたかった。

 「ロゾール。お前は妻を迎えることも、ふたりの間に子を授かることも許される。無理に、自分の願いを押し殺すべきではない」

 仲睦まじく笑い合い、愛し合う親子の姿を切なく見つめる眼差しに気づいていたのか、エインからこんな事を言われた日には、通りの真ん中にも関わらず泣き崩れてしまったほどだ。

 しかし、ロゾールは"子供が欲しい"と口にすることすら罪に思えた。

 「が、"幸せ"を望むなんておこがましい」と、地獄の底から恨めしそうな両親の声が聞こえるようだったから。

 

 雪は、しんしんと降り積もる。まるで、膿んだロゾールの心の熱を冷まし、醜い傷跡を覆い隠すかのように。

 「子を授かったのなら、この雪のように白いキルト生地でお洋服を仕立てよう。もしも男の子だったら、黒檀で魔除けの剣を作るんだったかな? あれ、それはキルシュライの伝統だったっけ……?」

 誰に聞かせるわけでもなく、独り言を呟くのは楽しい。この世の全てから、魂が解放されたような気持になるからだ。

 「この指先に乗った一滴の血のように、僕と良く似た瞳でこちらを見て欲しいな。僕にとって、その子はきっと"世界で一番"愛おしくて、美しい存在なんだ」

 乾きかけた傷口に残る血を舐め、作業を再開する。心なしか、針の動きが先程よりも滑らかで、美しく整った絵柄の完成も目前だった。


 「やっと完成だっ! 僕の祝福の気持ちが、形になったんだ!!」

 糸切り鋏を置き、刺繍の出来栄えに満足した様子でその場をくるくると回るロゾールは、ギュッと自身の肩幅よりも遥かに大きい上着を両腕で抱きしめた。

 「エイン。君が手を伸ばすその先に、溢れんばかりの希望と幸せがありますように」

 金の糸でグラウ・エレット教会が掲げるふくろうの紋章と、"ヴァニタス兄弟"を示すシオンの花をあしらった細やかな刺繍だ。上着の左袖口に、ロゾールの大好きなマリーゴールドの花をこっそりと紛れ込ませていることは内緒である。

 "たとえ光と影に立場を分かたれようとも、僕は君と共に在る"とのメッセージが託されているのだろう。

 ふと窓の外を見遣れば、いつの間にか夜空は晴れ、青白い一等星が瞬いていた。


 (後悔を導く星、だったかな?)

 達成感と幸福感が、必死に水平を保っていたロゾールの意識をぐらりと傾けた。

 (そういえば、何日寝ていないんだったか……?)

 今にも途切れ落ちそうな意識を気力で立て直し、コートラックにエインの晴れ着を掛け、そのまま倒れ込むように暖炉前の安楽椅子に腰を落とした。

 窓際に裁縫箱を放り出したままだ。針を一本落としたのだろう。床に不自然な銀の光が見える。

 ロゾールの瞼に、眠りの妖精が"善い子"を優しい夢へ誘う魔法の粉を、山盛りに振りかけたのだろう。

 やがてフッと息を辞めるように、綿に包まれたような心地よい夢の世界へおちて行った。


 遠ざかる意識の中で、星屑が空を流れるような透き通ったベルの音を聞いた。



 『"後悔"ではなく、"航海"を導く星です。いつも、同じ場所にあるでしょう? "彼"がまた別の"誰か"に変わるのは、まだ数千年も先のことですから』

 見慣れない喫茶店。カウンターの上で火にかけられたコーヒーサイフォンのフラスコは、コポ、コポポと音を立てて揺れている。それはまるで、胎動のように。

 『コーヒーが苦手な貴男あなたには、こちらを。看板にも引けを取らない逸品です』

 マグカップが差し出される。白く柔らかい湯気が立ちのぼる水面は、さっきまで眺めていた雪のように白い。

 その温度を口に含む。温めた牛乳かと思ったが、は少し変な味がした。


 顔を上げると、頬を林檎色に染め、少女のように微笑んだ女店主と目が合った。彼女の手元には、熱されたフラスコが寄せられている。

 「______っあ」

 ロゾールは息を呑んだ。そのフラスコの中に握りこぶし程の"天使"が、背中を丸めて眠っていたのだ。

 2対の翼のうち、右側の2枚が何者かに喰い千切られてしまっている。しかし、その美しい表情は苦痛に歪むことは無く、生まれたての赤子のようにすやすやと寝息を立てているようだ。

 誘われるように、骨ばった指をフラスコへ伸ばす。

 『に、惹かれたのですか?』

 彼女は、いつの間にか背後にいた。天使へと伸ばされた右手に、彼女の右手が重ねられている。

 「も、申し訳ございません。……勝手に、触れようとして」

 すぐさま腕を引っ込め、憂い気に瞳を揺らすロゾールに、店主は優しく語りかけた。

 『貴男あなたの"もしも"の願いは、存じ上げています』

 ロゾールはビクリと身体を強張らせた。

 そして何も言わない彼女に、ロゾールはおずおずと首を縦に振る。

 彼女には全てお見通し。そんな気がしたからだ。

 『大丈夫。貴男の願いは叶います』

 彼女の言葉に、バッと振り返る。それはいつ、どのようにして?

