1874年10月16日  28歳の誕生日

 1874年10月16日、早朝。小箱を大切そうに胸に抱え、晴れ晴れとした表情で馬を急がせるロゾールは、雑踏に揺れる朝の大通りをぐるりと見回して感嘆のため息をついた。

 (なんて美しい朝なのだろうか)

 見知った顔ぶれ、いつもと同じ景色。それなのに、こんなにも世界が輝いて見えるのは、今日この日が待ち焦がれた28歳の誕生日だったからだ。

 予定よりも早くグラウ・エレット教会に辿り着き、厩舎きゅうしゃに向かい馬を引いていたその時、背中にどっしりとのしかかる重みにロゾールは大慌てで振り返った。

 「ロゾール」「エイン」

 「「誕生日おめでとう!」」

 咄嗟に口を開いて正解だった。晴れた空の下に、ふたつの祝福の声が重なる。

 ロゾールよりも頭ひとつぶん以上も背が高いエインは、肩に顎を乗せて安心しきったようにゆったりと目を細めていた。


 「今年こそは、君に遅れをとらなかったね」

 「なんだ。ロゾールはその程度で満足する"欲の無い"つまらん男だったのか?」

 「まさか。僕はエインを失望させたりはしないよ」

 自信満々なロゾールの返答に、エインは猫のように喉を鳴らして満足そうに笑う。

 彼の服装は普段の教会に仕える者がまとう礼服ではなく、各々が持ち込んだ私服だ。

 自由に持ち込める私服といえど、華美になりすぎず、あくまで"聖職者"としての品位を損なうことの無いような服装が求められることは言うまでもない。


 「いってらっしゃいませ、兄弟!! 今日のき日に、大いなる愛の光があらんことを」

 馬を繋ぎ、教会の正門の前に差し掛かったところで、エインとロゾールは数名に囲まれて祝福の言葉を受け取った。

 このグラウ・エレット教会では、神の御導おみちびきのもと同じ場所に集い、志を同じくして祈りと勉学に励む者たちを"兄弟"と呼び合う習わしがある。

 それはこの教会に仕える者同士はもちろんのこと、礼拝に訪れた信者であろうと、教会の修繕や手入れを担う庭師や機械技師であろうとも、正門をくぐれば皆等しく"兄弟"と呼ばれるのだ。

 「ロゾール兄さん、今夜はこちらで夜を明かされるのですよね? もし良ければ、教会を離れたひとりの生活や、研究のお話をしてくださいませんか?」

 「先日、医学会に持ち込まれた論文についてのお話しが聞きたいです! とても話題になったとお聞きしておりますよ! エイン兄さんにお伺いしても、"本人に聞いてください"との一点張りですので……」

 数年前に教会を出て、峠を越えた隣町でひとり研究を進めるロゾールを、家族同然に心を繋いだ"兄弟"達は毎日のように心配していた。

 そんな彼らの心を汲んだロゾールは、週に一度は必ず顔を出すようにはしているのだが、心配性の彼らは別れ際に毎度「次はいつ教会こちらにお戻りになるのですか」と問いかけるのだ。


 ロゾールは"例の論文"にまつわる出来事を思い出して、曖昧な苦笑いを浮かべた。

 目を輝かせ、とても楽しみにしている弟達の期待を大きく裏切ってしまう前に、ロゾールはその真相を伝えた。

 「あぁ、それは……書き間違いのお話ですね。手に馴染まないキルシュライの言葉で書いたものですから、ちょっとした綴りの間違いに気が付かなかったのです。その……お恥ずかしい限り……」

