臆病な蜘蛛の日記

1861年8月29日  幼き日の約束

 少年だった頃のロゾールには、何かにつけては「」と卑屈を並べるあに弟子でしがいた。

 その彼は非常に素行が悪く、他の兄弟きょうだい弟子でしたちとの喧嘩は日常茶飯事で、「門限までには帰るように」と注意する師匠の胸ぐらを掴みあげて、にらみをきかせるような問題児だった。

 非常に反抗的で、血の気の多いその言動には師匠もほとほと手を焼いていたが、人並み外れた才能と確かな実力を示す彼を、手放すには惜しかったのだと思う。

 まだ幼かった当時のロゾールは、命の恩人でもある師匠の言葉を妄信もうしんしており、そんな恩師に歯向かう存在である彼を軽蔑するような態度を取っていた。

 師匠に対して信仰のような執着を見せるロゾールに対し、彼がひと言"気持ち悪い"と吐き捨てて以来、同室の住人であるふたりの関係性は修復できない程に壊れていた。

 双方そうほうがおたがいを"存在しない者"として過ごしていても、ふたりの関係性に大きな転機てんきを与える"その日"は、まるで予定よてい調和ちょうわごとく訪れる。

 それは正に、神のさだめし"運命"か?はたまた、ふたつの魂が引き合わせた偶然の邂逅かいこうか。

 どちらにせよ、"その日"がロゾールにとって人生最大の分岐点であったことに彼自身が気づくのは、まだ数十年も先のことである。


 真面目まじめ品行ひんこう方正ほうせいなロゾールは、規律きりつを軽んじる彼の態度にいきどおりをつのらせる中で、とある疑問に胸をくすぶらせていた。

 いつも彼は、一体どこで、何をしているのだろう?

 門限を破ってまでも、訪れたい場所があるのだろうか?それとも、ただの反抗心を満たす自分勝手な行動なのだろうか?

 好奇心にほだされたロゾールは、ある日、師匠や兄弟弟子の目を盗んで彼の後を追った。

 足早に道を進む彼を何度か見失いそうになりながらも、太陽の光にキラリと輝く金の髪が目印となって、ロゾールのつたな追跡ついせきを手助けしてくれる。


 やがてエインは、小高い丘の上にぽつんと佇む、小さな礼拝堂に辿り着いた。

 彼は扉を叩く。しばらくして中から優しげな男性が現れ、おもむろに彼の頭を撫で、ふたりは固く抱き合う。

 彼と同じ色の髪、同じ色の瞳。ふたりの顔立ちはあまり似ていなかったが、目の細め方と寂しげな立ち姿がよく似ていた。

 しかめっ面以外を見たことないエインの表情は、慈しみと愛情にゆるんでいる。

 少し離れた草むらの中で息を潜めて隠れるロゾールには、ふたりの話し声は聞こえても、会話の内容まではわからない。

 だが、興奮した様子で肩を上下させながら、身振り手振りを交えて話す姿は幸せそうだった。

 いつもぶっきらぼうで、誰に対しても常に喧嘩腰のエインと、年相応に表情を輝かせるは、本当に同一人物なのだろうか?

 そんな分かりきっていることを本気で考えてしまう程に、エインの"素顔"にロゾールは困惑していた。


 しかしこの幸福は泡沫だからこそ、こんなにも美しく見えるのかもしれない。

 建物の中から誰かに呼びかけられたのか、男性は大きく振り返って声をあげると、彼に別れを告げるように優しく頬をさすった。

 エインは聞き分け良く頷き男性の手をしっかりと握りしめると、真っ直ぐな眼差しで何かを必死に訴えかける。

 ポケットから取り出した紙切れを、男性の手にじ込ませてしっかり握らせると、丘を滑り降りるようにして礼拝堂を後にしたのだった。



 丘を下った先は、小さな町に繋がっていた。遠くからは、幼い子供たちの笑い声が聞こえてくる。

 町の中心へと流れる小川の岸辺に座り込み、膝を抱えてうれいげに水面をみつめる後姿に、ロゾールは声をかけるべきかいなかを決めかねていた。

 そもそも、なんと言って声をかければ良いのだろうか。

 "勝手に抜け出して、何をしているんだ?"