 それがもし予言や天啓の類ならば、聞いておきたいことは山よりも多い。

 息巻くロゾールに微笑みかけ、彼女はゆっくりと語った。

 『その命を懸けるだけの覚悟と、たった一滴の"愛する人"の血があればいいのです。聖誕祭の前夜、雪の下に眠る花の上に、そのふたつを滴らせるだけ』

 そうして彼女はフラスコを指差した。


 ふと気が付けば、彼女は何事も無かったかのようにカウンターの向こうに立っていた。その右手には、ロゾールが口をつけたあのマグカップが握られている。

 そして彼女はカップを傾け、粘度の高いその中身をフラスコの中へと垂らし入れたのだ。

 白濁に汚される水の中で、は息苦しそうに胸を抑えて、指の先よりも小さな手足をばたつかせている。やがてその姿は溶け、跡形も無く消えてしまった。

 フラスコの中に残されたのは、蜂蜜のような液体だけ。それは、あの"天使"の髪の色と同じだった。

 「______っ彼は!? そんなっ、なんてことを……」

 頭から血の気が引いていく。フラスコの中身を注いだマグカップを奪い取り、その水面を覗き込んであの天使の姿を探した。どれだけティースプーンで掬っても、その滑らかな液体の中に、あの小さな存在を感じることはできない。

 目の前で人が殺されたら、こんな気持ちになるのだろうか。ロゾールは眼差しを鋭くして、彼女を見上げた。その瞳の奥には、恐れと心に余る怒りが滲んでいた。

 『さぁ、冷めないうちに召し上がれ』

 そんなロゾールの眼差しに、彼女は満足そうだ。

 早々に洗い物を始めてしまった彼女は、ロゾールがどれだけ声を掛けても、それ以上は何も答えなかった。


 ロゾールはマグカップの中に視線を落とす。

 頬をくすぐる湯気を胸いっぱいに吸い込みながら、一息にそれを飲み干した。

 人肌よりも少し暖かい温度は胸に留まり、やがてストンと腹の底に落ちてゆく。下腹部に溜まったその熱は、二つ目の心臓のように拍動を繰り返していた。

 身体の全ての力が、腹に抱えた大切な存在に吸い込まれていくようだった。音の無い星空の世界が足元から崩れ、倒れ込んだロゾールは咄嗟に身体を丸めて腹を守った。



 うっすらと目を開けると、見慣れた景色が広がっていた。

 灰がちになった暖炉の中で、半分以上が燃えて無くなってしまった薪が、諦め悪く細い炎を揺らす。

 安楽椅子の座面に突っ伏して寝ていたのだろうか。床に座り込んでいたせいで、ロゾールの肉の無い尻と、筋肉の少ない脚がすっかりと冷え切ってしまっている。

 のろのろと立ち上がって薪を火の中に放り投げ、マッチを何本か擦って炎を大きくした。


 「…………はぁぁ」

 ロゾールはがっくりと項垂れて、一生分の大きなため息をついた。

 希望を見せられて、それをあっけなく取り上げられてかのような心境だった。思わせぶりと言うのか、肩透かしを食らったというのか。とにかく、寝覚めが最悪であることには変わりは無い。

 (柄にもなく自分に正直になったから、どこかで聞いていた意地悪な魔女にあんな夢を見せられたんだ)

 完成したエインの晴れ着を薄紙に包み、簡単に身支度を済ませて玄関の扉に手を掛けた。しかし、今日に限って異様に体調が悪い。

 目覚めた時から耐え難い嘔吐感に苛まれ、ふらつきや集中力の低下が著しいのだ。

 気を抜けば意識を持っていかれてしまいそうな眠気が、よりロゾールの不安を煽る。

 (服を届けたついでに、エインに診て貰おう)

 "心のお医者"であるロゾールは、身体の不調を直接的に緩和する治療を施したり、薬を処方する行為は専門外だ。

 重たい身体を引き摺って馬に乗り、そこでロゾールはあの女店主が最後に言った言葉を思い出した。


 『惹かれたのは、の方でしたか』

 見慣れた道中を急ぐロゾールの頭を占めたのは、豊穣の麦畑のような髪色の天使と、喫茶店に飾られていた名も知らない花だった。


 1883年12月24日。世界が清らかな白と祈りの光に満たされる、聖誕祭の前日だ。

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