 思い出して恥ずかしくなってしまったのか、浮かんだ空想を払うように手を振るロゾールは、頬を赤くしている。

 そんな表情を見た弟達は、何故か表情を輝かせて声を上げた。

 「ロゾール兄さんでも、書き間違いがあるのですか!? でも、あの難しい言葉で文章を書けるだけでも凄いですよ! 僕は名詞の性別がよく分からなくて……」

 「やっと読めるようにはなりましたが、書くのは難しいです。それに会話のことを考えると……あぁ、頭が……」

 ロゾールは、身内兄弟が自分に対して異様に甘いのではないだろうかと常々感じていた。

 もちろん、愛され頼られることに悪い気はしないのだが、その期待が少し息苦しく感じてしまうのも事実なのだ。


 エインがロゾールの脇腹を肘で小突く。

 チラリと時計を見遣れば、あらかじめ予定していた出発の時刻が迫っていた。

 「今から出掛ければ、陽が傾く前には戻れるでしょう。今日は一緒にお夕飯をいただいて、お勤めをすべて終えたら、就寝時間までゆっくりとお話ししましょうね。約束です」

 ロゾールは柔らかく微笑み、穏やかに言葉を紡ぐ。嬉しそうな弟達の姿に目尻を緩ませながら、軽く会釈えしゃくをした。

 「「それでは、行ってまいります」」

 にこやかに微笑みながら、エインと声を揃る。

 背後から投げかけられる声に何度も振り返りながら、ロゾールはエインと並び立って教会の正門をくぐった。

 「愛されているな、ロゾール」

 「うん。昔の僕が見たら、きっと信じられないことなんだよね」

 馬車や人々が忙しなく往来する大通りは、清々しい霧の香りを僅かに残していた。



 おおよそ40年前、インジェント王国との8年にもわたる長き戦争の末に、甚大じんだいなる犠牲ぎせいと悲しみだけを生んで敗戦を喫したリーズエクラ共和国は、戦後の法改正により成人年齢が男女ともに28歳まで引き上げられた。

 それにより、成人までの教育費や医療費の一部を自治体が負担してくれる期間が長くなった半面、婚姻や契約などの人生選択の大きな分岐点ごとに、親権者の同意が必要になる。

 様々な不都合が露見して混乱が混乱を招く中でも、法改正は人々が思うようには上手く進まず、ただただ時間ばかりが過ぎてゆく。

 かく言うロゾールとエインも、この成人年齢の壁に阻まれ、今日までとある手続きを待たされていたのだ。


 「今日まで、本当に長かった……」

 ついさっき役所で発行されたばかりの新しい身分証を見せ合って、ロゾールとエインは喜びに打ち震えながら固く抱き合った。

 愛と美の国と呼ばれるリーズエクラでは、遥か昔より全く血の繋がりが無い者同士でも、実の兄弟姉妹と認められる制度がある。

 それはお互いの意思を合わせた"合意"と"成人"が、最低限の条件だったのだ。

 「見ろ!俺の名前が"エイン・ヴァニタス"と記されているぞ! これでようやく、俺とお前は兄弟だ! もう、誰にも邪魔させはしない!!」

 エインの声は、歓喜に打ち震えていた。

 何度もふたりで話し合いを重ね、この機に姓を"ヴァニタス"に変えたエインは、未だ信じられないと言いたげに文字を何度もなぞっている。

 幼かったあの日、真夜中の礼拝堂で誓い合ったあの日から心はひとつだった。

 それでも、互いを繋ぐ目に見えた"証"が欲しかったふたりが、どれ程までにこの日を待ち望んでいたかは簡単には想像できないだろう。


 「あの夜、君の心の全てを打ち明けてくれてありがとう。アルカ人じゃない僕を心から信じ、たったの一度も疑わずに手を引いてくれて、嬉しかった」

 まだあどけなさの残る少年のような表情で、ロゾールはうららかに微笑んだ。

 そんな彼の様子に少しだけ傷ついたように顔をしかめたエインは、真剣な眼差しと声音で言った。

 「ロゾール、本当にいいのか? 手を引くなら、きっとこれが最後の機会だ。ここで引き返しても、俺はお前を裏切り者だとは絶対に思わない。だから______」

 「そこまでだ」と言いたげに、ロゾールは人差し指をエインの唇の押し当て黙らせた。

 ゆるりと瞼を伏せ、不均等に片頬だけを持ち上げて、仄暗く妖しい笑みを覗かせる。

 「僕を舐めてくれるなよ、エイン。僕はいつだって、君の期待におつりをつけて渡してきた。のこだわりと品質は、僕のプライドにかけて最低限として保障しよう。…………だからさ、これからも"共犯者"のままでいさせてよ」

 大きく目を見開いて瞠目どうもくしたエインは、スッとまぶたを閉じる。

 そして覚悟を決めたように目を開くと、悪人の模範解答のような笑みでロゾールと握りこぶしを突き合わせる。

 「僕は独りじゃないなら、誰だってよかった。でも手を握ってくれたのは、君だけだったから」

 「相変わらず、可愛くない言い方だな。素直に"お兄ちゃん、大好き"とでも言えばいいものを」

 「まぁ、最期の時くらいなら言ってあげてもいいかな」


 『アルカ人に対する迫害は、10年経っても、100年経っても無くなることは無いだろう。ならば、俺が俺達アルカ人の居場所を作る。その為なら、この手がどれだけ汚れようとも構わない』