 ロゾールに尾行びこうされていたと知れば、彼は怒りだすかもしれない。いぶかしげに"それはお前もだろう?"と返されるかもしれない。

 最悪の場合、無視を決め込まれる可能性も……。

 どちらにしても、ロゾールから声をかけるのは難しい。

 こうして何もできずに時間を浪費している間にも、刻一刻と門限の時間は迫っている。

 彼を門限までに連れ戻す事が目的で後をつけて来たは良いものの、連れ戻すどころか声をかけることすらできないありさまだ。

 真面目で品行方正な"良い子"のロゾールは、何がなんでも規律を守らなければならない。これまで積み上げた師匠や他の者から信用を、彼の為だけに崩す理由や義理は無い。

 (今日のところは帰ろう。彼の行く先を知れただけでも、大きな収穫だ)

 この事を師匠に教えれば、今後は対策が出来るかもしれない。

 彼の後姿に背中を向け、これまで見た景色を思い返して帰路きろ筋道すじみち立てていたその時、背後から彼の名前を呼ぶ声がした。

 それは当然、ロゾールの声ではない。

 彼はこの小さな町で生まれ育ったのかもしれない。もしそうだとしたら、知人が偶然に声をかけただけだろう。

 門限の時間まで、思ったよりも余裕がない。一目散に走ったとしても、間に合うかどうか、ギリギリのところだ。

 しかし、ロゾールは振り返ってしまった。

 "行かないで"と手を伸ばす、声にならない心の叫びが届いた気がしたから。


 「______エイン!!」

 目の前で繰り広げられる光景のショックで、ロゾールの耳は役割を失ってしまったかのように、全ての音が意識の彼方かなたへ遠ざかっていく。

 思い返してみれば、ロゾールが彼の名前を呼んだのは、この瞬間が初めてだった。

 エインよりも背が高く、明らかに年上の青年がふたりがかりで彼を押さえつけ、ひとりが長い棒を振りかぶっている。

 青年たちはこの国では最も多い茶色の髪で、目元と鼻筋がとても良く似通っていることから、おそらく兄弟なのだろう。

 いつもの威勢いせいの良さはどこへやら、彼はその暴力を大人しく受け入れるように、ただ黙ってうなだれているだけだった。

 ヒュッと、剃刀かみそりの刃のような風が冷たく耳をかすめ、小さく唇を歪めたエインの額から、真っ赤な雫が散りこぼれた。

 隠れていた木陰から飛び出したロゾールは、無我夢中でエインを殴りつけた青年を、渾身こんしんの力で突き飛ばした。

 しかし、まだ少年のロゾールではちからおよばず、青年は片足を引いて踏みとどまる程度で、逆に地面へと投げ倒されてしまう始末。

 ロゾールの胸を踏みつけ、青年は棒の先端をせわしなく上下する腹に突き立てようと狙いを定めている。

 (もう、だめだ……)

 すべも無く、これから襲い来るであろう痛みに備えて両手を固く握りしめたその瞬間、ロゾールを踏み倒す青年が膝から崩れ落ちたのだ。


 ロゾールは恐る恐る、上半身をひじで支えながら起き上がる。

 細く血の流れる二の腕を押さえて地面に転がった青年は、強張った表情で何かを叫んでいるようだった。

 震える青年の指の隙間から、ぱっくりと開いた傷口が顔を覗かせている。

 傷の深い場所からとめどなく血の雫が湧き上がるように生まれては、隣り合う雫と混ざりあって川を作る。

 その流れを声も無く見つめるロゾールは背後から腕を引かれ、半ば引きられるようにして立ち上がった。

 「…………エイン?」

 ザアァァッ______。

 押し寄せた荒波が、剥き出しの岩肌にぶつかり弾けるような音が、ロゾールの鼓膜を揺らす。

 ふと気がつけば、先ほどまで頬をくすぐる程度のそよ風が、服の裾をはためかせる程の強風に変わっており、背後から聞こえる三人分の悲鳴は周囲の木のざわめきに掻き消され、ロゾールの耳にすら届いていないようだった。


 ギリギリと締め上げるような力でロゾールの腕を握るエインは、いつも通りのしかめっ面だった。

 ただいつもと違うのは、強い生命力を感じる翡翠ひすいのような透き通った瞳で、ロゾールのシグナルレッドの瞳を見据えていたことだ。

 エインの額から流れた血液は、頬を伝い落ちるうちに霧散むさんして、この強風を生み出しているらしい。

 訳が分からず狼狽うろたえるロゾールにも、この風が人智じんちを超えた不思議な力で生み出されているのだと理解できた。

 地面に倒れ伏し、恨めしそうな視線を投げかける三人の青年をロゾールの肩越しに見下ろしたエインは、侮蔑ぶべつ嘲笑ちょうしょうを込めて左頬を吊り上げる。

 まるで、悪人あくにんづらの模範解答のような、妖しい表情だった。

 「行くぞ、ロゾール。図体ずたいだけがデカい芋虫なんかに用は無ぇ」

 きびすを返して進むエインを、ロゾールは駆け足気味に追いかけて、ふたりはその場を後にした。

 何度も「どうしたの?」とたずねるロゾールに、エインは終始無言で答えを返さなかったが、しっかりと繋いだ手だけは離さなかった。



 普段から素行が悪いエインならばいざ知らず、良い子のロゾールが突然行方をくらませた挙句、厳守すべき門限を破ってしまった理由として、「何かにつけて口うるさいロゾールがうとましくて、人気ひとけの無いところで一方的に暴力を振るった」と、エインは言った。

 "やはりそうか……"と言いたげに誰もが眉をひそめた瞬間、エインが悲しげに視線を落としたことを、彼の隣に立つロゾールだけが知っている。

 真実を訴えかけるロゾールの言葉には聞く耳を持ってもらえず、結局、その日の出来事についてロゾールがおとがめを受けることは無かった。

 "加害者"であるエインは、罰として数日間どこかの部屋で軟禁なんきんされていたらしいが、解放された後も彼がおこないを改める様子は無い。

 まるで、"あの日"がなかったかのように振舞い続けるエインに、ロゾールは歯がゆい気持ちでいっぱいだった。


 ちゃんと腰をえて、彼とあの出来事について話をしたい。

 その一心でエインに近づけば、ふたりの接触を制限しようとする者にはばまれ、ロゾールはもどかしさとあせりにさいなまれる日々を過ごしていた。

 それに加えて、まるでエインがロゾールを裂けているかのようにその姿を見ることが少なくなってしまったのだ。


 しかし歯がゆく持て余す時間を、ロゾールは決して無駄にはしなかった。

 これまでのロゾールは知ろうともしてこなかったが、エインが暴力的で他人を寄せ付けないように振る舞うようになった"何かしらの理由"の情報を時間をかけてひとつひとつ集める。

 程なくしてあの日エインが青年達に暴力を振るわれた理由が、未だ根強く残るアルカ人に対する迫害意識からだと知った。

 機会を伺って警戒心が薄い恩師の部屋にこっそりと忍び込み、エインがこの施設にやって来た年齢と大まかな理由を知ることにも成功してしまう。

 "真実"を知った夜、ロゾールはエインのいない部屋の隅で息を殺して泣いた。

 この施設に来てからも、エインは兄弟弟子たちからも繰り返し陰湿な嫌がらせや暴力を受けていたらしい。

 何よりもショックだったのは、心から信じ尊敬していた恩師がそれを見て見ぬふりしていたことだ。


 でもこれで、全ての辻褄が合う。

 あの日に"行かないで"と伸ばされた心の叫びは、決して勘違いでは無かったのだ。

 エインの作戦に、まんまと騙されていた自分自身が恥ずかしい。

 曇りの無い信頼をいとも簡単に裏切った師と、ロゾール優しい兄弟弟子達に対する怒りは、もう爆発寸前だった。


 「エイン!!」

 ある時、数日ぶりに見た彼の後ろ姿へ、ロゾールは目一杯に腕を伸ばす。

 "僕と一緒に、ここから逃げよう"

 有無を言わさず彼の手を引いて、荷物も持たぬまま宛てもなく旅立つ覚悟だった。

 しかし彼の服を掴む直前、素早く振り返ったエインはその手をパチンと跳ね除けて言う。

 「……場所を考えろ。こんな所で声をかけられちゃ迷惑だ」

 それまで何度も心の中で練習した言葉が、音を立てて弾けた思考に攫われ、意識の彼方に飛んで行ってしまった。

 (やっぱり、今更受け入れてほしいだなんておこがましかったのかな……)

 頭の隅に追いやっていた考えが、ロゾールの柔らかい心の奥に黒い染みを拡げる。

 あからさまな拒絶が悲しくて小刻みに震えながら涙を飲み込むロゾールに、エインはすれ違いざまにそっと耳打ちをした。


 "待ち合わせは、あの礼拝堂にて"と。

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