 あの夜、月の見えない夜空を背負って言った、エインの言葉を思い出す。

 『自分達アルカ人しか信じられない君の偏見という名の常識を、僕が盛大に覆してあげようか。たとえ君が世界に喧嘩を売ったとしても、僕は……僕だけは、最後まで君の"共犯者"であり続けると誓うよ』

 たった14歳の小僧だったロゾールが、どうしてこんなにも思い切った言葉を口にしたかは今でも分からない。

 この言葉をロゾールが悔いた事など、後にも先にも決して無かった。

 それ程までに軽口を叩き合い、腹を抱えて笑い転げる時間がどうしようもなく楽しかったのだ。


 寄り道をせず、まっすぐに教会への帰路を辿る最中さなか、ふとエインに呼び止められ振り返ると、片手に収まるくらいに小さな箱を差し出しながら、エインは今すぐ中身を見るように急かしてくる。

 エインにならってロゾールも小箱を取り出すと、彼の胸板に押し付けるようにして互いの箱を交換し合った。

 先にリボンや包装紙を剥がして、タイミングを伺いじっと見つめう。

 ふたに手をかけ、呼吸を合わせ、無言のアイコンタクトを合図に、同時に箱を開いた。

 「「…………っ?!」」

 息を呑む音が重なる。

 ぽとりと空箱を取り落としてることには気にも留めず、特別な贈り物を大事そうに両手で包み込んだ。

 ロゾールが受け取ったのは、後に自身の身体の一部のように大切にした、銀のモノクルだった。

 右目だけいちじるしく視力が低下していることを不安に思っていたロゾールの為に、エインがそれとなく視力を測定して調整した、世界でひとつだけの特製品だ。

 すぐさまモノクルをかけ、ぐるりと周囲を見回してみる。

 両目で視力の差が激しく、もう機能しないものだと思っていた右目が、左目とほどんど変わらない景色を映しだしていた。

 奥行きが分かる。遠近感を確かめるように腕を伸ばして、近くの物に触れたり、箱を遠ざけたりを繰り返している。


 一方のエインは、歯車がしっかりと噛みあう様子が見える、原始的で簡素なゼンマイ仕掛けの懐中時計を熱心に見つめていた。

 よくよく目を凝らして見て見れば、歯車をはじめとしたありとあらゆる金属部品に、小さな小さな模様が彫り込まれているようだ。

 時計の造り自体は簡単なものだが、そこに安っぽさを感じさせない工夫に、エインはこれの創作者におおかた見当がついていた。

 「ロゾール。これ……、お前が作ったのか?」

 その場をぐるぐると回って景色を堪能しているロゾールは、なんてことは無い風な声音で応える。

 「うん。知り合いの時計職人の紳士がとても親切で、構造に興味があると言ったら、特別にひとつ作らせてくれたんだ。紳士に少し手伝って貰いながら作ったけど、想像以上の出来栄えになって満足なんだ」

 その言葉にエインは唖然とした。時計なんて、しかもぜんまい仕掛けのからくりなど、素人が扱えるものでは無い。

 たとえそれが形になったとしても、なんの不備も無く動かす事など不可能のはずだからだ。

 これには当然、時計職人も驚いた。ロゾールそれから何度も"弟子になってはくれないか"と紳士に頼み込まれているのだが、もうそろそろ根負けしてそのお誘いを受けてしまいそうだった。


 再び時計に視線を落としたエインは、ぽつりと呟く。

 「…………ありがとう。この時計は死んでも手放しはしない」

 エインの素直な感謝の言葉が気恥ずかしいのか、素っ気なく「大袈裟だなぁ……」と返したロゾールは、箱に掛けられていた赤と緑のリボンを拾い上げ、器用に髪の毛に編み込んで遊んでいる。

 「大袈裟なんかじゃない。俺は本気だ」

 「じゃぁ僕は、このモノクルを自分の目だと思って大切にするよ」

 「お前の右目は着脱可能だったのか。奇抜な発想だな」

 売り言葉に買い言葉で冗談を言い合い、また笑って、肘で小突き合いながら大通りを進む。そうしてその日は、まだ日が高いうちにグラウ・エレット教会へと戻ったのだった。



 28回目の誕生日。晴れてエインと兄弟になった、特別な一日。

 あの銀のモノクルはロゾールにとってエインそのものであり、彼自身の個性であり、"覚悟"の現れである。

 "あのモノクルが無ければ、自分は強くいられない"のだと、いつからかロゾールは、そう自分自身に呪いをかけていた。

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